第6章 ナギサの世界
椎凪ナギサは、笑うことが得意だった。得意、という言い方が正しいのかは分からない。少なくとも、笑っていれば場が少し軽くなることを知っていた。誰かが深刻な顔をしているとき、冗談をひとつ挟めば呼吸が戻る。怖い場所でも、軽口を叩けば足が前へ出る。泣きそうなときでも、笑った顔を作れば、泣かずに済むことがある。だからナギサは笑ってきた。自分のためにも、周りのためにも。けれど、保健室の窓に白い仮面が映った日の帰り道、ナギサはうまく笑えなかった。マナはリョウへ「ナギサを一人にしないで」と言った。正確には、今日は春日くんを一人にしないで、と言ったのだけれど、ナギサには逆に聞こえた。リョウを一人にしないために、ナギサも一人になれない。リョウが世界から外れないように、ナギサはそばにいなければならない。けれど、そばにいるほど、リョウは自分を見ながら別の誰かを探す。その誰かの名前は、椎名アスカ。ナギサはその名前をもう何度も聞いた。ノートの消し跡から、写真の空白から、黒塗りの記録から、ノイズの奥から。けれど、顔は知らない。声も、電話の向こうで一瞬だけ重なった気がするだけだ。知らない人なのに、もう胸のいちばん柔らかい場所を占領されている。
放課後の校門を出るとき、リョウはナギサの隣を歩いていた。手はつないでいない。ナギサは彼の袖をつまんでいた。少し前までなら、今の世界での記憶なら、帰り道に手をつなぐことは珍しくなかった。冬の夕方、手が冷たいと言ったナギサに、リョウが無言で手袋の片方を貸してくれたことがある。春先、桜の花びらが制服についたのを取ってくれたとき、照れ隠しにナギサがその手を握ったことがある。夏前、映画帰りに怖かったのをごまかして、駅前の人混みではぐれないためだと言い訳しながら指を絡めたこともある。その記憶は温かい。細部まである。リョウの手の大きさ、少し乾いた指先、握り返すときのためらい、しばらく歩くと慣れてくる温度。嘘だとは思えない。思いたくない。
けれど、リョウにはその記憶がない。ある、と言うときもある。言われると思い出せる、と言うときもある。だが、その顔は、誰かから借りた写真を見せられている人の顔だった。懐かしいのではなく、懐かしいはずだと頭で理解している顔。ナギサはそれが分かる。分かってしまう。恋人として積み重ねた時間が、自分の中にだけあることの気持ち悪さ。リョウの中では、その場所に別の少女がいるかもしれないことの怖さ。ナギサは袖をつまむ指に力を込めた。手を握れば、リョウの世界はもっとはっきりするのだろう。けれど、いま手を握ったら、リョウは助かるかもしれない代わりに、ナギサ自身がどこかへ沈む気がした。
「大丈夫?」
リョウが聞いた。
その言葉に、ナギサは少し驚いた。リョウが自分を見ている。アスカではなく、ナギサを。ほんの一瞬でも、それが嬉しかった。嬉しいと思った自分が、すぐに嫌になった。
「大丈夫に見えます?」
「見えない」
「じゃあ聞かないでくださいよ」
「ごめん」
「はい、ごめん禁止です。さっきも言いました」
いつもの調子に寄せようとした。声だけは軽くできた。けれど、うまく笑えなかった。リョウは少し黙り、歩道の端に寄った。夕方の車が横を通り過ぎる。窓に反射した二人の姿が流れていく。リョウとナギサ。世界の上では、恋人同士の二人。
「ナギサ」
「はい」
「無理しなくていい」
その言葉で、胸が冷えた。
「それ、マナ先輩にも言われました」
「うん」
「無理しなくていいって言われても、無理しなかったらどうなるんですか。リョウは一人でどこか行くし、世界はぼやけるし、あたしの声に知らない女の子の声が重なるし、マナ先輩は肝心なところで説明を止めるし」
「知らない女の子、じゃない」
リョウの声は小さかった。
ナギサの足が止まりかけた。リョウもすぐに気づいたように顔を上げる。
「ごめん」
「禁止って言いました」
「……うん」
ナギサは袖から手を離した。ほんの少しだけ、周囲の輪郭が薄くなった気がした。リョウの顔が強張る。ナギサにも分かった。離すと、リョウが不安定になる。だから、離した自分が悪いような気がしてしまう。でも、いま握り続けたら、胸の冷たさに負けそうだった。
「あたしにとっては、知らない女の子です」
ナギサは言った。
「リョウにとって大事な人なのは分かります。たぶん、本当にいたんだと思います。証拠も見ました。あたしにも影が見えました。声も聞こえました。だから否定したいわけじゃないです。でも、あたしは知らないんです。知らない人の名前で、毎日リョウの目が遠くなる。知らない人のために、あたしの記憶が嘘かもしれないって言われる。知らない人の代わりに、あたしがここにいるかもしれない。ねえ、それで平気な顔して支えられるほど、あたし明るくないですよ」
言ってしまった。
ナギサは息を止めた。もっと軽く言うつもりだった。冗談の皮を被せて、笑いながら、でもちょっとだけ本音を混ぜるつもりだった。なのに、言葉はそのまま出てしまった。リョウは何も言わなかった。言えないのだと分かった。彼が何を言っても、きっと誰かを傷つける。アスカを大事だと言えばナギサが傷つく。ナギサも大事だと言えば、アスカの場所を曖昧にする。だから彼は黙る。その沈黙まで分かってしまうことが、ナギサにはつらかった。
「帰ります」
ナギサは言った。
「送る」
「今日はいいです」
「でも」
「リョウ、あたしが近くにいないと危ないんでしょ」
「そうかもしれない」
「じゃあ、今日はマナ先輩に電話してください。あたし、ちょっと一人になりたいです」
リョウの顔に不安が浮かぶ。ナギサはその不安にまた手を伸ばしそうになり、拳を握った。今伸ばしたら、自分が何のために離れようとしているのか分からなくなる。
「大丈夫です。消えたりしません。あたしは椎凪ナギサなので」
それはリョウに向けた言葉であると同時に、自分へ向けた言葉だった。リョウは少しだけ苦しそうに頷いた。
「椎凪ナギサ」
彼が名前を呼んだ。
その呼び方は、優しかった。少なくとも、ナギサ自身を呼ぶ声だった。そのことに、また泣きそうになる。
「はい」
ナギサは答えた。
「じゃあ、また明日。リョウ」
リョウの名前を呼んでから、ナギサは歩き出した。振り返らなかった。振り返れば、きっと戻ってしまう。彼の袖を掴み直し、大丈夫ですよと笑ってしまう。だから前だけを見た。夕方の道が長く感じた。ナギサの世界は、リョウがいなくてもちゃんと鮮明だった。電柱も、信号も、コンビニの明かりも、帰宅する生徒の顔も、すべて普通に見える。それが少しだけ悔しかった。リョウにとって自分は世界を鮮明にする存在なのに、自分の世界はリョウがいなくても崩れない。いや、本当は崩れているのかもしれない。ただ、崩れた部分が恋人としての記憶で埋められているから、まだ立っているように見えるだけかもしれない。
家に帰ると、玄関の鏡に自分の顔が映った。いつもの顔だった。肩までの髪、少しずれた眼鏡、疲れた目。母に「今日は早いのね」と言われ、ナギサは「うん、ちょっと疲れた」とだけ答えた。自分の部屋へ入り、鞄を床に置く。机の上には、リョウと一緒に撮った写真が小さなフォトフレームに入っていた。ナギサはそこで立ち尽くした。
覚えている。
この写真を飾った日のことを、ナギサは覚えている。映画帰りの写真を印刷して、リョウに見せたら、彼が少し照れた。ナギサが「彼氏なんだから、彼女の部屋に一枚くらい飾られる覚悟を持ってください」と言うと、リョウは「覚悟の種類が狭すぎる」と返した。二人で笑った。ナギサはその夜、何度も写真を見た。嬉しくて、でも恥ずかしくて、フレームを倒したり戻したりした。その記憶は温かい。嘘には見えない。もしこれが作られた記憶なら、誰がこんな細かな恥ずかしさまで作ったのだろう。誰が、ナギサの胸の高鳴りまで用意したのだろう。
ナギサはフォトフレームを手に取った。写真の中のリョウは、少し困った顔をしている。その横でナギサは笑っている。幸せそうだ。自分で見ても、そう思う。だが、リョウの記憶では、この場所に別の少女がいたのかもしれない。アスカ。椎名アスカ。名前を思い浮かべると、胸の奥が冷えた。嫉妬、という言葉が一番近いのかもしれない。けれど、それだけではなかった。怖いのだ。アスカがいたことを認めるほど、自分が立っている場所が誰かの跡地になる。アスカがいなかったと言えば、リョウの痛みを否定する。どちらを選んでも、自分が嫌いになる。
スマホを開いた。リョウとのトーク履歴がある。昨日まで普通だと思っていたやり取りが、今は違って見える。おはよう。起きて。遅刻するよ。今日のお昼どうする? 映画のチケット取れた。風邪、大丈夫? プリント届ける。無理しないで。好きだよ、と送った日もある。リョウからの返信もある。短いけれど、ちゃんと優しい。ナギサはそれを何度も読み返したことがある。そのたびに嬉しかった。
けれど今、画面の文字が少しだけ遠かった。
このリョウは、本当にリョウなのか。リョウが覚えていないリョウ。ナギサに好きだと言ったリョウ。アスカを知らない世界のリョウ。そんなものは存在しない、と言い切れれば楽だった。でも、ナギサはその言葉に救われてきた。作られたものだとしても、そのとき自分が嬉しかったことまで否定できない。
ベッドに腰を下ろすと、急に涙が出た。声は出なかった。泣く予定ではなかった。泣くならもっと劇的に、枕に顔を埋めて、誰にも見られないようにするものだと思っていた。けれど実際には、スマホを持ったまま、写真を膝に置いたまま、涙だけが勝手に落ちた。画面に水滴がつく。リョウとのやり取りが滲む。ナギサは慌てて袖で拭いた。
「あたし、何してるんだろ」
誰も答えない。
リョウはアスカを探している。マナはリョウとナギサを危険から遠ざけようとしている。アスカは、たぶん世界から消されている。では、ナギサは何をすればいいのか。恋人としてリョウを支えるのか。アスカを探す協力者になるのか。代わりに置かれた人間として距離を取るのか。どれも正しく、どれも間違っている。自分の世界なのに、自分がどこに立っているのか分からない。
夕食の時間になっても、ナギサは部屋から出なかった。母に少し遅れて行くと返事をして、洗面所へ向かった。泣いた顔を冷たい水で洗うためだった。廊下の明かりは白く、家の中は静かだった。洗面所の鏡には、見慣れた自分が映っている。目が赤い。眼鏡を外すと、世界が少しぼやける。それは普通のぼやけ方だった。リョウが感じているものとは違う。ただの視力の問題。ナギサは水を出し、顔を洗った。冷たい水が頬を打つ。タオルで拭いて、もう一度鏡を見た。
鏡の中の自分が、少し違って見えた。
最初は、泣いたせいだと思った。目元が腫れて、いつもの顔と違うだけだと。けれど、違和感はそこではなかった。髪の長さが、ほんの少し長く見える。目の形が少し柔らかい。口元が、ナギサのものより静かだ。眼鏡を外しているからだ。そう思おうとした。だが、鏡の中の少女は、ナギサが瞬きするより半拍遅れて瞬きした。
ナギサの手からタオルが落ちた。
「……誰」
鏡の中の少女は、ナギサの顔をしていた。だが、ナギサだけではなかった。長い髪の影が頬の横に重なり、知らない制服の襟が一瞬だけ見え、目の奥に別の寂しさが浮かぶ。見たことのない少女。けれど、名前だけは知っている気がする。椎名アスカ。リョウが何度も呼んだ名前。写真の空白にいたかもしれない少女。ノイズの奥で「覚えていて」と言った声の持ち主。
「違う」
ナギサは鏡に手をついた。
「あたしは、椎凪ナギサ」
鏡の中の少女も口を動かした。だが、声は出ない。ナギサの唇と鏡の唇が同じ形を作る。椎凪ナギサ。そう言っているはずなのに、鏡の中の少女の目は、別の名前を知っているようだった。
「あたしは、その人の代わりなの?」
言ってしまった。
鏡に向かって。自分に向かって。知らない少女に向かって。リョウには聞けなかった言葉を、ナギサは鏡へ投げた。
「あたしがここにいるのは、あなたがいなくなったから? リョウがあたしを見てくれるのは、あなたの場所にあたしが置かれたから? あたしの記憶は、あなたのいない穴を埋めるためのものなの?」
鏡の中の少女は答えない。ナギサは泣きそうになりながら笑った。笑うことが得意だったはずなのに、今はひどく下手だった。
「返事してよ。幽霊でも、幻でも、消えた人でもいいから。あたし、どうすればいいの。リョウを支えたい。でも、リョウがあなたを呼ぶたび、あたしの胸が冷たくなる。そんな自分が嫌なの。だって、あなたはきっと被害者なんでしょ? リョウが忘れちゃいけない人なんでしょ? だったら、あたしが嫉妬するのはおかしいじゃん。最低じゃん」
水道の蛇口から、閉めたはずの水が一滴落ちた。洗面台に小さな音が響く。鏡の表面が、ほんのわずかに波打った。硝子ではなく、水面のように。
ナギサは息を止めた。
鏡の中の少女の表情が変わった。ナギサの顔でありながら、ナギサの表情ではない。口元が柔らかく緩み、目元がひどく優しくなる。その優しさを、ナギサは知らない。自分なら、こんなふうには笑わない。もっと誤魔化す。もっと軽くする。もっと冗談を挟む。鏡の中の少女は、静かにナギサを見ていた。
「あなたは、誰」
ナギサの声は震えた。
鏡の中の唇が動く。
声が聞こえた。
「あなた一人で支えなくていい」
ナギサの背筋が凍った。
それは、ナギサの口調ではなかった。アスカの声かどうかも分からない。少し違う。水鏡紫影の穏やかさに似ている。ミラーの優しさにも似ている。けれど、もっと近い場所から聞こえた。鏡の中からというより、ナギサの胸の奥から響いたような声だった。
「あなた一人で、彼を支えなくていい」
もう一度、鏡が言った。
優しい言葉だった。欲しかった言葉だった。誰かに言ってほしかった言葉だった。リョウを一人にしたくない。けれど自分一人では重すぎる。そう思っていたナギサの胸に、その言葉はあまりにも自然に入り込んできた。
だから、怖かった。
「……違う」
ナギサは後ずさった。
「それ、優しい言葉のふりしてるだけ」
鏡の中の少女は、悲しそうに目を細めた。
「違う。あたし、知ってる。そういう言葉で、リョウも、アスカさんも、みんな連れていかれたんでしょ。あたしは、そっちに行かない」
声が震えていた。足も震えていた。それでもナギサは言った。
「あたしは、椎凪ナギサ。リョウを支えたいけど、あたし一人で支えるって決めたわけじゃない。アスカさんの代わりにもならない。あたしは、あたしの名前でここにいる」
鏡の表面がもう一度揺れた。少女の顔が薄くなる。ナギサの顔へ戻っていく。だが、完全に戻る直前、鏡の奥で小さな声がした。
「本当に?」
ナギサは息を呑んだ。
次の瞬間、鏡はただの鏡に戻っていた。泣き腫らした椎凪ナギサの顔だけが映っている。髪の長さも、目元も、口元も、自分のものだった。水道の水は止まっている。洗面所の白い明かりが、何事もなかったように鏡を照らしている。
ナギサはその場に座り込んだ。冷たい床が膝に触れる。心臓が痛いほど鳴っている。リョウに電話しようかと思った。マナに連絡しようかとも思った。けれど、スマホを取り出す手が動かなかった。言えば、リョウはまたアスカの痕跡だと思うかもしれない。マナは危ないから距離を取れと言うかもしれない。どちらも正しい。けれど今、ナギサが聞きたかったのは正しい答えではなかった。
あなた一人で支えなくていい。
その言葉は、まだ耳に残っている。
ナギサは両手で自分の腕を抱いた。
「椎凪ナギサ」
小さく、自分の名前を呼ぶ。
「椎凪ナギサ。あたしは、椎凪ナギサ」
鏡は何も答えない。
けれど、ナギサには分かった。何も答えないのではない。答えるタイミングを待っているだけだ。優しい言葉を必要とする瞬間を。支えきれないと泣きたくなる瞬間を。自分が誰かの代わりかもしれないと、心が折れそうになる瞬間を。
そのとき、きっとまた鏡は言う。
あなた一人で支えなくていい、と。
ナギサは震える手で眼鏡をかけ直し、鏡の中の自分を睨んだ。
「あたしを、あたしたちにしないで」
声は小さかった。
だが、鏡の奥で何かが、かすかに笑った気がした。




