第12章 ファントム・ミラー
廊下は、もう廊下ではなかった。保健室から流れ出した黒い水のような影は、白い床の継ぎ目をなぞり、壁際へ這い、掲示板の下を濡らしながら、音もなく広がっていた。リョウはアスカの相談記録を胸に抱え、片手でナギサの腕を支え、もう片方の手をポケットの硝子片へ押し当てて走った。硝子片は冷たい。だが、そこに確かにアスカの気配があった。気配だけだ。声でも、姿でも、体温でもない。けれど、失えば二度と辿れない細い糸のように思えた。背後では、保健室の鏡から漏れた声がまだ追ってくる。あなたは、もう一人ではない。もう一人ではない。もう一人ではない。優しいはずの言葉が、校舎の壁に反響するたび、リョウの足元から自分の影が薄れていく気がした。
ナギサは途中で何度も足をもつれさせた。眠りから引き戻されたばかりの体はまだ力を取り戻しておらず、顔色も悪い。それでも彼女は、泣き言を言わなかった。いつものような軽口も出なかった。ただ、自分の名を小さく繰り返していた。
「椎凪ナギサ。椎凪ナギサ。あたしは、椎凪ナギサ」
それは祈りではなく、確認だった。自分がまだこちら側にいることを、声に出して床へ打ちつけている。リョウも、それに合わせるように胸の内で名前を呼んだ。春日リョウ。椎名アスカ。椎凪ナギサ。三枝千尋。名前を忘れるな。名前を忘れた瞬間、探しているものは別のものになる。ローズの言葉は、命令のように頭の奥へ残っていた。
「どこへ行くの」
マナが前を走りながら言った。彼女は赤い栞を握ったまま、振り返らない。黒い傘はない。白いヘアピンも片方だけになっている。それだけで、彼女がいつもの鳴海マナではなく、何かを削って戻ってきたことが分かった。
「旧校舎か、外か」
「外へ出ても追ってくる」
リョウは言った。
「アスカの気配が、こっちじゃない」
「何を根拠に」
「これ」
ポケットの硝子片に触れる。マナが一瞬だけ横目で見た。
「ローズが渡したものね」
「マナ先輩」
「今は聞かないで」
「今じゃなきゃ、いつ聞けばいいんですか」
「生きて戻ったら」
その返答には冗談の欠片もなかった。ナギサが掠れた声で言った。
「じゃあ、生きて戻ってから絶対聞きます。逃げないでくださいね」
「あなたまでそういうことを言うのね」
「マナ先輩が教えてくれないからです」
「……そうね」
マナの声が少しだけ柔らかくなった。だが、それは一瞬だった。廊下の先、階段へ続く曲がり角の硝子窓が、突然、内側から曇った。水蒸気ではない。窓硝子そのものが白く濁り、そこに無数の手形が浮かぶ。小さい手、大きい手、細い指、爪の形が不自然に長いもの。手形はガラスの向こうから押しつけられ、ゆっくりと文字を形作った。
抱えなくていい。
ナギサが息を呑む。
「見ないで」
マナが低く言った。
「文字も見るな」
「もう見ちゃいました」
「なら、意味を持たせないで」
「無茶言いますね」
「いつも無茶よ」
マナは立ち止まらなかった。曲がり角を抜け、階段へ向かう。だが、階段はなかった。そこにあるはずの踊り場も、手すりも、下階へ続く段も消え、代わりに長い廊下がまっすぐ伸びていた。六道学園にこんな廊下はない。両側に同じ扉が等間隔で並び、床は白く、天井の蛍光灯は遠くまで連なっている。病院の廊下にも、ホテルの廊下にも、学園の廊下にも見える。だが、どれでもなかった。窓はない。代わりに、壁一面に細長い鏡が埋め込まれている。
「……階段、どこ行ったんですか」
ナギサが呟いた。
「向こうが、こちら側の形を借り始めている」
マナが言った。
「保健室の鏡が開いた。水鏡先生が、まだ接続を閉じていない」
「先生がやってるんですか」
「先生だけじゃない」
マナは赤い栞を胸元へ戻し、低く言った。
「来るわ」
その瞬間、鏡の廊下の奥に、人影が立った。
水鏡紫影だった。白衣を着ている。髪を低い位置でまとめ、いつもの穏やかな目でこちらを見ている。だが、その背後には別の影が重なっていた。白衣の輪郭が揺れるたび、水鏡の姿は少しずつ変わる。白鳥由梨のようにも見えた。三枝千尋のようにも見えた。小野寺真琴のようにも見えた。さらに奥には、名前を知らない生徒たちの顔が、鏡面に溶けるようにいくつも浮かんでいる。全員がこちらを見ていた。責めるでもなく、笑うでもなく、ただ、分かってほしいという目で。
「春日くん」
水鏡が言った。声はいつもの声だった。けれど、背後で無数の声が同じ音をなぞっていた。
「逃げなくていいのよ」
「先生」
マナが一歩前へ出た。
「接続を閉じてください」
「閉じたら、あの子たちはまた一人になる」
「今は、それでも閉じるべきです」
「鳴海さん。あなたは、切ることしか考えないのね」
「切らなければ、戻れません」
「戻った先で、また苦しむ子がいるわ」
「だからといって、混ぜていい理由にはなりません」
水鏡は悲しそうに笑った。その表情はあまりにも人間らしく、だからこそリョウには恐ろしかった。怪物なら憎める。悪意なら拒める。だが、水鏡は今も本気で傷ついている。本気で生徒たちを案じている。本気で、失踪した生徒たちの声を置き去りにしたくないと思っている。その本気の優しさが、鏡の向こうとつながっている。
「リョウ」
リョウは顔を上げた。水鏡の声ではなかった。アスカの声だった。廊下の鏡の一枚に、アスカの姿が映っている。制服姿で、少し疲れた顔をして、しかし泣いてはいない。リョウがよく知っている、我慢しているときのアスカの顔だった。
「リョウ、わたしはここにいるよ」
その声で、リョウの足が止まった。
ナギサが彼の袖を掴む。
「春日先輩」
「分かってる」
そう言ったのに、目が離せなかった。鏡の中のアスカは、リョウをまっすぐ見ていた。録音より近い。空き教室で聞いた声よりも、さらに近い。彼女の息遣いが、鏡一枚を隔てた向こうから伝わってくる気がする。唇の端の震え。睫毛の伏せ方。リョウの名を呼ぶ前の、ほんの小さな間。それはアスカだった。アスカでなければ知り得ない細部が、そこにあった。
「アスカ」
リョウは呼んだ。返事をしてはいけないと分かっていても、呼んでしまった。アスカの顔が少しだけ明るくなる。
「よかった。覚えててくれた」
胸を抉られた。覚えていて。あの日、アスカは尋ねた。リョウは軽く答えた。忘れるわけないだろ、と。あのとき、もっとちゃんと聞いていれば。もっと怖がっていれば。もっと手を離さなければ。後悔は、鏡の向こうから差し出される手のようにリョウを引いた。
「返せ」
リョウは水鏡を見た。
「アスカを返せ」
水鏡の顔が揺れた。背後の無数の顔も揺れる。鏡の中のアスカが、悲しそうに眉を下げた。
「リョウ、わたし、ここにいるよ」
「そこは、アスカのいる場所じゃない」
「でも、ここなら消えないの」
アスカの声が、そう言った。
「ここなら、誰かの世界から薄くならない。誰かに忘れられても、みんなが覚えていてくれる。リョウがわたしを忘れそうになっても、わたしたちが覚えていられる」
わたしたち。
その一語で、リョウの体が冷えた。だが、アスカの表情はアスカのままだった。怯えている。必死に言葉を選んでいる。自分の不安を正当化するためではなく、本当にそう信じようとしているように見えた。だから、余計に分からなくなる。これはアスカの願いなのか。アスカの願いを映した何かなのか。アスカの欠片を使って、ミラーが言わせているだけなのか。
「ファントム・ミラー」
マナが静かに言った。
その名が廊下に落ちた瞬間、鏡の中の顔たちが一斉にこちらを向いた。水鏡の輪郭が大きく揺れる。白衣の内側から、黒でも白でもない鈍い銀色の光がにじむ。水鏡の顔が、アスカの顔へ変わり、由梨の顔へ変わり、千尋の顔へ変わり、また水鏡へ戻る。どれかひとつに定まらない。いや、定まる必要がないのだろう。それは個人の形を借りる。痛みを持つ者の顔を映す。欲しい言葉を、欲しい声で返す。
「その名で呼ぶのね」
水鏡の口が動いた。だが、声は水鏡だけのものではなかった。柔らかな女性の声、少女の声、少年の声、泣き疲れた声、穏やかな声が幾重にも重なる。
「私たちは、ただ映しただけ。あなたたちが抱えきれなかった痛みを。言葉にできなかった願いを。誰にも届かなかった孤独を」
「映しただけなら、返して」
マナは言った。
「それを抱えた本人ごと、奪わないで」
「奪っていないわ」
ファントム・ミラーは、水鏡の顔で微笑んだ。
「生徒たちは来たの。自分で。誰かに分かってほしかったから。ひとりで抱えたくなかったから。痛みを預けたかったから」
「預けることと、境界を溶かされることは違う」
「境界は、痛みを閉じ込める」
「境界は、本人を守る」
「本人でいることが、そんなに大切?」
その問いは、保健室で水鏡が言ったものと同じだった。マナが唇を結ぶ。ナギサが小さく震える。リョウは鏡の中のアスカを見た。本人でいることが、大切か。アスカ本人であることが。姿が同じなら。声が同じなら。記憶が同じなら。彼女がここにいると言うなら。自分はそれを拒めるのか。拒めば、もう一度アスカを失うのではないか。
「リョウ」
鏡の中のアスカが手を伸ばした。指先が鏡面に触れると、そこから波紋が広がる。鏡は水のように揺れ、彼女の手がこちら側へ出てきそうだった。
「わたしを、置いていかないで」
リョウは一歩近づいた。
「春日リョウ」
ナギサが呼んだ。声が震えている。
「先輩、だめです」
「分かってる」
「分かってない顔してます」
「分かってる!」
リョウは叫んだ。ナギサがびくりとした。すぐに後悔した。だが、声は止まらなかった。
「分かってるんだよ。これが危ないってことも、アスカじゃないかもしれないってことも、分かってる。でも、アスカかもしれないんだ。アスカの欠片かもしれない。あの子が、本当にそこから手を伸ばしてるのかもしれない。だったら、どうやって無視すればいいんだよ」
ナギサは泣きそうな顔で黙った。彼女も知っている。千尋の姿をした存在を前に、自分がどれほど揺らいだかを。止める側の言葉は正しい。けれど、手を伸ばされた側には、正しさだけでは耐えられない。
鏡の中のアスカが、さらに手を伸ばした。
「リョウ、お願い」
その声は反則だった。リョウは奥歯を噛む。ポケットの硝子片が熱を持った気がした。アスカのファイルが胸に当たる。大切な人の世界から、消えない自分になりたい。その願いは本物だった。そこにつけ込まれたのだとしても、願いそのものは本物だった。
「アスカ」
リョウはゆっくり言った。
「君は、椎名アスカなのか」
鏡の中のアスカが微笑んだ。
「そうだよ」
「本当に?」
「リョウが覚えているなら、わたしはアスカでいられる」
「違う」
言った瞬間、自分でも驚いた。アスカの顔が揺れた。
「違う。僕が覚えているからアスカなんじゃない。君が、君自身として椎名アスカなんだ。僕の記憶に残るためにいるんじゃない。僕の世界から消えないためだけにいるんじゃない」
声が震えた。
「だから、答えてくれ。君は、僕に覚えられたいアスカなのか。それとも、アスカ自身なのか」
鏡の中のアスカが黙った。
その沈黙が、リョウの胸を切り裂いた。すぐに答えてほしかった。わたしはわたしだよ、と。リョウ、何を言ってるの、と困ったように笑ってほしかった。けれど、アスカは答えなかった。答えられないのか。答える言葉を探しているのか。あるいは、その問いに答えるための「本人」が、もう揺らいでいるのか。
「ひどいことを聞くのね」
ファントム・ミラーが言った。今度はアスカの声に、水鏡の声が重なっていた。
「苦しんでいる子に、本人である証明を求めるの?」
「証明じゃない」
「彼女は、あなたに覚えていてほしかった。消えたくなかった。あなたの世界に残りたかった。それを願っただけなのに、あなたは今、彼女に『本物か』と問う」
「お前が、アスカの姿を使っているからだ」
「姿も、声も、記憶も、願いも、すべて彼女から来ているわ」
「でも、全部ではない」
「全部でなくても、彼女よ」
「違う」
「なぜ?」
ミラーの声が柔らかくなる。優しい。どこまでも優しい。リョウの痛みを責めず、むしろ包み込むような声だった。
「あなたが望んでいる椎名アスカも、あなたの記憶の中にいる椎名アスカでしょう。彼女自身と、あなたの中の彼女は、本当に分けられるの? 人は誰かの中で生きる。誰かに覚えられていることで形を保つ。なら、私たちが覚えている彼女を、なぜ彼女ではないと言えるの」
リョウは答えられなかった。
言葉としてはおかしい。危険だ。境界を溶かす理屈だ。そう分かっている。だが、その中に完全な嘘はなかった。リョウの中のアスカも、アスカ本人ではない。記憶の中のアスカは、リョウが見たアスカでしかない。ならば、鏡が映したアスカと何が違うのか。その問いが、心の奥へ滑り込む。
そのとき、薔薇の香りがした。
冷たい夜気の中に、血のように濃い甘さが混じる。鏡の廊下の天井が裂けるように暗くなり、黒い花弁が降った。マナの背後の影が伸びる。いや、マナではない。黒衣の外套をまとい、白い仮面をつけたファントム・ローズが、鏡の廊下の中央に立っていた。赤黒い薔薇の鞭が、その手にある。
「その問いに答えるな」
ローズが言った。
リョウは振り返った。
「ローズ」
「ミラーは、正しさの中に穴を開ける。嘘だけを言う相手より厄介だ」
ファントム・ミラーは、水鏡の顔でローズを見た。水鏡本人は、まだその中にいる。顔の奥に、彼女の悲しみが見える。だが、その悲しみの周囲を、無数の生徒の顔が取り巻いていた。
「また切りに来たのね」
ミラーが言った。
「切る」
ローズは短く答えた。
「ここで接続を断つ」
「断てば、あの子たちは落ちるわ」
「このままなら溶ける」
「溶けても、ひとりではない」
「ひとりであることを奪われるくらいなら、ひとりのまま泣いた方がいい」
「それは、あなたの選んだ痛みでしょう」
ミラーの声に、水鏡の痛みが混じった。
「すべての子が、あなたのように耐えられるわけではない。鳴海さん。いいえ、ローズ。あなたが守る境界の外で、どれほどの子が泣いていたと思うの」
ローズは沈黙した。仮面の奥は見えない。だが、その沈黙には痛みがあった。リョウは初めて、ローズもまた何かを失っているのだと感じた。切る者は、痛みを知らないわけではない。知っているから切るのかもしれない。
「先生」
ローズは、水鏡へ向けて言った。
その呼び方に、リョウは胸を突かれた。マナの声に近い。鳴海マナとして水鏡を呼んでいるのか、ローズとして呼んでいるのか分からない。
「もうやめて」
水鏡の顔が、ミラーの中で揺れた。ほんの一瞬、彼女だけの目がこちらを見た。
「やめたら、私は何を救えたことになるの」
「救えなかったことを、救済に変えないで」
その言葉は刃だった。水鏡の顔が歪む。鏡の廊下全体が震えた。壁の鏡に映る生徒たちが一斉に口を開く。
「一人で抱えなくていいの」
その声が来た。
水鏡の声で。白鳥由梨の声で。三枝千尋の声で。小野寺真琴の声で。アスカの声で。数え切れない生徒たちの声で。
「一人で抱えなくていいの。痛みを分けて。孤独を分けて。名前を分けて。あなたの悲しみも、あなたの後悔も、あなたの愛も、私たちが覚えていてあげる。だから、もうひとりでいなくていいの」
リョウの視界が揺れた。優しい。あまりにも優しい。もしアスカを失った痛みを、誰かが本当に分けてくれるなら。もしこの後悔を、胸が裂けそうな罪悪感を、誰かが一緒に持ってくれるなら。どれほど楽だろう。リョウはその誘惑を否定できなかった。だからこそ、怖かった。
ローズの鞭が床を打った。
鏡の廊下に亀裂が走る。壁の鏡が次々にひび割れ、映っていた顔が悲鳴の形に歪む。ファントム・ミラーの輪郭が大きく広がった。水鏡の白衣がほどけ、アスカの制服へ変わり、由梨の髪へ変わり、千尋のリボンへ変わり、無数の生徒の手へ変わる。集合体。反射体。誰か一人ではないもの。それが、今度こそ明確な敵として、リョウたちの前に姿を現した。
中央にいるのは、水鏡紫影のようだった。だが目元はアスカに似ている。口元は由梨に似ている。指先は千尋に似ている。声は全員のものだった。ファントム・ミラー。悩みを映し、願いを返し、孤独を分ける代わりに、ひとりの輪郭を薄めていくもの。
「返せ」
リョウは叫んだ。
「アスカを返せ!」
ミラーはアスカの顔で微笑んだ。
「リョウ、わたしはここにいるよ」
また、その声だった。
リョウは一歩踏み出した。ナギサが腕を掴む。マナが、いやローズが、鞭を構える。鏡の世界が大きく揺れ、床が水面のように波打つ。廊下の先に、アスカが立っている。今度は鏡の中ではない。こちら側とあちら側の境目に、彼女はいた。制服の裾が黒い水に濡れ、髪が頬に張りついている。泣きそうな顔で、リョウへ手を伸ばしている。
「リョウ」
アスカが言った。
「怖いの。わたしが、わたしじゃなくなりそうで」
その言葉で、リョウの足が止まった。
今までのアスカは、ここにいれば消えないと言った。ひとりじゃないと言った。覚えていてくれたと言った。けれど、今の声には恐怖があった。ミラーの言葉ではないように聞こえた。アスカ本人の奥から漏れた、薄い悲鳴のように聞こえた。
「アスカ!」
リョウは手を伸ばした。
ローズが叫んだ。
「待て!」
同時に、薔薇の鞭が振るわれた。ミラーの中心へ向かって、赤黒い線が走る。だが、その前に水鏡が動いた。ファントム・ミラーの中から、水鏡紫影の姿だけが抜け出すように前へ出て、ローズの鞭の前に立ちはだかった。
「やめて!」
水鏡が叫んだ。
初めて聞く、取り乱した声だった。
「今切ったら、椎名さんまで裂ける!」
ローズの動きが一瞬鈍った。その一瞬を、ミラーは逃さなかった。鏡の廊下全体が内側へ折れ曲がり、壁も床も天井も、無数の鏡面へ分裂する。アスカの姿が何十にも増える。手を伸ばすアスカ。泣くアスカ。笑うアスカ。助けてと言うアスカ。来ないでと言うアスカ。全部が同時にリョウを呼ぶ。
どれが本物か分からない。
リョウは叫んだ。
「椎名アスカ!」
すべてのアスカが振り返った。
その中で、一人だけが、声を出さずに泣いた。
リョウはその一人へ手を伸ばした。根拠はない。ただ、名前を呼ばれたときに返事をしなかったアスカ。こちらを見て、声を出さずに泣いたアスカ。それが、本物に最も近い気がした。
「リョウ!」
ナギサの声が遠くなる。ローズの薔薇の香りが強くなる。水鏡の悲鳴が聞こえる。ミラーの声が、優しく、無数に囁く。
「一人で抱えなくていいの」
鏡面世界が崩れ始めた。
廊下の床が割れ、壁の鏡が流砂のように崩れ、天井の蛍光灯が水中の星のように揺れる。アスカの姿も、無数の鏡片へほどけていく。それでも、一人のアスカだけがリョウへ手を伸ばしていた。指先は震えていた。そこに体温があるのか、ただの映像なのか、分からない。分からないまま、リョウは手を伸ばした。
「アスカ!」
彼女の唇が動いた。
声は、崩れる鏡の音に呑まれて聞こえなかった。
だが、リョウには、こう言ったように見えた。
覚えていて。
次の瞬間、鏡面世界の床が砕けた。




