第13章 アスカの名前
床が砕けた。いや、床だと思っていたものが、最初から床ではなかったのかもしれない。鏡面世界の廊下は、白い校舎の形をしていた。六道学園の廊下に似ていて、保健室の白さに似ていて、旧校舎の空き教室に残る夜の冷たさにも似ていた。だが、足元が割れた瞬間、そのすべては薄い硝子の上に描かれた絵だったのだと分かった。亀裂はリョウの靴先から走り、鏡の床を幾何学的に裂き、そこに映っていた無数のアスカをばらばらにしていく。泣いているアスカ。笑っているアスカ。手を伸ばすアスカ。声にならない声で何かを訴えるアスカ。その中の一人だけが、リョウを見て、声を出さずに泣いていた。
覚えていて。
声は聞こえなかった。だが、唇はそう動いた。救いを求めているようにも見えた。別れを告げているようにも見えた。自分を忘れないでほしいという願いにも、もう追ってこないでほしいという祈りにも見えた。どちらなのか、リョウには分からなかった。分からないまま、手を伸ばした。
「アスカ!」
伸ばした手は、彼女の指先に届かなかった。間にあった鏡の空間が、黒い水のように盛り上がり、リョウの腕を弾いた。痛みはなかった。けれど、自分とアスカのあいだにある距離だけが、残酷なほどはっきりした。手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。声を出せば聞こえそうなのに、届かない。記憶の中では何度も隣に座っていたのに、今は硝子一枚より薄く、世界ひとつより遠い。
「椎名アスカ!」
リョウは名前を呼んだ。崩れていく鏡の廊下に、その名が落ちた。すると、無数のアスカの中から、ひとつの輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。声を出さずに泣いていたアスカだ。黒い水に足元を取られ、制服の裾を濡らしながら、こちらへ顔を向ける。彼女の輪郭は薄い。髪の先が鏡片の光にほどけ、肩の線が他の影に混ざりかけている。それでも、リョウが名を呼んだ瞬間だけ、彼女は一人の少女の形へ戻った。
「椎名アスカ!」
もう一度呼ぶ。今度は、鏡面世界全体が震えた。壁に映っていた他の顔がざわめく。白鳥由梨の顔、三枝千尋の顔、小野寺真琴の顔、名前を知らない生徒たちの顔。そして、水鏡紫影の顔。そのすべてが、リョウへ向く。怒りではない。憐れみでもない。もっと柔らかく、もっと危ういものだった。そんなふうに呼ばなくてもいいのに、と言っているような目。ひとりに戻そうとしなくてもいいのに、と責めずに責めてくる目だった。
「名前を呼ぶな」
ファントム・ミラーの声がした。
どこから聞こえるのか分からない。崩れかけた廊下の壁から、割れた床の下から、無数の顔の口から、アスカの姿をしたものの喉から、同時に響く。
「名を呼べば、その子はひとりに戻ろうとする。ひとりに戻れば、痛みも戻る。孤独も戻る。消えたくないと泣いていた夜も、誰にも言えなかった不安も、全部戻る」
「戻せ」
リョウは叫んだ。
「それがアスカのものなら、返せ」
「返してどうするの」
声は優しかった。いつか保健室で水鏡が言った声と、同じ温度だった。
「彼女は、消えたくなかった。大切な人の世界から、消えない自分になりたかった。だから、みんなの中にいることを選んだ。ここにいれば、誰か一人に忘れられても、みんなが覚えている。誰か一人の世界から薄れても、私たちの中では消えない。あなたが連れ戻すのは、彼女の救いを奪うことではないの?」
リョウは答えられなかった。
答えたい言葉はいくつもあった。そんなの救いじゃない。アスカは混ざりたかったわけじゃない。アスカはアスカのまま戻りたかったはずだ。だが、そのすべてに「本当に?」という問いがぶつかった。リョウは、アスカの願いをどこまで知っているのか。彼女は幸せなのに不安になると言った。リョウの世界から消えるのが怖いと言った。自分だけが薄くなる気がすると、水鏡の記録には残っていた。なら、彼女が「消えない場所」を求めたこと自体は本当なのだ。ミラーは、その本当を利用している。嘘だけなら斬れる。だが、本当の願いを含んだ嘘は、簡単には拒めない。
崩れる床の上で、黒衣のローズがリョウの前に立った。白い仮面の片側には、ひび割れた薔薇の紋が夜の光を受けて浮かんでいる。赤黒い薔薇の鞭は、すでに何度も振るわれ、鏡の水面を裂いていた。だが、ミラーの接続は完全には切れていない。切ろうとすればするほど、アスカの輪郭も一緒に削れていくように見えた。
「名前を呼べ」
ローズが言った。
リョウは振り返った。
「呼んでいいのか」
「呼ぶことには意味がある」
「それで、アスカを救えるのか」
ローズは答えなかった。
「またそれかよ」
リョウの声に怒りが混じる。
「君はいつもそうだ。探せ。名前を忘れるな。鏡を見るな。追うな。でも、肝心なことは何も言わない。名前を呼べば、アスカは戻るのか。戻らないのか。答えろよ」
「名前は、戻る道を作る」
ローズは低く言った。
「だが、道ができても、歩けるとは限らない。歩いてくる者が、本人であるとも限らない。呼ぶだけで完全に救えるなら、誰も失われていない」
その言葉は冷たかった。だが、冷たさの中に嘘はなかった。リョウは奥歯を噛む。希望をくれない。慰めてくれない。けれど、ローズは絶望だけを言っているわけでもない。名前を呼ぶことには意味がある。意味はあるが、万能ではない。それはひどく頼りなく、ひどく現実的だった。
「じゃあ、呼ぶ」
リョウは硝子の床に膝をついた。崩れかけた世界の中で、アスカの姿を探す。無数の顔の中から、一人を探す。声を出さずに泣いているアスカ。名前を呼ばれたときだけ輪郭を取り戻すアスカ。自分がアスカだとすぐに答えなかったアスカ。あれが本物かどうかは分からない。だが、他のどれよりも、リョウの知っているアスカの痛みに近かった。
「椎名アスカ」
呼ぶ。
鏡の奥で、一つの影が震える。
「椎名アスカ」
もう一度呼ぶ。
黒い水の中から、彼女の肩が浮かび上がる。
「椎名アスカ」
三度目で、彼女は顔を上げた。目が合う。リョウの記憶の中にあるアスカよりも、少し青白く、少し薄く、けれど確かにアスカに見える顔だった。彼女の唇が動く。
「リョウ」
声が聞こえた。
今度は、何人もの声が重なってはいなかった。細く、掠れて、今にも消えそうな声だった。リョウは胸を突かれた。
「アスカ。こっちへ来い」
「こっち?」
「僕の方へ」
アスカは周囲を見回した。そこには、無数の鏡片と、無数の顔と、黒い水面と、救いの言葉が浮かんでいる。彼女はその中で迷子のように立っていた。
「わたし、どっちがこっちか、分からない」
リョウは息を止めた。
「リョウがいる方が、こっち?」
「そうだ」
「でも、リョウの後ろにも、リョウがいる」
鏡片がざわめいた。リョウは周囲を見る。そこには、自分の姿も無数に映っていた。アスカを助けようと手を伸ばすリョウ。泣いているリョウ。怒っているリョウ。アスカを責めているリョウ。アスカを失いたくないだけのリョウ。アスカを取り戻すためなら何でもしそうなリョウ。そのすべてが鏡の中でアスカを呼んでいた。リョウ自身でさえ、自分のどれが本当なのか分からなくなる。
「見なくていい」
ローズが言った。
「鏡は、選べなかった可能性まで映す」
「じゃあ、何を見ればいい」
「名前」
短い答えだった。
リョウはまたアスカを見る。鏡の中の数え切れない自分ではなく、アスカの名を呼んだときに浮かび上がる一つの輪郭だけを見る。
「椎名アスカ」
「……うん」
アスカが返事をした。
その返事に、リョウの心臓が震えた。返事をした。名前に返事をした。それだけで救えた気がした。だが次の瞬間、ミラーの声が割って入る。
「その名は、痛みの名でもあるわ」
鏡面世界の奥から、水鏡の顔が浮かぶ。いや、水鏡の顔をしたミラーだった。白衣の輪郭は黒い水に溶け、目の奥には無数の生徒がいる。
「椎名アスカ。大切な人の世界から消えたくなかった子。幸せなのに不安になる自分を責めていた子。恋人を傷つけたくなくて、本当の恐怖を飲み込んでいた子。あなたがその名を呼ぶたび、彼女はその痛みへ戻る。あなたは、それでも呼ぶの?」
リョウは言葉を詰まらせた。
「呼ばなければ、彼女は私たちの中で薄く眠れる。痛みを分けられる。誰か一人に覚えられることへ怯えなくていい。誰か一人に忘れられることを恐れなくていい。ここでは、椎名アスカは消えない」
「それは、アスカじゃない」
「なぜ?」
「アスカが、自分で痛みを持てないなら」
言いかけて、リョウは止まった。自分で言っている言葉が、ひどく残酷に聞こえた。痛みを持て。孤独を持て。不安を持て。その上で戻れ。自分はアスカにそう言っているのか。彼女が逃げ出したかった痛みの中へ、もう一度戻れと求めているのか。
ミラーは、その沈黙を見逃さなかった。
「ほら」
優しい声が囁く。
「あなたにも分かっている。連れ戻すことは、彼女の救いを奪うことかもしれない。あなたが望んでいるのは、椎名アスカを救うこと? それとも、あなたの世界に椎名アスカを戻すこと?」
リョウは答えられなかった。
答えられない自分が、どうしようもなく怖かった。アスカを救いたい。そう思っていた。だが、アスカがいない世界を自分が耐えられないから探しているのも本当だった。アスカがミラーの中で苦しまないなら、そのままにするべきなのか。いや、そんなことは認められない。けれど、それは誰のための否定なのか。
アスカが、こちらを見ていた。
「リョウ」
彼女は言った。
「わたし、消えたくなかった」
「知ってる」
「リョウの世界から、いなくなりたくなかった」
「知ってる」
「でも、怖かった。リョウが忘れないって言ってくれたのに、怖かった。忘れないって言われても、わたしがわたしでいられなくなったら、どうしようって。リョウが覚えているわたしと、わたし自身がずれていったら、どうしようって」
リョウは息を呑んだ。アスカの言葉なのか。ミラーがアスカの不安を使って話しているのか。分からない。だが、その内容はあまりにもアスカだった。リョウが聞けなかった不安の続きだった。
「ごめん」
リョウは言った。
「僕は、ちゃんと聞いてなかった」
「ううん」
アスカは首を振った。
「リョウは聞いてくれた。でも、わたしが、全部言えなかった」
「違う。言えなかったのは、僕が大丈夫って言わせたからだ。安心したふりをさせたからだ」
「リョウ」
「戻ってこい。今度は聞く。怖いなら怖いって言っていい。不安なら不安って言っていい。幸せなのに怖くなってもいい。僕が分からなくても、分かろうとする。だから」
言葉が詰まる。喉が熱い。
「だから、戻ってきてくれ」
アスカの顔が歪んだ。泣きそうで、笑いそうで、どちらにもなれない顔だった。彼女は手を伸ばす。リョウも手を伸ばす。今度こそ、指先が近づく。黒い水面が二人の間で震えた。鏡片の中の無数の顔がざわめく。ミラーの声が少し低くなる。
「その約束も、あなたの願いでしょう」
ファントム・ミラーが言った。
「今度は聞く。今度は分かろうとする。今度は傷つけない。人は、失ったあとにだけ完璧な約束をする。けれど、戻ったあと、その約束を守れる保証はあるの? 彼女はまた不安になる。あなたはまた焦る。大丈夫だと言う。彼女はまた笑う。傷は繰り返す。なら、なぜ戻すの」
「繰り返してもいい」
リョウは言った。
言ってから、自分でも驚いた。
「傷つかない場所なんて、たぶんない。アスカが戻っても、僕はまた間違えるかもしれない。アスカもまた怖くなるかもしれない。僕はまた、届かない言葉を言うかもしれない。でも、それでも、アスカがアスカじゃなくなる場所へ置いていく理由にはならない」
「痛みを選ばせるの?」
「アスカに選ばせる」
「彼女は、もう選んだ」
「それを本当にアスカが選んだのか、お前が言うな」
リョウは手を伸ばしたまま叫んだ。
「椎名アスカ!」
彼女の輪郭が、また浮かび上がる。ミラーの声が乱れる。水鏡の顔が歪む。ローズが薔薇の鞭を構えた。
「呼び続けろ」
ローズが言った。
「その名が、まだ反応するうちに」
「椎名アスカ!」
リョウは叫ぶ。
アスカが一歩こちらへ出る。黒い水が彼女の膝に絡む。無数の手が彼女の肩を掴む。由梨の声が、千尋の声が、小野寺の声が、知らない生徒たちの声が、アスカを呼び止める。ひとりに戻らなくていい。痛みを持たなくていい。忘れられる怖さに戻らなくていい。
「椎名アスカ!」
もう一度。彼女は手を伸ばす。指先が触れそうになる。アスカの指は冷たそうだった。生きている人の手かどうかも分からない。だが、リョウは触れたかった。触れて、確かめたかった。アスカなのか。アスカではないのか。触れなければ分からない。触れたら、戻れないかもしれない。それでも。
「リョウ」
アスカが言った。
「覚えていて」
今度は、はっきり聞こえた。
その言葉は、助けて、と同じ意味にも聞こえた。わたしを忘れないで。名前を呼び続けて。ここから見つけて。そういう声に聞こえた。
同時に、別れの言葉にも聞こえた。
戻れないかもしれない。だから覚えていて。わたしがいたことを。わたしが怖かったことを。わたしがリョウの世界から消えたくなかったことを。そういう声にも聞こえた。
リョウは泣いていた。いつから泣いていたのか分からなかった。涙が頬を伝い、鏡の床に落ちる。落ちた涙は硝子の上で小さな波紋を作り、その中に中庭の水盤が映った。昼休み、アスカが問いかけた場所。リョウはあのとき、軽く答えた。忘れるわけないだろ、と。今なら分かる。あれは約束ではなく、逃げだった。不安を本気で受け止める前に、言葉で蓋をしただけだった。
「覚えてる」
リョウは言った。
「忘れない。今度は、軽く言わない。僕は忘れない。椎名アスカ。君の名前を、僕は忘れない」
アスカの手が、リョウの指先に触れた。
冷たかった。
けれど、確かに触れた。
その瞬間、鏡面世界全体が悲鳴を上げた。ファントム・ミラーが、無数の顔で口を開く。ローズが薔薇の鞭を振るう。マナの声がどこかで叫ぶ。ナギサがリョウの名を呼ぶ。水鏡の声が、やめて、と泣く。黒い水がアスカの腕に巻きつき、リョウの腕にも絡み、二人を同時に引き込もうとする。
「手を離せ!」
ローズが叫んだ。
「嫌だ!」
「そのままでは、お前まで落ちる!」
「それでも!」
言いかけた瞬間、リョウは自分の足元を見た。自分の影が、黒い水に溶け始めていた。春日リョウという輪郭が、鏡の中の無数のリョウへ分かれていく。アスカを助けたいリョウ。アスカを失いたくないリョウ。アスカが戻らないなら世界ごと否定したいリョウ。そのどれもが、自分だった。どれもが危険だった。
ローズが、リョウの腕を打った。
薔薇の鞭は皮膚を裂かなかった。だが、アスカの手とリョウの手の間にある接続だけを切った。指先が離れる。リョウは叫んだ。声にならない声だった。アスカの表情が、苦しげに歪む。黒い水が彼女を後ろへ引く。
「アスカ!」
リョウは手を伸ばした。届かない。もう一度伸ばす。床が砕ける。鏡片が周囲で割れ、無数の光が降る。その中で、アスカはリョウを見ていた。
「覚えていて」
最後に、彼女はもう一度言った。
声は小さかった。
救いを求める声だったのか、別れの声だったのか、やはり分からなかった。
だが、その名だけは、リョウの中に残った。
椎名アスカ。
鏡が砕けた。
今度の崩壊は、音を伴っていた。硝子が割れる音。水が落ちる音。誰かが叫ぶ音。校舎の壁が軋む音。あらゆる音が同時に押し寄せ、リョウの体を現実へ投げ戻した。
気づくと、彼は保健室の床に倒れていた。白い天井。蛍光灯。薬品の匂い。裂けた白いカーテン。床に広がった黒い水の跡は消えている。手洗い場の鏡は粉々に割れ、床には小さな破片が散っていた。ナギサが近くで咳き込み、マナが壁にもたれて座っている。水鏡紫影は鏡の前で膝をつき、呆然と割れた鏡を見つめていた。ローズの姿はない。薔薇の香りだけが、かすかに残っていた。
「アスカ」
リョウは起き上がろうとして、床に手をついた。手が震える。指先に、さっき触れた冷たさが残っている気がした。彼は周囲を見回した。保健室。白いカーテン。割れた鏡。マナ。ナギサ。水鏡。
アスカはいなかった。
「アスカ!」
叫んだ。返事はなかった。リョウは立ち上がろうとして膝をつき、割れた鏡の破片へ手を伸ばした。何か残っているはずだった。声でも、影でも、髪の一本でも、アスカがここにいた証拠が。だが、破片には何も映っていない。彼自身の青ざめた顔さえ、うまく映らない。ただの割れた鏡だった。
「春日くん」
マナの声がした。掠れていた。彼女も無事ではない。だが、リョウは振り返らなかった。
「アスカは」
喉が裂けるようだった。
「アスカは、どこだ」
誰も答えなかった。
水鏡が震える手で、割れた鏡に触れた。彼女の顔は真っ白だった。救われたのよ、と言った人の顔ではない。自分が救いだと思ったものの崩壊を見た人の顔だった。
「椎名さんは」
水鏡は言いかけて、言葉を失った。
「言うな」
リョウは低く言った。
「救われたなんて、言うな」
水鏡は唇を閉じた。
ナギサが床に座り込んだまま、涙で濡れた目でリョウを見た。
「先輩……」
彼女はそれ以上何も言えなかった。千尋を拒んだ彼女は、リョウの痛みを止める言葉を持っていない。けれど、その場にいてくれた。名前を呼んでくれた。リョウが落ちそうになったとき、春日リョウと呼んでくれた。それでも、アスカは戻らなかった。
リョウは、ポケットの中の硝子片を取り出した。ローズから渡された、アスカが通った跡。だが、そこにももう何も映っていなかった。冷たさだけが残っている。彼はそれを握りしめた。掌に痛みが走る。血が滲んだかもしれない。だが、その痛みがなければ、自分がまだ現実に戻ってきたことさえ信じられなかった。
「椎名アスカ」
リョウは名前を呼んだ。
保健室の白い空気に、その名だけが落ちた。
返事はなかった。
それでも、もう一度呼んだ。
「椎名アスカ」
誰も止めなかった。マナも、ナギサも、水鏡も、何も言わなかった。割れた鏡の破片だけが、床の上でかすかに光っている。
アスカは戻らない。
その事実だけが、現実の形をして、リョウの前に横たわっていた。
それでも彼は、名前を呼び続けた。呼ぶことだけが、今この場で彼女を完全に失わないための、たったひとつの抵抗だった。




