第1章 椎名アスカはいない
椎名アスカという名前を口にしたあと、教室は一度だけ死んだように静まり返った。けれど、その静けさは長く続かなかった。世界はすぐに咳払いをするように音を取り戻した。弁当箱の蓋が閉まる音、椅子を引く音、誰かが小声で「何それ」と笑いかけて笑えなくなる息、廊下を走る一年生を教師が注意する声。何もかもが、普通の昼休みへ戻ろうとしていた。いや、戻ろうとしているのではない。世界は最初から普通のつもりで、リョウだけがその普通の中に開いた裂け目を見ている。佐伯律は机の横で困った顔をし、数人のクラスメイトは好奇心と不安の混じった目でこちらを見ていた。椎凪ナギサは、リョウの机に置いた手を引っ込められずにいる。恋人として心配している顔だった。リョウが知っている後輩の顔ではない。だが、まったく知らない顔でもない。その矛盾が、彼の呼吸を浅くした。
「リョウ」
ナギサがもう一度呼んだ。声が震えている。
「あたしじゃ、ないの?」
教室の誰かが息を呑んだ。佐伯が「椎凪ちゃん」と小さく呼びかける。ナギサはそちらを見なかった。リョウだけを見ている。責めている目ではなかった。世界の言う通り、自分はリョウの恋人であるはずなのに、その足場を当のリョウから突然外された少女の目だった。リョウはその目を直視できなかった。違う、と言えば彼女を傷つける。そうだ、と言えばアスカを消した世界に頷くことになる。黙れば、どちらの痛みも中途半端に残る。どの選択も間違っている場所へ、朝からずっと立たされている。
「ごめん」
口から出たのは、それだけだった。
「ごめん、ナギサ。でも、確認しないといけない」
「何を?」
「アスカがいたことを」
「だから、その人が誰なのか、あたしには」
「知らないなら、それでいい」
ナギサの顔が少し歪んだ。知らないならそれでいい、という言い方がどれほど冷たく聞こえたか、リョウにも分かった。だが、もう丁寧に傷つけないための言葉を探す余裕がなかった。彼は机の中から学生証と生徒手帳を取り出し、教室を出た。ナギサが後を追おうとする気配がした。佐伯が小声で何か言った。たぶん止めようとしたのだろう。それでも、ナギサの足音はついてきた。
廊下へ出た瞬間、教室の輪郭が少しぼやけた。窓枠の直線が柔らかく歪み、廊下の向こうにいる生徒たちの顔が一瞬だけ白く塗りつぶされたように見えた。リョウは瞬きをした。次の瞬間には元に戻っている。いや、元に戻ったというより、背後からナギサが近づいた瞬間に、廊下の形がはっきりした。床の傷、掲示板の押しピン、窓硝子に映る自分の顔。すべてが急に焦点を結ぶ。リョウは立ち止まりかけた。ナギサが息を切らして追いつく。
「待ってよ。いきなり一人で行かないで」
「ついてこなくていい」
「ついていく。あたし、今のリョウを一人にしたくない」
その言葉に、胸が痛んだ。一人にしたくない。どこかで聞いた。もう一人ではない。痛みを分ける。救いの言葉。けれど、ナギサの声には鏡の奥の冷たさはなかった。彼女は本当にリョウを心配している。ただ、それだけだ。だからこそ、リョウは乱暴に突き放せなかった。
「僕が言ってること、信じてないだろ」
「信じるとか信じないとかじゃなくて、心配してる」
「それは信じてないってことだ」
「違う」
「違わない。ナギサも、佐伯も、先生も、みんな僕がおかしくなったと思う。事件の後遺症だって。混乱してるって。そういうことにするんだ」
「リョウ」
「だから、証拠を探す。アスカがいた証拠を」
ナギサは何かを言いかけて、飲み込んだ。彼女の手がスカートの横で握られる。いつもの彼女なら、ここで軽口を入れたかもしれない。けれど今は、言葉を選んでいた。恋人として近い距離にいるからこそ、リョウを傷つける言葉を避けようとしている。その配慮が、リョウには苦しかった。
最初に見たのは、廊下に貼られたクラス名簿だった。文化祭の係分担と一緒に掲示されている、二年三組の名前一覧。リョウは指で上から下まで辿った。春日リョウ。佐伯律。白鳥由梨は三年なのでない。知っている名前が並んでいる。だが、椎名アスカはない。シの欄にも、アの欄にも、どこにもない。椎凪ナギサの名前は一年のはずなのに、別紙の「文化祭合同委員」の欄に自然に載っていた。二年三組補助、椎凪ナギサ。備考欄には「春日と共同」とある。何だ、それは。リョウは紙を掴みかけた。
「破かないで」
ナギサが手を添えた。
「これ、証拠になるかもしれないんでしょ」
証拠。そうだ。アスカがいない証拠だ。世界が書き換わった証拠だ。だが、そんなものがいくらあっても、アスカがいた証明にはならない。リョウはスマホで名簿を撮った。指が震えて、写真が一度ぶれた。もう一度撮る。画面の中でも、アスカの名前はない。
次に座席表を見た。黒板の端に貼られた二年三組の席順。アスカの席だったはずの場所には、別の生徒の名前がある。リョウはその名前の生徒を知っていた。記憶では、彼は本来、教室の後ろ側に座っていたはずだ。だが今は、アスカの席にいる。本人にも違和感はないのだろう。さっきその席で普通に弁当を食べていた。リョウは座席表をスマホで撮影し、昔の写真に同じ教室が写っていないか探した。文化祭、授業風景、佐伯がふざけて撮った動画の一部。どれを見ても、席は今の配置に合わせて整っている。アスカの痕跡はない。
生徒手帳を開いた。表紙裏の緊急連絡欄、学年の予定表、生徒会行事の記録、委員会活動のメモ。去年の秋、図書室の整理当番でアスカと組んだ記憶がある。そのとき、手帳の端に彼女の名前を書いたはずだった。古典の小テスト範囲を教えてもらうために、彼女の名前の横に小さく「古典」とメモした。だが、そのページには「椎凪」と書かれていた。字はリョウの字だった。間違いなく自分の筆跡だ。横には「図書室、古典、放課後」とある。ナギサの名前は、一年生のはずなのに、去年の秋の手帳へ自然に入り込んでいた。
「これ、僕の字じゃない」
リョウは言った。
ナギサは手帳を覗き込んだ。
「リョウの字に見えるけど」
「見えるだけだ」
「でも」
「僕は、ここにアスカの名前を書いた」
ナギサは黙った。否定したいのに、否定すればリョウを追い詰めると分かっている顔だった。彼女はそっと言った。
「その、アスカって人は、リョウにとって大事な人だったの?」
リョウは息を止めた。
「大事だった、じゃない」
「……うん」
「大事なんだ」
ナギサは目を伏せた。恋人として聞けば残酷な言葉だった。だが、彼女は逃げずに頷いた。
「そっか」
声が小さかった。
「なら、探そう」
リョウはナギサを見た。
「何で」
「何でって」
「君はアスカを知らない。僕がおかしくなったと思ってもいい。むしろ、その方が自然だ」
「そうかもしれないけど」
「恋人だと思ってる相手が、別の女の名前を必死に探してるんだぞ」
ナギサの顔が、はっきり痛みに歪んだ。リョウは言ってから後悔した。だが、彼女は泣かなかった。怒りもしなかった。代わりに、少しだけ唇を噛んで、笑おうとして失敗した。
「それでも、今のリョウは放っておけないよ」
「どうして」
「好きだから」
あまりにまっすぐな言葉だった。リョウは何も言えなくなった。ナギサは言ったあとで自分も少し赤くなり、それを隠すように視線を逸らした。
「この状況で言うと、すごく負けヒロインっぽいけど。でも、あたしにとっては本当だから。リョウが苦しそうなら、知らない名前でも一緒に探す。信じきれなくても、探すところまでは一緒にできるでしょ」
リョウは胸の奥が揺れるのを感じた。彼女の言葉は優しい。暖かい。今の世界で、彼をつなぎ止めようとする手だった。だが、その手を取ることが、アスカから離れることになるのではないかという恐怖があった。ナギサはその恐怖に気づいていない。気づいていないまま、リョウを救おうとしている。だから危うい。
「ありがとう」
リョウは言った。
「でも、近すぎると、僕は君に縋るかもしれない」
ナギサは瞬きした。
「縋ればいいじゃん」
「駄目なんだ」
「何で?」
「たぶん、君が壊れる」
ナギサの顔から血の気が引いた。自分でも何を言っているのか分からなかった。けれど、その言葉だけは確信に近かった。ナギサに近づくと世界が鮮明になる。ナギサから離れると輪郭がぼやける。なら、彼女は今の世界でリョウを固定する何かになっている。リョウが彼女に縋れば縋るほど、彼女の世界に負荷がかかる。そんな理屈を、まだ言葉にはできない。けれど体が知っていた。
「ごめん。今のは」
「ううん」
ナギサは首を振った。
「怖いこと言われたけど、たぶんリョウが一番怖がってる顔してるから、怒れない」
彼女はそう言って、少し距離を取った。手を伸ばせば届くが、触れない距離。恋人としては遠く、後輩としては近い距離だった。リョウはその距離に、ほんの少しだけ息ができた。
昼休みの残り時間で、リョウは学園内の記録を片端から確認した。まず図書室へ行った。去年の図書委員補助記録、貸出カード、文化祭資料整理の参加者名簿。椎名アスカの名前はない。代わりに、リョウとナギサの名前が並んでいる。図書室の司書は、二人を見ると微笑んだ。
「相変わらず仲がいいわね」
その言葉に、ナギサが困ったように笑い、リョウは返事ができなかった。
「先生」
リョウは司書に尋ねた。
「椎名アスカという生徒を知りませんか」
「椎名?」
司書は少し考えた。
「ごめんなさい、覚えがないわ。何年生?」
「二年三組です」
「二年三組なら、貸出記録でだいたい名前を見るけれど……」
司書は端末で検索してくれた。椎名。該当なし。アスカ。該当なし。リョウは画面を見ていた。ない、という結果が出るたび、胸の奥の名前が現実から一歩ずつ切り離されていく。
次に進路資料室へ行った。卒業アルバム用の予定資料が保管されている。まだ正式なアルバムではない。クラスごとの写真整理、氏名表、部活動・委員会の暫定リスト。そこにも、椎名アスカはいなかった。二年三組のページには、リョウとナギサが文化祭の写真で並んで写っている。ナギサは一年生なのに、合同企画の中心メンバーとして自然に載っている。リョウの記憶では、そこにアスカがいた。いや、アスカとナギサが同時にいた場面もあったはずだ。事件を追う前、後。記憶が混線する。どの写真にも、アスカの立つべき隙間はなかった。
リョウは紙の資料をめくりながら、吐き気をこらえた。ナギサは少し後ろで黙っている。ときどき何かを言いかけて、やめる。その沈黙が、彼女なりの支えだった。信じると言い切るには材料がない。否定するにはリョウが苦しすぎる。だから、黙って横にいる。その態度が、リョウにはありがたく、同時に苦しかった。
職員室へ行ったのは、五時間目が始まる直前だった。担任は最初、リョウを見て驚き、次にナギサを見て、少し表情を和らげた。
「春日、椎凪。どうした」
「確認したいことがあります」
「授業が始まるぞ」
「椎名アスカという生徒の出席記録を見せてください」
職員室の空気が、ほんの少しだけ変わった。昨日の教室でアスカの名前を口にしたときと同じ、一瞬の停止。担任の手が出席簿の上で止まる。隣の教師がこちらを見る。けれど次の瞬間、担任は困った顔になった。
「春日。その名前は、今朝も言っていたな」
「知ってますか」
「知らない」
「本当に?」
「少なくとも、私の受け持ちにはいない」
「去年は?」
「去年の記録も確認しよう」
担任は端末を操作した。二年三組、今年度在籍者。椎名アスカなし。昨年度一年クラス在籍者。なし。転入転出記録。なし。欠席・長期欠席記録。なし。保健室相談記録。水鏡紫影の休職に伴い一部閉鎖中、と表示されるだけで、椎名の名は出ない。リョウは画面から目を離せなかった。学園の公式記録は、アスカの不在を完璧に証明していた。
「春日」
担任の声が少し柔らかくなった。
「最近、いろいろあった。旧校舎の件で、君もかなり疲れている。今日は早退してもいい。椎凪、保健室……は今使いづらいな。相談室へ連れて行ってくれるか」
「待ってください」
リョウは言った。
「僕が疲れてるとか、混乱してるとか、そういう話じゃない。アスカがいたんです。椎名アスカが。うちのクラスに。僕の隣に。先生も出席を取ってた。名前を呼んでた」
「春日」
「呼んでたんだよ!」
職員室に声が響いた。教師たちが一斉にこちらを見る。ナギサがリョウの袖を掴んだ。今度は恋人としてではなく、暴走しそうな人間を止める手だった。
「リョウ、少し落ち着こう」
「落ち着けるわけないだろ!」
ナギサの手がびくりとした。リョウはすぐに後悔した。だが、もう止まらなかった。
「全部消えてるんだ。写真も、連絡先も、名簿も、座席表も、出席記録も。先生たちの記憶からも。そんなの、おかしいだろ。どうして誰も変だと思わないんだよ」
担任は立ち上がり、ゆっくり近づいてきた。怒鳴らなかった。リョウの肩に手を置こうとして、リョウが身を引くと、手を止めた。
「君が感じていることを、否定したいわけじゃない」
「否定してるじゃないですか」
「私は、その椎名アスカという生徒を知らない。記録にもいない。だから、今ここで『いた』とは言えない。でも、君が苦しんでいることは分かる」
「分かるって言うな」
水鏡の声が重なる。一人で抱えなくていいの。分かるわ。苦しかったのね。優しい言葉で、世界は人を別の場所へ運んでいく。リョウはその温度を知ってしまっていた。
「分からないなら、分からないって言ってください」
担任は黙った。ナギサが小さく言った。
「リョウ、行こう」
「まだ」
「今は、これ以上ここにいると駄目」
ナギサの声は震えていたが、必死だった。リョウは職員室中の視線に気づいた。心配、困惑、警戒、憐れみ。誰も悪意を向けていない。だからこそ苦しい。彼は異常者として扱われているのではない。傷ついた生徒として扱われている。事件の後遺症で、存在しない恋人を探しているかわいそうな生徒として。
ナギサに腕を引かれ、リョウは職員室を出た。廊下へ出ると、足元が少し揺れた。ナギサが近くにいる。だから廊下の輪郭ははっきりしている。けれど、自分自身の輪郭がぼやけている。自分の記憶だけが世界と噛み合っていない。
「ごめん」
ナギサが言った。
「何で君が謝るんだ」
「あたし、何もできない」
「ナギサは、アスカを知らないんだから」
「うん。知らない。でも、リョウがそんな顔でその名前を呼ぶのを見ると、胸が痛い」
リョウは何も言えなかった。
「正直に言うとね」
ナギサは廊下の窓際で立ち止まった。外は午後の光で白く、校庭では体育の授業が行われている。日常の音が遠い。
「あたし、怖い。リョウが、あたしの知らない誰かを見てるのが怖い。あたしのことを見てるのに、目の奥で別の人を探してるみたいで、怖い」
「ごめん」
「でも、それよりもっと怖いのは、リョウが本当に一人でその人を覚えてるのかもしれないってこと」
リョウはナギサを見た。
「あたしには分からない。アスカって人のこと、何も思い出せない。名前を聞いても、顔も声も浮かばない。だけど、リョウが嘘をついてるようにも見えない。だから怖い。もしリョウの言う通りなら、あたしはその人の場所にいるのかもしれない」
ナギサの声が小さくなった。
「あたし、誰かの代わりなの?」
その問いは、リョウの胸に深く刺さった。答えを持っているはずだった。違う。君は君だ。そう言うべきだった。実際、ナギサはナギサだ。彼女はアスカの偽物ではない。世界に恋人として配置されたとしても、彼女自身の心は本物だ。けれど、今この瞬間にその言葉を言うと、まるでアスカの場所を認めるようで、リョウは口を開けなかった。
ナギサはその沈黙だけで十分だったのか、薄く笑った。
「答えにくいよね。ごめん。困らせた」
「ナギサ」
「いい。今はアスカさんを探そう。リョウが壊れないためにも。あたしが、自分が何なのか分からなくならないためにも」
彼女はそう言って、少しだけ距離を取った。リョウはその距離に、また救われ、同時に傷ついた。
放課後まで、リョウは授業をほとんど聞けなかった。ノートの端に椎名アスカの名前を書き続けた。教師の声は遠く、黒板の文字は意味を持たない線に見えた。ふと顔を上げると、教室の端がぼやけている。生徒たちの顔が薄い膜の向こうにある。だが、ナギサが廊下の窓からこちらを覗き込むと、輪郭が戻る。彼女は授業中だというのに、何か理由をつけて二年の教室の近くまで来たらしい。目が合うと、心配そうに小さく手を振った。リョウは返せなかった。
放課後、教室に残ったリョウは、自分のノートを一ページずつめくった。そこにアスカの痕跡がないかを探す。授業中に書いた「椎名アスカ」は残っている。だが、以前から残っていたはずの落書きやメモはない。古典の範囲。図書室の本の題名。中庭で話した日の走り書き。何もない。ノートの紙は、最初から清潔すぎた。彼は机に突っ伏したくなるのをこらえ、ページの端まで丁寧に見た。
そこで、手が止まった。
古典のノートの端。ページ番号の下、罫線の外側に、消しゴムで強く擦ったような跡があった。普通に見ると、ただの汚れにしか見えない。紙の表面が少し毛羽立ち、鉛筆の粉が薄く広がっている。だが、その形に覚えがあった。リョウは息を止め、ノートを窓の方へ持っていった。夕方の光に透かす。紙の繊維の奥に、消しきれなかった筆圧が浮かんだ。
アスカ。
たった三文字。
苗字はない。椎名、はない。ただ、アスカ。リョウの字ではなかった。いや、リョウの字に似ている。だが、少し違う。丸みのある、右へわずかに傾く線。アスカ自身の字にも似ていた。誰が書いたのか分からない。いつ書かれたのかも分からない。世界は文字を消した。だが、筆圧までは完全に消しきれなかったのか。あるいは、紙の奥に残った記憶だけが、かろうじて修正から外れたのか。
リョウの指が震えた。
「……あった」
声が掠れた。
「残ってた」
ナギサが教室の入口に立っていた。いつからいたのか分からない。彼女はリョウの声を聞き、ゆっくり近づいてきた。
「何が?」
リョウはノートを差し出した。
「ここ。光に透かして」
ナギサは言われた通り、ノートを夕方の光へかざした。彼女の表情が変わる。完全に読めたわけではないのだろう。だが、何かがそこにあることは分かったらしい。眉が寄り、唇が少し震えた。
「……文字?」
「読めるか」
「うっすら。ア、ス……カ?」
その瞬間、リョウの胸の奥で、何かが熱くなった。ナギサが読んだ。知らないはずの名前を、消し跡から読んだ。それはアスカを思い出したという意味ではない。けれど、世界の表面に初めて傷がついた。完全に消されたはずの名前が、紙の裏から光に透けて浮かび上がった。
「アスカ」
リョウは言った。
ナギサはノートを見つめたまま、小さく繰り返した。
「アスカ……」
教室の窓硝子が、かすかに震えた。
二人は同時にそちらを見た。夕方の校庭が映っているだけだった。だが、硝子の端に、ほんの一瞬だけ、長い髪の少女の影が立ったように見えた。次の瞬間には消えていた。ナギサが息を呑む。
「今の」
「見えたのか」
「分かんない。見えた、気がしただけ」
リョウはノートを握りしめた。消し跡のような三文字。アスカ。それだけが、今この世界で初めて手に入れた反証だった。写真も、記録も、教師の記憶も、すべて世界の側に奪われた。それでも、紙の奥に残った筆圧だけが、リョウの記憶を完全な妄想にはしなかった。
ナギサはノートを見つめ、震える声で言った。
「リョウ。その人、本当にいたのかもしれないね」
その言葉は、まだ信じるというほど強くはなかった。けれど、否定ではなかった。
リョウは頷いた。
「いた」
今度は、声が震えなかった。
「椎名アスカは、いた」
夕方の教室に、二人の影が長く伸びる。窓硝子にはリョウとナギサが映っている。その間のわずかな隙間に、消し跡のような薄い影が、ほんの一瞬だけ重なっていた。




