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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第1部_ダブル
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終章 ダブルの終わり

 椎名アスカは戻らなかった。保健室の鏡が砕けた夜、六道学園の校舎には救急車と警察車両の赤い光が何度も反射した。旧校舎三階の空き教室、保健室、廊下、昇降口、校門前。教師たちは何度も行き来し、生活指導の声は途中から枯れ、教頭の折原は携帯電話を耳に当てたまま、何度も「確認中です」と繰り返した。生徒たちは帰宅させられた。非公認の集まりに参加していた者は保護者同伴で事情を聞かれ、一部は病院へ運ばれ、一部は翌朝には何事もなかったように登校した。戻ってきた者もいた。戻ってこなかった者もいた。戻ってきたが、戻ってきたと言っていいのか分からない者もいた。学園は、続いていた失踪および一連の混乱について、関係機関と連携して調査中である、と発表した。紙に印刷されたその言葉は、ひどく平らだった。調査中。安全確認。心のケア。不確かな噂を広げないように。どの言葉も正しく、どの言葉もアスカへ届かなかった。


 リョウは数日のあいだ、現実の輪郭がうまく掴めなかった。教室へ行けばアスカの席がある。少なくとも最初の朝には、まだあった。担任は出席を取るとき、その席を一瞬見て、名前を呼ばずに次へ進んだ。リョウは立ち上がりかけた。呼べよ、と言いそうになった。椎名アスカと呼べよ、と。だが、喉の奥で言葉は止まった。教室中の視線が自分へ向くのを想像した。皆は心配するだろう。疲れているのか。無理をしているのか。彼女のことが心配なのは分かるけれど、今は学校を信じよう。そんな顔をするだろう。まだその時点では、誰もアスカを忘れてはいなかった。忘れてはいないはずだった。ただ、名前を呼ばないだけだった。


 水鏡紫影の所在は曖昧になった。保健室の先生は、しばらく休職することになった、とだけ説明された。体調不良。事情聴取。外部機関への協力。いくつもの言い方が廊下を流れたが、どれも確かではなかった。保健室は数日間閉鎖され、白いカーテンは新しいものに取り替えられ、手洗い場の鏡も撤去された。鏡があった壁には、仮の白い板が貼られた。その白さを見るたび、リョウは水鏡の声を思い出した。椎名さんは、救われたのよ。あの言葉だけは許せなかった。だが、それと同じくらい、保健室で見た水鏡の顔も忘れられなかった。救ったつもりで、取り返しのつかないものを鏡の向こうへ渡してしまった人の顔。悪意ではなかった。だからといって許されるわけではない。リョウは、その矛盾を飲み込めないまま、毎朝白い板の前を通った。


 失踪者名簿も変わっていった。マナが持っていた黒いファイルから、いくつかの名前が消えていた。消しゴムで消した跡も、破った跡もない。最初からそこに書かれていなかったように、行ごと空白になっている。小野寺真琴の行は残っていた。三枝千尋の行も残っていた。けれど、雨宮透の名は消えていた。誰も覚えていない生徒。記録だけに残っていた名。その行は、白い空欄になっていた。ただ右端に、小さな黒いインクのかすれだけが残っている。K.A.。それだけは消えていなかった。マナはその文字を指でなぞらず、しばらく見つめていた。


「これは、誰が書いたんですか」


 リョウが聞くと、マナは首を横に振った。


「まだ分からない」


「まだ、ですか」


「ええ。まだ」


 その言い方には、諦めではなく、苛立ちに近いものがあった。マナは調べ続けるつもりなのだろう。失踪事件は表向き収束しても、彼女の中では終わっていない。黒い傘は戻っていた。赤い栞も、いつものようにノートへ挟まれていた。白いヘアピンは片方だけのままだった。リョウはそれについて何度か聞こうとしたが、結局聞けなかった。聞けば、彼女はまた「今は言えない」と答える気がした。そしてその答えに、自分は今度こそ怒鳴ってしまう気がした。


 ナギサは学校に戻ってきた。数日休んだあと、彼女は昼休みに資料準備室へ顔を出した。眼鏡の奥の目は赤く、いつもの軽口は少しだけ遅れて出てきた。


「ご心配おかけしました。椎凪ナギサ、生還です。拍手は小さめでお願いします。頭に響くので」


 リョウは何も言えなかった。マナが代わりに、静かに椅子を引いた。


「無理に笑わなくていい」


「マナ先輩、それ言うと、あたしの営業努力が全部無駄になります」


「努力の方向を間違えているわ」


「知ってます」


 ナギサはそう言って、少し笑った。今度の笑みは無理があった。けれど、完全な嘘ではなかった。彼女は席に座り、しばらく沈黙してから、小さく言った。


「あたし、千尋を拒んだんですよね」


 誰もすぐには答えなかった。資料準備室の窓の外で、放課後の風が木々を揺らしている。リョウは床を見た。マナは閉じたノートに手を置いた。


「拒んだんじゃない」


 マナが言った。


「あなたは、千尋さんを千尋さんのまま呼ぼうとした」


「でも、あの子は消えました」


「最初から、あなたの知っている千尋さんだけではなかった」


「分かってます。分かってるんですけど」


 ナギサは膝の上で拳を握った。


「分かってても、会いたかったです」


 その一言に、リョウは胸を突かれた。ナギサは千尋に会いたかった。リョウはアスカに会いたかった。見えたものが本物ではないかもしれないと知っていても、会いたかった。その気持ちだけは、誰にも否定できない。マナはナギサの肩に手を置かなかった。ただ、少しだけ声を柔らかくした。


「会いたいと思うことまで、間違いにはしないで」


 ナギサは泣かなかった。泣きそうな顔で頷いた。


 その日、帰り際にマナはリョウを呼び止めた。資料準備室には二人だけが残っていた。夕方の光は薄く、棚に並ぶ古い学園史の背表紙が灰色に沈んでいる。マナは黒い傘を持ち、窓の外を見ていた。雨は降っていない。それでも彼女は、いつも傘を持っている。


「春日くん」


「何ですか」


「これ以上追えば、戻れなくなる」


 リョウはすぐには答えなかった。想像していた言葉だった。いつか言われると思っていた。だが、実際に聞くと、胃の底が重くなった。


「アスカを追うなってことですか」


「違う。追うなとは言えない。あなたにそれを言っても、もう意味がないから」


「じゃあ」


「あなたが忘れないことは大事。でも、それを理由に、自分も、他の誰かも壊していいわけではない」


 リョウはマナを見た。彼女の目は冷静だった。けれど、突き放しているわけではなかった。むしろ、突き放せないからこそ、厳しい言葉を選んでいるように見えた。


「ナギサを巻き込むなって言いたいんですか」


「それもある」


「僕は」


「あなたは、そうするつもりはないと言うでしょう」


 マナはリョウの言葉を遮った。


「でも、喪失は人を変える。大切な人を失った人は、別の誰かを命綱にしてしまうことがある。命綱にされた人は、自分の足元が崩れていても手を離せなくなる。ナギサは強く見える。でも、強いから傷つかないわけじゃない」


「分かってます」


「今は、分かっているつもりでいるだけかもしれない」


 リョウは言い返せなかった。ナギサが千尋を失った痛みを見ていた。自分の名前を繰り返しながら、鏡から戻ろうとしていた姿を見ていた。なのに、もしアスカの手がかりがナギサを通して現れたら、自分は本当に彼女を危険に近づけないでいられるのか。答えは出なかった。


「マナ先輩は」


 リョウは言った。


「アスカを忘れろって言いたいんですか」


 マナはゆっくり振り返った。


「いいえ」


 その答えだけは、迷いがなかった。


「忘れないで」


 リョウは息を止めた。


「ただし、忘れないことを、世界を壊す理由にしないで」


「世界?」


「今は、言葉の綾だと思って」


「思えません」


「でしょうね」


 マナは少しだけ疲れたように笑った。


「私は、もう誰の名前も忘れたくない。だから、あなたがアスカさんの名前を覚えていることを否定しない。でも、覚えていることと、取り戻すことは違う。取り戻すことと、本人を救うことも違う。そこを間違えたら、あなたはミラーと同じ場所へ行く」


「僕は、アスカを忘れません」


「ええ」


「世界が忘れても」


 口にした瞬間、なぜそんな言い方をしたのか自分でも分からなかった。だが、その言葉は胸の奥から自然に出てきた。世界が忘れても。そんなことがあり得ると、もうどこかで感じていたのかもしれない。名簿から消える名前。座席表から伏せられる名前。鏡の中でしか輪郭を取り戻せないアスカ。現実はすでに、彼女を少しずつ押し流し始めていた。


 マナは視線を伏せた。


「その言葉を、軽く言わないで」


「軽く言ってません」


「なら、忘れないで。自分の名前も」


「僕の?」


「春日リョウ。あなたが誰かを忘れたら、あなたが何を探しているのかも変わる。あなた自身が誰なのかを忘れたら、アスカさんの名前さえ、別のものになる」


 ローズと同じ言葉だった。名前を忘れるな。リョウはマナを見つめた。彼女はそれ以上何も言わなかった。黒い傘を手に、資料準備室の扉へ向かう。その背中に、薔薇の香りはしなかった。ただ、白いヘアピンの片側だけが、夕方の光に淡く光っていた。


 事件は終わった、ということになった。正確には、落ち着いた、という言葉が使われた。非公認の集まりは厳しく禁止され、旧校舎の一部は封鎖され、保健室には臨時の養護教諭が来た。白鳥由梨は休学した。小野寺真琴は転院したという噂が流れた。三枝千尋については、家族の事情でしばらく学校へ来られないらしい、と誰かが言った。誰が言い出したのか分からない。その説明を聞いたとき、ナギサは笑わなかった。ただ、ノートに千尋の名前を書き直した。何度も、何度も。消えないように、筆圧を強くして。


 アスカについては、最初の数日は誰もが気にしていた。佐伯律はリョウに何度も声をかけようとして、結局やめた。クラスの女子たちは小声で椎名さんのことを話していた。担任は家庭と連絡を取っている、とだけ言った。だが、一週間もすると、その声は少しずつ減っていった。人間は、いない人に慣れる。空席に慣れる。呼ばれない名前に慣れる。リョウは、そのことが怖かった。彼自身も、ふとした瞬間にアスカの席を見ないまま一時間を過ごしてしまうことがあった。そのたびに、罪悪感で息が詰まった。忘れたわけではない。忘れていない。そう自分に言い聞かせるために、彼はポケットの中の硝子片を握った。もう何も映らない、冷たい破片。それでも、リョウにはそれが最後の手がかりだった。


 その夜、リョウは自分の部屋でスマホを開いた。部屋の灯りはつけていない。机の上のスタンドライトだけが、ノートと教科書を小さく照らしている。スマホの写真フォルダには、アスカの写真がまだ残っていた。数は多くない。彼女は写真を撮られるのが少し苦手だったから、正面から写ったものは少ない。図書室の机に置かれた文庫本と、端に写り込んだアスカの指。中庭の水盤を覗き込む後ろ姿。駅前の自販機で飲み物を買っている横顔。文化祭の準備で、佐伯に無理やり撮られた集合写真。その中でアスカは、リョウの隣にいた。少し困ったように笑い、片手で髪を押さえている。


 残っている。


 リョウはその写真を見て、胸の奥から息を吐いた。残っている。アスカはまだ消えていない。少なくとも、この画面の中には。記録の中には。リョウの中には。彼は指でアスカの顔を拡大した。画素が少し荒れる。けれど、彼女の目元も、唇の形も、確かに見える。リョウ、と呼ぶ声が聞こえる気がした。返事はしなかった。ただ、画面に向かって静かに名前を呼んだ。


「椎名アスカ」


 スマホは何も返さない。


「椎名アスカ」


 もう一度呼ぶ。名前は部屋の中に落ちる。壁に反射せず、床に沈む。けれど、消えない。リョウは何度かその名を呼び、やがて画面を閉じずにベッドへ横になった。眠るつもりはなかった。写真を見ているつもりだった。見続けていれば、消えない気がした。だが、体は限界だった。鏡が砕けた夜から、ほとんど眠れていなかった。まぶたが重くなる。アスカの写真がぼやける。最後に見たのは、集合写真の中でリョウの隣に立つアスカの顔だった。


 覚えていて。


 声が聞こえた気がした。


 リョウは、忘れない、と胸の中で答えた。


 翌朝、スマホのアラームで目が覚めた。窓の外は薄く晴れていた。昨日までと同じ朝だった。カーテンの隙間から差す光、机の上のノート、充電ケーブルにつながったスマホ、床に落ちた制服の上着。何も変わっていない。そう思ったのは、最初の数秒だけだった。


 スマホの画面には、写真フォルダが開いたままだった。集合写真が表示されている。文化祭準備のときの写真。佐伯がふざけて撮ったもの。リョウは寝ぼけた目でそれを見た。そして、息が止まった。


 アスカがいなかった。


 リョウの隣には、誰もいない。いや、空白ですらなかった。そこには、最初から一人分の隙間などなかったように、背景の教室が自然につながっていた。机の端、窓の枠、後ろの生徒の肩。すべてが不自然なく埋まっている。アスカが立っていた場所は、綺麗に消されていた。編集された跡ではない。最初から、彼女はそこにいなかった写真だった。


「……嘘だろ」


 リョウは飛び起きた。指が震える。別の写真を開く。図書室の文庫本。アスカの指が写っていたはずの場所には、本の端だけがある。中庭の水盤。覗き込んでいた後ろ姿はなく、水面には曇った空だけが映っている。駅前の自販機。アスカの横顔は消え、飲み物を取り出す手もない。写真は残っている。けれど、アスカだけがいない。


 連絡先を開く。椎名アスカの名前を探す。ない。検索欄に「しいな」と打つ。候補は出ない。「アスカ」と打つ。何も出ない。通話履歴を開く。何度もかけたはずの不在着信。彼女へ送ったはずのメッセージ。家に着いたよ。おやすみ。全部、ない。リョウは過去のトーク履歴を必死にスクロールした。そこには佐伯との会話、ナギサとの短い連絡、マナからの無愛想なメッセージ、クラスの連絡網だけがある。アスカとの会話だけが、最初から存在しなかったように抜け落ちていた。


「椎名アスカ」


 リョウは声に出した。部屋の中に名前が響く。世界は何も反応しない。


「椎名アスカ、椎名アスカ、椎名アスカ」


 何度呼んでも、スマホの画面に名前は戻らなかった。写真の中に、彼女の影は戻らなかった。リョウは制服に着替えることも忘れ、机の引き出しを開けた。アスカから借りた本。栞。メモ。何か残っているはずだった。だが、そこにあったのは自分の教科書とノートだけだった。古典のノートの端にアスカが書いた落書きがあったはずのページは、綺麗な空白になっている。リョウは部屋中を探した。鞄の中、机の下、本棚、制服のポケット。何もない。ポケットの硝子片さえ、消えていた。


 学校へ向かう道は、昨日までと同じだった。正門の前には生徒たちがいて、生活指導の教師が立っていて、校舎の窓は朝の光を反射している。だが、リョウにはすべてが少しだけ違って見えた。風景の輪郭はある。人の声も聞こえる。けれど、その全部が、アスカのいない形へ組み直された世界だった。昇降口の掲示板には、失踪事件に関する通達が貼られている。そこには、複数の生徒の体調不良および無断欠席について調査を継続している、とある。椎名アスカの名前はない。


 リョウは二年三組の教室へ駆け込んだ。席表が黒板の端に貼られている。アスカの席を探す。ない。窓際から二列目、前から三番目。そこには別の生徒の名前があった。リョウの記憶では、あり得ない名前だった。彼はその紙を掴み、剥がしそうになった。


「春日?」


 佐伯律の声がした。リョウは振り返る。佐伯はいつもと同じ顔で、購買のパンを片手に立っていた。


「どうした、お前。顔色やばいぞ」


「佐伯。椎名アスカは?」


「しいな?」


 佐伯は眉をひそめた。


「誰?」


 世界が止まった。


「ふざけるな」


「いや、ふざけてないけど」


「椎名アスカだよ。うちのクラスの。僕の」


 恋人、と言おうとして、喉が詰まった。佐伯は本気で分からない顔をしていた。からかっているのではない。忘れたふりでもない。佐伯律の世界には、椎名アスカという名前が存在していない。その事実が、リョウの胸を冷たい手で掴んだ。


「お前、まだ事件のことで参ってるんじゃないか。保健室……は、今ちょっとあれだけど、先生に言った方が」


「言うな」


「春日?」


「その名前を、知らないみたいに言うな」


 佐伯は困惑した顔で黙った。周囲の生徒たちがこちらを見る。誰もアスカの名前に反応しない。誰も「椎名さん?」と言わない。誰も、空席を見ない。教室はいつも通りだった。いつも通りすぎて、吐き気がした。


 リョウは教室を飛び出した。廊下で何人かとぶつかりそうになる。資料準備室へ向かった。マナなら覚えている。そう思った。彼女なら。失踪者名簿を作り、名前を忘れるなと言った彼女なら。だが、資料準備室の扉は閉まっていた。ノックしても返事はない。図書室の司書に聞くと、鳴海さんなら今日はまだ見ていない、と言われた。リョウは廊下で立ち尽くした。


 そのとき、背後から声がした。


「リョウ、どうしたの?」


 心臓が跳ねた。


 振り返ると、椎凪ナギサが立っていた。


 制服のリボンは一年生の色。眼鏡の奥の目は、いつもより少し心配そうに細められている。だが、その立ち方が違った。距離が近い。自然に近い。彼女はリョウへ駆け寄り、ためらいなく彼の袖を掴んだ。以前なら、彼女は「春日先輩」と呼んだ。軽口を叩き、わざとらしく敬礼し、先輩後輩の距離を守りながら踏み込んできた。だが今、彼女はリョウと呼んだ。あまりにも自然に。何度もそう呼んできた恋人のように。


「顔、真っ青だよ。寝不足? また変な夢見た?」


 リョウは声を出せなかった。ナギサは心配そうに彼の顔を覗き込む。近い。近すぎる。彼女の手はリョウの袖を掴んだまま離れない。その仕草に、周囲の生徒たちは誰も驚かない。むしろ、いつものことのように通り過ぎていく。


「ナギサ」


「うん?」


「今、何て呼んだ」


「え?」


「僕のこと」


 ナギサはきょとんとした顔をして、それから少しだけ笑った。


「リョウって呼んだけど。何、急に名字で呼んだ方がいい? 春日先輩、って」


 冗談めかしてそう言った瞬間、リョウの背筋に冷たいものが走った。彼女は知っている。いや、知らない。かつてそう呼んでいたことを知らないまま、冗談として口にした。世界が、前の呼び方を冗談の形で残している。痕跡のように。傷跡のように。


「ねえ、本当に大丈夫?」


 ナギサはリョウの額に手を伸ばした。リョウは反射的に身を引いた。ナギサの手が空中で止まる。彼女の顔に、一瞬だけ傷ついた色が浮かんだ。


「ごめん」


 リョウは言った。謝った相手が、目の前のナギサなのか、昨日までのナギサなのか、自分でも分からなかった。


「いや、いいけど。ほんとに変だよ、今日」


 そこへ佐伯が廊下から顔を出した。


「おーい、春日。椎凪ちゃん、そいつ朝からおかしいから見てやって。彼女の言うことなら聞くだろ」


 彼女。


 その言葉が、リョウの頭の中で割れた。


 ナギサは少し頬を赤くして、佐伯へ言い返した。


「佐伯先輩、そういう言い方やめてください。リョウが余計に照れるじゃないですか」


「照れてる顔じゃないけどな。まあ頼んだ」


 佐伯は笑って教室へ戻っていった。周囲の生徒も、誰も違和感を持っていない。椎凪ナギサは、春日リョウの恋人。そういう世界になっている。最初からそうだったかのように。アスカのいた場所へ、ナギサが配置されている。彼女自身に悪意はない。ナギサは何も知らない顔で、リョウを心配している。だからこそ、リョウは叫べなかった。


「ナギサ」


 リョウは声を絞り出した。


「椎名アスカを、知ってるか」


 ナギサは瞬きした。


「しいな、あすか?」


 彼女はその名前を、初めて聞いた言葉のように繰り返した。


「誰?」


 リョウの中で、何かが崩れた。


 ナギサは本気で分からない顔をしている。千尋を失って泣いたナギサ。春日先輩と呼び、軽口で自分を支え、鏡の前で自分の名前を繰り返したナギサ。その彼女が、アスカを知らない。リョウをリョウと呼ぶ。恋人として隣に立つ。世界は彼女を、アスカのいた場所へ置いた。いや、アスカが最初からいなかった世界では、ナギサが最初からそこにいたのかもしれない。


「リョウ?」


 ナギサが不安そうに呼ぶ。


 その呼び方は優しかった。今の世界のナギサにとっては、当然の優しさなのだろう。けれど、リョウにはそれが刃物のように刺さった。彼女を責められない。責める相手ではない。ナギサは何も奪っていない。彼女もまた、世界に置き換えられた側なのかもしれない。だが、アスカの名前を知らないナギサの隣で、自分だけがアスカを覚えている。その孤独が、遅れて全身を貫いた。


 リョウは廊下の窓へ視線を向けた。ガラスには、自分とナギサが映っている。並んで立つ二人。どこから見ても、親しい二人だった。ナギサはリョウを心配して袖を掴んでいる。リョウは青ざめた顔で、その隣にいる。ガラスの中に、アスカの影はなかった。もう一人の顔も映らない。何もない。ただ、世界が選び直した二人だけが映っている。


「椎名アスカ」


 リョウは小さく言った。


 ナギサが聞き返す。


「今の名前、誰?」


 リョウは答えなかった。答えられなかった。説明すれば、彼女は心配するだろう。優しく聞いてくれるかもしれない。大丈夫、あたしがいるよ、と言うかもしれない。その言葉は、きっと今のリョウを少しだけ救う。けれど、その救いに縋れば、アスカの名前がさらに遠ざかる気がした。


 だから、リョウは胸の中でその名を呼んだ。


 椎名アスカ。


 写真から消えても。連絡先から消えても。通話履歴から消えても。座席表から消えても。友人たちが知らなくても。ナギサが知らなくても。世界が、その席を別の誰かのものとして整えてしまっても。


 椎名アスカ。


 覚えていて。


 あの声が、まだ胸の奥に残っている。救いを求める声だったのか、別れの声だったのか、今も分からない。だが、リョウは忘れないと答えた。軽くではなく、本当に。ならば、今ここで忘れるわけにはいかなかった。


「リョウ」


 ナギサが、もう一度呼んだ。


 その声は、リョウを現在へ引き戻す。アスカのいない現在へ。ナギサが恋人として隣にいる現在へ。世界がアスカを消した現在へ。リョウはその声から逃げることも、完全に拒むこともできなかった。ただ、胸の奥で、別の名前を握りしめるしかなかった。


 世界は、椎名アスカを忘れていた。


 けれどリョウだけが、まだ彼女の名前を覚えていた。

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