序章 知らない朝
朝は、何もなかったような顔で来る。カーテンの隙間から細い光が入り、机の上に置きっぱなしの教科書の端を白く照らし、充電ケーブルにつながったスマホが、いつもの時刻に震えた。アラームの音は昨日までと同じだった。少し安っぽい電子音。止めようとして指を滑らせ、画面を二度叩く癖。枕元に落ちたイヤホン。床に脱ぎ捨てた制服の上着。部屋の空気は、何ひとつ変わっていないように見えた。けれど春日リョウは、目を開けた瞬間から分かっていた。何かがない。まだ何を失ったのか確かめる前から、胸の奥に大きな空白があった。夢の残りではない。寝不足のせいでもない。世界が一晩かけて、リョウ以外の全員にだけ都合のいい形へ乾いてしまったような、硬い違和感だった。
スマホの画面には、写真フォルダが開いたままだった。昨夜、最後に見ていた集合写真。文化祭準備の日のもの。教室の窓際で、佐伯がふざけて撮った写真だ。リョウは反射的に画面を見た。そして、呼吸を忘れた。そこに、椎名アスカはいなかった。昨日までリョウの隣に立っていたはずの少女は、いなかった。場所だけが綺麗に塞がっている。誰かを消したような不自然な歪みはない。背景の机、窓枠、後ろに立つ生徒の肩、黒板の端。すべてが自然につながっている。最初から、彼女がそこに立っていた事実などなかったように。
リョウは指先で画面を拡大した。何度も拡大し、戻し、もう一度拡大した。あるはずの位置を探す。アスカの髪。困ったような笑顔。片手で髪を押さえる仕草。何もない。何も残っていない。写真はある。思い出の場面もある。だが、そこからアスカだけが抜けているのではなく、アスカがいない形へ世界全体が組み直されている。消去ではない。改稿だった。誰かが過去のページを開き、名前と姿を削り、その周囲の文章まで自然に直してしまったようだった。
「椎名アスカ」
リョウは声に出した。部屋は何も返さない。彼はすぐに連絡先を開いた。検索欄に「しいな」と打つ。候補は出ない。「アスカ」と打つ。何も出ない。漢字で「椎名」と打つ。該当なし。通話履歴を開く。保健室の鏡が砕けた夜、何度もかけたはずの番号はない。メッセージアプリを開く。家に着いたよ。おやすみ。あの短い文面を探す。見つからない。トーク一覧には、佐伯律、クラス連絡網、椎凪ナギサ、鳴海マナ、いくつかの事務的な通知だけが並んでいる。椎名アスカという名前は、どこにもなかった。
ナギサの名前が、そこにある。
リョウの指が止まった。トーク欄の上の方、ピン留めされたような位置に、椎凪ナギサとの会話がある。昨日まで、こんな場所にあっただろうか。いや、あったはずがない。彼女は後輩で、事件を一緒に追った相手で、千尋を探していた少女で、リョウを「春日先輩」と呼んでいた。恋人ではない。少なくとも、リョウの記憶では。だが画面の中の履歴は、それを否定していた。
昨日はちゃんと寝てね。
無理したら怒るから。
リョウ、また朝起こすよ?
最後のメッセージは、夜の十一時半に送られていた。リョウには覚えがない。覚えがないのに、そこには自分の返信も残っている。
分かった。おやすみ、ナギサ。
リョウは、自分の指で打ったはずのない文字を見つめた。自分の口調に似ている。自分ならそう返すかもしれない。けれど、この会話をした記憶はない。いや、別の記憶が、頭の奥で無理に立ち上がろうとした。夜にナギサから連絡が来て、体調を心配されて、少しだけ笑って返信した記憶。あり得ない。けれど、あり得ないと拒むほど、その記憶は薄い煙のように揺れながら存在を主張してくる。
写真フォルダをスクロールする。アスカの痕跡を探すつもりだった。だが、次に出てきた写真には、ナギサがいた。駅前の自販機の前。彼女は飲み物を二本持ち、片方をこちらへ差し出して笑っている。背景も、光の角度も、リョウの記憶にある写真と同じだった。そこには本来、アスカがいたはずだった。少し照れた横顔で、リョウに飲み物を渡していたはずだった。だが、今はナギサがいる。何の違和感もなく、そこに収まっている。次の写真。中庭の水盤。ナギサが水面を覗き込み、眼鏡の位置を直している。次の写真。図書室の机。文庫本の横に、ナギサの指先が写っている。どれも、リョウの記憶ではアスカの場所だった。
リョウはスマホをベッドへ投げ出した。画面が布団の上で跳ねる。部屋の空気が狭くなった。息が苦しい。窓を開けようとして、指が震えた。カーテンを引くと、朝の街が見えた。いつもの通学路。電線。向かいの家の屋根。通りを歩く生徒たち。世界は平然としている。アスカ一人を消しておきながら、世界は朝食を食べ、制服に着替え、学校へ向かう。そんなことが許されていいのかと思った。だが、許すも許さないもない。世界は、リョウの怒りなど気にしていなかった。
「椎名アスカ」
もう一度呼んだ。名前だけは残っている。自分の中に。声に出せる。文字にできる。頭の中で顔も思い出せる。黒髪。少し伏せがちな目。笑うときに、最初に口元だけが緩む癖。図書室で本に栞を挟む手つき。中庭で不安を口にするとき、弁当袋の紐を握りしめていた指。消えていない。まだ、自分の中では。リョウはそのことに縋った。縋らなければ、足元から自分まで消えそうだった。
学校へ行くまでの道も、知らない朝だった。見覚えのある街なのに、輪郭が少しずつ違う。コンビニの前で立ち話をしている生徒たち。駅前の自販機。歩道橋の下の掲示板。どれも記憶にある。だが、そこへアスカの姿を重ねようとすると、世界がわずかに拒んだ。アスカと並んで歩いたはずの道。雨の日に一緒に傘を差したはずの角。彼女が立ち止まって、髪を耳にかけたはずの横断歩道。その場面を思い出そうとすると、別の映像が割り込んでくる。ナギサが隣で笑っている。ナギサが傘を忘れて、リョウの傘に入ってくる。ナギサが横断歩道で「信号長くない?」と文句を言う。知らない思い出が、知っている思い出の上へ重ね貼りされる。リョウは歩きながら、何度も拳を握った。
違う。
違う。
違う。
六道学園の正門は、いつも通り開いていた。事件のあとに増えていた警備の姿は少し減り、教師たちは普段の朝の指導へ戻っている。掲示板には、旧校舎一部立入禁止と、心身の不調がある生徒は相談室へ、という告知が貼られていた。〈クラブ・ダブルB〉の文字はない。失踪事件の詳細もない。水鏡紫影の名もない。すべて、学校らしい言葉へ薄められている。リョウは昇降口で靴を履き替えながら、アスカの下駄箱があった場所を見た。
そこには、別の名前のシールが貼られていた。
指で触れる。新しいシールではない。角が少し擦れ、長く使われてきたように自然に古びている。アスカの名前が剥がされた跡はない。最初から、そこは彼女の場所ではなかった。リョウは眩暈を覚え、下駄箱に手をついた。
「おい、春日」
佐伯律の声がした。
リョウは振り返った。佐伯は片手に購買の袋を持ち、もう片方の手をひらひら振っている。いつもの顔。いつもの軽さ。事件の記憶を完全になくしたわけではなさそうだった。だが、その事件の中にアスカがいたことだけが、抜け落ちているのだろう。
「顔色悪いぞ。昨日も椎凪ちゃんに心配されてたろ」
椎凪ちゃん。
リョウの喉が詰まる。
「佐伯」
「何だよ」
「椎名アスカって知ってるか」
佐伯は目を瞬かせた。
「しいな……誰?」
昨日の終わりに聞いた答えと同じだった。だが、二度目でも痛みは軽くならなかった。むしろ、世界が揺るぎなく同じ答えを返してくることが、余計に怖かった。
「うちのクラスにいた。僕の隣にいた。図書室によくいて、古典の小テストでいつも」
「春日」
佐伯の表情から、冗談が消えた。
「お前、本当に大丈夫か? 寝てないんじゃないのか」
「知ってるかどうかだけ答えろ」
「知らない。聞いたことない」
「椎名だぞ。椎名アスカ」
「だから知らないって。うちの学年に椎名なんていたか? 少なくとも二年三組にはいないだろ」
二年三組にはいないだろ。
その言葉が、朝の昇降口の雑音の中でやけに鮮明に響いた。靴箱の扉が閉まる音。誰かの笑い声。上履きの底が床を擦る音。その全部が、アスカのいない世界の音だった。
「それより、お前、椎凪ちゃんと喧嘩でもしたのか」
「何でそこでナギサが出てくるんだ」
「何でって、彼女だろ」
佐伯は、本気で不思議そうに言った。
「朝からそんな顔してるし、昨日も椎凪ちゃんが心配してたし。お前ら、だいたいいつも一緒じゃん」
「いつも?」
「いつも。何、急に記憶喪失キャラ?」
「やめろ」
声が思ったより強く出た。佐伯が少し驚いた顔をする。リョウは謝る余裕もなく、昇降口を離れた。
教室へ入ると、席表が黒板の端に貼られていた。リョウはまっすぐそこへ向かった。椎名アスカの名前はない。分かっていた。それでも確認せずにはいられなかった。窓際から二列目、前から三番目。そこには別の生徒名がある。机の配置も、クラスの空気も、何もおかしくない。アスカの席だけがないのではなく、アスカの席がなかった歴史ごと整っている。
担任が入ってきた。出席を取る。名前が順に呼ばれる。リョウの名前も呼ばれる。彼は返事をした。アスカの名前は呼ばれない。誰も不思議に思わない。担任は出席簿を閉じ、昨日配布した進路希望調査の提出期限について話し始める。世界が平然と進んでいく。アスカの名を挟む余白など、どこにもない。
授業中、リョウはノートに「椎名アスカ」と書いた。書ける。文字は書ける。だが、書いた瞬間、黒鉛の線が少し揺らいだ気がした。目を凝らすと、文字はそこにある。椎名アスカ。彼はその下にもう一度書いた。椎名アスカ。三度目を書こうとしたところで、隣の席の生徒が怪訝そうにこちらを見た。
「春日、それ誰?」
リョウはノートを閉じた。
昼休みになる前に、ナギサが教室の前へ来た。彼女は当然のように二年の教室の入口から顔を出し、リョウを見つけると小さく手を振った。第1部の記憶にある彼女なら、少し遠慮して、周囲の視線を冗談に変えながら近づいてきたはずだった。先輩、ちょっといいですか、と。けれど今の彼女は違う。自然に、ためらいなく、リョウの席まで来る。
「リョウ、顔色悪いよ?」
その一言で、教室の空気がさらに知らないものになった。
リョウ。
彼女はそう呼んだ。恋人を呼ぶ距離で。親しい日常を積み重ねた声で。周囲の生徒は誰も驚かない。佐伯は「ほら来た」とでも言いたげに笑っている。女子生徒の一人が「ナギサちゃん、今日もお弁当?」と声をかけ、ナギサは「今日は購買です。リョウが朝から変なので、ちゃんと食べさせます」と返した。笑いが起きる。普通の昼休み。普通の恋人同士への茶化し。リョウだけが、その普通に刺されている。
「ナギサ」
「うん?」
「僕を、何て呼んだ」
ナギサはきょとんとしたあと、少しだけ眉を寄せた。
「リョウって呼んだけど。何、朝から本当に変だよ。昨日の夜、ちゃんと寝た?」
「昨日の夜、僕たちは何を話した」
「え? メッセージで? 無理するなって言ったら、分かったって返してきたじゃん。覚えてないの?」
「覚えてない」
ナギサの顔から笑みが消えた。彼女はリョウの机に手をつき、身を屈める。
「本当に大丈夫? 熱ある?」
手が伸びてくる。額へ触れようとする手。リョウは反射的に身を引いた。ナギサの手が空中で止まる。彼女の表情に、痛みが走った。それは本物だった。この世界のナギサの痛みだった。恋人に避けられた少女の顔。何も知らずに傷ついた顔。リョウの胸が詰まる。
「ごめん」
「……ううん。いいけど」
よくない顔だった。だが、ナギサは笑おうとした。明るく振る舞う癖は、この世界でも同じらしい。そのことが、リョウを余計に苦しくさせた。彼女はナギサだ。アスカの代わりに置かれただけの人形ではない。千尋を失い、笑うことで耐え、リョウを心配している少女。その彼女が、世界に恋人として配置されている。リョウは、彼女を責められない。だが、受け入れれば、アスカの不在を世界の言い分通りに認めてしまう気がした。
「ナギサ」
「なに」
「僕たち、いつから付き合ってることになってる」
教室の音が、一瞬だけ遠のいた。ナギサの目が揺れる。周囲にいた生徒たちも、何人かがこちらを見る。佐伯が「おいおい」と困ったように笑った。
「ことになってる、って何だよ」
リョウは佐伯を無視した。ナギサだけを見る。ナギサは笑おうとして失敗した。
「何それ。喧嘩の仕方、新しすぎない?」
「答えてくれ」
「去年の秋から、でしょ」
「去年の秋?」
「図書室の手伝いで一緒になって、それから……って、リョウ、本当にどうしたの。そんなの、今さら確認することじゃないよ」
去年の秋。図書室。リョウの中で、別の記憶が軋んだ。そこはアスカとの記憶だったはずだ。図書室の整理で、古い本を落として、アスカが笑って、そこから少しずつ話すようになった。そうだった。そうだったはずだ。だが、ナギサの言葉を聞いた瞬間、別の映像が頭の奥へ差し込まれる。脚立の下でナギサが本を受け取り、眼鏡をずらして「先輩、意外と不器用ですね」と笑う。いや、違う。彼女はそのときまだ後輩で、恋人ではなく、事件を調べるために声をかけてきた。違う。だが、どちらの記憶にも手触りがある。リョウは机の端を掴んだ。
「リョウ」
ナギサが呼ぶ。声が震えていた。
「怖いよ。何があったの」
その声に、リョウは何かを言わなければと思った。ナギサを傷つけたくない。だが、嘘もつけない。目の前の彼女を見ていると、世界が少し鮮明になる。教室の輪郭がはっきりする。さっきまで遠のいていた生徒たちの声が戻ってくる。佐伯の表情、黒板の文字、窓から入る光。すべてが、ナギサの近くにいると現実の形を強くする。逆に、彼女から目をそらすと、教室の端が少しぼやける気がした。気のせいかもしれない。だが、今のリョウには、気のせいという言葉ほど信用できないものはなかった。
「椎名アスカ」
リョウは言った。
その瞬間、教室中の空気が止まった。
誰かの箸が弁当箱の上で止まる。佐伯の口元から笑みが消える。窓際で話していた女子生徒たちが振り返る。担任が置き忘れていたプリントの束が、窓から入った風でめくれる音だけがした。時間が止まったわけではない。だが、教室全体がその名前の形を測りかねて、一瞬だけ呼吸を忘れたようだった。
ナギサの手が、机の端を掴む。
「しいな、あすか?」
彼女はゆっくり繰り返した。
知らない言葉を口にするように。
「誰?」
佐伯も眉をひそめた。
「春日、その名前、朝も言ってたよな。誰なんだよ」
別の生徒が言った。
「うちのクラスの人?」
「聞いたことない」
「転校生?」
「そんな子いたっけ?」
ざわめきが戻ってくる。止まっていた空気が、今度は不安を含んで動き出す。誰もその名前を知らない。けれど、完全に無反応でもない。名前を聞いた瞬間、一瞬だけ世界は止まった。リョウにはそれが分かった。椎名アスカという名は、完全に消えているわけではない。世界の奥で、何かに触れた。その触れた感触を、誰も認識できないまま、気まずさや困惑として処理している。
「僕の恋人だ」
リョウは言った。
ナギサの顔が白くなった。
教室がざわめく。佐伯が「おい、春日」と立ち上がる。誰かが笑おうとして、笑えなかった。ナギサはリョウを見た。傷ついた顔だった。怒りより先に、理解できない痛みが浮かんでいる。
「……リョウの恋人は、あたしでしょ?」
その言葉は、責めるためではなく、確認するためのものだった。世界が当然として用意した答えを、ナギサ自身が不安になって確かめている声だった。
リョウは答えられなかった。
答えれば、何かが壊れる。ナギサの中の自然な記憶か。アスカの名前か。リョウ自身の輪郭か。どれが壊れるのか分からない。けれど、壊れ始めていることだけは分かった。
教室の窓硝子に、二人の姿が映っている。リョウとナギサ。恋人同士として並ぶ二人。その背後に、ほんの一瞬だけ、もう一つの影が立ったように見えた。長い髪。俯いた横顔。リョウが瞬きをすると、影は消えていた。
「椎名アスカ」
リョウはもう一度、小さく言った。
今度は、誰も止まらなかった。世界はその名前を知らないものとして受け流し始めていた。ナギサだけが、泣きそうな顔でリョウを見ている。
「リョウ」
彼女は震える声で言った。
「あたしじゃ、ないの?」
その問いは、リョウの胸を抉った。
違う、と言えば彼女を傷つける。そうだ、と言えばアスカを裏切る。黙れば、二人とも傷つける。世界は、あまりにも残酷な形で彼に現在を差し出していた。アスカのいない世界。ナギサが恋人である世界。全員がそれを当然として受け入れている世界。リョウだけが、違う朝から目覚めてしまった。
彼は拳を握った。爪が掌に食い込む。ポケットの中にあったはずの硝子片は、もうない。アスカの写真も、連絡先も、履歴もない。残っているのは名前だけだった。胸の奥に刺さった、消えない欠片のような名前だけだった。
椎名アスカ。
世界は、その名前を知らない。
けれどリョウだけは、まだその名前を忘れていなかった。




