第11章 水鏡先生
割れた鏡の破片を握ったまま、リョウはしばらく動けなかった。旧校舎三階の空き教室は、もうただの古い教室に戻っていた。円形に並べられていた机はばらばらに押しやられ、中央に立っていた大鏡は床一面に砕け散り、参加者たちは、夢から叩き起こされたような顔で椅子や壁にもたれていた。白鳥由梨はもういなかった。三枝千尋の姿もない。ファントム・ローズも、薔薇の香りだけを残して消えた。残っているのは、蛍光灯の明滅と、古い床の軋みと、ナギサの押し殺した泣き声だけだった。ナギサはリョウの袖を掴んだまま、床に膝をついていた。泣き崩れるでもなく、叫ぶでもなく、ただ細く震えている。友人をもう一度失ったのか、それとも友人の形をした何かを拒んだのか、そのどちらなのかすら彼女には分からないのだろう。リョウにも分からなかった。分からないまま、彼は掌の中の硝子片を見た。何も映っていない。けれど、奥にかすかな温度がある。アスカの気配。アスカが通った跡。ローズはそう言った。探せ。取り戻せるとは言わずに。
足音が近づいてきたのは、それから数分後だった。廊下の向こうで教師の声がし、懐中電灯の光が扉の隙間から差し込んだ。生活指導の教師と教頭の折原、そして数人の教職員が駆け込んでくる。彼らは割れた鏡と倒れた生徒たちを見て、声を失った。すぐに騒ぎが始まる。救急車を呼べ。保健室へ運べ。何があった。誰がやった。生徒は下がれ。名前を確認しろ。そんな言葉が飛び交う中で、リョウはただ一人、教室の入口を見ていた。鳴海マナの姿を探していた。だが、彼女はいなかった。床に落ちていた白いヘアピンも、いつの間にか消えていた。
「春日くん」
水鏡紫影の声がした。
リョウは反射的に振り返った。白衣姿の水鏡が、教師たちの間から現れた。夜の旧校舎にいるには、あまりに白く、あまりに落ち着いている。彼女は倒れた生徒たちにすばやく視線を走らせ、次にナギサへ目を留めた。そして最後に、リョウの手元を見た。ほんの一瞬だけ、彼の握る硝子片に視線が止まった気がした。
「怪我は?」
「……大丈夫です」
「手を見せて」
リョウは反射的に手を引いた。水鏡の眉がわずかに動く。優しい心配の顔だった。だがリョウには、その優しさを素直に受け取れなかった。椎名さんは、少しだけ疲れていたのかもしれないわ。あの言葉が、まだ胸の奥に残っている。アスカが旧校舎で消えたとき、水鏡はそう言った。疲れていた。苦しかった。誰かに分かってほしかった。すべて本当かもしれない。けれど、その本当の言葉が、なぜいつもアスカを失踪の方へ押し流すのか。
「ナギサを見てください」
リョウは言った。
水鏡はそれ以上無理に手を取ろうとせず、ナギサの前に膝をついた。
「椎凪さん。聞こえる?」
ナギサは返事をしなかった。目は開いているが、焦点が合っていない。水鏡は彼女の肩に触れようとして、ナギサの体がびくりと震えたため、手を止めた。
「大丈夫よ。ここにいるわ。あなたは椎凪ナギサさん。六道学園高等部一年生。今は旧校舎三階にいる。呼吸をして」
その呼び方に、リョウはぞっとした。正しい。水鏡は正しいことをしている。混乱した生徒に名前と現在地を確認させている。けれど、その言い方が、ファントム・ローズの「椎凪ナギサ」という呼び方と、奇妙に重なった。名前は帰るための目印になる。ローズはそう言った。水鏡も、それを知っているのか。偶然なのか。あるいは、同じものの別の側面なのか。
「……あたしは」
ナギサがかすれた声を出した。
「椎凪ナギサ」
「ええ」
水鏡は頷いた。
「よく言えたわ。ゆっくり息をして。無理に話さなくていい」
ナギサはリョウの袖をさらに強く握った。水鏡ではなく、リョウの方へ寄った。それを見て、水鏡は少しだけ寂しそうに微笑んだ。以前なら、その表情にリョウは胸を痛めたかもしれない。今は違った。水鏡の悲しみは本物かもしれない。だが、本物の悲しみが人を安全な場所へ導くとは限らない。
その夜、事件は「旧校舎での集団パニック」として処理されかけた。非公認の集まりに参加した生徒たちが、鏡の破損に驚いて過呼吸や軽い混乱を起こした。そういう説明が、教職員の間で素早く組み立てられていくのを、リョウは廊下の端で聞いた。大鏡がどこから来たのか。なぜ立入禁止だったはずの旧校舎三階に生徒が集まれたのか。なぜアスカの気配を残した硝子片があるのか。誰もそこには踏み込まない。踏み込まないまま、もっと扱いやすい言葉へすり替えていく。家庭の事情。体調不良。集団パニック。便利な言葉は、いつも事件の上に白い布をかぶせる。
ナギサは水鏡に付き添われて保健室へ連れていかれた。リョウは同行を求めたが、教頭に止められた。事情聴取が先だと言われた。だが、そこへ戻ってきたマナが割って入った。彼女はいつの間にか廊下に立っていた。制服は少し乱れ、髪から白いヘアピンがひとつ消えている。けれど顔はいつも通り冷静だった。
「春日くんは私が見ています」
「鳴海、今は教職員が」
「この場にいた生徒の証言を分けて取るのは不適切です。先に体調確認を。生活指導の先生、旧校舎の封鎖記録も確認した方がいいと思います。夕方には封鎖が解かれていました。誰が外したのか、記録が残っているはずです」
淡々とした指摘に、教師たちの動きが鈍った。折原教頭が苦い顔をする。マナはそれ以上感情を見せず、リョウの手首を掴んで廊下を歩き出した。
「マナ先輩」
「今は何も聞かないで」
「ローズは」
「聞かないで」
声が少しだけ鋭かった。リョウは黙った。マナの横顔は青白い。黒い傘は持っていない。赤い栞も見えない。それでも、彼女の周囲にはまだ薄く薔薇の香りが残っている気がした。問い詰めれば、何かが崩れる。そう感じた。
保健室の扉は開いていた。白いカーテンの向こうで、ナギサがベッドに横になっている。水鏡は彼女の脈を取り、低い声で何かを話しかけていた。ナギサは返事をしていないが、意識はあるようだった。リョウが入ろうとすると、マナが肩を押さえた。
「今は、ナギサを休ませて」
「でも」
「あなたも休むべきよ」
「休めるわけないだろ」
「分かってる」
マナは小さく言った。
「だから、動くなら静かに動く」
その言葉に、リョウは顔を上げた。マナは保健室の中を見ていた。水鏡はナギサに背を向け、戸棚から何かを取り出している。白いカーテンが二人の姿を半分隠している。マナは声を潜めた。
「水鏡先生の記録を調べる」
「記録?」
「失踪した生徒の相談記録。彼女は必ず残している」
「保健室に?」
「ええ」
「今、ここで?」
「水鏡先生がナギサについている間は無理。少し待つ」
リョウは保健室の奥を見た。水鏡紫影。優しい大人。生徒の不安を否定しない人。アスカが自分ではなく相談した相手。彼女の保健室に、失踪者の記録がある。アスカの記録も。そう思った瞬間、胃の底が重くなった。知りたい。だが、知れば後戻りできない。ローズの言葉が蘇る。探せ。取り戻せると思って探すな。本当に椎名アスカなのかを確かめるために探せ。
水鏡が保健室から出てきたのは、夜の七時を過ぎたころだった。彼女は職員室へ報告に行くと言い、リョウとマナに「椎凪さんは落ち着いているから、少し休ませてあげて」と告げた。声はいつも通り穏やかだった。だが、彼女が廊下の角を曲がって消えるまで、マナは一言も発しなかった。
「今」
マナが言った。
二人は保健室へ入った。白いカーテンの向こうで、ナギサは眠っているようだった。顔色はまだ悪いが、呼吸は落ち着いている。リョウは一度だけ彼女の名を呼ぼうとして、やめた。今は休ませるべきだ。彼女は千尋を見た。千尋の形をした何かを拒んだ。その痛みを、今すぐ言葉にする必要はない。
保健室は夜になると、昼間よりも白さが際立った。薬品棚、ベッド、カーテン、机、カルテ用の引き出し。窓の外は暗く、室内の光を受けて硝子が鏡のようになっている。リョウは窓を見ないようにした。マナは慣れた手つきで水鏡の机へ向かった。
「鍵は?」
「持っていない」
「じゃあ」
マナは机の裏側に手を入れ、貼り付けられていた小さな磁石式のキーケースを外した。中から細い鍵が出てくる。
「知ってたんですか」
「保健室の鍵の隠し場所くらいは」
「マナ先輩、いったい何者なんですか」
「六道学園高等部三年生」
「それで納得すると思いますか」
「今はして」
マナは引き出しを開けた。中には通常の保健記録、体温表、相談予約票、救急用品の発注書が整然と入っていた。彼女はそれらには触れず、一番下の引き出しを開ける。そこには、鍵付きの黒いファイルボックスがあった。マナは一瞬だけ息を止めた。
「これ」
「開けられるんですか」
「分からない」
そう言いながら、マナは別の鍵を差し込んだ。合わない。二本目も違う。三本目で、軽い音がして鍵が回った。
「分からないって言ったのに」
「合う可能性がある鍵を持っていただけ」
「それを普通は開けられるって言います」
「静かに」
マナはファイルボックスを開けた。中には、灰色の個別ファイルが何冊も並んでいた。表紙には生徒の名前が書かれている。小野寺真琴。三枝千尋。白鳥由梨。佐伯律の名前もあった。リョウは思わず息を呑んだ。佐伯まで。まだ消えていない。まだただの噂好きの友人でいるはずの佐伯まで、ここに名前がある。
「これ、全員」
「相談に来た生徒たちだと思う」
「相談記録?」
「表向きは」
マナは小野寺真琴のファイルを開いた。中には、面談日時、主訴、家庭状況、交友関係、睡眠状態などが丁寧に記されている。水鏡らしい、綺麗で読みやすい字だった。最初の数ページは普通の相談記録に見えた。人間関係の不安。家族との会話不足。教室で孤立感を覚える。自分の顔を見るのが嫌になる。だが、後半に進むにつれ、余白に不可解なメモが増えていった。
鏡面接続、初期反応あり。
境界低下、中程度。
自己名認識、不安定。
同調負荷、高。
帰還時、崩壊リスク。
「何だよ、これ」
リョウの声が低くなった。
「保健室の先生が書く言葉じゃない」
「ええ」
マナは三枝千尋のファイルを開いた。そこにも似た言葉があった。孤独感。集団内での空虚感。友人関係は良好だが、自己存在感に揺らぎ。鏡面接続候補。境界低下、緩やか。感情共有への抵抗、低。安定可能性あり。ナギサの名前も記されていた。「椎凪ナギサへの依存と罪悪感」「明るい友人に理解されないという訴え」。リョウは思わず白いカーテンの方を見た。ナギサは眠っている。だが、もし彼女がこの記録を読んだら、どうなるのか。千尋の痛みを、水鏡は知っていた。知っていて、こんな言葉で分類していた。
「安定可能性って」
「ミラーズ化できるかどうかを見ていたのかもしれない」
「そんな」
「決めつけるには早い。でも、少なくとも水鏡先生は、ただ相談を聞いていただけではない」
マナの声は硬かった。リョウは次のファイルを手に取った。白鳥由梨。そこには、不登校、対人恐怖、教室内での疎外感、自己否定、睡眠障害といった記録があり、その後に赤い線で囲まれたメモがあった。
鏡面接続、成功。
境界低下、安定。
痛み共有への適性、高。
現実復帰後、勧誘役として機能。
本人主観では「救済」と認識。
「本人主観では、救済」
リョウはその一文を読んで、背筋が冷えた。由梨は確かに救われたと言った。学校に来られるようになった。不安を分けられるようになった。彼女にとっては、本当に救いだったのかもしれない。だが、その救いは他の生徒を誘う機能として記録されている。人の痛みが、適性や機能という言葉に変えられている。
「水鏡先生は、これを何のために」
「本人に聞くしかない」
「聞いて答えると思いますか」
「たぶん答える」
マナは言った。
「逃げる人ではないから」
その言い方に、リョウはマナが以前から水鏡を見てきたのだと分かった。疑い、調べ、それでも完全には敵と断じられなかった相手。水鏡紫影は、隠蔽する大人でも、怪しいカルトの勧誘者でもない。少なくとも本人はそう思っていない。だからこそ厄介なのだろう。
そして、リョウは見つけた。
椎名アスカ。
灰色のファイルの背に、その名前があった。丁寧な黒い文字で書かれている。リョウは指を伸ばしたが、すぐには取れなかった。名前を見ただけで、胸の中が崩れそうになった。アスカの名が、水鏡のファイルボックスの中に収められている。それは、彼女が確かにここで話していた証拠だった。リョウの知らない言葉で。リョウのいない場所で。
「開ける?」
マナが静かに聞いた。
「開けます」
「読めば、傷つく」
「もう傷ついてます」
「もっと傷つく」
「それでも」
マナはそれ以上止めなかった。リョウはファイルを開いた。最初のページには、面談日が並んでいた。思っていたより多い。アスカは一度や二度ではなく、何度も保健室へ来ていた。リョウが図書室で待っていた日。委員会だと言っていた日。少し用事があるから先に帰ってと言った日。そのいくつかが、ここに記録されているのかもしれなかった。
相談内容。
幸福感に対する不安。
恋人との関係は良好。
本人は「満たされているはずなのに怖い」と表現。
自分が相手の世界に残れるかを強く気にする。
忘却への恐怖。
存在感の希薄化への訴え。
「幸せなほど、失ったときが怖い」
「自分が消えても、相手の日常は続くのではないか」
リョウは読みながら、息ができなくなった。アスカが言っていたことだ。中庭で、休憩所で、ほんの少しだけ漏らしていた言葉。それが、ここにはもっと正確に、もっと深く書かれている。水鏡は聞いていた。アスカの不安を、リョウよりも長く、リョウよりも丁寧に聞いていた。胸に刺さったのは嫉妬ではなかった。いや、嫉妬もあった。自分ではない誰かに話していたことへの痛みもあった。だがそれ以上に、アスカはこんなにも必死に助けを求めていたのだという事実が、リョウを打ちのめした。
次のページには、アスカの言葉が引用されていた。
リョウは優しい。
だから、怖いことを言えない。
わたしが不安だと言うと、きっと大丈夫だと言ってくれる。
大丈夫と言われると、安心したふりをしてしまう。
でも、本当は、ずっと怖い。
リョウの世界から、わたしだけが消えるのが怖い。
リョウはファイルを持つ手を震わせた。あの日、自分は大丈夫だと言った。忘れるわけないと言った。アスカがいなくなったら僕が困ると冗談を言った。自分では励ましたつもりだった。恋人として、彼女を安心させたつもりだった。けれど、アスカはその言葉で安心したふりをしていたのかもしれない。リョウが欲しかったのは、アスカが安心した顔をすることだったのかもしれない。アスカの不安そのものを見ることではなく。
ページの下部に、水鏡の字でメモがあった。
願いの核、明瞭。
「大切な人の世界から、消えない自分になりたい」
鏡面接続との親和性、極めて高。
個人世界への執着ではなく、他者の認識内存在への希求。
通常のミラーズ化では不安定化の恐れ。
中核接続候補。
リョウは、そこで読むのをやめた。
文字が滲んだ。泣いているのだと、遅れて気づいた。声は出なかった。ただ、目の奥から熱いものがこぼれ、紙の上に落ちそうになった。マナがそっとファイルを支えた。
「春日くん」
「僕は」
声が掠れた。
「僕は、何を聞いてたんだろう」
マナは何も言わなかった。
「アスカは、ちゃんと言ってた。怖いって。消えたくないって。僕の世界から消えるのが怖いって。なのに僕は、忘れないとか、大丈夫とか、そんなことばっかり」
「あなたが悪いだけではないわ」
「だけ、では?」
リョウは笑いそうになった。笑えなかった。
「僕も悪かったってことですよね」
「責任の話をしているんじゃない」
「でも、届かなかった。僕はアスカの隣にいたのに、届かなかった」
硝子片がポケットの中で冷たくなった。アスカが通った跡。まだ完全には消えていない。ローズはそう言った。だが、リョウには今、アスカがどれほど遠くへ行ってしまったのかを思い知らされていた。失踪したから遠いのではない。失踪する前から、自分は彼女の不安へ届いていなかった。
「そのファイルを閉じて」
声がした。
リョウとマナは同時に振り返った。保健室の入口に、水鏡紫影が立っていた。白衣の袖口は少し濡れている。手を洗ってきた直後のようだった。表情は穏やかだった。驚きも、怒りもない。まるで、いつかこの場面が訪れることを知っていたように、静かにそこに立っている。
「水鏡先生」
マナが一歩前に出た。
「鍵を勝手に開けたことは謝りません」
「あなたらしいわね、鳴海さん」
「説明してください」
「ええ」
水鏡は逃げなかった。声を荒げもしなかった。ファイルを奪おうとも、教職員を呼ぼうともしなかった。ただ、保健室の扉を閉め、内鍵をかけた。その動作を見て、リョウは身構えた。だが水鏡は両手を見える位置に置いたまま、ゆっくり机の方へ歩いてきた。
「椎凪さんは?」
「眠っています」
「そう。よかった」
「本当にそう思ってますか」
リョウの声は低かった。水鏡は彼を見た。傷ついたような、悲しそうな目だった。
「思っているわ」
「その目で見れば、ナギサも記録になりますか。境界低下とか、安定可能性とか、そんな言葉で」
水鏡は目を伏せた。少しの沈黙のあと、彼女は静かに言った。
「記録しなければ、誰も気づかないまま消えてしまう子がいたの」
「だから分類したんですか」
「そうよ」
「救うために?」
「ええ」
「小野寺さんは救われましたか。三枝さんは? 白鳥先輩は? アスカは?」
リョウはファイルを机に叩きつけるように置いた。紙が震えた。水鏡は怒らなかった。その落ち着きが、今はさらに腹立たしかった。
「椎名さんは、救われたのよ」
その言葉は、静かに保健室へ落ちた。
リョウは、一瞬、意味が分からなかった。マナが息を止める。白いカーテンの向こうで、ナギサの寝息が少し乱れた気がした。
「救われた?」
リョウは聞き返した。
「アスカが?」
「ええ」
「どこが」
「彼女は、ずっと恐れていた。大切な人の世界から消えてしまうことを。自分だけが薄くなり、覚えてもらえなくなることを。あなたの隣にいながら、その幸せを信じきれない自分を責めていた」
「それを知っていて」
「知っていたから、私は彼女の話を聞いた」
「聞いた結果が、失踪ですか」
「春日くん。失踪という言葉だけで捉えるから、見えなくなることがあるの」
水鏡の声は、やはり優しかった。優しすぎた。どれほど責めても、その優しさは崩れない。いや、崩れないように作られているのではない。本当にそう信じているのだ。この人は、自分が悪意で何かをしたとは思っていない。救ったのだと思っている。
「椎名さんは、ひとりで抱えきれない不安を持っていた。けれど、あなたには言えなかった。あなたを傷つけたくなかったから。あなたに嫌われたくなかったから。だから彼女は、誰かに分かってほしかった。自分の存在が消えない場所がほしかった」
「それで、ダブルBへ行かせた」
「案内したわけではないわ」
「またそれですか」
「でも、止めなかった」
水鏡は初めて、自分の言葉をわずかに重くした。
「止められなかった、と言うべきかもしれない。私は、悩んでいる生徒に『大丈夫』と言うだけの大人ではいたくなかった。あなたも分かるでしょう。大丈夫という言葉だけでは届かない痛みがある。正しい助言では救えない夜がある。だから、私は別の場所を探した」
「その別の場所が、鏡の向こうだったんですか」
「最初は、ただの比喩だと思っていた」
水鏡は言った。
「自分を見つめる。自分の不安を映す。他人の痛みに自分を重ねる。そういう意味の鏡だと。けれど、あちらは本当に扉だった。痛みを持つ子ほど、映りやすい。孤独な子ほど、声が届きやすい。そして、そこでなら、彼らは本当に『分かってもらえた』と感じる」
「その代わりに、自分と他人の境界が壊れる」
「境界があるから、苦しむ子もいるわ」
水鏡はリョウを見た。
「誰にも分かってもらえない。自分だけがおかしい。自分だけがこの輪の外にいる。そう感じる子たちにとって、境界は壁なの。守るものではなく、閉じ込めるものなのよ」
「だから壊していいって言うんですか」
「壊すのではなく、少し低くするの」
「記録には、境界低下って書いてありました」
「ええ」
「人間を何だと思ってるんですか」
水鏡の表情が、初めて痛みに歪んだ。
「人間だと思っているわ。だから苦しかった。だから記録した。名前も、言葉も、痛みも、全部残そうとした。教師たちは家庭の事情で片づける。保護者は一時的な不調だと言う。友人たちは噂にする。でも、ここに来た子たちは、本当に苦しんでいた。私はそれをなかったことにしたくなかった」
「なかったことにしないために、アスカを向こうへ送ったんですか」
「送っていない」
「でも、止めなかった」
「止めれば、彼女はまた一人で抱えたわ」
「僕がいた!」
リョウの声が保健室に響いた。ナギサがカーテンの向こうで身じろぎした。マナが一瞬リョウを見たが、止めなかった。
「僕がいたんです。アスカの隣に。届かなかったかもしれない。ちゃんと聞けなかったかもしれない。でも、僕はいた。なのに先生は、アスカが僕に言えないことを知って、僕に知らせずに、あんな場所へ近づけた」
「春日くん」
「アスカが僕を傷つけたくなくて言えなかったなら、先生は僕に言うべきだった。アスカが苦しんでるって。彼女をちゃんと見ろって。どうして言わなかったんですか」
「相談内容は話せないわ」
「それは保健室のルールですか。それとも、ミラーに都合が悪かったからですか」
水鏡の顔から、ほんの少しだけ血の気が引いた。
その反応を、リョウは見逃さなかった。
「先生」
マナが静かに言った。
「あなたは、いつから接続しているんですか」
保健室の空気が変わった。水鏡はマナへ視線を向ける。二人の間に、リョウの知らない長い時間が流れたようだった。
「鳴海さん。あなたはいつも、核心に触れようとするのね」
「あなたが隠すからです」
「隠しているつもりはないわ」
「隠している人は、たいていそう言います」
水鏡は微笑んだ。寂しげな笑みだった。
「あなたも、すべてを話してはいないでしょう」
「今はあなたの話です」
「そうね」
水鏡は机の上のアスカのファイルに手を置いた。リョウは反射的に身構えたが、彼女はそれを閉じるだけだった。大切なものをそっと扱う手つきだった。それがまた、リョウの怒りを鈍らせる。乱暴に扱ってくれれば、完全に憎めたのに。
「私は、彼らを救いたかった」
水鏡は言った。
「誰にも言えない不安を抱えた子たち。明るく振る舞いながら壊れそうな子たち。大切な人の隣にいるのに孤独な子たち。そういう子に、私は何度も言ってきたわ。一人で抱えなくていいのよ、と。でも、言葉だけでは足りなかった。手を伸ばしても届かない場所があった」
「だから、向こうの手を借りた」
マナが言った。
水鏡は否定しなかった。
「最初は、そう思ったわ。向こうは、痛みをよく知っていた。孤独に欲しい言葉を知っていた。本人が言葉にできない願いを、形にして見せることができた。私は、それを危険だと知りながら、それでも救いだと思いたかった」
「今も?」
リョウが聞いた。
水鏡は彼を見た。
「今も、救いはあったと思っている」
リョウは奥歯を噛んだ。
「椎名さんは、救われたのよ」
「それを二度と言うな」
「彼女は、自分が消えない場所を望んだ」
「アスカは、僕の世界から消えたくなかったんだ。先生の記録にもそう書いてある。向こうの中に混ざりたいなんて言ってない」
「混ざることと、消えないことは、とても近いの」
「違う!」
リョウは叫んだ。
「アスカが望んだのは、アスカのまま僕の隣にいることだ。誰かと混ざって、私たちになって、名前だけ残ることじゃない」
水鏡は悲しそうに目を細めた。
「そのアスカさんを、あなたは本当に見ていた?」
鋭い言葉ではなかった。責める響きもなかった。だからこそ深く刺さった。リョウは言葉を失う。見ていたのか。アスカのままのアスカを。自分が安心できるアスカ、自分に笑ってくれるアスカ、隣にいてくれるアスカだけを見ていたのではないか。水鏡の問いは、卑怯だった。正しい痛みを、最も痛い場所へ置いてくる。
「先生」
マナの声が冷えた。
「それ以上は、誘導です」
「ごめんなさい。そんなつもりでは」
「あなたは、いつもそのつもりではないと言う」
マナは水鏡の机に置かれたファイルを閉じ、リョウから少し遠ざけた。
「善意で境界を低くする。善意で孤独を分ける。善意で痛みを名前から切り離す。だから危険なんです。悪意なら止めやすい。あなたは優しいまま、生徒を鏡へ近づける」
水鏡はマナを見た。白いカーテンが背後で揺れる。窓は閉まっている。なのに、カーテンはゆっくりと呼吸するように動いている。
「鳴海さん。あなたは切ることしかできない」
「切らなければ、戻れないものもあります」
「切られた痛みは?」
「残ります」
「残った痛みに、あなたは責任を持てるの?」
「持てない」
マナは即答した。
「でも、混ざって誰の痛みか分からなくなるよりは、残った方がいい」
その言葉に、リョウはローズを思い出した。孤独と、自分でいることは同じではない。マナとローズの言葉は重なりすぎている。だが、今は問い詰める時間ではなかった。水鏡の背後で、保健室の鏡が揺れ始めたからだ。
手洗い場の上に掛けられた小さな鏡。以前、リョウが見知らぬ少女の顔を見た鏡。その鏡面が、水面のように波打っていた。リョウは息を止めた。マナも振り返る。水鏡だけは、驚かなかった。
「先生」
リョウは低く言った。
「後ろ」
「知っているわ」
水鏡は鏡を振り返らなかった。だが、鏡の中では、彼女の背後に無数の顔が重なっていた。小野寺真琴。三枝千尋。白鳥由梨。名前を知らない生徒たち。名簿の中の誰も覚えていない名前かもしれない少年。泣いている顔、笑っている顔、穏やかな顔、壊れた顔。全員が、水鏡の背後からこちらを見ていた。まるで保健室の白い壁の向こうに、別の教室が無限に続いているようだった。
その中に、アスカの顔があった。
リョウの胸が止まりかけた。アスカは鏡の奥で、こちらを見ている。泣いていない。笑ってもいない。ただ、何かを言おうとしている。口が動く。リョウ、と呼んだように見えた。だが、声は聞こえない。聞こえてはいけないと、リョウは自分に言い聞かせた。名前を呼ばれたとき、返事をする前に、誰の声で呼ばれたかを疑え。ローズの言葉が脳裏で響く。
水鏡は静かに目を伏せた。
「みんな、まだ痛いの」
彼女は言った。
「だから、置いていけない」
「先生が置いていけないだけでしょう」
マナの声が鋭くなった。
「あなたが、自分の失敗を認められないから。救えなかった生徒を、救われたことにしたいから。だから、あちらへ渡した痛みを、救済と呼び続けている」
水鏡の表情が、初めて大きく揺れた。
「違う」
「本当に?」
「違うわ」
「なら、小野寺真琴はどこですか。三枝千尋はどこですか。椎名アスカはどこですか」
水鏡は答えられなかった。鏡面がさらに波打つ。無数の顔が揺れ、重なり、ひとつの大きな影になっていく。保健室の照明が明滅した。白いカーテンが大きく膨らむ。ナギサがベッドの上でうなされるように身じろぎした。
「春日くん」
水鏡がリョウを見た。
「あなたなら分かるはずよ。大切な人を失いたくない気持ち。忘れられたくない願い。誰かの世界に残りたいという痛み。それは間違っていない。椎名さんの願いは、間違っていなかった」
「アスカの願いは間違ってない」
リョウは言った。
「間違えたのは、先生だ」
水鏡は息を呑んだ。
「先生が、アスカの願いを別のものにつなげた。アスカが消えたくないと言ったからって、消えないためなら混ざっていいなんて、そんなの違う」
「では、どうすればよかったの」
水鏡の声が、初めて震えた。
「あなたはどうすればよかったと思う? 大丈夫と言えばよかった? あなたには大切な人がいるでしょうと言えばよかった? 考えすぎだと笑えばよかった? もっと強くなりなさいと言えばよかった? 私は、それでは届かない子たちを見てきたの。何度も。何人も。あなたが今日知った痛みを、私はずっと聞いてきた」
「だからって」
「何もしないよりは、救われる可能性に賭けたかった」
「その賭けに、アスカを使ったんですか」
水鏡は言葉を失った。
その沈黙が、答えだった。
鏡面の奥で、無数の顔がいっせいに微笑んだ。水鏡の背後に重なった顔たちは、彼女を責めているようにも、慰めているようにも見えた。あなたは悪くない。あなたは救おうとした。あなたも一人ではない。そう囁いているようだった。水鏡はその声を聞いているのか、目を閉じ、苦しそうに息を吐いた。
「一人で抱えるから、苦しくなるの」
彼女は呟いた。
その言葉は、以前と同じだった。けれど、今はもう優しいだけの言葉ではなかった。保健室の白い壁に、鏡の奥の黒い水面に、失踪した生徒たちの顔に、その言葉が絡みついている。水鏡紫影は、生徒に向けてその言葉を言い続けてきた。だが、本当は自分自身にも言い続けていたのかもしれない。救えなかった後悔を、一人で抱えきれなかったから。だから彼女も、鏡の向こうへ痛みを分けた。
マナが黒い傘を持っていない手で、赤い栞を取り出した。いつの間に戻っていたのか、彼女の胸ポケットに挟まれていたらしい。栞を握る指が白くなる。
「春日くん、ナギサを起こして」
「え?」
「ここはもう危ない」
その言葉と同時に、保健室の鏡が大きく波打った。水面の奥から、アスカの顔が前へ出る。リョウ、と口が動く。今度は声が聞こえた気がした。呼ばれている。求められている。行かなければ。そう思った瞬間、マナが叫んだ。
「春日リョウ!」
名前を呼ばれ、リョウは踏みとどまった。自分の名前。こちら側の杭。彼は唇を噛み、アスカの顔から目をそらした。
「椎名アスカ」
返事ではなく、名前を呼んだ。
鏡の中のアスカの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。泣きそうに見えた。助けを求めているようにも、やめてと言っているようにも見えた。分からない。まだ分からない。だから探す。追うのではなく、探す。ローズの言葉を、リョウは必死に握りしめた。
水鏡が静かに言った。
「椎名さんは、まだあなたを覚えているわ」
「だったら」
「だから、あなたを呼べる」
水鏡の声には、悲しみと、どこか危うい希望が混じっていた。
「あなたが応えれば、彼女はもっとこちらへ近づけるかもしれない」
「それは本当にアスカですか」
リョウは聞いた。
水鏡は答えなかった。
「先生にも、分からないんですね」
リョウの声は、思ったより静かだった。
水鏡は目を伏せた。
「分かりたいと思っているわ」
「それを、分かっているとは言いません」
その瞬間、鏡の奥の無数の顔が歪んだ。保健室の白いカーテンが大きく裂けるように揺れ、薬品棚の硝子戸ががたがたと鳴る。ナギサがベッドの上で目を覚ました。
「……春日先輩?」
「椎凪ナギサ」
リョウはすぐに呼んだ。ナギサは一瞬混乱した顔をしたが、自分の名を聞いて、弱々しく頷いた。
「あたし、椎凪ナギサです」
「動けるか」
「たぶん。足、ちょっと変ですけど」
「十分」
ナギサは白いカーテンの向こうから出てきて、鏡を見た瞬間、顔色を変えた。そこに千尋の顔も見えたのだろう。唇が震える。だが、彼女は目をそらした。
「見ません」
ナギサは自分に言い聞かせるように言った。
「あたし、今は見ません」
マナがわずかに頷いた。その表情に、ほんの少しだけ安堵があった。
水鏡は三人を見た。保健室の白い光の中で、彼女はひどく疲れて見えた。初めて会ったときのような、すべてを受け止める大人ではない。救いたかったものと、壊してしまったものの間に立ち尽くす一人の人間だった。
「春日くん」
彼女は言った。
「それでも、あなたは椎名さんを探すのね」
「探します」
「見つけたものが、あなたの望む椎名さんではなくても?」
「それを確かめるために探せと言われました」
「誰に」
リョウは答えなかった。水鏡は少しだけ笑った。悲しい笑みだった。
「そう。あの子は、相変わらず厳しいのね」
あの子。リョウはその呼び方に反応した。マナも表情を動かした。だが、水鏡はそれ以上言わなかった。
鏡面がさらに強く波打つ。水鏡の背後に重なる無数の顔が、ひとつの大きな暗い輪郭へまとまり始めていた。その中心に、アスカの顔がある。いや、アスカの顔を中心にして、他の顔が集まっているように見えた。中核接続候補。ファイルに書かれていた言葉が、リョウの頭に蘇る。アスカは単なる帰還者でも、ミラーズでもない。もっと中心に近い場所へ取り込まれている。
水鏡は鏡へ向き直った。白衣の背中が、無数の顔の前に立つ。彼女は手を伸ばし、波打つ鏡面に触れた。指先が水に沈むように、鏡の中へわずかに入り込む。
「先生!」
マナが叫んだ。
「まだ止められる」
水鏡は振り返らなかった。
「止めたら、あの子たちはどこへ行くの?」
「こちらに戻せる方法を探します」
「戻った先で、また一人になる子もいるわ」
「それでも、選ぶのは本人です」
「本人でいることが、そんなに大切?」
「大切です」
マナの声は揺れなかった。
「たとえ苦しくても。たとえ泣いても。たとえ救われなくても。その痛みが誰のものか分からなくなるより、ずっと大切です」
水鏡は目を閉じた。
「あなたは、本当にあの子に似てきたわ」
マナの顔が、ほんの一瞬だけ強張った。
次の瞬間、鏡面から黒い水が溢れた。床に落ちる音はなかった。ただ、保健室の白い床が、静かに黒く濡れていく。水ではない。影でもない。あの空き教室で足元を覆った膜と同じものだった。ナギサが小さく悲鳴を上げる。リョウは彼女の腕を掴み、後ろへ下がらせた。マナは赤い栞を握りしめ、鏡と水鏡の間に立った。
水鏡の背後で、無数の生徒の顔が口を開いた。
声はまだ出ない。
だが、リョウには、次に何を言おうとしているのか分かった。
もう一人ではない。
その言葉が来る前に、マナが低く言った。
「走るわよ」
リョウはアスカのファイルを掴んだ。迷う暇はなかった。水鏡がこちらを見た。責めるでも、止めるでもない顔だった。むしろ、どこかでそれを望んでいたようにも見えた。アスカの願いが書かれたファイル。大切な人の世界から、消えない自分になりたい。その一文だけは、絶対に置いていけないと思った。
三人は保健室の扉へ走った。背後で鏡が大きく鳴る。水鏡の声が聞こえた。
「春日くん」
リョウは振り返らなかった。
「椎名さんを、間違えないで」
その言葉だけが、白い保健室の奥から追いかけてきた。
廊下へ飛び出すと、夜の校舎は異様に静かだった。部活動の声も、教師の足音も、何も聞こえない。まるで保健室の扉を境に、学園全体が息を止めているようだった。リョウはファイルを胸に抱え、ポケットの中の硝子片を握った。どちらもアスカの痕跡だった。どちらも本人ではない。だが、本人へつながるかもしれない。
背後で、保健室の鏡面が波打つ音がした。
そしてその奥から、今度こそはっきりと、無数の声が重なった。
「あなたは、もう一人ではない」
リョウは走った。
その言葉を、救いにしないために。




