第10章 S.A.の記録
未分類棚の奥にあった黒く汚れたファイルは、他の記録とは明らかに違っていた。厚みは薄い。にもかかわらず、そこだけ空気が重かった。表紙の端は水に濡れて乾いたように波打ち、黒い汚れはインクでも煤でもなく、紙そのものの内側から滲み出したもののように見えた。白いラベルには「S.A.」とだけ書かれている。リョウはその二文字から目を離せなかった。椎名アスカ。そう読める。そう読んでしまう。別の誰かの頭文字かもしれないと考えようとしても、胸が先に答えを決めていた。呼んではいけない場所で名前を呼ぶような危うさが、喉の奥にこみ上げる。
アヤトはファイルの前に立ち、いつもの静かな顔を少しだけ硬くしていた。
「開く前に確認する」
「何を」
「これは本人の記録とは限らない」
リョウの手が止まる。
「S.A.って書いてある」
「だからこそ危ない」
「どういう意味だ」
「君は、その二文字を見た瞬間に椎名アスカだと思った。そうであってほしいと願った。未分類の記録は、見る側の願望を吸うことがある。本人の痕跡、コピーの痕跡、ミラーが残した汚染、君の記憶、君の願望。それらが混ざっている可能性がある」
「それでも、開く」
「止めても?」
「止まらない」
リョウは答えた。迷いはあった。怖さもあった。だが、目の前にあるものを開かずに戻ることだけはできなかった。アスカの名前が世界から消された。写真から消え、連絡先から消え、座席表から消えた。残ったのは、紙の筆圧、ノイズ、黒塗り、反射の影。どれも断片だった。その断片の先に、初めて「S.A.」と書かれたファイルがある。危険だから見ない、という選択肢は、リョウの中にはなかった。
ナギサが近づいた。触れはしない。ただ、リョウの斜め横に立つ。手を伸ばせば袖を掴める距離。だが、まだ掴まない距離。
「順番」
彼女は小さく言った。
リョウは頷く。胸ポケットのカードに手を当てる。
「春日リョウ」
カードの文字が微かに熱を帯びる。
「椎凪ナギサ」
「はい」
ナギサが返事をする。声は震えているが、そこにいる。
リョウは、最後の名前を胸の奥でだけ呼んだ。椎名アスカ。レジストリの通路の灯りが一瞬揺れた。マナが黒い傘を握る。アヤトが目を細める。それでも、何も起きない。少なくとも、まだ。
「開ける」
リョウはファイルの表紙に指をかけた。
紙は冷たかった。鏡の水面に触れたときのような冷たさだった。表紙をめくると、乾いたはずの紙の間から、薄い霧が漏れた。白ではない。黒とも言い切れない。煤のようで、墨を水に垂らしたようでもあり、光を含まない夜の欠片のようでもある。その霧はすぐに散り、ファイルの中身が見えた。
そこには、椎名アスカの完全な記録などなかった。
学生証もない。顔写真もない。生年月日も、住所も、出席番号もない。アスカが六道学園に在籍していたと証明する一枚の書類もない。リョウの期待は、最初の一秒で砕かれた。だが、空ではなかった。むしろ、空であってくれた方がまだ楽だったかもしれない。ファイルの中には、断片が貼りつけられていた。
一枚目は、薄い紙片だった。保健室の相談記録らしき用紙の切れ端。氏名欄は黒く焼け焦げたように消えている。日付も読めない。だが、残った本文にいくつかの言葉が見える。
幸せなのに、不安。
大切な人の世界から。
消えない自分に。
忘れられるより、先に。
リョウの喉が詰まった。保健室の白いカーテンが、脳裏に揺れる。薬品の匂い。白い光。水鏡紫影の穏やかな声。アスカが言えなかった不安。それを記録した文字が、ここでは切れ端として残っている。
「これは」
「相談記録の欠片だと思う」
アヤトが言った。
「ただし、原本ではない。世界から剥がれた写しだ。文字の周囲が黒く劣化している。ミラー接触を受けている」
「ミラーに汚れていても、アスカの言葉だ」
「アスカさんの言葉だった可能性がある、だよ」
「同じだろ」
「同じじゃない」
アヤトの声は冷静だった。
「ここで同じにすると、君は後で必ず間違える」
リョウは言い返そうとして、紙片から目を離せなかった。次のページには、写真ではなく、写真の痕跡があった。白いカーテンのような布の断片。柔らかいはずの布は、透明なシートの中で乾いて固まり、端が黒く汚れている。ラベルには「保健室/白布/反射面付近」とだけある。布の表面に、ほとんど読めないほど薄い鉛筆の跡があった。リョウは顔を近づける。アヤトが制止しかけ、マナが無言で一歩近づいた。
リョウ。
そう見えた。
アスカの筆跡に似ている。完全ではない。記憶の中の字より少し崩れている。だが、丸みのある線、右へわずかに傾く癖、最後の払い方。アスカがノートの端に何かを書くときの字に似ていた。リョウは指でなぞりかけた。ナギサが小さく言う。
「触らない方がいい」
「分かってる」
分かっている。だが、手が動きそうになる。そこに自分の名前がある。アスカが書いたかもしれない文字で、自分の名前が残っている。たったそれだけで、胸の奥が熱くなる。
さらにページをめくる。小さな音声チップが貼られていた。古いICレコーダーから取り出した部品のようにも、スマホの破片のようにも見える。アヤトが横から細い器具を取り出し、チップを読み取り機のような台に置いた。レジストリの棚の一部が淡く光る。雑音が流れた。ザー、という水の底の音。リョウは息を止める。
『……覚えて……』
声がした。
ナギサの指が震える。マナの表情が硬くなる。
『……リョウ……』
雑音が割れる。そこに混じって、何人もの声が重なる。アスカの声に似ている。だが、完全にアスカだけではない。水鏡の声、ミラーズの声、聞いたことのない少女たちの声。リョウを呼ぶ音声が、無数の反響に裂けている。
『リョウ……わたし……ここ……』
『覚えて……』
『忘れないで……』
『来て……』
『来ないで……』
矛盾した言葉が同時に流れた。来て。来ないで。覚えて。忘れないで。声はアスカに似ている。似すぎている。だから、どれが本物なのか分からない。リョウは読み取り機に手を伸ばした。音を止めるためではない。もっと近くで聞くために。ナギサが止めようとする前に、マナが低く言った。
「春日くん」
その声で、リョウは手を止めた。
「今のは、アスカさんの声だけじゃない」
「分かってます」
「分かっていない顔をしている」
「それでも、アスカの声が混じってる」
「混じっているから危ない」
マナの声は厳しかった。だが、そこに怒りはない。恐れている。リョウが声に引き寄せられ、欠片と本人を同じものとして抱きしめてしまうことを。
アヤトはチップを慎重に元の位置へ戻した。
「これは音声記録ではなく、音声ノイズだ。呼び声の残響。本人の発話を含む可能性はある。でも、ミラーの反響も混ざっている。君の名前を呼ぶ形をしているからといって、すべてに答えてはいけない」
「じゃあ、どれがアスカなんだ」
リョウの声が掠れる。
「教えてくれ。どれがアスカで、どれがミラーで、どれが僕の願望なんだよ」
アヤトは黙った。
「分からないなら、分からないって言え」
「分からない」
即答だった。
リョウは歯を食いしばった。怒りよりも、喪失感が先に来た。レジストリなら分かるのではないかと思っていた。名前を記録する場所なら、本人と欠片を分けられるのではないかと。だが、ここでも分からない。ここにあるのは、戻すための答えではなく、消えきらなかった破片の保管庫だった。
ファイルの最後のページには、小さな透明ケースが貼られていた。中には、硝子片のようなものが入っている。かつてローズから渡された鏡片に似ていた。だが、それより黒い。表面に細かな亀裂があり、角度を変えると白いカーテン、教室の窓、駅前の自販機、アスカの髪のような影が一瞬ずつ映る。ケースのラベルには、手書きでこうある。
鏡面から切り離された欠片。
分類不能。
S.A.関連の可能性。
汚染強。
リョウはその文字を読んだ瞬間、体が勝手に動いた。
「待って」
アヤトが言った。
マナも同時に傘を上げる。ナギサが「リョウ」と呼ぶ。だが、リョウの指はもうケースの留め具に触れていた。小さな蓋が、抵抗なく開く。まるで、最初から彼の手を待っていたようだった。
硝子片に触れた。
冷たい。
次の瞬間、黒い霧のようなものが、指先ににじんだ。
それは硝子片から流れ出したのか、リョウの指から滲み出したのか分からなかった。墨を水に垂らしたような黒が、爪の周りから皮膚の溝へ入り込み、手の甲へ薄く広がる。痛みはない。熱もない。むしろ、どこか懐かしい感覚があった。胸の奥にあるアスカの名前が、それに反応して強く脈打つ。世界がアスカを忘れたなら、世界に思い出させればいい。写真が消えたなら、写真を作り直せばいい。記録が黒く塗られたなら、黒ごと混ぜて新しい形にすればいい。そんな考えが、自分のものではない速度で頭の奥へ流れ込んでくる。
リョウは硝子片を握りしめた。
「リョウ!」
ナギサの声が鋭く響く。
その声で、黒い霧の広がりが一瞬止まった。リョウは自分の手を見る。指先が黒く滲んでいる。だが、嫌悪より先に、手放したくないという感情が来た。この欠片にはアスカがいる。完全ではない。本人ではない。汚染されている。危険だ。全部分かっている。それでも、手の中にある。世界から消えたアスカへつながる何かが、今、自分の手の中にある。
「離して」
アヤトの声が、初めてはっきり緊張した。
「リョウ君、それを離して」
「嫌だ」
「それは記録じゃない。接続片だ。君の中へ入り込む」
「アスカへつながるなら」
「それはアスカさん本人ではない!」
アヤトの声が通路に響いた。棚の中の記録がいっせいに震える。マナがリョウの手首を掴もうとするが、黒い霧が彼女の指先を避けるように揺れた。マナの顔が強張る。
「春日くん、自分の名前を呼んで」
「春日リョウ」
リョウは言った。だが、声が薄い。胸のカードが熱を持つ。文字が焼けるように痛む。それでも、硝子片を握る手は緩まない。
「椎凪ナギサ」
ナギサが自分で言った。次に、泣きそうな声でリョウを呼ぶ。
「リョウ。お願い。手を離して」
リョウはナギサを見た。彼女の顔は青ざめている。怖がっている。リョウを失うことを怖がっている。リョウが何か別のものになることを怖がっている。その顔を見て、手を離さなければと思った。だが、指が動かなかった。硝子片の奥で、誰かが呼んでいる。
『リョウ』
今度の声は、近かった。
『覚えていて』
リョウの視界が揺れる。レジストリの未分類棚が遠くなり、代わりに白い保健室のカーテンが見える。アスカの横顔。中庭の水盤。図書室の机。駅前の自販機。全部が黒い霧の中で混ざり合い、ひとつの形を作ろうとしている。そこにアスカを戻せる気がした。欠片を集めれば。記録を混ぜれば。失われた世界の残骸をひとつにすれば。アスカの輪郭を、もう一度作れる気がした。
アヤトが表情を変えた。
今までの冷静さが消えていた。彼はリョウの手元ではなく、リョウ自身を見ている。目の奥に、はっきりとした警戒と驚愕が浮かぶ。
「その霧」
アヤトが呟いた。
「記録の劣化じゃない。ミラー汚染だけでもない。混ざっている。君の側から、混ざり返している」
「何を言ってる」
リョウの声が自分のものではないように低く聞こえた。
黒い霧が指先から手首へ伸びる。そこに、無数の色が沈んでいる気がした。黒なのに、ただの黒ではない。赤も、白も、青も、灰色も、見えないまま混ざっている。何もない色ではなく、すべてを混ぜた色。世界の破片をもう一度こね直すための色。
マナが息を呑んだ。
「影山」
「分かっている」
アヤトは短く答えた。だが、その声には今までにない焦りがあった。
「リョウ君。今すぐ、その欠片をケースへ戻して。これは警告じゃない。手遅れにしないための指示だ」
「手遅れ?」
「君の中で、何かが始まっている」
ナギサが一歩近づいた。黒い霧が彼女の方へわずかに伸びる。リョウは反射的に手を引いた。ナギサに触れさせたくなかった。その瞬間だけ、指の力が緩む。マナがすかさず黒い傘の柄で硝子片を軽く弾いた。硝子片はリョウの手から離れ、ケースの中へ落ちる。アヤトがすぐに蓋を閉めた。黒い霧は行き場を失い、リョウの指先で小さく渦を巻いたあと、皮膚の下へ沈むように薄くなった。
消えたわけではなかった。
爪の根元に、細い黒い線が残っている。血管のように、墨のように。
リョウは荒い息を吐いた。硝子片が離れた途端、膝が崩れそうになる。ナギサが反射的に支えようとして、途中で手を止め、それでも耐えきれずにリョウの袖を掴んだ。
「リョウ、リョウ、春日リョウ」
彼女は必死に名前を呼んだ。リョウはその声で、ようやく自分の呼吸を思い出した。
「椎凪ナギサ」
声が掠れる。
「はい。いる。あたし、ここにいる」
ナギサの声は震えていた。泣いているのかもしれない。リョウは彼女を見た。彼女の顔がはっきりしている。だが、その背後の未分類棚は少し歪んでいた。黒い霧の残像が、まだ視界の端で揺れている。
マナはリョウの指先を見ていた。白い顔で、しかし取り乱さずに。
「痛みは?」
「ない」
「熱は」
「ない」
「声は聞こえる?」
リョウは答えようとして、耳を澄ませた。ノイズは消えている。だが、胸の奥に、まだ微かな呼び声の跡が残っている。覚えていて。リョウ。来て。来ないで。混ざりすぎて、もうどれが誰の声か分からない。
「……残ってる」
マナの表情がさらに硬くなる。
アヤトはケースを封印するように黒い紐で縛り、棚へ戻した。その動作は慎重だった。だが、彼の目はずっとリョウに向いていた。さっきまでとは違う。消えかけた者を見る目ではない。もっと危険なものを見る目だった。
「アヤト」
リョウは言った。
「何なんだ、今のは」
アヤトはすぐには答えなかった。沈黙の中で、レジストリの棚が遠くで軋む。名前のカードたちが、息を潜めているようだった。
「普通の弾かれた者は、世界から外れる」
アヤトは低く言った。
「だから、他者の認識や記録に支えられなければ消える。君もそうだった。駅前で、誰にも認識されなくなっていた」
「だったら、今のは何だ」
「君は、欠片に引かれただけじゃない」
アヤトの声が、ほんのわずか震えていた。
「欠片を、君の側へ引き寄せようとしていた。記録を読むのではなく、混ぜ直そうとしていた。失われたものを、そのまま受け取るのではなく、自分の中で組み直そうとしていた」
リョウは自分の指先を見る。黒い線が残っている。細く、消えそうで、しかし確かにある。
「それの何が」
言いかけて、止まった。自分が今、何を言おうとしたのか分かった。それの何が悪い。そう言いそうになった。欠片を混ぜてアスカへ近づけるなら、それでいいではないか。世界が消したなら、自分の中で組み直せばいいではないか。そんな思考が、自然に出かけた。
ナギサがそれを察したように、袖を掴む手に力を込めた。
「リョウ」
その声で、リョウは口を閉じた。
アヤトは、ほとんど息のような声で呟いた。
「まさか、君は……ファントムになりかけているのか」
その言葉が、未分類棚の奥へ吸い込まれた。
ファントム。
リョウはその単語を知っている。ローズ。ミラー。仮面。鏡。薔薇。ミラーズの向こうにいたものたち。人間ではない、境界の側の存在。アスカを奪ったもの。アスカを探せと言ったもの。
「僕が?」
声が出た。
自分の声ではないように聞こえた。
「僕が、ファントム?」
誰もすぐには答えなかった。ナギサはリョウの袖を掴んだまま、泣きそうな顔で首を横に振っている。マナは黒い傘を構えたまま、苦しげに唇を結んでいる。アヤトだけが、記録する者の目でリョウを見ていた。恐れと、興味と、判断を迫られた者の緊張が混ざった目だった。
リョウは再び指先を見た。
黒い線が、爪の下でかすかに脈打っていた。
その奥から、遠い声がした気がした。
覚えていて。
それはアスカの声にも、自分自身の声にも聞こえた。




