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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第2部_ミラー
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第8章 弾かれた者

 影山アヤトという名前は、駅前の雑踏が少しずつ日常へ戻っていくほど、かえって現実味を失っていった。黒いコートの青年は人混みに溶け、姿を消した。だが、リョウの胸ポケットには、彼が渡したカードが残っている。春日リョウ。たった四文字と二文字。自分の名前。いつもなら何の意味も持たずに通り過ぎるはずの文字が、今は胸に小さな重りのようにある。その重さがあるだけで、駅前のタイルは足裏に固く、電光掲示板の文字はどうにか読め、人々の顔も完全な白い空白にはならなかった。けれど、それはナギサの声とは違った。ナギサが「リョウ」と呼んだときのように、世界が一気に色と温度を取り戻すわけではない。カードは、ただ事務的にリョウの存在を留める。温かくない。慰めない。好きだとも、そばにいるとも言わない。ただ、春日リョウと書いてある。その冷たさが、かえって怖かった。


 学校へ戻ると、すでに午前の授業は終わりかけていた。職員室へ寄る気にはなれなかった。担任に理由を聞かれれば、駅前で世界から消えかけて、影山アヤトという青年に名前のカードをもらった、と説明しなければならない。そんな言葉を信じる教師はいない。信じられたとしても、その信じた教師が次にどこへ弾かれるのか分からない。真実を知ること自体が危険になる。マナがなぜ言葉を選ぶのか、リョウは少しだけ理解し始めていた。理解したからといって、苛立ちが消えるわけではなかったが。


 昇降口の前で、ナギサが待っていた。正確には、待っていたというより、立っていられなかったのだろう。壁に背を預け、スマホを握りしめ、何度も画面を確認している。リョウを見つけた瞬間、彼女の顔から血の気と怒りと安堵が同時に浮かんだ。


「リョウ」


 呼ばれた瞬間、世界の輪郭が深くなる。カードで保たれていた線が、ナギサの声で色を持つ。昇降口の靴箱、掲示板の紙、床に落ちた水滴、ナギサの髪にかかった細い光。すべてが鮮明になる。リョウはその変化に息を呑んだ。嬉しいと思った。助かったと思った。同時に、ひどく怖かった。自分は今、彼女の声に救われた。その救われ方が自然すぎて、怖かった。


「今、どこにいたの」


 ナギサは近づいてきた。手を伸ばしかけ、途中で止める。昨日の鏡のことを、彼女が言わないまま抱えていることを、リョウはまだ知らない。だが、彼女が手を伸ばすことをためらう理由が増えていることだけは分かった。


「駅前」


「知ってる。電話で聞いた。そうじゃなくて、どこにいたの。学校に来る途中で、何で駅前に戻って、何で電話がつながるまであんなに時間かかって、何でそんな顔してるの」


「アヤトに会った」


「影山アヤト」


 ナギサはすぐに繰り返した。忘れないための復唱だった。彼女は自分の知らない名前を、リョウのために覚えようとしている。その優しさが痛い。


「ああ」


「その人、何者なの」


「弾かれた者、って言ってた」


 ナギサの眉が寄る。


「何から」


「世界から」


 口にした自分でも、まだうまく理解できていない言葉だった。ナギサはしばらく黙ったあと、小さく言った。


「マナ先輩が聞いたら、すごく嫌な顔しそう」


「もうしてると思う」


「それ、冗談?」


「たぶん半分」


 ナギサは笑わなかった。リョウも笑えなかった。二人の間に、昨日よりも重い距離があった。恋人として近いはずの距離。だが、アスカの名前、マナの警告、アヤトのカード、ナギサ自身の不安が、そこへ見えない線を引いている。


「カード、見せて」


 ナギサが言った。


 リョウは胸ポケットからカードを出した。春日リョウ。ナギサは両手で受け取らず、リョウの手の上にあるカードを覗き込むだけにした。触れていいのか迷っているのだろう。彼女の目が、文字をゆっくり読む。


「春日リョウ」


 彼女が声に出すと、カードの文字がわずかに濃くなった気がした。リョウはそれを見て、背筋が冷えた。ナギサが自分の名前を呼ぶと、紙まで反応する。彼女の認識が、このカードを補強しているのかもしれない。


「これを持つと、少し安定する」


「少し?」


「君の声ほどじゃない」


 ナギサの顔が複雑に揺れた。喜ぶべきことではない。けれど、自分がリョウにとって特別な意味を持つと言われて、何も感じないわけでもない。その感情の混ざり方が、彼女を苦しめている。


「その人、また会えるの?」


「名前を忘れなければ、って」


「影山アヤト」


 ナギサはもう一度言った。


「忘れない。今は」


「無理に背負うな」


「無理かどうか、あたしが決める」


 少し強い声だった。リョウは黙った。ナギサはカードから目を離し、リョウを見る。


「でも、リョウも決めて」


「何を」


「あたしに何を話して、何を話さないのか。守るために黙るのは、もうやめて。黙られる方が怖い」


 リョウは答えられなかった。昨日、自分がナギサにどれだけ沈黙を押しつけていたかを思い出す。アスカを探すほど、ナギサは知らない場所へ置き去りにされる。なら、話すしかない。話せば危険になるかもしれない。それでも、黙って安全でいられる段階は過ぎている。


「今日の放課後、もう一度アヤトに会う」


 リョウは言った。


「どうやって」


「白紙のカードを渡された。たぶん、それが合図になる」


「一人で行くつもり?」


「本当は、そのつもりだった」


「却下」


「でも、君を」


「巻き込みたくない?」


 ナギサが先に言った。声が少し冷たい。


「その言葉、便利すぎ。あたしを守る言葉に見えて、あたしだけ何も知らない場所に置く言葉だから」


「ナギサ」


「あたし、リョウの命綱になるのは怖い。でも、何も知らないまま命綱にされるのはもっと嫌」


 リョウは反論できなかった。ナギサは一歩近づいた。手は握らない。だが、逃げない距離に立つ。


「一緒に行く。もしくは、マナ先輩を呼ぶ。それ以外は認めません」


「恋人みたいな言い方だな」


 言ってから、しまったと思った。ナギサの顔が一瞬だけ固まる。


「……みたい、じゃないでしょ。この世界では」


「ごめん」


「禁止」


「うん」


 二人の間に沈黙が落ちた。恋人としての記憶を持つナギサと、その記憶を自分のものとして持てないリョウ。その差は、どんな会話の端にも滲んでくる。ナギサはそれを誤魔化すように、視線を逸らした。


「放課後、駅前?」


「たぶん」


「たぶんで命かけないで」


「それもそうだな」


「ほんと、リョウってたまに冷静なのか雑なのか分からない」


 少しだけ、いつものナギサの調子が戻った。けれど、その笑い方はまだ疲れていた。


 放課後まで、リョウはカードを胸ポケットに入れて過ごした。授業中、何度も文字を確認したくなった。春日リョウ。そこにあると分かっているのに、見ないと不安になる。見れば少し落ち着く。だが、見すぎると今度は、その紙に書かれた名前の方が本物で、自分の体の方が借り物のように感じてくる。アヤトの言葉が思い出された。使いすぎると、紙に書かれた春日リョウとして安定しすぎる。生きている自分ではなく、記録上の自分になる。リョウはカードを見るたび、自分の手を握った。爪が掌に食い込む。痛みはある。生きている。まだ、紙だけではない。


 ナギサは昼休みに来なかった。代わりに、短いメッセージが届いた。


 放課後、昇降口。逃げたら怒る。


 その文面に、リョウは少しだけ笑いそうになった。笑いそうになった自分に気づいて、胸が痛んだ。ナギサとのこういうやり取りは、自然に心を温める。その温かさが、自分のものなのか、この世界が用意した恋人としての反応なのか、分からない。分からないのに、温かい。それが残酷だった。


 放課後、昇降口にはナギサだけでなく、マナもいた。黒い傘を持ち、壁際に静かに立っている。リョウを見る目は、予想通り、あまり歓迎していなかった。


「影山アヤトに会ったのね」


 最初の一言がそれだった。


「知ってたんですか」


「あなたが学校に来なかった時点で、可能性は考えた。ナギサから連絡も来た」


 ナギサが少し気まずそうに目を逸らす。


「だって、リョウがまた一人で変な方向行くから」


「正しい判断よ」


 マナはナギサにだけ少し柔らかく言い、それからリョウへ視線を戻した。


「何を渡されたの」


 リョウはカードを見せた。マナは触れなかった。ただ、文字を見た瞬間、眉をかすかに動かした。


「記録固定」


「知ってるんですね」


「知っている。でも、好きではない」


「なぜ」


「紙に名前を預けることは、便利な代わりに危うい。存在を保てる。けれど、存在の定義を他人の記録に握られる」


「アヤトは、君とは別のことを言ってた」


「彼は間違っていないわ。だから厄介なの」


 マナは短く息を吐いた。


「今日も会うつもり?」


「はい」


「止めても?」


「行きます」


「でしょうね」


 マナは黒い傘を持ち直した。


「なら、私も行く」


 リョウは少し驚いた。マナはアヤトを信用していない。だからこそ来るのかもしれない。ナギサはほっとした顔をした。


 三人で駅前へ向かう道は、奇妙なほど安定していた。ナギサが近くにいる。マナもいる。カードも胸にある。リョウの輪郭は、久しぶりに三方向から支えられているようだった。だが、その安定は安心ではなかった。三つの支えがあるということは、三つとも失えば落ちるということでもある。自分一人で立っていない。その事実が、だんだん明確になっていく。


 駅前の時計の下に、アヤトはいなかった。夕方の雑踏は朝とは違う。学校帰りの生徒、買い物客、仕事を終えた人々が入り混じり、駅ビルの照明が早めに灯っている。リョウは白紙のカードを取り出した。何も書かれていないはずの表面に、薄い影のような文字が浮かんで見える。椎名アスカ。まだ書いていない名前。書きたい衝動が胸を突いた。ナギサがそれに気づいたのか、彼の手元を見た。


「書くの?」


「今は、書かない」


「今は?」


「書くかもしれない」


 ナギサは何か言いたそうにしたが、マナが先に言った。


「ここでは駄目」


「分かってます」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんで世界を傷つけないで」


 そのやり取りの直後、駅ビルのガラス壁が少しだけ暗くなった。夕方の光を反射していたはずの面に、黒い廊下のような影が伸びる。人々は気づかない。ガラスの中だけに、駅前とは別の場所が映っている。長い通路。壁一面の古い書架。カードケースのような引き出しが無数に並ぶ部屋。そこに、影山アヤトが立っていた。


「来たね」


 声はガラスの内側から聞こえた。


 ナギサが息を呑み、リョウの袖を掴む。マナは黒い傘の柄を握ったまま、無表情に近い顔でガラスを見る。


「駅前で入口を開くなんて、相変わらず趣味が悪いわね」


 マナが言った。


「君たちが三人で来たから、安全な場所を選んだつもりだよ」


 アヤトの視線がナギサへ移る。


「椎凪ナギサさん」


 ナギサの体が少し強張った。


「僕の名前は影山アヤト。覚えてくれているかな」


「覚えてます。影山アヤトさん」


「ありがとう。君に覚えられると、少し安定する」


「それ、あんまり嬉しくない言われ方ですね」


「そうだね。言い方が悪かった」


 アヤトは穏やかに頷いた。その穏やかさに、ナギサは困惑しているようだった。敵意がない。けれど、普通でもない。彼の言葉は人を物のように扱っているわけではないが、現象として見ている冷静さがある。ナギサの認識が彼を安定させる。リョウの認識がアヤトの名前を保つ。それを、彼は感謝しながらも構造として語る。


「影山」


 マナが言った。


「春日くんに余計なことを吹き込むつもりなら、ここで切る」


「君が切ると、彼はまた一人で駅前に残される」


「あなたが引き込むよりはまし」


「そうかな。彼はもう、知らないままでは消える段階にいる」


 二人の声は静かだった。だが、空気が張り詰める。リョウはその間に立ちながら、二人がまったく違う方向から自分を見ていることを感じた。マナはリョウを世界へ戻そうとしている。アヤトは、戻れない前提で生き残る道を示そうとしている。どちらも自分を消したいわけではない。だが、どちらもアスカを取り戻すことを第一にはしていない。その事実が、リョウには苦かった。


「説明してください」


 リョウは言った。


「弾かれた者って何ですか」


 アヤトはリョウを見た。ガラスの中の彼の背後で、書架の影がゆっくり揺れる。


「世界は一つではない」


 彼は静かに言った。


「駅前も、六道学園も、君の家も、みんなが共有しているひとつの現実に見える。けれど、人はそれぞれ、自分を中心にした世界を持っている。誰を覚えているか。誰に覚えられているか。どんな関係を結んでいるか。何を失って、何を得たか。そういう無数の線が、その人の世界を形作っている」


「それは、記憶の話ですか」


「記憶だけじゃない。認識、関係、記録、習慣、呼び名、席、写真、メッセージ、身体の癖。全部だよ」


 アヤトは指を少し動かした。ガラスの中の書架から、紙片のようなものが何枚か浮かぶ。そこには、名前、写真、座席表、通話履歴、ノートの筆圧のような映像が一瞬ずつ映って消えた。


「世界が修正されると、それらの線が組み替えられる。ある人がいなかったことになる。別の人がその場所に入る。記録は自然に書き換わる。人々の記憶も、その新しい線に沿って整う。ほとんどの人は、違和感なく新しい世界で生きられる」


「僕は違う」


「そう。君は古い線を覚えている。椎名アスカという名前を忘れなかった。だから、新しい世界の中で君だけが噛み合わない。君の世界は、アスカさんがいた線を中心にしていた。その線を世界から引き抜かれたことで、君自身の世界は崩れた」


「僕は、ただアスカを探しているだけだ」


 リョウは言った。


「世界とか、線とか、そんな話がしたいんじゃない。僕はアスカがいたことを知っている。消されたことも知っている。だから探してる。それだけだ」


「その“それだけ”が、君を弾いている」


 アヤトの声は変わらない。


「君がアスカさんを忘れて、この世界で椎凪ナギサさんの恋人として生きるなら、たぶん安定する。完全にではないかもしれないけれど、少なくとも駅前で誰にも認識されなくなることは減る」


 ナギサの指がリョウの袖を強く掴んだ。リョウは息を止めた。


「でも君は忘れない。忘れられない。だから、世界は君を処理できない。新しい世界の住人としては整合しない。古い世界の住人としては、その世界がもうない。どちらにも属しきれない者。それが、弾かれた者だよ」


「……弾かれた者」


 ナギサが小さく繰り返した。


 アヤトは彼女を見た。


「君はまだ弾かれていない。でも、境界に近い場所にいる」


「どうして」


「リョウ君を認識しているから」


「そんなの、みんな認識してます。佐伯先輩も、先生も」


「違う」


 アヤトは首を振った。


「彼らは、この世界の春日リョウを認識している。椎凪ナギサの恋人で、六道学園二年三組にいる春日リョウを。君もそう認識している。でも同時に、君は彼の異常を見始めている。彼が別の名前を呼ぶこと。彼が世界から薄れること。君の声で戻ること。その二つの認識が君の中で重なっている」


 ナギサの顔が強張る。


「だから、危ない?」


「そう」


「でも、あたしが見ないふりをしたら、リョウは」


「消える可能性が高い」


 アヤトは躊躇なく言った。ナギサの息が止まる。リョウは怒りを覚えた。


「そんな言い方するな」


「曖昧に言えば彼女が傷つかないと思う?」


「少なくとも、今みたいに」


「リョウ君」


 アヤトの声が少しだけ強くなった。


「君は、彼女の優しさに守られている。なら、彼女には何が起きているのか知る権利がある」


 リョウは言葉を失った。ナギサの手が震えている。だが、彼女は離さなかった。アヤトは静かに続ける。


「ナギサさんが君を恋人として認識しているから、君はまだここにいられる」


 その言葉は、ガラス越しに放たれたのに、直接胸へ刺さった。


 リョウは、ナギサを見ることができなかった。


「彼女が君を呼ぶ。彼女が君を恋人として心配する。彼女の世界の中に、君の席がある。だから君は、この改変後の世界に仮置きされている。もし彼女が君を拒めば、あるいは彼女の世界が君を支えられなくなれば、君はさらに外れる」


「やめて」


 ナギサが言った。


 小さな声だった。


「それ以上、今は聞きたくない」


 アヤトは口を閉じた。マナがナギサの方へ一歩寄る。だが、ナギサは首を振った。


「大丈夫じゃないです。でも、触らないでください。今、誰に触られても、何が本物か分からなくなりそうなので」


 その言葉に、マナの表情が痛みに歪んだ。リョウは、ナギサに何と言えばいいか分からなかった。ナギサが自分を恋人として認識しているから、リョウは存在している。その認識は、ナギサの愛情なのか。世界に配置された役割なのか。リョウがナギサのそばにいたいと思うのは、彼女を大切に思うからなのか。彼女のそばにいると世界が鮮明になるからなのか。ナギサの声を聞いて安心するのは、彼女自身への感情なのか、生存本能なのか。


 分からない。


 分からないことが、こんなに残酷だとは思わなかった。


「僕は」


 リョウは声を絞り出した。


「ナギサを利用したいわけじゃない」


「知ってる」


 ナギサはすぐに言った。だが、その声は震えている。


「知ってるよ。リョウがそんなつもりじゃないのは、分かってる。でも、つもりがなくても、そうなってるってマナ先輩も言った。影山さんも、今そう言った。じゃあ、あたしはどうすればいいの。リョウが好きだからそばにいたいのか、リョウを支えなきゃいけないからそばにいるのか、あたしにも分からなくなる」


「ナギサ」


「リョウは、どうなの」


 ナギサはリョウを見た。


「あたしに近くにいてほしいのは、あたしだから? それとも、消えたくないから?」


 駅前の雑踏が遠のいた。ガラス壁の中の書架がゆっくり揺れ、アヤトもマナも何も言わない。リョウは答えようとした。ナギサだからだ、と。君自身が大事だからだ、と。そう言いたかった。だが、喉の奥で止まった。言えば嘘になるのかもしれない。完全な嘘ではない。ナギサは大事だ。彼女を傷つけたくない。彼女の名前も忘れたくない。けれど、彼女の近くにいると世界が鮮明になる。その安心感を、自分は確かに求めている。そこに生存本能が混ざっていないと言い切れない。


 答えられない沈黙が、またナギサを傷つけた。


 ナギサは笑おうとした。いつもの癖で。けれど、うまくいかなかった。


「そっか」


「違う。ナギサ、違うんだ」


「何が違うの?」


「君を道具にしたいわけじゃない」


「それは分かってる。でも、あたしが聞いたのはそこじゃない」


 ナギサはリョウの袖から手を離した。


 瞬間、リョウの視界の端が滲んだ。駅前の輪郭が薄くなる。カードが胸元で熱を持つ。春日リョウ、と書かれた文字が彼を引き留める。だが、ナギサの手が離れた穴はすぐに分かった。彼女の声が近くにあるだけでは足りない。彼女が自分を見ているだけでは足りない。彼女の認識が揺れると、リョウの存在も揺れる。


 ナギサは、それに気づいた。


 彼女の顔から血の気が引く。


「今、ぼやけた?」


 リョウは答えられなかった。答えなくても、顔で分かったのだろう。ナギサは一歩下がった。リョウの輪郭がさらに薄くなる。マナが鋭く言った。


「ナギサ、下がりすぎないで」


「でも」


「今は距離を取ると危ない」


「じゃあ、あたしが近づけばいいんですか。リョウが答えられなくても。あたしが傷ついても。近づかないとリョウが消えるから?」


 マナは言葉を失った。


 アヤトが静かに言う。


「だから、記録が必要なんだ」


 ナギサもリョウも、アヤトを見た。


「感情で支えるには限界がある。恋人としての認識に頼れば、ナギサさんの世界が削られる。鳴海マナの警告は正しい。だから、レジストリがある」


「レジストリ」


 リョウはその名を繰り返した。


 ガラスの中の書架が、少しだけ明るくなる。無数の引き出し、カード、名札、古い台帳、光のない端末。そこは図書館にも、役所にも、墓地にも見えた。名前を保管する場所。消えかけた者を、完全に消えないよう仮に留める場所。


境界記録局レジストリ


 アヤトは言った。


「世界から弾かれた者、消された名前、修正から外れた記憶、そういうものを記録する場所だよ。公的な組織ではない。少なくとも、君たちの学校や行政が知っているような意味では」


「そこへ行けば、アスカの記録があるのか」


 リョウの声が強くなる。


 アヤトはすぐには頷かなかった。


「あるかもしれない。ないかもしれない。あったとしても、君が望む形ではないかもしれない」


「またそれか」


「期待を制御しないと、君は壊れる」


「生き残る話ばかりだな」


「生き残っていない者は、誰も探せない」


 アヤトはリョウを見た。


「消えたくないなら、君の名前を記録する必要がある」


 その言葉で、胸ポケットのカードが重くなった。春日リョウ。いまは紙一枚の仮固定。レジストリへ行けば、それを正式に記録するのだろう。そうすればナギサの認識だけに頼らなくても済むかもしれない。彼女を命綱にしなくてよくなるかもしれない。だが、それは同時に、自分が普通の春日リョウではなく、弾かれた者として扱われることを認めることでもある。


「記録されたら、僕は元に戻れるのか」


「戻れるわけではない。消えにくくなる」


「アスカは」


「君の記録が安定すれば、探しに行ける範囲が広がる」


「それは、取り戻せるって意味じゃない」


「そうだよ」


 アヤトは静かに言った。


「僕は、取り戻せるとは言わない」


 リョウは拳を握った。怒りが湧く。アヤトは正しいのかもしれない。だが、正しいだけだ。彼の言葉には、アスカへの祈りがない。名前を記録し、生き残り、消えないようにする。その先に何があるのか。アスカのいない世界で生き延びることに、何の意味があるのか。


「僕は、アスカを取り戻したい」


「知っている」


「生き残るだけなら、意味がない」


「それも知っている」


「なら、なぜそんな顔で言えるんだ」


 アヤトは少しだけ視線を伏せた。


「生き残るだけでも、意味があった人たちを見てきたから」


 その一言だけ、彼の声が違った。淡々とした説明ではなく、何かを見送った人の声だった。リョウは言葉を詰まらせた。アヤトもまた、誰かを救えなかったのかもしれない。名前だけでも残したいと願うほど、多くの消失を見てきたのかもしれない。


 マナが低く言った。


「レジストリへ行けば、春日くんはさらに外側へ近づく」


「行かなければ、彼はナギサさんへ依存し続ける」


「あなたの記録に依存することになるだけよ」


「少なくとも、記録は傷つかない」


「人を紙にするな」


「紙にしなければ消える者もいる」


 二人の言葉がぶつかる。ナギサはその間で顔を伏せていた。リョウは彼女を見る。彼女を救うためにレジストリへ行くのか。彼女から離れるために行くのか。アスカを探すために行くのか。自分が消えたくないから行くのか。動機が絡み合って、ほどけない。


 ナギサが顔を上げた。


「リョウ」


「……うん」


「あたし、正直、行ってほしくない。だって、そこへ行ったら、リョウがもっと遠くへ行く気がする」


「ナギサ」


「でも、行かなかったら、あたしがリョウを支えることになる。それも怖い。あたし、そんなに強くない」


 彼女は一度唇を噛んだ。


「だから、行くなら条件があります」


「条件?」


「一人で行かない。あたしにも説明する。あたしが駄目だと思ったら戻る。戻れなくなりそうなら、あたしの名前を呼ぶ。アスカさんの名前だけじゃなくて、あたしの名前も、自分の名前も呼ぶ」


 それは、ナギサなりの抵抗だった。命綱にはならない。でも、見捨てもしない。恋人として支えるのか、協力者として支えるのか、自分でも分からないまま、それでも条件を出して立っている。


 リョウは頷いた。


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


「アスカさんのことで頭いっぱいになったら、忘れそう」


「忘れない」


「じゃあ、今言って」


 ナギサはまっすぐ見た。


 リョウは息を吸った。


「春日リョウ」


 胸のカードがわずかに温かくなる。


「椎凪ナギサ」


 ナギサの目が揺れる。


「椎名アスカ」


 駅前のガラス壁に、細い亀裂のような光が走った。マナが黒い傘を握り直す。アヤトは動じなかった。ただ、白紙のカードを見ている。


「順番を忘れないで」


 ナギサが言った。


「うん」


 リョウは頷いた。


 アヤトがガラスの中から手を差し出した。現実のガラス面に、薄い水面のような揺れが広がる。向こう側の書架が近づく。境界記録局レジストリ。消えたくない者の名前を記録する場所。アスカの手がかりがあるかもしれない場所。リョウが自分を弾かれた者として認める場所。


「来るかい」


 アヤトが問う。


「消えたくないなら、君の名前を記録する必要がある」


 リョウは胸ポケットのカードを押さえた。春日リョウ。自分の名前。ナギサの視線が横にある。マナの警戒が背後にある。ガラスの向こうには、影山アヤトがいる。そして、まだ白紙のカードには、書かれていない名前がある。


 椎名アスカ。


 リョウはその名を胸の奥でだけ呼んだ。


 ガラスの向こうの書架が、静かに開いた。

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