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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第2部_ミラー
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第4章 消えた名前の痕跡

 ナギサが廊下の向こうから走ってきたとき、リョウはまだスマホを耳に当てたまま立っていた。通話は切れていない。電話越しの足音と、現実の廊下に響く足音が重なり、少しずつ近づいてくる。その重なり方がひどく不自然だった。スマホの向こうで聞こえる息遣いが先に届き、次に廊下の床を蹴る音が追いつき、最後に本人の姿が角を曲がって現れる。まるで声の方が先にリョウのいる場所を見つけ、体があとからそこへ引き寄せられてきたようだった。


「リョウ!」


 ナギサはほとんど勢いのままリョウの前で止まり、呼吸を整えることも忘れて彼の腕を掴んだ。その瞬間、廊下の輪郭がさらに濃くなった。掲示板の紙の端、床に落ちた小さな消しゴムの屑、窓硝子に映る校庭の白線、遠くで誰かが閉めたロッカーの金属音。さっきまで水の底に沈んでいたものが、いっせいに空気の中へ戻ってくる。


「……いた」


 ナギサは、自分に言い聞かせるように言った。


「ちゃんと、いた」


「ナギサ」


「返事、遅い。ほんとに遅い。心臓止まるかと思った」


「ごめん」


「ごめん禁止。今日だけで何回聞いたか分からない」


 そう言いながら、彼女の手はリョウの腕を離さなかった。指先が震えている。怒っているのではない。怖かったのだ。リョウが自分の声の届かない場所へ行ってしまうことが。自分が恋人として配置されたこの世界で、彼をつなぎ止める役割を背負わされていることに気づき始めていて、それでも手を離せない。その恐怖が、彼女の握力になっていた。


「アスカの声が聞こえた」


 リョウが言うと、ナギサの呼吸が止まった。


「電話で?」


「ああ。君の声に重なった。ノイズの後に、はっきり」


「何て」


「覚えていて」


 ナギサの顔が白くなった。自分の声の奥から、知らない少女の声が届いた。リョウがそう言っている。信じたいのか、信じたくないのか、彼女自身にも分からないのだろう。けれど、彼女は否定しなかった。腕を掴む手だけが、少し強くなる。


「それ、録音されてないかな」


 彼女は言った。


「通話だから、普通は残らない」


「でも、ノイズとか、履歴とか、何か」


「調べる」


「一緒に」


 リョウは一瞬黙った。ナギサを巻き込みたくない。だが、さっきの廊下を思い出す。自動ドアが反応しない。顔認証が失敗する。誰も気づかない。ナギサの声がなければ戻れなかった。自分一人で動くことは、もう安全でも誠実でもないのかもしれない。


「距離を取りながら、一緒に」


 リョウが言うと、ナギサは不満そうに眉を寄せた。


「何その難しい付き合い方」


「君に全部を預けないため」


「預けられる側にも意見あるんですけど」


「あるなら聞く」


「手をつなぎっぱなしは嫌じゃない。でも、リョウがそれで苦しいなら、袖を掴むくらいにする」


「それ、あまり変わらない」


「変わる。恋人っぽさが二割減る」


 ナギサはわざとらしくそう言って、リョウの腕から手を離し、制服の袖の端をつまんだ。ほんの少しだけ距離ができる。世界はまだ鮮明だった。だが、彼女の指が離れた瞬間に、廊下の奥の輪郭がわずかに柔らかくなった。リョウはそれを見逃せなかった。ナギサも、リョウの表情で気づいたのか、小さく息を呑んだ。


「袖でも効く?」


「たぶん」


「じゃあ、これで」


 彼女は袖をつまんだまま、まっすぐ前を見た。


「痕跡、探そう。アスカさんが完全に消えてないなら、何か残ってるはずだよね」


「ああ」


「完全に消えてないって、リョウが言ったんじゃないよ。証拠が言ったんだよ。ノートの跡も、電話の声も」


 ナギサはそう言って、少しだけ自分を励ますように頷いた。リョウはその横顔を見て、胸の奥が痛んだ。彼女はアスカを知らない。けれど、リョウが探すことを支えてくれている。その支えが、いつか彼女自身を傷つけるかもしれないと知りながら。


 最初に戻ったのは教室だった。古典のノートの端に残っていた筆圧を、もう一度確認するためだ。放課後の教室は、昼間よりも静かだった。窓から西日の名残が薄く差し込み、机の影が長く伸びている。リョウはノートを開き、消し跡のあるページを慎重に取り出した。紙は普通のノート用紙だ。だが、その端だけが、他の部分より少しざらついている。まるで、世界がそこだけ強く削り取ろうとして、紙の皮膚を荒らしたようだった。


「光、こっち」


 ナギサがスマホのライトをつける。リョウは紙を斜めに傾けた。白い光が紙の繊維を透かし、消された筆圧が影として浮き上がる。昨日よりも薄い。だが、読めた。


 アスカ。


 ナギサも息を呑んだ。


「読める」


「昨日より薄くなってる」


「でも、ある」


「今のうちに撮る」


 リョウはスマホを取り出した。今度はナギサが隣にいるせいか、顔認証は成功した。カメラを起動し、ライトの角度を変えながら何枚も撮る。画面の中では、文字はほとんど見えない。だが、拡大すると、紙の毛羽立ちの中に微かな溝がある。ア、ス、カ。読める。読もうとすれば、読める。


「リョウ」


 ナギサが画面を覗き込みながら言った。


「これ、誰が書いたんだろう」


「分からない。僕の字じゃない。アスカの字に似てる気もする。でも、僕のノートだから、僕が書いたのかもしれない」


「消されたあとだから、筆跡も混ざってるのかもね」


「混ざってる?」


「うん。何か、アスカさんがいた証拠を世界が消そうとして、でも完全には消せなくて、リョウの記憶と紙の跡と、アスカさん本人の字みたいなものが、ぐちゃっと残った感じ」


 ナギサは言ったあと、自分で少し戸惑った顔をした。


「ごめん。何か変なこと言った」


「いや」


 リョウはノートを見つめた。


「たぶん、近い」


 痕跡は、本人そのものではない。だが、無関係でもない。ローズが言っていたことが、また胸の奥で響く。欠片は本人ではない。だが、本人と無関係でもない。今、リョウが集めているのは、アスカそのものではない。消されたあとに残った違和感、筆圧、空白、ノイズ。それでも、そこに彼女へつながる何かがある。


 次に写真を調べた。リョウのスマホに残っているナギサとの写真。その中から、アスカがいたはずの場面を一枚ずつ開く。中庭の水盤、駅前の自販機、図書室の机、文化祭準備の集合写真。ナギサは、自分が写っている写真を見るたびに少しだけ複雑な顔をした。自分には覚えがある。だが、リョウにはない。さらに、その場所は本来アスカのものだったかもしれない。彼女は、自分の写真を見ることさえ傷になっているようだった。


「ここ」


 リョウは文化祭準備の集合写真を拡大した。


「何か変じゃないか」


 ナギサが画面に顔を近づける。


「どこ?」


「僕の左側」


「……あ」


 画面の中で、リョウの左肩のあたりだけ、背景の黒板がわずかに不自然だった。誰かを消したような跡ではない。だが、黒板のチョーク跡が一箇所だけぼやけ、周囲の線とつながっていない。さらに、後ろに立つ佐伯の視線が、カメラではなくリョウの左側の空間を見ている。そこには誰もいない。誰もいないのに、佐伯の目だけが、そこにいる誰かへ向いている。


「写真の空白」


 ナギサが呟いた。


「空白なのに、完全には空白じゃない」


「佐伯は覚えてない。でも、この写真の佐伯は見てる」


「じゃあ、写真の中の人の視線までは直しきれてない?」


「かもしれない」


 リョウは他の写真も確認した。駅前の自販機の写真では、ナギサが飲み物を差し出している。だが、自販機の反射面に、ナギサとは別の髪の長い影が薄く映っていた。角度のせいだと言えばそう見える。通行人の反射だと言えばそう見える。けれど、リョウには分かった。あれはアスカの影だ。図書室の机の写真では、ナギサの指先の横に置かれた文庫本の栞だけが、不自然に二枚重なっていた。一本はナギサが使ったらしい青い栞。もう一本は、アスカがよく使っていた淡い白の紙片に見える。だが拡大すると、白い栞は画素のにじみに溶けてしまう。


「これ、全部まとめよう」


 ナギサが言った。


「痕跡リスト作る。ノートの筆圧、写真の空白、反射の影、栞みたいなにじみ」


「君、慣れてるな」


「前に失踪事件調べてた記憶はないけど、こういうのは何か、手が勝手に動く」


 ナギサは少し苦笑した。


「それも、残ってるのかな。あたしの中に」


 リョウは答えられなかった。ナギサの中にも、前の世界の行動の癖だけが残っているのかもしれない。友人を探し、ノートを作り、噂を集め、マナへつないだ少女の手つき。それは記憶ではなく、身体に残った痕跡だった。


 文化祭準備リストは、資料準備室にあった。リョウは以前、そこで失踪者名簿を見た記憶がある。今の世界でそこがどうなっているのか、確かめる必要があった。放課後の廊下を歩くあいだ、ナギサはリョウの袖をつまんでいた。離れすぎると廊下の奥が薄くなる。近づくと戻る。二人は言葉少なに、その距離を調整しながら進んだ。


 資料準備室の扉は閉まっていた。鍵はかかっていない。中へ入ると、古い紙の匂いがした。棚、段ボール、使われていない椅子、窓際の机。記憶にある場所とほとんど同じだった。ただ、マナがいつも置いていた黒いファイルは見当たらなかった。赤い栞もない。黒い傘もない。部屋は普通の資料置き場として整っていた。整いすぎていることが、かえって不気味だった。


「ここ、来たことある気がする」


 ナギサが言った。


「本当に?」


「うん。何か、すごく怒られた気がする。『勝手に資料を触らない』って、誰かに」


「マナ先輩か」


「マナ先輩……」


 ナギサはその名前を口にして、少し首を傾げた。


「知ってる。三年の鳴海先輩。綺麗で怖い人。でも、あたしがここで一緒に調べてた記憶はない」


「でも、感覚はある」


「うん。ここ、秘密基地みたいで、でも全然わくわくしない。胃が痛くなる」


 リョウは棚から文化祭関係のファイルを探した。二年三組合同企画、図書委員補助、旧校舎展示準備。資料はきちんと分類されている。ファイルをめくると、参加者リストが出てきた。春日リョウ。椎凪ナギサ。佐伯律。数名のクラスメイト。そこにアスカの名はない。だが、リストの中ほどに一行だけ、不自然な空欄があった。番号だけが残り、氏名欄が空白。担当欄には「図書室資料確認」とある。備考欄には、何かを書いて消した跡がある。


「ここ」


 リョウは指差した。


「番号、飛ばしてない。でも名前だけない」


「担当はあるのに?」


「図書室資料確認。アスカがやってたことに近い」


「写真の栞とつながるね」


 ナギサはスマホで撮影しようとして、手を止めた。


「これ、撮れるかな」


「やってみて」


 写真を撮る。今度は写った。だが、空欄の部分だけ白く光っている。リスト全体は読めるのに、その一行だけが蛍光灯を反射したように読みにくい。ナギサは唇を噛んだ。


「嫌な隠れ方」


「ああ」


「隠すなら全部隠せばいいのに、消しきれない感じがする」


「完全には消えてない」


 リョウはその言葉を、確信に近いものとして口にした。


「アスカは、完全には消えてない」


 その瞬間、資料準備室の窓硝子がかすかに鳴った。二人は同時に振り返る。夕方の校庭が映っている。部活動の生徒たち、鉄棒、校舎の影。その中に、長い髪の少女の影が一瞬だけ重なった。窓のこちら側ではなく、硝子の奥、反射と外の景色の間に立っているようだった。リョウが一歩近づくと、影は薄れた。


「アスカ」


 名前を呼ぶと、窓の表面に細い白い曇りが走った。文字にはならない。ただ、誰かが向こう側から指でなぞったような線が残る。ナギサが震える声で言った。


「今の、見えた」


「見えたんだな」


「うん。見えた。リョウの記憶じゃなくて、あたしにも」


 その事実は、二人の間に重く落ちた。ナギサにも見えた。なら、アスカの痕跡はリョウの妄想ではない。世界の表面に、確かに傷として残っている。だが同時に、ナギサまでその傷に触れ始めている。彼女を巻き込んでいる。リョウは嬉しさと恐怖を同時に感じた。


 保健室へ向かったのは、そのあとだった。今の保健室は臨時の養護教諭が使っているが、水鏡紫影の残した記録の一部は、まだ保管庫に移されていないかもしれない。少なくとも、保健室相談記録の黒塗りがあるなら、そこに何かが残っている。リョウはそう考えた。ナギサは少し迷ったが、ついてきた。保健室の白い扉の前に立つと、彼女の指が袖を強くつまんだ。


「ここ、苦手」


「無理しなくていい」


「無理はする。今は」


 扉を開けると、薬品の匂いがした。以前の保健室よりも整然としている。白いカーテンは新しく、手洗い場の鏡は撤去され、そこには白い板が貼られていた。臨時の先生は不在だった。机の上には通常の保健記録が積まれている。リョウは躊躇した。勝手に見るべきではない。だが、アスカの痕跡がここにあるかもしれないという思いが、その躊躇を押し退けた。


「短時間だけ」


 ナギサが言った。


「見つけたらすぐ出る」


 保管棚の下段に、古い相談記録のコピーがあった。水鏡の元のファイルではない。事件後に整理された、学校側の控えのようだった。大部分は黒いマーカーで塗り潰されている。名前、相談内容、日付の一部。個人情報保護のためと言えば、そう見える。だが、その黒塗りはあまりに多かった。ページ全体が黒い。残っているのは、面談時間の枠線と、いくつかの短い単語だけ。


 不安。

 存在感。

 忘却。

 大切な人。

 消えたくない。


 リョウの手が止まった。


「これ」


 ナギサが覗き込む。黒塗りの上を光に透かす。ほとんど読めない。だが、氏名欄の下に、濃い黒の隙間から、わずかに文字の下端が見えた。椎、の木偏のような線。名、の口のような四角。リョウは息を止めた。


「椎名」


 声に出した瞬間、保健室の白い板がかすかに震えた。鏡があった場所。もう反射しないはずの白い板。その表面に、水面のような揺れが一瞬だけ走る。ナギサがリョウの袖を引いた。


「出よう」


「まだ」


「今のは駄目。ここで粘ると、たぶんまずい」


 リョウは記録のページをスマホで撮った。黒塗りの上からでは読めない。だが、残っている単語だけでも十分だった。消えたくない。大切な人。忘却。アスカの願いの周囲にあった言葉。彼はコピーを元に戻し、保健室を出ようとした。そのとき、机の上に置かれた古いICレコーダーが目に入った。備品整理中なのか、小さなラベルに「旧相談記録音声・確認済」と書かれている。


「音声」


 リョウは手を伸ばした。


「リョウ」


「確認だけ」


「嫌な予感しかしない」


「僕もする」


「じゃあやめようよ」


「やめたら、聞けない」


 ナギサは止めきれず、悔しそうに唇を噛んだ。リョウはレコーダーを再生した。最初に流れたのはノイズだった。ザー、という水の底の音。保健室の空気が少し冷える。次に、水鏡紫影の声らしきものが聞こえた。ほとんど黒く塗り潰された文字の音声版のように、言葉の大部分がノイズに消えている。


『……大丈夫。ここでは……話して……』


 別の声が続く。少女の声。細く、震えている。リョウの胸が締めつけられる。


『……幸せ、なのに……怖い……』


「アスカ」


 ノイズが強くなった。ナギサがリョウの腕を掴む。


『……リョウの……世界から……』


 そこで音が大きく乱れた。水の音、硝子を引っかく音、遠くで誰かが名前を呼ぶ音。次の瞬間、少女の声がノイズの奥からかすかに浮かんだ。


『覚えて……』


 そこで録音は途切れた。


 保健室は静まり返った。ナギサの指がリョウの腕に食い込んでいる。リョウはレコーダーを止めた。手が震えている。声は短かった。完全ではなかった。だが、確かにアスカだった。少なくとも、リョウにはそう聞こえた。


「ナギサ」


「……聞こえた」


「何て」


「幸せなのに怖い、って。リョウの世界から、って。最後は、覚えて……かな」


 リョウは目を閉じた。ナギサにも聞こえた。これで、また一つ増えた。ノートの筆圧。写真の空白。文化祭リストの空欄。黒塗りの相談記録。音声データのノイズ。窓に映る影。すべてが小さく、曖昧で、単独では証拠にならない。だが、集まればひとつの形になる。椎名アスカは、完全には消えていない。


「何をしているの」


 声がした。


 二人は同時に振り返った。保健室の入口に、鳴海マナが立っていた。黒い傘を手にしている。雨は降っていない。制服はきちんとしていて、白いヘアピンが片側で光っている。以前と同じように、綺麗で近寄りがたい上級生。だが、リョウの記憶にあるマナよりも、ほんの少しだけ表情が遠かった。彼女もこの世界で書き換えられているのか。それとも、何かを覚えているのか。判断できなかった。


「マナ先輩」


 ナギサが先に声を出した。どこかほっとした響きがある。今の世界でも、ナギサにとってマナは信頼できる先輩なのだろう。


「ナギサ。こんなところで何をしているの」


「その、調べ物を」


「保健記録は勝手に見るものではないわ」


 言葉は冷静だった。だが、マナの視線はリョウの手元のレコーダーと、黒塗りの相談記録へ一瞬で走った。彼女は状況を理解した。早すぎるほどに。


「春日くん」


 マナはリョウを見た。


「あなた、何を調べているの?」


 その台詞に、リョウは覚えがあった。以前も、彼女はそう聞いた。失踪事件を追い始めた頃。何かを知っているのに、すべては語らない目で。リョウは迷わず言った。


「椎名アスカです」


 マナの表情が、一瞬だけ揺れた。


 本当に一瞬だった。目元の筋肉がわずかに動き、黒い傘を持つ指がかすかに強張り、呼吸が半拍遅れた。それだけ。すぐに彼女は平静を取り戻した。だが、リョウは見逃さなかった。ナギサも気づいたのか、息を呑んだ。


「知ってるんですね」


 リョウは一歩近づいた。


「マナ先輩は、その名前を知ってる」


「知らないわ」


「嘘だ」


「知らないことになっている」


 マナは静かに言った。


 その言い方に、保健室の空気が変わった。知らない、ではない。知らないことになっている。世界の文法に従えば、その名前は存在しない。だが、彼女はその文法自体を意識している。


「その名前を、あまり人前で呼ばない方がいい」


「どうして」


「世界が反応する」


「もう反応してます」


「だから言っているの」


 マナは保健室の扉を閉めた。鍵はかけない。ただ、外の廊下からこちらが見えない角度に立つ。ナギサを見る目が少し柔らかくなった。


「ナギサ。あなたは、どこまで聞いたの」


「アスカさんの名前と、痕跡。あと、リョウが一人になると、世界から消えかけること」


 マナは目を伏せた。


「早すぎる」


「知ってたんですか」


 ナギサの声に、責める響きが混じる。


「リョウがこうなるって」


「可能性は知っていた」


「どうして言わなかったんですか」


「言えば早まるから」


「何が」


「あなたたちが、世界の修正から外れること」


 ナギサは言葉を失った。リョウはマナを睨んだ。


「説明してください」


「すべては話せない」


「またそれですか」


「ええ。またそれ」


 マナは逃げなかった。だが、語りもしなかった。以前と同じだ。知っているのに、肝心なところで扉を閉じる。リョウは苛立ちを抑えきれなかった。


「アスカの名前を知っているなら、なぜ今まで黙ってたんですか」


「黙っていれば、あなたが忘れるかもしれなかったから」


 その答えは、刃のようだった。ナギサが小さく息を呑む。リョウは一瞬、意味を理解できなかった。


「忘れる?」


「忘れれば、あなたはこの世界に残れる可能性があった」


「ふざけるな」


「ふざけていないわ」


「アスカを忘れろって言うんですか」


「忘れた方が安全だったと言っているの」


 マナの声は冷たかった。だが、その冷たさの奥に、痛みがあることも分かった。彼女は本当にそう思っている。リョウがアスカを忘れ、この世界のナギサと恋人として生きれば、少なくとも彼は消えない。ナギサも壊れない。世界も安定する。合理的だ。正しいかもしれない。だが、その正しさは、アスカを完全に殺す。


「僕は忘れません」


「分かっている」


「なら、止めても無駄です」


「止めるわ」


 マナははっきり言った。


「あなたがアスカさんを忘れないことは、もう止められない。でも、それを理由にナギサを命綱にするなら、私は止める」


 ナギサの顔が強張った。


「マナ先輩」


「ナギサ。無理に笑わなくていい。怖いなら怖いと言って」


「怖いですよ」


 ナギサは即答した。声が震えていた。


「怖いです。リョウはあたしの恋人だったはずなのに、知らない人の名前を呼んでる。あたしがそばにいないとリョウが消えそうになる。あたしの声に、その人の声が重なる。怖くないわけないじゃないですか」


 マナの表情が痛みに歪む。


「それでも、離れられない?」


「離れたら、リョウがいなくなるかもしれない」


「それが危ないの」


「分かってます。でも、目の前で消えそうな人を、危ないからって放っておけるほど、あたしは賢くないです」


 ナギサの声は、涙で少し掠れていた。マナは何も言えなかった。二人の間に、前の世界でも存在したはずの信頼と、今の世界で追加された痛みが重なる。リョウはそこへ自分が割り込んでしまっていることを自覚した。アスカを探すほど、ナギサとマナの関係まで傷つけている。


「マナ先輩」


 リョウは言った。


「僕はアスカの痕跡を集めます」


「集めてどうするの」


「探す」


「何を?」


「椎名アスカを」


「痕跡は本人ではないわ」


「分かってます」


「本当に?」


 マナの目が鋭くなる。


「ノートの筆圧。写真の空白。黒塗りの下に残った文字。ノイズの中の声。それらは全部、アスカさんに関係している。でも、アスカさんそのものではない。欠片を集めれば本人に戻ると考えるなら、それはミラーと同じ間違いになる」


 その言葉は、リョウの胸を突いた。欠片は本人ではない。本人と無関係でもない。集めたくなる。集めれば輪郭が戻る気がする。だが、それは本当にアスカを救うことなのか。リョウにはまだ答えられない。


「それでも、何もせずにはいられない」


「知っている」


「なら」


「だから記録する」


 マナは黒い傘を机に立てかけ、鞄から小さな手帳を取り出した。黒い表紙。角が擦れ、何度も開かれた跡がある。赤い栞が挟まれている。彼女はその手帳を開きかけて、少し迷った。


「見せるつもりはなかった」


「今は?」


「見せない方がいいと、まだ思っている」


「でも、見せるんですね」


「あなたがもう見つけてしまったから」


 マナはページを開いた。そこには、日付と短いメモが並んでいた。失踪者名簿ほど整理されていない。もっと個人的な記録だった。誰かの名前、場所、反応、空白、反射、欠落。ページの端にはK.A.という文字が何度か出てくる。リョウが反応する前に、マナは別のページを開いた。


 そのページの中央に、黒く塗りつぶされた行があった。


 名前欄だけが、濃いインクで何度も何度も塗られている。上から線を引いたのではない。消そうとして、潰そうとして、それでも下の文字が浮き上がるのを恐れるように、黒が重ねられている。リョウは息を止めた。マナは手帳を斜めに傾け、保健室の蛍光灯に透かした。


 黒塗りの下に、かすかな線が見えた。


 椎名。


 完全には読めない。だが、読めた。椎、の木偏。名、の口。リョウの中で、アスカの名前が熱を持つ。ナギサも隣で息を呑んだ。


「これ」


 リョウは声を絞った。


「マナ先輩の手帳ですよね」


「ええ」


「誰が塗りつぶしたんですか」


 マナは黒い行を見つめた。


「私」


「どうして」


「塗りつぶさないと、ページごと消えそうだったから」


 その答えに、リョウは言葉を失った。


「書いたままだと、翌日にはその行がなくなっていた。紙ごと白く戻っていた。だから、上から黒を重ねた。消すためではなく、消えた跡を残すために」


 マナの声は静かだった。だが、そこには長い疲労が滲んでいた。何度も名前を書き、何度も消され、消えたことだけを残すために黒く塗る。世界から失われた名前を一人で記録し続けてきた人の声だった。


「あなたも、覚えているんですね」


 リョウが言うと、マナはすぐには答えなかった。


「全部ではない」


「でも、椎名までは」


「名前を見ると、胸が痛む。誰かを救えなかった気がする。でも、顔は思い出せない。声も、はっきりしない。私が覚えているのは、名前そのものではなく、名前を失った痛みかもしれない」


 リョウは手帳の黒塗りを見つめた。アスカは完全には消えていない。ノートの筆圧にも、写真の空白にも、黒塗りの下にも、ノイズの中にも、窓の反射にも、残っている。だが、それらはどれもアスカ本人ではない。本人に届く道かもしれない。あるいは、本人の不在をより深く刻むだけの傷かもしれない。


 それでも、リョウは言った。


「集めます」


 マナは目を閉じた。


「そう言うと思った」


「止めますか」


「止める」


「それでも」


「それでも進むのでしょう」


「はい」


 マナは手帳を閉じた。黒い表紙の間に、赤い栞が挟まれる。彼女はそれを鞄へ戻しながら、低く言った。


「なら、約束して。痕跡を本人だと思わないこと。ナギサを痕跡探しの道具にしないこと。そして、その名前を人前で無闇に呼ばないこと」


「呼ぶと、世界が反応するから?」


「それだけじゃない」


 マナは保健室の白い板を見た。鏡のあった場所。そこに、さっきまでなかった細い曇りが浮かんでいた。文字ではない。だが、指でなぞったような線が、こちらを見ている。


「その名前を呼ぶたび、あなた自身も、世界から少し外れる」


 リョウは黙った。


「それでも呼ぶなら、自分の名前も、ナギサの名前も、同じだけ呼びなさい」


 ナギサが小さく頷いた。リョウも、遅れて頷く。


「春日リョウ」


 マナが言った。


「椎凪ナギサ」


 ナギサが、自分の名前に少しだけ肩を震わせる。


 そしてリョウは、胸の奥でだけ、三つ目の名前を呼んだ。


 椎名アスカ。


 保健室の白い板が、ほんの一瞬だけ水面のように揺れた。

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