第3章 ぼやける世界
椎凪ナギサの手は、夕方の通学路でリョウをこの世界へつなぎ止めた。握られた瞬間、滲んでいた住宅街の輪郭が戻り、電線は黒い線として空へ張り直され、アスファルトの粒は足裏にざらつきを返し、通り過ぎる生徒たちは顔を持つ人間へ戻った。あの感覚を、リョウは忘れられなかった。救われた、と思った。だが、そのすぐあとに怖くなった。救いに見えるものが安全とは限らない。ミラーの言葉も、ダブルBの円卓も、水鏡紫影の白い保健室も、最初は救いの形をしていた。だからナギサの手の温かさまで疑わなければならないことが、リョウにはたまらなく苦しかった。彼女は何も知らずに、リョウを助けようとしている。前の世界を知らない。アスカを知らない。自分がどれほど重要な位置に置かれているかも知らない。それなのに、リョウが縋れば縋るほど、彼女の手に重みがかかる。マナがいつか言った声が、まだ聞こえる。ナギサを生きる理由にしてはいけない。あなたが彼女にしがみつくほど、彼女の世界は壊れる。まだ言われていないはずの言葉のようでもあり、もうどこかで言われた言葉のようでもあった。
翌朝、リョウはナギサに嘘をついた。今日は一人で大丈夫だから、と。昨夜の電話でそう言うと、ナギサはしばらく黙った。スマホ越しの沈黙の向こうに、彼女が言葉を選んでいる気配があった。怒りたい。止めたい。けれど、止めればリョウがさらに遠くへ行ってしまうかもしれない。そんな迷いが、息遣いだけで伝わってくる。
『本当に?』
「本当に」
『顔見てないから信じにくい』
「顔を見たら、余計に止めるだろ」
『止めるよ。だって、リョウ、自分が今どれだけ危ない顔してるか分かってないし』
「分かってる」
『分かってる人は、そういう声で“大丈夫”って言わない』
ナギサの声は少し怒っていた。怒りの奥に不安がある。恋人としての不安なのか、リョウをこの世界につなぎ止める者としての不安なのか、彼女自身にも分からないのだろう。リョウはスマホを握りしめ、窓の外の暗い夜を見た。
「ナギサ。今日は、君から少し離れて試したい」
『試す?』
「君の近くにいると、世界がはっきりする。手を握ったら、完全に戻った。だったら、離れたときに何が起きるのか、確かめないといけない」
『それ、自分の体で実験するってことだよね』
「そうなる」
『馬鹿なの?』
「たぶん」
『そこは否定してよ』
ナギサは小さく息を吐いた。怒っているのに、リョウを笑わせようとしている。それが分かるから、リョウは胸が痛んだ。
『分かった。止めても行くんでしょ』
「ごめん」
『謝るくらいなら、ちゃんと戻ってきて。あと、電話は絶対出て。出なかったら、あたし走って探しに行くから』
「分かった」
『分かったじゃなくて、約束』
「約束する」
『それと、名前』
「椎凪ナギサ」
『うん。リョウが見失いそうになったら、あたしを呼んで。あたしも呼ぶから』
電話を切ったあと、リョウはしばらくスマホを見ていた。画面に残る通話履歴。椎凪ナギサ。恋人として保存された名前。前の世界では、こんな位置に彼女はいなかった。だが今、彼女はリョウを現実につなぎ止める唯一の杭になっている。アスカを探すために、ナギサから離れなければならない。けれど離れれば、自分が消えるかもしれない。矛盾の中でしか動けない。それが今の春日リョウの場所だった。
朝の学校は、いつもより遠く見えた。正門に近づくにつれ、生徒たちの声が増える。おはよう、課題やった、昨日のドラマ見た、部活きつい、眠い。普通の会話が飛び交う。その普通の中に、アスカの名前はない。リョウは胸の内で何度も名前を呼んだ。椎名アスカ。椎名アスカ。椎名アスカ。呼ぶたび、周囲の音が一瞬だけ遠くなる。世界がその名を聞きたくないのか、それともリョウ自身が現実から一歩外れているのかは分からない。
ナギサは昇降口にいなかった。いつもなら、今の世界の記憶では彼女が待っているはずだった。少し背伸びをして人混みの向こうから手を振り、リョウ、と当然のように呼ぶ。その光景が頭に浮かんだ。だが今日は来ないよう頼んだ。リョウは一人で靴を履き替えた。その瞬間、昇降口のざわめきが薄い膜の向こうへ遠ざかった。
最初は、寝不足のせいだと思おうとした。視界の端が少し滲む。遠くの生徒の顔が見えにくい。廊下の奥が普段より長く感じる。それくらいなら、疲労でも説明できる。だが、階段を上がるころには、もう説明できなかった。二階へ向かう階段は、いつもなら二十数段で踊り場に着く。リョウは段数を数えた。十、十五、二十、二十五。まだ踊り場に着かない。三十。三十五。階段は同じ角度で上へ続いている。足音だけが響く。下から上がってきていたはずの生徒たちの声が消えた。振り返ると、昇降口はずっと下にあった。あり得ない距離だった。
「……ふざけるな」
声を出すと、階段の壁に吸われた。反響しない。リョウは手すりを掴み、もう一度上を見た。踊り場はそこにある。近く見える。なのに歩いても近づかない。足元の段差だけが増えていく。呼吸が浅くなる。心臓が速くなる。椎名アスカ、と胸の中で呼ぶ。だが、呼んでも階段は戻らない。むしろ、視界がさらに薄くなる。
ポケットのスマホが震えた気がした。リョウはすぐに取り出した。画面は暗い。通知はない。顔認証で解除しようとして、スマホを顔の前に持ち上げる。ロック画面の小さなアイコンが揺れ、認証失敗の表示が出た。もう一度。失敗。三度目。失敗。リョウは指でパスコードを打とうとして、数字の配列が一瞬読めなくなった。0から9までの数字が、見たことのない記号のように並んでいる。目をこする。もう一度見る。今度は読める。パスコードを打つ。解除できた。画面の中の自分の顔が、通知の黒い背景に薄く映っている。輪郭が浅い。目元も、口元も、まるで写真の上から消しゴムをかけたように薄い。
「春日リョウ」
自分の名前を声に出す。すると階段の踊り場が少しだけ近づいた気がした。名前はまだ効く。完全ではないが、効く。リョウは手すりを握ったまま、一段ずつ上った。春日リョウ。椎名アスカ。椎凪ナギサ。名前を交互に呼ぶ。やがて、唐突に踊り場へ着いた。振り返ると、階段は普通の長さに戻っていた。下の廊下には生徒たちの声がある。まるで、何も起きていなかったように。
二年三組へ着くと、教室は普通だった。普通すぎた。佐伯が机に座ってパンを食べている。クラスメイトが課題を見せ合っている。黒板には朝の連絡が書かれている。だが、誰もリョウを見なかった。いつもなら佐伯が「おはよう」と声をかける。今の世界なら、ナギサとのことをからかう。だが、佐伯はリョウが教室に入っても顔を上げなかった。リョウは自分の席へ向かった。途中で女子生徒の横を通ったが、彼女は避けなかった。リョウが肩を引いて避ける。相手は気づかずに笑い続けている。
「佐伯」
声をかけた。佐伯は反応しない。
「佐伯」
二度目で、佐伯はようやく顔を上げた。だが、その視線はリョウの少し横を通り過ぎた。まるで声の位置を探しているようだった。
「……あれ?」
「ここにいる」
「お、おう。春日か。いつ入ってきた?」
「今」
「全然気づかなかった。影薄すぎだろ」
佐伯は笑おうとして、少し失敗した顔をした。何か変だと思ったのだろう。だが、その変さをすぐに冗談へ押し込めた。
「椎凪ちゃんは?」
「今日は一緒じゃない」
「あー、喧嘩中?」
「違う」
「じゃあ何だよ。お前、椎凪ちゃんいないとほんと顔死んでるな」
何気ない言葉だった。だが、リョウの胸に重く落ちた。ナギサがいないと顔が死んでいる。佐伯は冗談で言った。だが、事実に近いのかもしれない。リョウは自分の席に座り、ノートを開いた。端の消し跡に光を当てる。今日は曇りで、昨日ほどはっきり見えない。アスカの文字は、紙の繊維の中へ沈んでいた。
午前中の授業は、霧の中にいるようだった。教師の声が遠い。黒板の文字が数秒遅れて意味になる。周囲の顔は、近い席の生徒だけがどうにか判別でき、後ろの列や廊下側の生徒は輪郭が曖昧だった。名前と顔が結びつかない。誰かがリョウにプリントを回しても、手だけが現れたように見えた。受け取るとき、相手の顔を見ようとしても、焦点が合わない。目鼻があるはずの場所に、薄い白い膜がかかっている。リョウは何度も瞬きをした。戻らない。
休み時間、トイレへ行った。手洗い場の鏡の前に立つ。そこに映っている自分を見て、息が止まった。顔が薄い。消えているわけではない。目も、鼻も、口もある。制服も着ている。だが、鏡の奥の春日リョウは、背景より少し濃いだけの影のようだった。目元はぼやけ、髪の輪郭は光に溶け、口元は表情を持たない。リョウは鏡に手を伸ばした。指先が硝子へ触れる。冷たい。映った自分の指先は、ほんの一瞬遅れて動いた。
「春日リョウ」
鏡の中の口も動いた。だが、音はない。自分が声を出しているのか、鏡の中の自分が声を真似ているのか分からなくなる。リョウは急いで水を出した。自動水栓に手をかざす。反応しない。もう一度。反応しない。隣の水栓に手をかざす。やはり水は出ない。そこへ別の生徒が来て、同じ水栓に手をかざすと、すぐに水が流れた。
「あれ、春日?」
その生徒はようやくリョウに気づいたようだった。
「何してんの」
「……水が出なかった」
「センサー鈍いんじゃね?」
彼は気軽に笑い、手を洗って去っていった。リョウはもう一度手をかざした。水は出ない。センサーがリョウを認識しない。いや、水栓だけではない。廊下で人が避けない。教室で気づかれない。スマホの顔認証も失敗する。鏡の中の顔が薄い。世界が少しずつ、春日リョウを対象として扱わなくなっている。
昼休み、リョウは一人で図書室へ向かった。ナギサには連絡しなかった。彼女の声を聞けば戻れるかもしれない。だが、それでは確かめた意味がない。自分がどこまで世界から外れているのか、ナギサなしでどこまで動けるのか、知る必要があった。アスカの痕跡を探すためには、ナギサの手を握って安全な範囲だけを歩いているわけにはいかない。
図書室の自動ドアの前に立つ。扉は開かなかった。
リョウは一歩下がり、もう一度近づいた。反応なし。手を振る。反応なし。ドアの向こうでは司書がカウンターで本を整理している。生徒が一人、内側から近づくと、扉が開いた。リョウはその隙間から入ろうとしたが、ドアは彼を挟むように閉まりかけた。肩に軽い衝撃が走る。生徒が驚いて振り返った。
「え、いたの?」
またそれだ。
いたの。気づかなかった。いつ入った。影薄い。世界のあちこちで、同じ意味の言葉が増えていく。
図書室に入ると、空気はさらに遠かった。本棚の列が長く伸びている。奥の郷土資料コーナーへ向かったはずなのに、歩いても歩いても棚が続く。背表紙の文字が読めない。タイトルは黒い線の集合になり、分類ラベルは白い四角にしか見えない。リョウは棚に手をつきながら歩いた。足音が吸われる。誰もこちらを見ない。カウンターの司書に声をかけようとしても、声が喉の奥で薄くなる。
「すみません」
返事はない。
「すみません」
司書は手元の本を整理している。聞こえていない。リョウはカウンターの前まで行き、もう一度声を出した。
「すみません!」
その瞬間、司書がびくりと顔を上げた。目がリョウを捉えるまでに、数秒かかった。
「あら、春日くん。いつからそこに?」
「さっきからいました」
「ごめんなさい、気づかなかったわ。何か探し物?」
「去年の図書委員補助記録をもう一度見せてください」
「昨日も見たわよね」
「もう一度」
司書は困ったように笑い、端末を操作した。画面に名簿が出る。春日リョウ。椎凪ナギサ。その他の生徒たち。椎名アスカはいない。分かっていた。だが、リョウはその画面を写真に撮ろうとしてスマホを取り出した。顔認証はまた失敗した。パスコードを打つ。指が震える。数字が滲む。ようやくカメラを開き、画面を向ける。シャッター音はした。だが、撮れた写真を確認すると、端末の画面だけがぼやけていた。周囲の机や司書の手元は写っている。名簿部分だけが、白く光って読めない。
「何で」
リョウは呟いた。
「何でだよ」
「春日くん?」
司書の顔がまたぼやけていく。彼女の目がどこにあるのか分からない。声が遠い。図書室の棚が伸びる。カウンターが遠ざかる。リョウはスマホを握りしめた。ナギサにかければ戻るかもしれない。だが、今ここで戻ったら、自分は何もできない。アスカの痕跡を探すたび、ナギサへ戻るしかない人間になる。彼女を杭にしてしまう。それは駄目だ。駄目だと思うのに、足元が消えていく。
図書室を出た。いや、出ようとした。自動ドアは内側からも反応しない。リョウが前に立っても、扉は閉じたままだ。外から来た生徒が近づくと開く。その隙にリョウは廊下へ出た。廊下の光が白すぎる。人の顔がさらにぼやける。誰も彼を見ない。肩がぶつかりそうになっても避けない。リョウが避ける。避けたはずなのに、相手の肩がすり抜けたような感覚があった。触れたのか、触れていないのか分からない。
スマホが震えた。
今度は本当に通知があった。画面に名前が表示されている。
椎凪ナギサ。
リョウはすぐに出なかった。画面の上で指が止まる。出れば戻る。出なければ、どうなる。知りたい。だが、知りたいと思った瞬間、廊下の奥が暗く伸びた。出口が遠ざかる。生徒たちの顔が完全に白くなる。声が消え、足音だけが水の中のように鈍くなる。スマホの着信音さえ、遠くへ沈んでいく。
リョウは通話ボタンを押した。
『リョウ!』
ナギサの声が、耳元で弾けた。
世界が戻った。
廊下の床が硬くなる。窓枠が直線になる。生徒たちの顔に目と鼻と口が戻る。遠かった声が一気に押し寄せ、誰かの笑い声、教師の注意、上履きの音、校庭からの笛の音が、リョウの体へ流れ込む。彼は壁に手をつき、膝を折りかけた。
『リョウ? 返事して! ねえ、聞こえてる?』
「聞こえてる」
声が掠れていた。
『よかった……ほんとに、よかった。何回メッセージしても既読つかないし、電話も一回目つながらなかったし、今、すごく嫌な感じがして』
「ごめん」
『今どこ?』
「図書室の前の廊下」
『そこにいて。行くから』
「来るな」
『行く』
「ナギサ、来るな。君が来ると、僕はまた」
『また何?』
「君に頼る」
電話の向こうで、ナギサが息を呑む気配がした。
『頼ればいいって言ったでしょ』
「頼りすぎたら、君が壊れる」
『まだ壊れてない』
「今は」
『今が大事なの! リョウが今消えそうなら、今つなぎ止めるしかないでしょ!』
ナギサの声が震えていた。怒っている。泣きそうでもある。リョウは目を閉じた。耳に当てたスマホから、彼女の呼吸が聞こえる。その呼吸だけで、周囲の輪郭は保たれている。彼女が声を出している限り、自分はこの廊下に立っていられる。
「ナギサ」
『うん』
「君の声を聞くと、世界が戻る」
『……本当に?』
「本当だ。さっきまで、誰も僕に気づかなかった。自動ドアも反応しなかった。顔認証も失敗する。鏡の中の顔も薄くて、廊下も、図書室も、全部伸びて」
『リョウ、ゆっくり息して』
「僕は、たぶんこの世界から外れかけてる」
『やめて』
「でも、君の声で戻る」
『やめてって言ってる』
ナギサの声が小さくなった。
『それ、あたしがいないとリョウが消えるってこと?』
「分からない」
『分からないって言えば、怖くなくなるわけじゃないよ』
「ごめん」
『ごめんじゃなくて、名前』
リョウは壁に背を預けた。
「椎凪ナギサ」
『はい』
「春日リョウ」
『うん。リョウはそこにいる』
「椎名アスカ」
電話の向こうで、ナギサが少しだけ黙った。だが、今度は切れなかった。逃げなかった。
『……アスカさんも、いたんだよね』
「いた」
『うん』
その「うん」が、リョウにはありがたかった。信じているとは言い切れなくても、否定しない。ナギサは今、自分の痛みを押し殺して、リョウの記憶を完全な妄想にしないよう支えてくれている。そこまで分かっていても、彼はその声に縋っていた。
廊下の向こうで、誰かがこちらを見た。今度は目が合った。リョウがそこにいることを、世界がまた認識し始めている。ナギサの声が、彼の存在を周囲へ再登録しているようだった。異常だ。異常すぎる。ナギサは恋人として配置された少女であり、同時に、この世界におけるリョウの認識の中心になっている。彼女がリョウをリョウとして見ているから、リョウはこの世界に残れる。なら、彼女がリョウを見失ったらどうなるのか。彼女がリョウを拒んだら。彼女が壊れたら。
『リョウ?』
「いる」
『よかった』
ナギサの声が少しだけ柔らかくなる。その瞬間、通話の向こうで小さなノイズが入った。ザー、という水の底のような音。リョウは眉をひそめた。
「ナギサ?」
『なに?』
「今、変な音が」
『え? こっちは何も』
またノイズが入った。今度は少し長い。水面を爪で撫でるような音。鏡の奥で聞いたことのある音。リョウは息を止めた。ナギサの声が続く。
『とにかく、そこから動かないで。あたし、今から――』
その声に、別の声が重なった。
かすかで、遠くて、けれどリョウの胸のいちばん深い場所を正確に貫く声。
『覚えていて』
リョウの全身が凍った。
「アスカ」
『え?』
ナギサの声が戻る。
『リョウ、今、何て言ったの?』
リョウは廊下の窓硝子を見た。そこには自分の姿が映っている。さっきよりは濃い。ナギサの声が届いているからだ。だが、その背後に、ほんの一瞬だけ、長い髪の少女の影が立っていた。制服の輪郭。俯いた横顔。手を伸ばすような仕草。次の瞬間には消えている。
電話の向こうで、ナギサが不安そうに呼ぶ。
『リョウ?』
リョウはスマホを握りしめた。ナギサの声が、彼を世界へ戻す。その声の奥に、アスカの声が混ざった。偶然ではない。ナギサを通して、何かがこちらへ届いた。あるいは、ナギサの中にも、アスカの欠片が混ざっているのかもしれない。
吐き気がするほど怖かった。
それでも、リョウの胸の奥には、消えかけていた名前が熱を持っていた。
「聞こえた」
『何が?』
「アスカの声が」
ナギサは黙った。怒らなかった。泣きもしなかった。ただ、電話の向こうで、彼女がゆっくり息を吸う音がした。
『……じゃあ、なおさら一人にしない』
「ナギサ」
『あたしの声に重なったなら、あたしも関係ある。怖いけど、逃げない。だから、そこにいて。今度こそ、あたしが迎えに行く』
通話はつながったままだった。ナギサの足音が遠くから聞こえ始める。電話越しの足音と、廊下の向こうから近づいてくる現実の足音が、少しずつ重なっていく。世界の輪郭はまだ揺れている。窓硝子の端では、消えた少女の影がまた現れるのを待っているように、薄い光が震えていた。
リョウは目を閉じ、二つの名前を胸の中で呼んだ。
椎凪ナギサ。
椎名アスカ。
そのどちらも、もう失っていい名前ではなかった。




