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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第2部_ミラー
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第2章 恋人になった後輩

 ノートの端に残っていた「アスカ」という三文字は、夕方の光が消えるとただの汚れに戻った。教室の窓から差し込む橙色の光が弱まり、校庭の影が伸び、黒板の文字が灰色に沈んでいくにつれて、紙の奥に浮かんでいた筆圧も薄くなる。リョウは何度も角度を変えた。蛍光灯の下に持っていき、窓に透かし、スマホのライトを背面から当てた。だが、夕方の一瞬に見えたほどはっきりとは読めない。ア、ス、カ。そう読めたはずなのに、今はただ、誰かが強く何かを消した跡にしか見えなかった。世界はまた、隠そうとしている。そう思った。完全には消せなかった痕跡を、光の条件ひとつで見えなくする。記録を消し、写真を直し、記憶を置き換え、それでも残った微かな傷だけを、気のせいと呼べる程度まで薄めていく。


 椎凪ナギサは、隣の席に座っていた。本来なら一年生の教室に戻っている時間だった。けれど彼女は、帰ろうとしなかった。机に肘をつき、リョウのノートを見つめ、時々眼鏡を押し上げる。口数は少ない。いつもの彼女なら、沈黙が重くなりすぎないように何か言っただろう。変な推理ドラマみたいですね、とか、紙も空気読みすぎですよ、とか。だが今は、そういう軽さを選べないでいる。恋人として心配し、しかし恋人だからこそ傷つき、さらに自分が誰かの代わりかもしれないという恐怖まで背負ってしまった少女が、リョウの隣で黙っている。


「もう一回、窓に透かしてみる?」


 ナギサが小さく言った。


「外、暗くなってきたから、さっきみたいには見えない」


「じゃあ、明日の朝なら見えるかも」


「そうかもしれない」


「写真、撮った?」


「撮った」


 リョウはスマホを開いた。ノートの消し跡を撮影した画像が、写真フォルダに残っている。そこには薄い影のようなものが写っていた。人に見せれば、紙の傷だと言われるだろう。アスカと読めるのは、読みたい人間だけだと言われるだろう。だが、リョウにはそれが必要だった。世界に対してではない。自分に対する証拠として。明日になって、自分の記憶が少しでも揺らいだとき、これを見て思い出すために。


 写真フォルダを閉じようとして、指が止まった。


 画面には、ナギサとの写真が並んでいた。昨日まではなかったはずの写真。だが、今のスマホはそれを当然のように保存している。駅前の自販機で飲み物を差し出すナギサ。図書室で本を抱えて笑うナギサ。文化祭準備で、頬にペンの跡をつけたナギサ。リョウの隣に立つナギサ。どれも、リョウが覚えている構図に似ていた。アスカがいたはずの場所に、ナギサがいる。けれど、よく見ると完全な置き換えではない。ナギサはナギサとして笑っている。アスカの表情を真似ているわけではない。彼女の癖、彼女の明るさ、彼女の少し大げさな身振りが写真の中にある。そのことが、リョウをさらに混乱させた。偽物なら拒める。だが、そこに写っているナギサは本物だった。この世界で積み重ねられた、本物の時間の顔をしていた。


「見せて」


 ナギサが言った。


 リョウは一瞬ためらった。だが、隠す方が残酷だと思い、スマホを渡した。ナギサは画面をスクロールする。自分の写真を見て、少しだけ表情を緩め、すぐにまた曇らせた。


「これ、映画の帰りだ」


 彼女は一枚の写真で指を止めた。夜の駅前。映画館の看板が背景にあり、リョウとナギサが並んで写っている。ナギサはポップコーンの空箱を持ち、リョウは少し困った顔をしている。画面の端には、映画の半券が写り込んでいた。タイトルは、聞き覚えがある。けれど、リョウにはその映画をナギサと見に行った記憶がなかった。いや、ないはずだった。


 頭の奥で、別の記憶が小さく揺れた。


 暗い映画館。隣でナギサが途中から泣いている。本人は笑える映画だと思っていたらしく、終わったあとに「予告詐欺ですよ」と文句を言う。リョウがハンカチを渡し、ナギサが「彼氏っぽいですね」と照れ隠しに言う。帰り道、駅前で写真を撮る。そんな記憶が、手触りつきで存在していた。だが、それを自分のものだとは思えない。誰かがよくできた短編映像を頭の中へ差し込んできたようだった。感情の温度だけが薄い。出来事は分かるのに、自分がそこにいた感じがしない。


「覚えてない?」


 ナギサが聞いた。


 リョウは答えに詰まった。


「映像みたいには、浮かぶ」


「映像?」


「でも、僕の記憶じゃない」


 ナギサは写真を見つめた。彼女の指が、画面の中の自分の顔をそっとなぞる。


「あたしには、ちゃんとあるよ。この日の記憶」


「どんな?」


「リョウ、ホラー映画じゃないって言ったのに、終盤ほぼホラーで、あたしがずっとリョウの袖掴んでて。エンドロールでやっと離したら、リョウの制服の袖がしわしわになってた」


 ナギサは少しだけ笑った。


「帰りに、お詫びって言って自販機であったかいココア買ってくれた。あたし、缶が熱すぎて落としそうになって、リョウがまた持ってくれて。何か、そういうどうでもいいことまで覚えてる」


「……僕も、今聞いたら思い出せる」


「じゃあ」


「でも、それは、君に言われたから出てきた記憶だ。僕の中から自然に出てきたものじゃない」


 ナギサの笑みが消えた。教室の蛍光灯が、わずかに唸る。窓の外はもう青く暗く、ガラスには二人の姿が映っている。リョウとナギサ。恋人同士として、放課後の教室に残っている二人。写真の中と同じ構図。世界は何度も同じ答えを見せてくる。ほら、これが正しい。ほら、これがあなたたちの日常だ。そう言われているようだった。


「じゃあ、あたしだけが覚えてるってこと?」


 ナギサの声が小さくなった。


「この世界では、たぶん」


「この世界って言い方、怖い」


「ごめん」


「ううん。怖いけど、たぶんそういうことなんだよね」


 ナギサはスマホを返した。彼女の指先は冷たかった。リョウは受け取ったスマホを握りしめる。画面に映るナギサとの写真。そこに嘘はないのかもしれない。少なくとも、この世界のナギサにとっては、本物の思い出だ。だが、それはアスカが消えた穴を埋めるように差し込まれている。なら、それを本物と呼べるのか。呼んでしまっていいのか。


 翌日から、リョウは周囲の記憶を確かめ始めた。表向きには、体調不良の延長ということになった。担任は無理をするなと言い、佐伯は「彼女を困らせるなよ」と半分冗談、半分本気で肩を叩いた。クラスメイトたちは、リョウとナギサの関係について当然のように話す。いつから付き合っているのか。どこへ行ったのか。二人で帰るのか。ナギサが一年の教室からわざわざ来ると、「お迎え来たぞ」と誰かがからかう。リョウはそのたびに顔を強張らせた。ナギサはその場では笑って流す。けれど、笑ったあと、ほんの一瞬だけリョウの反応を確認する。その一瞬が痛かった。


 佐伯は、一番遠慮がなかった。


「お前ら、昨日も一緒に帰ったんだろ?」


「帰ってない」


 リョウが答えると、佐伯はパンを咥えたまま眉を上げた。


「いや、帰ってただろ。駅前で見たぞ。椎凪ちゃんがコンビニ寄りたいって言って、お前が荷物持たされてた」


 その言葉に、頭の中でまた知らない記憶が揺れた。夜のコンビニ。ナギサが新作のプリンを見つけて、目を輝かせている。リョウが「夕飯前だろ」と言う。ナギサが「デザートは別腹じゃなくて別次元です」と言う。レジ袋をリョウが持つ。帰り道、ナギサが自分の家の近くで立ち止まり、また明日、と言う。あり得ない。知らない。けれど、細部がある。佐伯が見たというなら、この世界では本当にあったのだろう。


「リョウ?」


 ナギサが横から声をかける。彼女は今日も昼休みに二年の教室へ来ていた。弁当箱を二つ持っている。そのうち片方をリョウの机に置いた。


「お弁当、食べてないでしょ。購買行く気もなかったでしょ。だから持ってきた」


「これ、君が作ったのか」


「うん。昨日の夜、約束したじゃん」


「してない」


 言った瞬間、ナギサの表情が少しだけ曇った。佐伯が空気を読まずに笑う。


「また記憶喪失ネタかよ。椎凪ちゃんかわいそうだろ。彼女の手作り弁当忘れるとか、死刑だぞ」


「佐伯、やめて」


 ナギサが珍しく強い声で言った。佐伯は驚いて口を閉じる。ナギサはすぐに「ごめんなさい」と小さく付け足したが、笑わなかった。


「リョウ、食べられそう?」


 弁当箱の蓋を開けると、卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、少し不器用な形のおにぎりが並んでいた。リョウの好みに合っている。いや、合いすぎている。卵焼きは甘め。唐揚げにはレモンをかけていない。ブロッコリーの下にはマヨネーズが少しだけ入っている。リョウが普段、何を食べるかを知っている人間の弁当だった。


「どうして」


「どうして?」


「僕の好みを知ってる」


 ナギサは困ったように笑った。


「付き合ってるから、じゃ駄目?」


 その言葉に、周囲の女子たちが小さく反応した。かわいい、という声。いいな、という声。佐伯が大げさに肩をすくめる。普通なら、少し照れて済む場面だ。恋人同士の日常。手作り弁当。周囲のからかい。だが、リョウにとっては世界改変の証拠が弁当箱に詰められているようなものだった。


 それでも、箸を取った。ナギサが見ている。食べなければ、彼女を傷つける。食べれば、この世界の恋人としての自分をなぞることになる。どちらを選んでも痛い。リョウは卵焼きを口に入れた。甘い。美味しい。記憶にない味なのに、懐かしいと感じそうになる。脳のどこかが、この味を知っていると言い始める。ナギサが初めて弁当を作ってきた日、卵焼きが焦げていた。二度目には少し上手くなって、三度目には甘さがリョウ好みになった。そんな記憶が、食感と一緒に立ち上がる。


「おいしい?」


 ナギサが聞いた。


「……おいしい」


 それは本当だった。


 ナギサは少しだけ安心した顔をした。リョウはその顔を見て、胸の奥が痛んだ。自分は今、何をしているのか。アスカの名前を忘れないと誓った翌日に、ナギサの作った弁当を食べて、彼女を安心させている。これは裏切りなのか。いや、ナギサは悪くない。彼女を傷つけないことと、アスカを忘れないことは両立するはずだ。そう思いたい。だが、世界はそれを簡単には許さない。ナギサを受け入れるたび、アスカのいた場所が少しずつ現在に塗り替えられる気がする。


 放課後、ナギサはリョウを校門まで引っ張った。


「今日は一緒に帰る」


「僕はまだ調べることが」


「調べる前に、帰る。ずっと学校にいたら、また変な顔になる。あと、あたしもちゃんと話したい」


 彼女の声はいつもより硬かった。リョウは抵抗しようとしたが、昼間から続く疲労で足元が不安定だった。ナギサが隣に立つと、世界は鮮明になる。校門の鉄柵、外の道路、夕方の車の音、校舎の窓に映る空の色。彼女から半歩離れると、それらが少しぼやける。目の疲れだと言い聞かせるには、あまりにも規則的だった。


 通学路を歩く。ナギサはリョウの少し横を歩いていた。恋人の距離。手をつなぐには近く、肩が触れない程度には遠い。彼女は何度かリョウの手を見た。つなぎたいのだろう。だが、昨日リョウが身を引いたことを覚えていて、ためらっている。そのためらいが、今の世界の記憶ではなく、彼女自身の傷だということが分かる。リョウはそれを見て、自分が何度も彼女を傷つけていることを思い知った。


「リョウの家、今日行っていい?」


 ナギサが言った。


 リョウは立ち止まった。


「何で、僕の家を知ってるんだ」


「何でって」


 ナギサも足を止める。


「何回も行ってるから」


「いつ」


「去年の冬。リョウが風邪ひいたとき、プリント届けた。春休みに、映画のDVD見た。夏前に、課題やるって言って、結局ほとんど寝てた」


「僕の部屋に?」


「うん」


 ナギサは少しだけ頬を赤くした。


「何、その反応。あたしが勝手に押しかけたみたいじゃん。ちゃんと呼ばれて行ったよ」


 知らない。リョウは何も知らない。だが、頭の奥では知らない部屋の記憶が動き出す。いや、自分の部屋だ。そこにナギサがいる。床に座って教科書を広げ、途中で眠くなって、机に突っ伏している。リョウが毛布をかけると、ナギサが薄目を開けて「彼氏力高い」と呟く。そんな記憶。誰かが丁寧に作った、ナギサとの日常。触れれば触れるほど、本物のような重みを持ってくる。


「ごめん」


 ナギサが言った。


「今のも、覚えてないんだよね」


「……少し、浮かぶ」


「でも、自分の記憶じゃない?」


「うん」


 ナギサは俯いた。夕方の風が彼女の髪を揺らす。彼女は明るい。いつも明るく振る舞う。だが、その明るさの下にある脆さを、リョウは知っている。知っているのは、前の世界の記憶なのか、この世界で恋人として積み重ねた記憶なのか、もう分からない。どちらにせよ、目の前のナギサが傷ついていることだけは確かだった。


「ねえ、リョウ」


 ナギサは顔を上げた。


「あたしのこと、好きだよね?」


 世界が、そこで止まった。


 車の音が遠のく。通学路の電柱が少しだけ歪む。夕方の空の色が、紙に水を落としたように滲む。リョウはナギサの目を見た。彼女は笑っていなかった。冗談でも、恋人同士の軽い確認でもない。彼女は本気で聞いていた。この世界の記憶を信じたい。リョウが自分を好きだった時間を、否定されたくない。自分が誰かの代わりではないと、リョウの口から聞きたい。その願いが、彼女の目にあった。


 リョウは答えられなかった。


 好きだと言えば、世界に従うことになる気がした。言えないと言えば、ナギサを否定することになる。彼女の記憶も、彼女がリョウを好きだと思ってきた時間も、すべて嘘だと言うことになる。黙っているのが一番卑怯だと分かっていた。だが、声が出なかった。


 その瞬間、世界の輪郭がぼやけた。


 ナギサの顔以外が、先に溶けた。背後の住宅街が灰色の面になり、電線が黒い線から曖昧な影へ変わり、通り過ぎる生徒たちの顔が白く抜ける。風の音が遠い。地面の感触が薄い。リョウは足元を見た。アスファルトの粒が消えている。自分の影の輪郭も薄くなっている。まるで、この世界からリョウだけが焦点を外されていくようだった。


「リョウ?」


 ナギサの声が近い。彼女の顔だけははっきりしている。眼鏡の縁、睫毛、唇の震え、頬に残る薄い赤み。ナギサだけが鮮明だった。いや、ナギサがいる場所だけが鮮明だった。彼女の周囲だけ、世界が形を保っている。


「リョウ、返事して。ねえ、どうしたの」


 リョウは声を出そうとした。だが、喉が乾いている。好きだと言えない。嫌いだとも言えない。何も言えない。その沈黙のあいだに、世界のぼやけは広がっていく。街灯の輪郭が消え、道路標識の文字が読めなくなり、遠くの校舎が白い塊になる。


 ナギサが、リョウの手を握った。


 その瞬間、世界が戻った。


 音が戻る。車のエンジン。自転車のブレーキ。誰かの笑い声。夕方の風。アスファルトのざらつき。電線の細い影。校舎の窓に映る空の色。すべてが一斉に焦点を結び、リョウの体へ押し寄せた。息が肺に入る。膝が崩れそうになった。ナギサが支えるように手に力を込める。


「リョウ、大丈夫? 今、すごい顔してた」


 彼女の手は温かかった。指先は少し震えている。リョウはその手を見た。ナギサが握っている。恋人の手として。心配する相手の手として。世界の杭のように。


「ナギサ」


「うん」


「今、周りがぼやけた」


「え?」


「君が手を握ったら、戻った」


 ナギサは困惑した顔をした。けれど、すぐに手を離さなかった。むしろ、少し強く握る。


「じゃあ、離さない」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないよ。でも、今離したら、リョウがどこか行っちゃいそうで怖い」


 リョウは言葉を失った。ナギサの近くにいると、世界がはっきりする。離れると、ぼやける。彼女はこの改変後の世界で、リョウを現実につなぎ止める存在になっている。それが何を意味するのか、まだ分からない。救いなのか、檻なのか。ナギサにとって何を奪うのか。何も分からない。だが、今この瞬間、彼女の手を離せば自分が世界から滑り落ちるという感覚だけは、はっきりしていた。


「ごめん」


 リョウは言った。


 ナギサは小さく首を振った。


「そのごめんは、どっち?」


「分からない」


「そっか」


 彼女は少し笑った。泣きそうな笑顔だった。


「あたしのこと好きかって聞いた答えも、まだ分からない?」


 リョウは目を伏せた。


「今は、答えられない」


 ナギサの手が一瞬だけ震えた。けれど、離れなかった。


「分かった」


「怒らないのか」


「怒りたいよ。泣きたいし、怒鳴りたいし、何で知らない人の名前であたしがこんな気持ちにならなきゃいけないのって思ってる」


 ナギサは正直に言った。


「でも、今リョウを責めたら、リョウが本当にどこかへ行っちゃいそうだから。だから、今は怒らない。あとで怒る」


「あとで?」


「うん。ちゃんと戻ってきたら、まとめて怒る。覚悟しといて」


 その言い方は、前の世界のナギサに少し似ていた。春日先輩、と呼んでいた頃の、怖いのに冗談を言う少女に。リョウは胸が詰まった。


「ナギサ」


「なに」


「君は、君だ」


 ナギサは目を見開いた。


「アスカの代わりじゃない。たぶん、世界は君を僕の恋人として置いた。でも、君自身は代わりじゃない。君の記憶も、痛みも、僕への気持ちも、全部、君のものだ」


 ナギサの顔が崩れそうになった。彼女は必死に笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「それ、もっと早く言ってよ」


「ごめん」


「ほんと、そればっか」


 ナギサはリョウの手を握ったまま、少しだけ俯いた。夕方の通学路で、二人は立ち止まっていた。周囲の生徒たちは通り過ぎていく。誰も、世界が一瞬ぼやけたことに気づいていない。誰も、リョウが今この世界から落ちかけたことを知らない。ナギサの手だけが、それを止めた。


「リョウ」


「うん」


「あたし、怖いけど、一緒に探す。アスカさんのこと。でも、ひとつだけ約束して」


「何」


「見失いそうになったら、あたしの名前も呼んで」


 リョウはナギサを見た。


「あたしがリョウを呼ぶみたいに、リョウもあたしを呼んで。アスカさんの名前だけじゃなくて、あたしの名前も。じゃないと、あたしまで自分が何なのか分からなくなる」


 その言葉は、ナギサの恐怖そのものだった。彼女は自分が代わりかもしれないと怯えている。恋人としての記憶を持ちながら、それが誰かの空白を埋めるために作られたものかもしれないと気づき始めている。だから、自分の名前を呼んでほしいのだ。椎凪ナギサとして。世界が配置した恋人ではなく、一人の少女として。


 リョウは手を握り返した。


「椎凪ナギサ」


 呼ぶと、彼女は小さく息を吸った。


「……はい」


「僕は、君を忘れない。アスカのことも忘れない。どちらかを消して、どちらかを選んだことにはしない」


「難しいこと言ってる」


「分かってる」


「でも、今はそれでいい」


 ナギサはそう言って、リョウの手を離さなかった。


 その手の温かさの中で、世界は鮮明だった。空の青黒さ。電柱の影。遠くの踏切音。ナギサの呼吸。すべてがはっきりしている。リョウはようやく気づいた。ナギサは、この世界に彼を留める杭だ。彼女の近くにいると、世界は見える。彼女から離れると、世界はぼやける。けれど、その杭にしがみつけばつくほど、彼女の手にどれだけの重さがかかるのか、まだ分からない。


 リョウは、握られた手を見た。


 救いに見えるものが、いつも安全とは限らない。


 それを、彼はもう知っていた。

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