第9章 境界記録局《レジストリ》
駅ビルのガラス壁が、内側から開いた。開いた、という表現が正しいのかは分からない。扉のように隙間ができたわけではない。ガラスはそこにあり、夕方の駅前も、通行人も、バスロータリーの赤い尾灯も、全部そのまま映っている。けれど、反射の奥に別の奥行きが生まれた。書架の影、無数の引き出し、紙の匂いがする暗い通路。現実のガラス面の向こうに、現実ではない場所が重なり、こちらを受け入れる形へ沈んでいく。影山アヤトはその向こう側に立ち、手を差し出していた。手を取れというより、名前を確認してから入れ、と言っているような静かな仕草だった。
「入る前に、自分の名前を読んで」
アヤトが言った。
リョウは胸ポケットからカードを取り出した。春日リョウ。黒いインクで書かれた自分の名前。ナギサが隣で息を詰める。マナは黒い傘を持ったまま、ガラスの揺らぎを睨んでいた。
「春日リョウ」
声に出す。カードの文字が、ほんの少しだけ濃くなる。
「椎凪ナギサ」
ナギサが続けた。自分の名前を自分で呼ぶ声は、少し震えていた。彼女はリョウの袖を掴んでいない。代わりに、リョウのすぐ隣に立ち、いつでも掴める距離を保っている。その距離が、彼女の精一杯の勇気だった。
「鳴海マナ」
マナも短く名乗った。自分の名前を呼ぶとき、彼女はわずかに反応が遅れた。リョウはそれを見逃さなかった。マナ自身も気づいているのだろう。彼女は何も言わず、黒い傘の柄を握り直した。
アヤトが頷く。
「いい。名前を持って入って」
リョウは白紙のカードをポケットの奥へしまい、ガラスへ足を踏み出した。普通なら額をぶつけるはずだった。だが、足先は冷たい水面へ沈むようにガラスの表面を抜けた。視界が反転する。駅前の雑音が後ろへ遠のき、代わりに紙がめくれる音、古い引き出しが開閉する音、遠い場所で誰かが名前を呼ぶ声が重なって聞こえた。次の瞬間、リョウは薄暗い通路に立っていた。
そこは建物ではなかった。少なくとも、リョウの知っている意味での建物ではない。天井は高いのに、上を見上げると途中から闇に溶けている。床は石でも木でもなく、硬い紙を何層も重ねたような感触だった。踏むたびに、微かなざらつきと乾いた音がする。両側には書架が並んでいた。図書館の本棚にも見える。役所の古い書類棚にも見える。病院のカルテ庫、学校の倉庫、墓地の納骨堂。どれにも似ていて、どれでもない。棚には、本だけでなく、封筒、写真、カセットテープ、ICレコーダー、学生証、名札、鍵、髪留め、折り畳まれたハンカチ、古いスマホ、割れた鏡片、見覚えのない制服のボタンなどが、透明なケースに入れられて並んでいた。
ナギサが小さく息を呑んだ。
「これ、全部」
「弾かれた者たちの記録」
アヤトが言った。
「名前、写真、音声、筆跡、持ち物。本人を示す可能性のあるものを、できる限り保管している」
「保管って」
ナギサの声が掠れる。
「人の人生を、落とし物みたいに」
「落とし物に近いよ」
アヤトは穏やかに言った。
「世界から落ちたものだから」
ナギサは言葉を失った。マナが低く言う。
「言い方」
「飾っても本質は変わらない」
「だから信用されないのよ」
「信用より、正確さを優先している」
二人のやり取りは静かだったが、空気は張り詰めていた。アヤトはこの場所の人間だ。マナはこの場所を知っているが、好きではない。リョウには、それだけで十分伝わった。レジストリは必要な場所なのだろう。けれど、ここへ来ること自体が安全ではない。名前を残す場所でありながら、ここに並んでいるものは、誰かが世界から落ちた証拠だった。
通路の奥へ進む。左右の棚には、細いラベルが貼られている。ラベルには名前があるものもあれば、頭文字だけのものもある。番号だけのものもある。黒く塗られているものもある。空欄もある。リョウは空欄の棚の前で足を止めた。透明なケースの中に、学校の名札らしきものが入っている。名前の部分だけが白く抜けている。隣には、集合写真が一枚。中央に不自然な空白がある。空白の周囲にいる人々は、その空白を見て笑っている。
「名前が残らなかった人」
アヤトが言った。
「それでも、何かがいたという跡だけは残せた」
「それで救ったつもりか」
リョウの声は、自分でも驚くほど冷たかった。
アヤトは怒らなかった。
「救ったとは言っていない」
「じゃあ、何なんだ」
「消えきらないようにした」
「同じじゃないのか」
「全然違う」
アヤトは足を止め、リョウを振り返った。
「僕たちは、失われた人を取り戻す組織じゃない。消えないように、名前を残しているだけだ」
その言葉は、レジストリの空気そのものだった。乾いていて、静かで、正確で、残酷だった。リョウの胸に怒りが湧いた。
「名前を残して、それでどうする」
「いつか誰かが思い出すかもしれない。誰かが探しに来るかもしれない。記録が残っていれば、完全な無にはならない」
「でも、戻らない」
「戻るとは言えない」
「それじゃ意味がないだろ!」
通路に声が響いた。棚の中のケースが、わずかに震える。写真の中の空白が一瞬だけ濃くなり、古いICレコーダーの赤いランプが点いた気がした。マナが一歩前へ出る。
「春日くん、声を抑えて」
「抑えられるかよ。ここにあるのは、戻れなかった人たちの残骸じゃないか。名前だけ、写真だけ、持ち物だけ、ノイズだけ。こんなものを集めて、消えませんでしたって言うのか」
「言わない」
アヤトの声は静かだった。
「消えなかったとは言わない。消えきらなかったと言う」
「同じだ!」
「同じじゃない」
アヤトの声が、初めて少し強くなった。
「完全に消えるということは、誰も痛まないということだ。誰も探さない。誰も名前を呼べない。空白すら残らない。最初から何もなかったことになる。それに比べれば、残骸でも、ノイズでも、黒塗りでも、空欄でも、残る方がいい」
「それは、残された側の理屈だ」
「そうだよ」
アヤトは即答した。
「レジストリは、残された側の場所だ。消えた人を元に戻せないなら、せめて残された痛みを無意味にしないための場所だ。君が怒るのは正しい。でも、君が怒っている相手は、ここではない」
リョウは言葉に詰まった。アスカを消したのはレジストリではない。ここは、消えたものを集めているだけだ。分かっている。分かっているから、余計に怒りの置き場がなかった。
ナギサが袖を掴もうとして、途中で止めた。リョウはその手の動きを見た。彼女は迷っている。触れればリョウは落ち着くかもしれない。だが、触れればまた自分が命綱になる。ナギサは自分の手を握りしめ、代わりに名前を呼んだ。
「春日リョウ」
その呼び方は、恋人の「リョウ」ではなかった。前の距離に近い、少し硬い呼び方だった。リョウは振り返った。ナギサは怖そうな顔をしていたが、目を逸らさなかった。
「ここで怒っても、アスカさんの名前、見つからない」
その言葉に、リョウは息を吐いた。彼女は正しい。正しいことを言いながら、傷ついている。アスカのために怒るリョウを止める自分。恋人としてはつらいはずなのに、それでも止めている。リョウは拳を握り直した。
「……分かってる」
ナギサは頷いた。触れずに、ただそこに立つ。それだけで、世界の輪郭は少し保たれた。
アヤトは再び歩き出した。通路は奥へ続いている。途中、いくつもの小部屋があった。ひとつは写真だけが吊るされた部屋。壁一面に、誰かの顔が写っている。だが、何枚かは顔の部分だけが白く抜けていた。ひとつは音声保管室。棚に並ぶ古いレコーダーやUSBメモリから、かすかな声が漏れている。名前を呼ぶ声、笑い声、泣き声、雑音に沈んだ言葉。ひとつは筆跡室。透明な板に貼られたメモやノートの切れ端が、光に透かされている。消えかけた文字、強く押された筆圧、途中で途切れた署名。リョウはそのすべてにアスカを探した。髪留めの形、字の傾き、声の掠れ、写真の横顔。だが、すぐには見つからない。
「検索はできないのか」
リョウが聞くと、アヤトは頷いた。
「できる。ただし、名前が安定している場合に限る」
「椎名アスカ」
リョウがその名を口にした瞬間、通路の照明が一つ消えた。棚の奥で、何かが倒れる音がする。ナギサがびくりと肩を揺らし、マナが鋭く言った。
「ここで軽く呼ばないで」
「軽くなんて」
「分かっている。でも、ここは名前に反応しすぎる」
アヤトが補足する。
「レジストリは名前を保管する場所だから、失われた名前には敏感なんだ。君がその名前を呼ぶたび、記録されていない空白が揺れる」
「じゃあ、どう探す」
「頭文字。痕跡。関連記録。あるいは、君の持つ未記入カード」
リョウはポケットの白紙カードに触れた。書きたい衝動が強くなる。椎名アスカ。そう書けば、棚が反応するのではないか。記録が現れるのではないか。アスカへの道が開くのではないか。
「まだ書かないで」
ナギサが言った。彼女はリョウの手元を見ていなかったのに、気づいていた。
「今のリョウ、書きそうな顔してる」
「書けば、探せるかもしれない」
「でも、さっき言われた。世界に傷がつくって」
「もう傷だらけだ」
「だから増やしていいわけじゃない」
ナギサの声は震えていた。リョウは黙った。マナが静かに頷く。
「ナギサの言う通り。今は既存の記録を探すべきよ」
アヤトは反対しなかった。
「未分類棚へ案内する。名前が安定しない記録は、まずそこに集められる」
通路はさらに奥へ曲がった。そこから先は、レジストリの空気が変わった。整然としていた書架が少し乱れ、ラベルの文字がかすれ、ケースの中の物も不揃いになる。棚の上には埃のような黒い粒が積もっていた。リョウはそれを見て、保健室の鏡から溢れた黒い水を思い出した。ミラーの気配にも似ているが、同じではない。もっと乾いている。燃え残りの灰のようだった。
「ここは?」
ナギサが小声で聞く。
「分類前、あるいは分類不能の記録」
アヤトが答える。
「名前が複数に分かれたもの、世界によって表記が違うもの、本人の痕跡かコピーの痕跡か判別できないもの、強い修正を受けて劣化したもの。ここは不安定だから、長く見ない方がいい」
「コピーの痕跡」
リョウはその言葉に反応した。
「アスカの姿をしたものも、ここに入るのか」
「可能性はある」
「本人とコピーを、どうやって分ける」
「簡単には分けられない」
「それじゃ意味が」
「だから未分類なんだ」
アヤトは淡々と言った。
未分類棚には、黒ずんだファイルがいくつも並んでいた。表紙が波打っているもの、ラベルが剥がれかけたもの、紙の端が焦げたように黒いもの。中には、透明ケースの中で写真が何度も別の顔へ変わっているものもあった。ナギサは少し顔を背けた。マナは無言で棚を見ている。彼女もここへ来たことがあるのかもしれない。あるいは、来たことを忘れているのかもしれない。
リョウは棚の前へ進んだ。胸のカードが熱い。春日リョウ。白紙カードもポケットの奥で重い。手を伸ばすたび、どのファイルも一瞬アスカに見える気がした。長い髪の写真。女子生徒の学生証。消えかけたメモ。どれも違う。違うと分かるたび、胸が削れる。
「落ち着いて」
マナが言った。
「焦ると、見たいものだけを見る」
「分かってます」
「分かっていない顔をしている」
「マナ先輩は、いつもそうやって」
「止めるわ。必要なら何度でも」
その言葉に怒りかけた瞬間、ナギサが小さく言った。
「ありました」
リョウとマナが同時に振り向く。ナギサは棚の下段を見ていた。そこに、一冊だけ他のファイルとは違うものがあった。黒く汚れている。表紙は湿ったように波打ち、端には乾いた灰のようなものがこびりついている。ファイルのラベルは、白いはずなのに灰色に濁っていた。そこに、細い黒文字で書かれている。
S.A.
リョウの喉が詰まった。
「S……A」
椎名アスカ。頭文字なら一致する。けれど、それだけではないかもしれない。佐伯律ではない。SとA。別の誰かかもしれない。そう考えようとしても、心臓はもう答えを決めていた。
アヤトの表情が、初めて明確に変わった。わずかに目を細め、ファイルを見つめる。
「これは」
「知らないの?」
マナが聞く。
「未分類棚には、僕が直接収容していない記録もある。レジストリへ流れ着くものもあるから」
「流れ着く?」
「誰かが必死に覚えていたもの。世界が消しきれなかったもの。本人が残ろうとしたもの。そういう記録は、ときどき、こちらへ流れてくる」
リョウはファイルへ手を伸ばした。
「待って」
アヤトが止めた。
「何で」
「黒く汚れている。ミラー由来か、世界修正の焼け跡か、まだ判別できない。触れると、君の記憶が引っ張られる可能性がある」
「それがアスカの記録なら、引っ張られても」
「リョウ」
ナギサが名前を呼んだ。今度は、強い声だった。
リョウの手が止まる。
「約束した。順番を忘れないって」
リョウは息を吸った。春日リョウ。椎凪ナギサ。椎名アスカ。順番。自分の名前を持って、ナギサの名前を忘れず、それからアスカの名前を呼ぶ。でなければ、自分は痕跡に呑まれる。分かっている。分かっているのに、目の前のS.A.から目を離せない。
「春日リョウ」
リョウは声に出した。胸のカードが熱を持つ。
「椎凪ナギサ」
ナギサが小さく返事をした。
「はい」
リョウは震える手で、ファイルへ触れた。
冷たかった。
紙の冷たさではない。鏡の向こう側の水のような冷たさ。触れた瞬間、耳元でノイズが走った。ザー、という音。その奥に、少女の声がある。聞き取れない。遠い。けれど、確かに何かが呼んでいる。ファイルの黒い汚れが、リョウの指先へ移りそうに滲む。マナが黒い傘を構え、アヤトが片手を上げる。ナギサが息を止める。
ファイルは、まだ開いていない。
ラベルの「S.A.」だけが、薄暗い記録棚の中で、消えかけた名前のように浮かんでいた。




