第5章 鳴海マナの違和感
保健室の白い板は、もう揺れていなかった。鏡があった場所には、ただの平らな白が貼られている。そこには何も映らない。何も映さないはずなのに、リョウには、まだそこに何かが潜んでいるように見えた。自分たちが目を離した瞬間、水面のように波打ち、黒く塗りつぶされた名前を、もう一度世界の奥へ沈めようとしている気がした。机の上には相談記録のコピー、古いICレコーダー、黒塗りのページを撮ったスマホがある。どれも証拠と呼ぶには弱い。けれど、それらはすべて同じ方向を向いていた。椎名アスカ。世界が消したはずの名前。その痕跡が、紙の傷や写真の空白やノイズの奥で、まだ呼吸している。
鳴海マナは、保健室の扉の前に立ったまま動かなかった。黒い傘を片手に持ち、もう片方の手で自分の手帳を押さえている。彼女が見せた黒塗りの名前は、もう閉じた表紙の向こうに隠れていた。だが、リョウの目にはまだ残っている。黒く重ねられたインクの下、光に透かすとわずかに浮かんだ二文字。椎名。マナは知らないと言った。知らないことになっている、と言い直した。完全には思い出せない。顔も声も曖昧。けれど、忘れてはいけない名前があったという痛みだけは残っている。その痛みが、彼女をここへ連れてきたのだろう。
「もう一度、見せてください」
リョウは言った。
「手帳を?」
「はい」
「見せたでしょう」
「黒く塗った理由を、もっと聞きたい」
「聞いてどうするの」
「アスカに近づける」
「近づけば戻れると思っている?」
マナの声は静かだった。だが、その静けさには硬い芯がある。保健室の空気が少し冷える。ナギサはリョウの袖をつまんだまま、二人の間で視線を揺らした。リョウとマナだけが共有しているような違和感。ナギサにはそれが見えている。自分の知らない名前をめぐって、二人が何かを分かち合っているように見えている。そのことが、彼女を少しずつ傷つけているのも分かった。
「戻れるかどうかじゃない」
リョウは答えた。
「アスカがいたことを、なかったことにしないためです」
「その言い方は危険よ」
「どうして」
「“なかったことにしない”という願いは、簡単に“世界へ刻み直す”に変わる。世界が消したなら、世界に思い出させればいい。そう思い始めたら、あなたはもう、自分がどこに立っているのか分からなくなる」
「それの何が悪いんですか」
リョウの声が低くなった。
「世界が間違っているなら、直すべきだ。アスカを消した世界なんて、正しいわけがない」
「ほら」
マナは言った。
その一言だけで、リョウの胸に苛立ちが走った。
「何ですか」
「もう、世界そのものを相手にし始めている」
「相手にしたくてしてるんじゃない。世界がアスカを消したんだ」
「だから、あなたは世界を敵にする?」
「必要なら」
言った瞬間、ナギサの指がリョウの袖を強く掴んだ。
「リョウ」
小さな声だった。責める声ではない。怖がる声だった。リョウは自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。だが、ナギサの顔を見て、少なくとも彼女を安心させる顔ではないことだけは分かった。
マナはナギサへ視線を移した。さっきまでリョウへ向けていた硬さが、ほんの少しだけ緩む。
「ナギサ。少し座って」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔をしている」
「それ、マナ先輩にだけは言われたくないです」
ナギサは無理に笑った。いつもの軽口に近い。けれど、声の端が震えている。マナはその笑みを見て、眉をかすかに寄せた。
「無理に笑わなくていい」
「笑ってないと、泣きそうなんです」
その一言で、保健室の白さが重くなった。ナギサは自分でも驚いたように口を閉じる。リョウは何も言えなかった。マナもすぐには答えなかった。薬品棚の中で、ガラス瓶が蛍光灯の光を反射している。鏡はもうない。けれど、反射するものはいくらでもある。
「ナギサ」
マナは静かに言った。
「あなたは、リョウのそばにいれば彼をこちら側につなぎ止められる。それは事実に近い」
ナギサの顔が強張る。リョウも息を止めた。マナは、その事実をもう認識している。ナギサの声で世界が戻ること。ナギサの手でリョウの輪郭が戻ること。リョウが一人になると、世界から外れかけること。彼女は最初から可能性を知っていたのか、それとも今の状況から判断したのか。どちらにせよ、彼女はもうそこへ踏み込んできた。
「でも、それはあなたが強いからではない。あなたが傷つかないからでもない」
マナの声は淡々としていた。
「あなたが彼を支えられるということは、彼の揺らぎがあなたの世界へ流れ込むということでもある」
「流れ込むって」
「リョウが見失ったものを、あなたの世界が補おうとする。リョウが立てない場所に、あなたが足場として置かれる。あなたが彼に近づけば近づくほど、この世界はあなたを使って彼を固定しようとする」
「それ、あたしがリョウの恋人にされたことと関係ありますか」
ナギサの声は、思ったより落ち着いていた。落ち着いているように聞こえるだけかもしれない。彼女の手は、リョウの袖を握ったまま白くなっている。
マナはすぐには答えなかった。
「分からない」
「マナ先輩でも?」
「ええ。分からない。ただ、自然ではない」
「自然じゃないのは、もう分かってます」
ナギサは小さく笑った。
「だって、あたしにはあるんです。リョウと付き合ってた記憶。映画に行った記憶。一緒に帰った記憶。リョウの家で課題やった記憶。ぜんぶ、ちゃんとある。でもリョウはそれを自分の記憶じゃないって言う。あたしだけが覚えてる思い出が、毎日増えていくみたいで、気持ち悪いんです」
リョウの胸が詰まった。
「ナギサ」
「ごめん。気持ち悪いって、リョウのことじゃないよ。自分の中にある記憶が怖いって意味」
ナギサはそう言って、少しだけリョウから視線を外した。
「でも、その怖い記憶の中のあたしは、ちゃんと幸せなんです。リョウといて、楽しかった。嬉しかった。だから余計に分からなくなる。これが全部嘘なら、あたしの気持ちも嘘なのかなって」
「嘘じゃない」
リョウは即座に言った。
ナギサが顔を上げる。
「君の気持ちは、嘘じゃない」
「じゃあ、リョウは?」
その問いが来るのは分かっていた。だが、リョウはやはり答えられなかった。ナギサを見る。彼女は泣きそうなのに、目を逸らさない。恋人としての記憶を持つ少女。前の世界では後輩だった少女。今はリョウを現実につなぐ杭になっている少女。そのどのナギサも本物だ。けれど、リョウの中で恋人として愛していたのは、椎名アスカだった。その名前を守ることと、目の前のナギサを傷つけないことが、同時にできない。
教室でも通学路でも答えられなかった問いが、また喉に詰まった。
マナが口を開いた。
「ナギサを、あなたの命綱にしないで」
リョウはマナを見た。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味よ」
「僕は、そんなつもりじゃ」
「つもりがなくても、そうなっている」
マナの声は冷たかった。だが、その冷たさはナギサへ向けられたものではない。リョウへも、ただ責めるためのものではない。もっと深いところで、何かを恐れている声だった。
「あなたが世界から外れかけるたび、ナギサはあなたを呼ぶ。あなたは戻る。戻れたことに安心する。次にもっと遠くへ行ったときも、またナギサが呼んでくれると思う。そうやって、あなたは少しずつ、自分の足でこちら側に立つことを忘れる」
「忘れない」
「今はね」
「決めつけないでください」
「決めつけているわけではない。見ているの」
「何を」
「前にも、そういう人がいた」
その言葉で、マナの目がわずかに揺れた。
リョウは息を止めた。前にも。マナは自分の口からその言葉を出したことに気づいているのか、すぐに表情を戻した。だが遅かった。リョウもナギサも聞いた。
「前にも?」
リョウが詰め寄る。
「誰ですか。アスカのことですか。それとも、別の誰か?」
「今は関係ない」
「関係あります。マナ先輩は何か覚えてる。全部じゃなくても、何かは残ってる」
「残っているのは記憶じゃない」
「じゃあ何ですか」
「痛み」
短い答えだった。
保健室の空気が静まり返る。
「忘れてはいけない名前があった。守れなかった誰かがいた。止めるべきだったのに、止められなかったことがあった。そういう痛みだけが残っている。名前を見れば胸が痛む。でも、顔は出てこない。声も曖昧。私が覚えていると言えるほどではない」
「それでも、アスカの名前で反応した」
「ええ」
「なら、一緒に思い出してください」
「思い出すことが、正しいとは限らない」
「またそれですか」
「またそれよ」
マナはリョウをまっすぐ見た。
「真実を知ることは、いつも人を救うわけではない。知ったことで世界から外れる人もいる。知ったことで、戻れない場所へ進む人もいる。あなたがそうなりかけている」
「僕はアスカを探しているだけです」
「“だけ”では済まなくなる」
「どうしてそんなことが分かるんですか」
「あなたの目が、もう世界を相手にし始めているから」
リョウは黙った。マナの言葉は、さっき自分が口にした怒りを正確に突いていた。世界が間違っているなら直すべきだ。そう思った。その瞬間の自分を、マナは見ていた。彼女にとって、それは危険信号なのだろう。
「それでも」
リョウは言った。
「忘れた方が安全だったなんて、僕には受け入れられない」
「受け入れなくていい」
意外な答えだった。
「私は、あなたにアスカさんを忘れろと言いたいわけではない。忘れられるなら、それが安全だったと言っているだけ。あなたが忘れないなら、その記憶の持ち方を間違えないでほしい」
「記憶の持ち方?」
「名前を持つことと、名前に呑まれることは違う」
マナは黒い傘を持つ手を見下ろした。
「アスカさんの名前を覚えていることは、大事。けれど、その名前だけで自分を支えようとすれば、あなたは現実から外れる。ナギサの声だけで現実へ戻ろうとすれば、ナギサが壊れる。だから、自分の名前も持ちなさい。春日リョウとして、こちら側に立って」
「春日リョウとして立っていたら、アスカは戻るんですか」
「戻るとは言えない」
「だったら」
「でも、あなたがあなたでなくなれば、探している相手が本当にアスカさんなのか、判断できなくなる」
その言葉に、リョウは反論できなかった。痕跡は本人ではない。欠片は本人ではない。けれど、本人と無関係でもない。集めれば集めるほど、アスカに近づく気がする。だが、集めている自分が壊れれば、願望と記憶とコピーを区別できなくなる。マナはそれを恐れているのだ。
ナギサが小さく言った。
「あたしは、どうすればいいんですか」
リョウとマナが同時に彼女を見る。ナギサは泣いていなかった。だが、顔は青白い。
「リョウが消えそうなら呼ぶしかない。呼ばないと、本当にいなくなるかもしれない。でも呼んだら、あたしが命綱になる。命綱にしないでって言われても、目の前で落ちそうな人がいたら、手、出しちゃうじゃないですか」
「ナギサ」
マナの声が柔らかくなる。
「あなたが悪いわけじゃない」
「それは分かってます。でも、悪くないって言われても楽にならないです」
ナギサは笑おうとして、失敗した。
「リョウはアスカさんを忘れられない。マナ先輩は危ないって知ってる。あたしは二人の間で、リョウの恋人ってことになってて、でも本当にそうなのか分からなくて、しかもリョウをこの世界につなぐ役目まであるかもしれない。何ですか、それ。あたし、そんな大役に立候補した覚えないんですけど」
「選んだわけではないのに、置かれることはある」
マナが言った。
「それを理不尽と言うの」
「じゃあ、怒っていいですか」
「ええ」
「誰に?」
マナは少しだけ黙った。
「今は、私にでも」
ナギサは目を見開いた。マナは静かに続けた。
「私は、あなたを巻き込みすぎないようにしたかった。でも、できなかった。リョウを止めることも、アスカさんを思い出すことも、世界の修正を止めることもできていない。あなたが怒る相手を探しているなら、私でもいい」
「そんなの、怒れないじゃないですか」
ナギサの声が震えた。
「マナ先輩、ずるいです。そんな顔で言われたら、怒れない」
マナは困ったように目を伏せた。リョウは初めて、彼女が年相応の少女に見えた。冷静で、何かを知っていて、いつも一歩先に立っている先輩。だが、本当は彼女も、どうすれば誰も傷つかないのか分からないのだ。知っていることが多いだけで、万能ではない。アスカを救えなかった。リョウを完全には守れない。ナギサを傷つけずに済ませる方法も知らない。それでも、ここに立っている。
「マナ先輩」
リョウは言った。
「アスカを思い出せなくてもいい。顔が出てこなくてもいい。痛みだけでも、名前の跡だけでも、教えてください。僕一人の記憶だけじゃ、いつか折れるかもしれない」
「だから、ナギサを」
「ナギサだけに背負わせたくないから、言ってるんです」
マナはリョウを見た。ナギサも、少し驚いた顔をした。
「僕は、ナギサに縋りそうになる。もうなっているかもしれない。それは認めます。でも、だからこそ、他にも杭が必要なんです。僕の名前を呼ぶ人。アスカの名前が消えた跡を覚えている人。世界がおかしいと知っている人。マナ先輩が黙ったままだと、ナギサだけに重さが行く」
マナの表情が揺れた。リョウは続けた。
「全部話せないなら、それでもいい。でも、何も話さないことで守れる段階は、もう過ぎてると思います」
保健室に沈黙が落ちた。白い板は揺れていない。だが、蛍光灯の音がやけに大きく聞こえる。ナギサの指は、まだリョウの袖を掴んでいる。だが、その力は少しだけ緩んでいた。
マナはゆっくり息を吐いた。
「私は、アスカさんを思い出せない」
彼女は言った。
「でも、あなたがその名前を呼んだとき、胸が痛んだ。黒塗りの下に残った名前を見たとき、手が震えた。失ったという感覚だけが、先に来る。誰かを守れなかった。誰かが世界から消えた。そのせいで、あなたがこちら側に残りきれなくなった。そこまでは分かる」
「それだけでも」
「ただし」
マナの声が硬くなる。
「あなたがこれ以上、ナギサの声を使って遠くへ行くなら、私は止める」
「使うつもりは」
「つもりではないと言ったでしょう。問題は、結果よ」
リョウは頷いた。完全に納得したわけではない。だが、反論もしなかった。
「分かりました」
「本当に?」
「分かろうとします」
「十分とは言えないけれど、今はそれでいいわ」
マナは保健室の白い板へ視線を移した。
「次に調べるなら、古い資料だけでは足りない。世界が修正する前に記録されたもの、あるいは修正から外れたものを探す必要がある」
「どこにありますか」
「旧校舎の記録室。閉鎖された相談室。水鏡先生が残した外部保存のデータ。あと、K.A.の署名がある資料」
「K.A.」
リョウはその文字を思い出した。失踪者名簿の端にあった署名。誰も覚えていない生徒の行に残っていた記号。マナの手帳にも何度か出ていた。
「誰なんですか」
「まだ、名前に触れない方がいい」
「また」
「ええ。また」
マナは少しだけ苦笑した。
「でも、今度は理由を言う。その署名に触れると、記録される側から記録する側へ引かれる。あなたはまだ、そこへ行く準備ができていない」
「意味が分かりません」
「今は分からなくていい」
「ずるい」
「知っている」
ナギサが小さく笑った。今度は、少しだけ本物の笑みだった。
「マナ先輩って、ずるいって言われ慣れてますよね」
「よく言われるわ」
「誰に?」
「忘れた」
マナはそう答えた。冗談のようにも聞こえた。だが、リョウには本当に忘れているのだと分かった。あるいは、忘れたことにされている。忘れてはいけない誰かの声が、彼女の中にも穴として残っている。
そのとき、窓ガラスがかすかに鳴った。
三人は同時に振り返った。保健室の窓には、夕方の校庭が映っている。暮れかけた空、校舎の影、体育倉庫の屋根。そこに、白いものが映っていた。
仮面だった。
白い半仮面。頬のあたりにひび割れたような線。黒衣の肩。薔薇の香りはしない。ほんの一瞬、窓の反射の中だけに、それは立っていた。マナの背後、白い板の横、現実には誰もいない場所に。
「ローズ」
リョウが呟いた。
マナが振り返る。ナギサも息を呑む。だが、保健室の中には誰もいない。白い板、薬品棚、机、黒い傘、赤い栞の挟まれた手帳。仮面の姿はない。
窓ガラスを見ると、反射も消えていた。ただ夕方の校庭だけが映っている。
マナの顔は、血の気が引いたように白かった。彼女は自分の胸元に手を当て、何かを確かめるように息を整えた。リョウはその反応を見逃さなかった。
「今の、マナ先輩にも見えましたよね」
マナは答えなかった。
「白い仮面。見えましたよね」
「見えたかどうかは問題ではない」
「問題です」
「違う」
マナの声が、珍しく強くなった。
「問題は、向こうもこちらを見ていたこと」
その言葉で、保健室の空気が凍った。ナギサがリョウの袖を強く握る。リョウは窓ガラスを見た。もう何も映っていない。だが、確かに今、白い仮面はそこにいた。ファントム・ローズ。ミラーと敵対し、リョウたちを救い、名前を忘れるなと言った存在。その影が、改変された世界の窓に映った。
マナは黒い傘を手に取った。
「今日はここまで」
「まだ話は」
「ここまで」
有無を言わせない声だった。
「これ以上ここで続けると、窓が開く」
窓は閉まっている。鍵もかかっている。だが、マナの言う「開く」は、そういう意味ではないのだと分かった。
リョウはナギサを見た。ナギサは怖がっている。それでも、手を離さない。マナはその手元を見て、ほんの少しだけ痛そうな顔をした。
「ナギサ」
「はい」
「今日は春日くんを一人にしないで」
「命綱にするなって言ったばかりなのに?」
「だから、そばにいるだけ。引きずられそうになったら、手を離して。名前を呼んで。それでも戻らなければ、私を呼んで」
「マナ先輩は来てくれるんですか」
「来るわ」
ナギサは少しだけ安心した顔をした。
マナはリョウへ視線を向ける。
「あなたも、覚えておいて。ナギサの手を握る前に、自分の名前を呼びなさい」
「春日リョウとして立てってことですか」
「ええ」
「アスカの名前は」
「呼ぶなら、順番を間違えないで」
リョウはその意味を噛みしめた。自分の名前。ナギサの名前。アスカの名前。どれか一つだけでは、きっと崩れる。アスカだけを呼べば、リョウは世界から外れる。ナギサだけを呼べば、彼女を命綱にしてしまう。自分だけを呼べば、アスカを失った痛みから逃げることになる。三つの名前を持って立つしかない。あまりにも不安定な足場だった。
保健室を出る直前、リョウはもう一度窓ガラスを見た。
そこには何も映っていなかった。
ただ、夕方の光がわずかに白く滲み、仮面の輪郭のような残像だけが、硝子の奥に沈んでいる気がした。
見られている。
その感覚だけが、三人の背中に残った。




