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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第1部_ダブル
13/31

第12章 ファントム・ミラー

 廊下は、もう廊下ではなかった。保健室から流れ出した黒い水のような影は、白い床の継ぎ目をなぞり、壁際へ這い、掲示板の下を濡らしながら、音もなく広がっていた。リョウはアスカの相談記録を胸に抱え、片手でナギサの腕を支え、もう片方の手をポケットの硝子片へ押し当てて走った。硝子片は冷たい。だが、そこに確かにアスカの気配があった。気配だけだ。声でも、姿でも、体温でもない。けれど、失えば二度と辿れない細い糸のように思えた。背後では、保健室の鏡から漏れた声がまだ追ってくる。あなたは、もう一人ではない。もう一人ではない。もう一人ではない。優しいはずの言葉が、校舎の壁に反響するたび、リョウの足元から自分の影が薄れていく気がした。


 ナギサは途中で何度も足をもつれさせた。眠りから引き戻されたばかりの体はまだ力を取り戻しておらず、顔色も悪い。それでも彼女は、泣き言を言わなかった。いつものような軽口も出なかった。ただ、自分の名を小さく繰り返していた。


「椎凪ナギサ。椎凪ナギサ。あたしは、椎凪ナギサ」


 それは祈りではなく、確認だった。自分がまだこちら側にいることを、声に出して床へ打ちつけている。リョウも、それに合わせるように胸の内で名前を呼んだ。春日リョウ。椎名アスカ。椎凪ナギサ。三枝千尋。名前を忘れるな。名前を忘れた瞬間、探しているものは別のものになる。ローズの言葉は、命令のように頭の奥へ残っていた。


「どこへ行くの」


 マナが前を走りながら言った。彼女は赤い栞を握ったまま、振り返らない。黒い傘はない。白いヘアピンも片方だけになっている。それだけで、彼女がいつもの鳴海マナではなく、何かを削って戻ってきたことが分かった。


「旧校舎か、外か」


「外へ出ても追ってくる」


 リョウは言った。


「アスカの気配が、こっちじゃない」


「何を根拠に」


「これ」


 ポケットの硝子片に触れる。マナが一瞬だけ横目で見た。


「ローズが渡したものね」


「マナ先輩」


「今は聞かないで」


「今じゃなきゃ、いつ聞けばいいんですか」


「生きて戻ったら」


 その返答には冗談の欠片もなかった。ナギサが掠れた声で言った。


「じゃあ、生きて戻ってから絶対聞きます。逃げないでくださいね」


「あなたまでそういうことを言うのね」


「マナ先輩が教えてくれないからです」


「……そうね」


 マナの声が少しだけ柔らかくなった。だが、それは一瞬だった。廊下の先、階段へ続く曲がり角の硝子窓が、突然、内側から曇った。水蒸気ではない。窓硝子そのものが白く濁り、そこに無数の手形が浮かぶ。小さい手、大きい手、細い指、爪の形が不自然に長いもの。手形はガラスの向こうから押しつけられ、ゆっくりと文字を形作った。


 抱えなくていい。


 ナギサが息を呑む。


「見ないで」


 マナが低く言った。


「文字も見るな」


「もう見ちゃいました」


「なら、意味を持たせないで」


「無茶言いますね」


「いつも無茶よ」


 マナは立ち止まらなかった。曲がり角を抜け、階段へ向かう。だが、階段はなかった。そこにあるはずの踊り場も、手すりも、下階へ続く段も消え、代わりに長い廊下がまっすぐ伸びていた。六道学園にこんな廊下はない。両側に同じ扉が等間隔で並び、床は白く、天井の蛍光灯は遠くまで連なっている。病院の廊下にも、ホテルの廊下にも、学園の廊下にも見える。だが、どれでもなかった。窓はない。代わりに、壁一面に細長い鏡が埋め込まれている。


「……階段、どこ行ったんですか」


 ナギサが呟いた。


「向こうが、こちら側の形を借り始めている」


 マナが言った。


「保健室の鏡が開いた。水鏡先生が、まだ接続を閉じていない」


「先生がやってるんですか」


「先生だけじゃない」


 マナは赤い栞を胸元へ戻し、低く言った。


「来るわ」


 その瞬間、鏡の廊下の奥に、人影が立った。


 水鏡紫影だった。白衣を着ている。髪を低い位置でまとめ、いつもの穏やかな目でこちらを見ている。だが、その背後には別の影が重なっていた。白衣の輪郭が揺れるたび、水鏡の姿は少しずつ変わる。白鳥由梨のようにも見えた。三枝千尋のようにも見えた。小野寺真琴のようにも見えた。さらに奥には、名前を知らない生徒たちの顔が、鏡面に溶けるようにいくつも浮かんでいる。全員がこちらを見ていた。責めるでもなく、笑うでもなく、ただ、分かってほしいという目で。


「春日くん」


 水鏡が言った。声はいつもの声だった。けれど、背後で無数の声が同じ音をなぞっていた。


「逃げなくていいのよ」


「先生」


 マナが一歩前へ出た。


「接続を閉じてください」


「閉じたら、あの子たちはまた一人になる」


「今は、それでも閉じるべきです」


「鳴海さん。あなたは、切ることしか考えないのね」


「切らなければ、戻れません」


「戻った先で、また苦しむ子がいるわ」


「だからといって、混ぜていい理由にはなりません」


 水鏡は悲しそうに笑った。その表情はあまりにも人間らしく、だからこそリョウには恐ろしかった。怪物なら憎める。悪意なら拒める。だが、水鏡は今も本気で傷ついている。本気で生徒たちを案じている。本気で、失踪した生徒たちの声を置き去りにしたくないと思っている。その本気の優しさが、鏡の向こうとつながっている。


「リョウ」


 リョウは顔を上げた。水鏡の声ではなかった。アスカの声だった。廊下の鏡の一枚に、アスカの姿が映っている。制服姿で、少し疲れた顔をして、しかし泣いてはいない。リョウがよく知っている、我慢しているときのアスカの顔だった。


「リョウ、わたしはここにいるよ」


 その声で、リョウの足が止まった。


 ナギサが彼の袖を掴む。


「春日先輩」


「分かってる」


 そう言ったのに、目が離せなかった。鏡の中のアスカは、リョウをまっすぐ見ていた。録音より近い。空き教室で聞いた声よりも、さらに近い。彼女の息遣いが、鏡一枚を隔てた向こうから伝わってくる気がする。唇の端の震え。睫毛の伏せ方。リョウの名を呼ぶ前の、ほんの小さな間。それはアスカだった。アスカでなければ知り得ない細部が、そこにあった。


「アスカ」


 リョウは呼んだ。返事をしてはいけないと分かっていても、呼んでしまった。アスカの顔が少しだけ明るくなる。


「よかった。覚えててくれた」


 胸を抉られた。覚えていて。あの日、アスカは尋ねた。リョウは軽く答えた。忘れるわけないだろ、と。あのとき、もっとちゃんと聞いていれば。もっと怖がっていれば。もっと手を離さなければ。後悔は、鏡の向こうから差し出される手のようにリョウを引いた。


「返せ」


 リョウは水鏡を見た。


「アスカを返せ」


 水鏡の顔が揺れた。背後の無数の顔も揺れる。鏡の中のアスカが、悲しそうに眉を下げた。


「リョウ、わたし、ここにいるよ」


「そこは、アスカのいる場所じゃない」


「でも、ここなら消えないの」


 アスカの声が、そう言った。


「ここなら、誰かの世界から薄くならない。誰かに忘れられても、みんなが覚えていてくれる。リョウがわたしを忘れそうになっても、わたしたちが覚えていられる」


 わたしたち。


 その一語で、リョウの体が冷えた。だが、アスカの表情はアスカのままだった。怯えている。必死に言葉を選んでいる。自分の不安を正当化するためではなく、本当にそう信じようとしているように見えた。だから、余計に分からなくなる。これはアスカの願いなのか。アスカの願いを映した何かなのか。アスカの欠片を使って、ミラーが言わせているだけなのか。


「ファントム・ミラー」


 マナが静かに言った。


 その名が廊下に落ちた瞬間、鏡の中の顔たちが一斉にこちらを向いた。水鏡の輪郭が大きく揺れる。白衣の内側から、黒でも白でもない鈍い銀色の光がにじむ。水鏡の顔が、アスカの顔へ変わり、由梨の顔へ変わり、千尋の顔へ変わり、また水鏡へ戻る。どれかひとつに定まらない。いや、定まる必要がないのだろう。それは個人の形を借りる。痛みを持つ者の顔を映す。欲しい言葉を、欲しい声で返す。


「その名で呼ぶのね」


 水鏡の口が動いた。だが、声は水鏡だけのものではなかった。柔らかな女性の声、少女の声、少年の声、泣き疲れた声、穏やかな声が幾重にも重なる。


「私たちは、ただ映しただけ。あなたたちが抱えきれなかった痛みを。言葉にできなかった願いを。誰にも届かなかった孤独を」


「映しただけなら、返して」


 マナは言った。


「それを抱えた本人ごと、奪わないで」


「奪っていないわ」


 ファントム・ミラーは、水鏡の顔で微笑んだ。


「生徒たちは来たの。自分で。誰かに分かってほしかったから。ひとりで抱えたくなかったから。痛みを預けたかったから」


「預けることと、境界を溶かされることは違う」


「境界は、痛みを閉じ込める」


「境界は、本人を守る」


「本人でいることが、そんなに大切?」


 その問いは、保健室で水鏡が言ったものと同じだった。マナが唇を結ぶ。ナギサが小さく震える。リョウは鏡の中のアスカを見た。本人でいることが、大切か。アスカ本人であることが。姿が同じなら。声が同じなら。記憶が同じなら。彼女がここにいると言うなら。自分はそれを拒めるのか。拒めば、もう一度アスカを失うのではないか。


「リョウ」


 鏡の中のアスカが手を伸ばした。指先が鏡面に触れると、そこから波紋が広がる。鏡は水のように揺れ、彼女の手がこちら側へ出てきそうだった。


「わたしを、置いていかないで」


 リョウは一歩近づいた。


「春日リョウ」


 ナギサが呼んだ。声が震えている。


「先輩、だめです」


「分かってる」


「分かってない顔してます」


「分かってる!」


 リョウは叫んだ。ナギサがびくりとした。すぐに後悔した。だが、声は止まらなかった。


「分かってるんだよ。これが危ないってことも、アスカじゃないかもしれないってことも、分かってる。でも、アスカかもしれないんだ。アスカの欠片かもしれない。あの子が、本当にそこから手を伸ばしてるのかもしれない。だったら、どうやって無視すればいいんだよ」


 ナギサは泣きそうな顔で黙った。彼女も知っている。千尋の姿をした存在を前に、自分がどれほど揺らいだかを。止める側の言葉は正しい。けれど、手を伸ばされた側には、正しさだけでは耐えられない。


 鏡の中のアスカが、さらに手を伸ばした。


「リョウ、お願い」


 その声は反則だった。リョウは奥歯を噛む。ポケットの硝子片が熱を持った気がした。アスカのファイルが胸に当たる。大切な人の世界から、消えない自分になりたい。その願いは本物だった。そこにつけ込まれたのだとしても、願いそのものは本物だった。


「アスカ」


 リョウはゆっくり言った。


「君は、椎名アスカなのか」


 鏡の中のアスカが微笑んだ。


「そうだよ」


「本当に?」


「リョウが覚えているなら、わたしはアスカでいられる」


「違う」


 言った瞬間、自分でも驚いた。アスカの顔が揺れた。


「違う。僕が覚えているからアスカなんじゃない。君が、君自身として椎名アスカなんだ。僕の記憶に残るためにいるんじゃない。僕の世界から消えないためだけにいるんじゃない」


 声が震えた。


「だから、答えてくれ。君は、僕に覚えられたいアスカなのか。それとも、アスカ自身なのか」


 鏡の中のアスカが黙った。


 その沈黙が、リョウの胸を切り裂いた。すぐに答えてほしかった。わたしはわたしだよ、と。リョウ、何を言ってるの、と困ったように笑ってほしかった。けれど、アスカは答えなかった。答えられないのか。答える言葉を探しているのか。あるいは、その問いに答えるための「本人」が、もう揺らいでいるのか。


「ひどいことを聞くのね」


 ファントム・ミラーが言った。今度はアスカの声に、水鏡の声が重なっていた。


「苦しんでいる子に、本人である証明を求めるの?」


「証明じゃない」


「彼女は、あなたに覚えていてほしかった。消えたくなかった。あなたの世界に残りたかった。それを願っただけなのに、あなたは今、彼女に『本物か』と問う」


「お前が、アスカの姿を使っているからだ」


「姿も、声も、記憶も、願いも、すべて彼女から来ているわ」


「でも、全部ではない」


「全部でなくても、彼女よ」


「違う」


「なぜ?」


 ミラーの声が柔らかくなる。優しい。どこまでも優しい。リョウの痛みを責めず、むしろ包み込むような声だった。


「あなたが望んでいる椎名アスカも、あなたの記憶の中にいる椎名アスカでしょう。彼女自身と、あなたの中の彼女は、本当に分けられるの? 人は誰かの中で生きる。誰かに覚えられていることで形を保つ。なら、私たちが覚えている彼女を、なぜ彼女ではないと言えるの」


 リョウは答えられなかった。


 言葉としてはおかしい。危険だ。境界を溶かす理屈だ。そう分かっている。だが、その中に完全な嘘はなかった。リョウの中のアスカも、アスカ本人ではない。記憶の中のアスカは、リョウが見たアスカでしかない。ならば、鏡が映したアスカと何が違うのか。その問いが、心の奥へ滑り込む。


 そのとき、薔薇の香りがした。


 冷たい夜気の中に、血のように濃い甘さが混じる。鏡の廊下の天井が裂けるように暗くなり、黒い花弁が降った。マナの背後の影が伸びる。いや、マナではない。黒衣の外套をまとい、白い仮面をつけたファントム・ローズが、鏡の廊下の中央に立っていた。赤黒い薔薇の鞭が、その手にある。


「その問いに答えるな」


 ローズが言った。


 リョウは振り返った。


「ローズ」


「ミラーは、正しさの中に穴を開ける。嘘だけを言う相手より厄介だ」


 ファントム・ミラーは、水鏡の顔でローズを見た。水鏡本人は、まだその中にいる。顔の奥に、彼女の悲しみが見える。だが、その悲しみの周囲を、無数の生徒の顔が取り巻いていた。


「また切りに来たのね」


 ミラーが言った。


「切る」


 ローズは短く答えた。


「ここで接続を断つ」


「断てば、あの子たちは落ちるわ」


「このままなら溶ける」


「溶けても、ひとりではない」


「ひとりであることを奪われるくらいなら、ひとりのまま泣いた方がいい」


「それは、あなたの選んだ痛みでしょう」


 ミラーの声に、水鏡の痛みが混じった。


「すべての子が、あなたのように耐えられるわけではない。鳴海さん。いいえ、ローズ。あなたが守る境界の外で、どれほどの子が泣いていたと思うの」


 ローズは沈黙した。仮面の奥は見えない。だが、その沈黙には痛みがあった。リョウは初めて、ローズもまた何かを失っているのだと感じた。切る者は、痛みを知らないわけではない。知っているから切るのかもしれない。


「先生」


 ローズは、水鏡へ向けて言った。


 その呼び方に、リョウは胸を突かれた。マナの声に近い。鳴海マナとして水鏡を呼んでいるのか、ローズとして呼んでいるのか分からない。


「もうやめて」


 水鏡の顔が、ミラーの中で揺れた。ほんの一瞬、彼女だけの目がこちらを見た。


「やめたら、私は何を救えたことになるの」


「救えなかったことを、救済に変えないで」


 その言葉は刃だった。水鏡の顔が歪む。鏡の廊下全体が震えた。壁の鏡に映る生徒たちが一斉に口を開く。


「一人で抱えなくていいの」


 その声が来た。


 水鏡の声で。白鳥由梨の声で。三枝千尋の声で。小野寺真琴の声で。アスカの声で。数え切れない生徒たちの声で。


「一人で抱えなくていいの。痛みを分けて。孤独を分けて。名前を分けて。あなたの悲しみも、あなたの後悔も、あなたの愛も、私たちが覚えていてあげる。だから、もうひとりでいなくていいの」


 リョウの視界が揺れた。優しい。あまりにも優しい。もしアスカを失った痛みを、誰かが本当に分けてくれるなら。もしこの後悔を、胸が裂けそうな罪悪感を、誰かが一緒に持ってくれるなら。どれほど楽だろう。リョウはその誘惑を否定できなかった。だからこそ、怖かった。


 ローズの鞭が床を打った。


 鏡の廊下に亀裂が走る。壁の鏡が次々にひび割れ、映っていた顔が悲鳴の形に歪む。ファントム・ミラーの輪郭が大きく広がった。水鏡の白衣がほどけ、アスカの制服へ変わり、由梨の髪へ変わり、千尋のリボンへ変わり、無数の生徒の手へ変わる。集合体。反射体。誰か一人ではないもの。それが、今度こそ明確な敵として、リョウたちの前に姿を現した。


 中央にいるのは、水鏡紫影のようだった。だが目元はアスカに似ている。口元は由梨に似ている。指先は千尋に似ている。声は全員のものだった。ファントム・ミラー。悩みを映し、願いを返し、孤独を分ける代わりに、ひとりの輪郭を薄めていくもの。


「返せ」


 リョウは叫んだ。


「アスカを返せ!」


 ミラーはアスカの顔で微笑んだ。


「リョウ、わたしはここにいるよ」


 また、その声だった。


 リョウは一歩踏み出した。ナギサが腕を掴む。マナが、いやローズが、鞭を構える。鏡の世界が大きく揺れ、床が水面のように波打つ。廊下の先に、アスカが立っている。今度は鏡の中ではない。こちら側とあちら側の境目に、彼女はいた。制服の裾が黒い水に濡れ、髪が頬に張りついている。泣きそうな顔で、リョウへ手を伸ばしている。


「リョウ」


 アスカが言った。


「怖いの。わたしが、わたしじゃなくなりそうで」


 その言葉で、リョウの足が止まった。


 今までのアスカは、ここにいれば消えないと言った。ひとりじゃないと言った。覚えていてくれたと言った。けれど、今の声には恐怖があった。ミラーの言葉ではないように聞こえた。アスカ本人の奥から漏れた、薄い悲鳴のように聞こえた。


「アスカ!」


 リョウは手を伸ばした。


 ローズが叫んだ。


「待て!」


 同時に、薔薇の鞭が振るわれた。ミラーの中心へ向かって、赤黒い線が走る。だが、その前に水鏡が動いた。ファントム・ミラーの中から、水鏡紫影の姿だけが抜け出すように前へ出て、ローズの鞭の前に立ちはだかった。


「やめて!」


 水鏡が叫んだ。


 初めて聞く、取り乱した声だった。


「今切ったら、椎名さんまで裂ける!」


 ローズの動きが一瞬鈍った。その一瞬を、ミラーは逃さなかった。鏡の廊下全体が内側へ折れ曲がり、壁も床も天井も、無数の鏡面へ分裂する。アスカの姿が何十にも増える。手を伸ばすアスカ。泣くアスカ。笑うアスカ。助けてと言うアスカ。来ないでと言うアスカ。全部が同時にリョウを呼ぶ。


 どれが本物か分からない。


 リョウは叫んだ。


「椎名アスカ!」


 すべてのアスカが振り返った。


 その中で、一人だけが、声を出さずに泣いた。


 リョウはその一人へ手を伸ばした。根拠はない。ただ、名前を呼ばれたときに返事をしなかったアスカ。こちらを見て、声を出さずに泣いたアスカ。それが、本物に最も近い気がした。


「リョウ!」


 ナギサの声が遠くなる。ローズの薔薇の香りが強くなる。水鏡の悲鳴が聞こえる。ミラーの声が、優しく、無数に囁く。


「一人で抱えなくていいの」


 鏡面世界が崩れ始めた。


 廊下の床が割れ、壁の鏡が流砂のように崩れ、天井の蛍光灯が水中の星のように揺れる。アスカの姿も、無数の鏡片へほどけていく。それでも、一人のアスカだけがリョウへ手を伸ばしていた。指先は震えていた。そこに体温があるのか、ただの映像なのか、分からない。分からないまま、リョウは手を伸ばした。


「アスカ!」


 彼女の唇が動いた。


 声は、崩れる鏡の音に呑まれて聞こえなかった。


 だが、リョウには、こう言ったように見えた。


 覚えていて。


 次の瞬間、鏡面世界の床が砕けた。

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