第7章 影山アヤト
ナギサから連絡はなかった。昨夜、洗面所の鏡で何かを見たことを、彼女は誰にも言えないまま朝を迎えたのかもしれない。あるいは、何もなかったことにして笑う準備をしているのかもしれない。リョウには分からなかった。分からないまま、彼はいつもより早く家を出た。ナギサに迎えに来なくていいと送ることも、今日は一人で行くと宣言することもできなかった。スマホのトーク画面を開き、文字を打ち、消し、また打ち、結局何も送らずにポケットへ戻した。連絡すれば彼女は来る。来てしまう。声を聞けば世界は鮮明になる。手を握ればリョウは立てる。だが、そのたびにナギサの世界へ何かが流れ込む。鏡の中で彼女が何を見ているのか、リョウはまだ知らない。知らないからこそ、これ以上頼れなかった。
駅前へ向かったのは、アスカの痕跡を探すためだった。写真の中で、駅前の自販機には不自然な反射が残っていた。ナギサが飲み物を差し出している写真の端に、長い髪の影が映っていた。ならば、実際の場所にも何か残っているかもしれない。文化祭リストの空欄、ノートの筆圧、保健室のノイズ。どれも完全な証拠ではなかった。けれど、すべてがアスカへ向いている。リョウは、その細い線を辿るしかなかった。
朝の駅前は、人で溢れていた。通勤客、学生、ベビーカーを押す母親、イヤホンをした会社員、急ぎ足の中学生、コンビニの袋を持った老人。横断歩道の信号が変わるたび、人の流れが波のように動く。バスロータリーではエンジン音が重なり、駅ビルのガラス壁には街の色が何重にも反射していた。リョウはその雑踏の中へ入った。最初は大丈夫だった。自販機の位置も、駅前の時計も、歩道のタイルの模様も、きちんと見えていた。ナギサはいない。だが、まだ立てる。そう思った。
自販機の前に立つ。写真と同じ場所。記憶では、ここにアスカがいた。今のスマホにはナギサが写っている。リョウは画面を開き、写真と現実を見比べた。駅ビルの角度、背後の広告、反射するガラス。合っている。だが、写真に映っていた長い髪の影は、現実の自販機には映っていなかった。代わりに、リョウ自身の姿がぼんやり映っている。いや、ぼんやりしすぎている。朝の光を反射する自販機の黒い液晶面に、春日リョウの顔は薄い染みのようにしか映らなかった。
「春日リョウ」
小さく自分の名前を呼ぶ。映った顔が少しだけ濃くなる。だが、すぐにまた薄れる。通行人が背後を通り過ぎるたび、その反射に押し流されるように、リョウの輪郭が弱くなる。
人混みが増えた。通勤時間のピークに近いのだろう。駅の改札へ向かう人の流れが太くなり、リョウの周囲を左右から押し始める。誰かの肩がぶつかった。すみません、と言いかけて、相手がこちらを見ていないことに気づいた。次の人も避けない。リョウが半歩下がる。さらに別の人が正面から歩いてくる。視線はスマホに落ちている。ぶつかる、と思って身を引いたが、相手の肩がリョウの腕をすり抜けたような感覚があった。触れたのか、触れていないのか分からない。体が一瞬冷たくなる。
「おい」
声を出した。誰も振り向かない。
「おい!」
今度は少し大きく。近くの高校生が笑いながら通り過ぎる。リョウの声に反応していない。駅前の雑音に紛れたのではない。声が届いていない。リョウは人の流れの中で立ち尽くした。肩がぶつかる。いや、すり抜ける。鞄の角が身体をかすめる。痛みはない。だが、そのたびに自分の位置が少しずつ曖昧になる。自分がここに立っているという感覚が、人の流れに削られていく。
スマホを取り出した。ナギサへかける。そう思った。だが、画面は顔認証に失敗した。もう一度。失敗。パスコードを打とうとして、数字が滲む。駅前の音が遠ざかる。アナウンスが言葉ではなく、長い息のように伸びる。電光掲示板の文字が読めない。駅ビルのガラスに映る人々の顔が、全部同じ白い楕円になる。リョウはスマホを握りしめたまま、横断歩道の方へ歩いた。歩いたつもりだった。だが、足元のタイルの模様が同じ場所で繰り返される。駅前の広場が広くなる。自販機が遠ざかる。改札も、バスロータリーも、時計も、すべてが距離を持たなくなる。世界が、リョウを置く場所を見失っていた。
「椎凪ナギサ」
名前を呼ぶ。声は自分にしか聞こえない。世界は戻らない。ナギサ本人の声がなければ駄目なのか。手がなければ駄目なのか。リョウは焦りながらスマホを操作する。やっとパスコードが通る。通話履歴を開く。ナギサの名前を探す。ある。指を伸ばす。だが、画面が急に暗くなった。バッテリー切れではない。電源も落ちていない。ただ、リョウの指に反応しなくなった。タップしても、画面は固まったまま。リョウの操作を、スマホまでも認識しない。
「ふざけるな」
声が震えた。
人混みの中で、誰もこちらを見ない。世界から消えるとは、こういうことなのかもしれない。劇的に光へ溶けるのではない。名簿から消されるだけでもない。誰も避けない。誰も振り向かない。自動ドアが開かない。センサーが反応しない。スマホが認証しない。声が届かない。そうやって、少しずつ「いる」ための手続きから外されていく。春日リョウという存在が、世界の処理対象から落ちていく。
息が苦しい。リョウは人混みの中で立ち止まった。いや、立ち止まったはずなのに、人の流れは彼を避けずに通り抜けていく。肩、鞄、制服、スーツ、傘の柄。全部が近すぎる。触れているのに、触れていない。リョウは叫ぼうとした。
そのとき、一人だけ、こちらを見ている男がいた。
駅前の時計の下。人の流れから少し外れた柱の陰に、黒髪の青年が立っていた。年齢はリョウより少し上に見える。大学生にも、若い社会人にも見えるが、どちらにも完全には馴染んでいない。黒を基調にしたコート、細い肩、落ち着いた立ち姿。顔立ちは整っているが、印象に残りすぎない。普通の人混みに紛れられる外見なのに、その目だけが、はっきりリョウを捉えていた。周囲の誰もリョウを認識しない中で、その青年だけが、リョウを見ている。
リョウは警戒して一歩下がった。下がったつもりだったが、足がタイルへうまく接地しない。青年は慌てなかった。人の流れが彼の前を通る。だが、不思議なことに、誰も彼にもぶつからない。彼の周囲だけ、雑踏が自然に避けているようだった。
「春日リョウ君」
青年が言った。
声は大きくなかった。だが、駅前の雑音を通り抜けて、まっすぐ届いた。リョウの名前。呼ばれた瞬間、足元のタイルが少しだけ硬くなった。
「……誰だ」
「まず、落ち着いて。君はいま、かなり薄い」
「答えろ。誰だ」
青年はわずかに頷いた。リョウの苛立ちを受け流すような、静かな仕草だった。
「僕の名前は影山アヤト。絶対に忘れないでほしい」
その言い方が奇妙だった。自己紹介というより、手順のようだった。名前を告げ、記録させ、忘れないよう要求する。リョウはその名を頭の中で繰り返した。影山アヤト。影山アヤト。K.A.。失踪者名簿の端にあった署名。マナの手帳に何度も出てきた文字。その正体が、いま目の前に立っている。
「K.A.」
リョウが呟くと、アヤトは少しだけ目を細めた。
「そこまで辿っているなら、説明は少し早くできる」
「マナ先輩の仲間か」
「仲間と言うと、彼女は嫌がると思う。協力することもある。対立することもある。彼女は世界を安定させたい。僕は、世界から弾かれた者を消さないことを優先する。目的が重なるときだけ同じ方向を向く」
「弾かれた者?」
「今の君の状態だよ」
アヤトは人混みの中をゆっくり歩き始めた。彼が歩くと、人の流れがわずかに左右へ割れる。リョウはその後を追おうとして、足がもつれた。自分の足が自分のものではないように軽い。アヤトは振り返り、片手を差し出すのではなく、コートの内側から小さなカードを取り出した。
「これを持って」
白い名刺サイズのカードだった。厚手の紙で、表面には黒いインクで文字が書かれている。春日リョウ。たったそれだけ。だが、その文字は奇妙に強かった。印刷ではない。手書きだ。丁寧で、無駄のない字。リョウはカードを受け取った。
瞬間、世界が少し戻った。
完全ではない。ナギサの手を握ったときほど鮮明ではない。だが、足元のタイルの模様が読める。駅前の時計の針が見える。人々の顔に目鼻が戻り、電光掲示板の文字がかろうじて意味を持つ。スマホの画面も再び反応した。リョウは息を吸った。肺に空気が入る。自分の体が、ほんの少し重さを取り戻す。
「何だ、これ」
「名前を記録したカード。仮の錨みたいなものだと思っていい」
「錨?」
「君が世界から流されるのを、少しだけ遅らせる」
「ナギサの代わりか」
言った瞬間、アヤトの表情がわずかに変わった。責めるわけではない。だが、その言い方は危ういと判断した顔だった。
「代わりにはならない。椎凪ナギサは、君をこの世界の中から見ている。彼女の声や手は、君をこの世界の春日リョウとして固定する。このカードは、君の名前を記録しているだけ。温度も、関係も、感情もない。だから彼女より弱い。でも、彼女を削らない」
リョウはカードを握りしめた。春日リョウ。自分の名前がそこにある。世界がリョウを認識しなくなっても、この紙だけは、リョウを春日リョウとして指し示している。そのことが、不思議なくらい頼もしかった。同時に、頼りなかった。ナギサの手の温かさとは違う。ただの紙だ。だが、そのただの紙が、今のリョウには命綱に近かった。
「どうして僕を助ける」
リョウは聞いた。
「助けた方がいいと判断したから」
「それだけか」
「それだけだよ。感情的な理由を期待しているなら、残念だけど、僕は君をよく知らない」
「K.A.の署名を残してたのは、あんただろ」
「そう」
「前から見ていたのか」
「見ていた。正確には、記録していた」
「何を」
「失われた名前。消えかけた存在。世界が修正した跡。誰にも覚えられなくなった人たち」
アヤトの声は淡々としていた。だが、冷たくはなかった。人を安心させるような穏やかさがある。ただし、その内容はひどく残酷だった。記録する。見ている。残す。けれど、救えるとは言わない。
「アスカのことも記録していたのか」
リョウの声が強くなる。
アヤトは少しだけ間を置いた。
「椎名アスカという名前は、記録上、非常に不安定だ」
「質問に答えろ。知ってるのか」
「名前は知っている」
「顔は」
「完全には」
「声は」
「残響なら」
「どこにいる」
リョウは一歩詰め寄った。カードを持っているせいか、足はちゃんと前へ出た。アヤトは逃げなかった。人混みの中で、二人だけが別の空間に立っているようだった。
「どこにいるんだ。アスカは」
「それを今、君に言えば、君はそこへ行く」
「当たり前だ」
「そして戻れなくなる」
「戻れなくてもいい」
「今の言葉を、椎凪ナギサが聞いたらどう思う?」
リョウは言葉に詰まった。アヤトの目は穏やかだった。責めているわけではない。だが、確実にリョウの弱点を突いてきた。
「君はまだ、人間としての春日リョウでいる。完全に外れてはいない。椎凪ナギサが君を呼べる。鳴海マナが君を止められる。君自身も、自分の名前を呼べる。だから、今はまだ戻れる」
「戻ってどうする」
リョウの声は低かった。
「アスカのいない世界に、戻ってどうするんだ」
「生き残る」
「それが目的か」
「最初はね」
アヤトは静かに言った。
「消えかけた者に、最初から取り戻す話をしても意味がない。まず消えないこと。自分の名前を保つこと。誰の世界に依存しているのかを知ること。生き残る方法を覚えること。その先でなければ、何かを探す資格すら持てない」
「資格?」
「君が壊れれば、アスカを探す者も消える」
その言葉は、まっすぐだった。リョウは反論しかけて、できなかった。マナも似たことを言っていた。自分の名前を持て。ナギサを命綱にするな。痕跡を本人と間違えるな。アヤトの言葉は、マナよりも冷静で、さらに生存に寄っている。アスカを救うためではなく、まずリョウを消さないための言葉。
「僕は、アスカを取り戻したい」
「知っている」
「生き残るだけじゃ意味がない」
「それも知っている」
「なら」
「でも、生き残らなければ、取り戻したいという願いさえ残らない」
アヤトは駅前の人混みを見た。誰も二人を見ていない。いや、アヤトの周囲を無意識に避けている人々はいる。だが、彼らはアヤトを認識しているわけではないのだろう。見えているのか、見えていないのか曖昧なまま、ただ彼の存在を避けている。
「僕たちは、こういう場所で暮らしている」
「僕たち?」
「世界から弾かれた者たち。誰かの記憶から落ちた者。自分の世界を失った者。名前だけ残った者。名前すら消えかけた者。いろいろいる」
「そんな人たちがいるのか」
「いる。けれど、ほとんどの人は認識できない。記録に残らない。残っても空欄や黒塗りやノイズになる。君が見つけた痕跡と同じだ」
リョウはカードを見た。春日リョウ。もしこのカードがなければ、今ごろ自分も空欄になっていたのかもしれない。写真の不自然な空白。名簿の飛んだ番号。誰かの手帳の黒塗り。その仲間に。
「アヤト」
名前を呼ぶと、青年はわずかに頷いた。
「忘れないでくれているね」
「忘れたら、あんたも消えるのか」
「僕は、もう少ししぶとい」
「答えになってない」
「でも、名前を呼ばれることには意味がある。君がそれを一番知っているはずだ」
椎名アスカ。リョウの胸の奥で名前が熱を持つ。呼ぶたびに世界が反応し、リョウ自身も外れていく。それでも、呼ばずにはいられない名前。アヤトはその危険を知っている。だから、最初に自分の名前を忘れるなと言ったのだろう。彼自身も、名前を失う恐怖を知っている。
「マナ先輩は、あんたを信用しきれないと言っていた」
「正しい判断だ」
「自分で言うのか」
「僕は、君を救いたい。けれど、鳴海マナの望む形で救うとは限らない。僕にとって大事なのは、君が消えないことだ。君が人間のまま戻れるかどうかは、その次になる」
「それは、僕にとっては大きな違いだ」
「分かっている」
アヤトは本当に分かっているように言った。その落ち着きが、リョウには少し腹立たしかった。彼は冷たいわけではない。だが、優しい言葉で慰めるつもりもない。必要なことだけを言う。命を助けるためなら、本人の願いを後回しにすることもある。マナとは別の意味で、危険な案内人だった。
駅前の雑踏が、再び少し遠くなった。カードを持っていても、長くは保たないらしい。リョウの手元の文字がかすかに滲む。春日リョウ、の「ョ」の線が揺れた。アヤトはそれを見て、すぐに言った。
「そのカードは万能じゃない。椎凪ナギサの声ほど強くはない。持ち歩くこと。濡らさないこと。誰かに渡さないこと。名前を見失いそうになったら、読むこと」
「これ、何枚も作れるのか」
「作れる。でも、使いすぎると君自身がカードの記録に寄っていく」
「どういう意味だ」
「紙に書かれた春日リョウとして安定しすぎる。生きている君ではなく、記録上の君になる」
リョウはカードを落としそうになった。
「怖いことをさらっと言うな」
「怖いことだから、最初に言った方がいい」
「ナギサにも、似たようなことが起きるのか」
アヤトは少しだけ目を細めた。
「彼女の場合は、記録ではなく世界そのものだ。君が彼女に寄りすぎれば、彼女の世界は君を支える形に変形する。もう始まっている」
「止める方法は」
「君が自分の世界を取り戻すこと」
リョウは息を止めた。
「自分の世界?」
「そう」
「アスカがいた世界のことか」
「それも含む。でも、それだけじゃない」
アヤトは駅前のガラス壁へ視線を向けた。そこには、人混みが反射している。リョウの姿も、今はかろうじて映っていた。だが、隣にアヤトの姿は薄い。彼はいるのに、反射は曖昧だった。輪郭の一部が、柱の影に溶けている。
「人には、それぞれ自分の世界がある。誰を覚えているか。誰に覚えられているか。何を大事にして、どこへ帰るか。そういう無数の線が重なって、その人の世界になる。君は、それを失った」
「僕は六道学園にいる。家もある。クラスもある」
「それは、この世界に用意された場所だ」
「僕の場所じゃないって言うのか」
「君自身がそう感じているはずだ」
リョウは黙った。教室の席はある。家もある。佐伯もいる。ナギサは恋人として隣にいる。だが、そのどれもが少し違う。アスカがいない形へ整えられた世界。リョウだけがその整合性から外れている。だから、世界はリョウを処理しきれず、薄くしていく。
「君は、自分の世界を失ったんだ」
アヤトは言った。
その言葉は、駅前の雑踏の中で奇妙なほど静かに響いた。
「だから、誰かの世界に依存しなければ消える。今は椎凪ナギサの世界が君を支えている。でも、それは彼女にとっても君にとっても長く続けられる形じゃない」
「どうすればいい」
リョウの声は掠れていた。
「まず、自分の名前を固定する。次に、君が失った世界の痕跡を記録する。ただし、痕跡を本人と間違えない。そして、椎凪ナギサを杭にしすぎない」
「マナ先輩と同じことを言うんだな」
「同じ危険を見ているからね。違うのは、その先の選択だ」
「アヤトは、僕に何を選ばせるつもりだ」
「今は選ばせない。選べる状態にする」
アヤトはそう言って、もう一枚カードを取り出した。今度は何も書かれていない白いカードだった。
「これは?」
「次に消えそうになった名前を書くためのもの。使うかどうかは君が判断して」
「アスカの名前を書けばいいのか」
「書くなら覚悟して。世界が消した名前を記録することは、世界に傷をつけることだ。傷は広がる。広がれば、君だけでなく周囲も巻き込む」
「それでも」
「そう言うと思った」
アヤトは白いカードをリョウへ渡した。リョウは受け取った。無地の紙は、驚くほど重かった。椎名アスカ、と書けば何かが起きる。そう直感した。だからすぐには書けなかった。名前を呼ぶことには意味がある。名前を書くことにも、きっと意味がある。意味があるからこそ危険なのだ。
駅前の時計が九時を告げた。登校時間はとっくに過ぎている。人の流れは少しずつ変わり、通勤客の波が薄くなり始めていた。リョウは自分がまだ学校へ向かっていないことに、ようやく気づいた。だが、それより大きなことを聞いてしまった。自分の世界を失った。ナギサの世界に支えられている。影山アヤト。弾かれた者。名前のカード。すべてが、リョウの足元を別の方向へ傾けていく。
「また会えるのか」
リョウが聞くと、アヤトは少しだけ笑った。
「君が僕の名前を忘れなければ」
「影山アヤト」
「そう」
「絶対に忘れないでほしい、だったな」
「うん。できれば、絶対に」
その言い方には、ほんの少しだけ人間らしい弱さがあった。リョウは初めて、この青年もまた、消えることを恐れているのだと思った。穏やかで、説明ができて、駅前の雑踏の中でも立っていられる。けれど、彼も弾かれた者なのだ。誰かに名前を忘れられれば、きっとどこかが削れる。
アヤトは人混みの方へ歩き出した。今度は、彼の輪郭が少しずつ薄くなる。人々が避けていた隙間が閉じていき、黒いコートが通行人の影に紛れる。
「待て」
リョウは声をかけた。
「アスカは、生きているのか」
アヤトは振り返らなかった。だが、声だけが届いた。
「その問いに答えるには、まず“生きている”の意味を決める必要がある」
「ふざけるな」
「ふざけていない。君はこれから、その言葉の意味で何度も苦しむ」
アヤトの姿が、人混みの中へ溶ける。
「カードを失くさないで。春日リョウ君。君が君でいるうちは、まだ探せる」
最後の声だけが残った。
リョウは駅前の雑踏の中で、二枚のカードを握りしめていた。一枚には、春日リョウ。もう一枚は、白紙。そこに書くべき名前は分かっている。けれど、今はまだ書けない。書けば、世界に傷がつく。書かなければ、アスカの名はこのまま消されていく。
ポケットの中で、ようやくスマホが震えた。画面にはナギサの名前が表示されている。リョウはしばらくその文字を見つめた。椎凪ナギサ。彼をこの世界につなぎ止める少女。傷つきながらも、手を伸ばしてくれる少女。
通話ボタンを押す前に、リョウは自分のカードを見た。
春日リョウ。
声に出して読んだ。
それから、電話に出た。
「ナギサ」
『リョウ? どこにいるの? 学校、来てないって』
「駅前にいる」
『何してるの。迎えに行く』
「待って。すぐ戻る。大丈夫、今は」
『今は、って何』
リョウは白紙のカードを握った。
「名前を、もらった」
『名前?』
「春日リョウって書かれたカード。少しだけ、世界が戻った」
電話の向こうで、ナギサが黙った。怒るかと思った。泣くかと思った。けれど、彼女は深く息を吸い、ゆっくり言った。
『その人、誰』
「影山アヤト」
名前を口にした瞬間、駅前の時計の影がわずかに揺れた。リョウはそれを見た。アヤトの名前にも、世界は反応する。
『影山、アヤト』
ナギサが繰り返す。
『覚えた。忘れない』
その言葉に、リョウは胸が締めつけられた。彼女はまた、支えようとしている。自分が知らない名前を、リョウのために覚えようとしている。
「ナギサ」
『なに』
「無理しなくていい」
『それ、あたしの台詞』
少しだけ、いつもの声が戻った。
『帰ってきて。リョウ。話はそれから』
「分かった」
通話を切ると、駅前の雑踏はもう普通に戻っていた。人々はリョウを避ける。完全ではないが、ぶつからずに通り過ぎる。自販機の液晶には、リョウの顔が薄く、しかし確かに映っている。彼はカードを胸ポケットへ入れた。春日リョウ。その名前を、紙に預けるように。
そして、白紙のカードをもう一度見た。
椎名アスカ。
まだ書いていないその名前が、紙の上に見えない筆跡として浮かんでいる気がした。
リョウは歩き出した。自分の世界を失った少年として。誰かの世界に支えられなければ消えてしまう存在として。それでも、まだ名前を持っている者として。




