第11章 命綱
レジストリを出たあと、リョウはしばらく自分がどこにいるのか分からなかった。未分類棚の湿った紙の匂い、黒い霧が指先へ染み込む感覚、ケースの中へ戻された硝子片、アヤトの低い声。まさか、君は――その言葉が、まだ耳の奥で反響している。ファントム。自分がその名で呼ばれることを、リョウは想像したことがなかった。ローズ。ミラー。仮面。鏡の向こう側に立つ、人間ではない何か。アスカを奪ったもの。アスカを探せと言ったもの。そこへ自分が近づいていると、アヤトは言った。いや、呟いた。呟きであってほしかった。判断ではなく、見間違いであってほしかった。けれど、黒い線はまだ指先に残っている。爪の根元に薄く沈んだ、墨のような、血管のような線。痛みはない。ただ、そこにある。自分の体が、まだ自分のものだと信じるには、あまりに静かすぎる異物だった。
気がつくと、リョウは六道学園の教室にいた。二年三組。放課後の教室。窓の外はすでに暮れかけていて、校庭の白線は灰色に沈み、遠くの部活動の声が薄く聞こえる。黒板には今日の連絡事項が残り、机の配置も、椅子の傷も、すべて見慣れている。だが、レジストリのあとでは、普通の教室でさえ記録空間の一部のように見えた。机は誰かが存在した証拠で、座席表は世界が認めた名前の配置で、窓硝子はいつでも別の場所を映す反射面だった。日常は、もう安全なものではない。
ナギサは教室の窓際で待っていた。待たされていた、という方が近いのかもしれない。マナが彼女だけ先にこちらへ戻したのだ。リョウの指先に黒い霧がにじんだ直後、アヤトはすぐに記録棚を閉じ、マナはナギサをリョウから離した。ナギサは抵抗した。リョウの袖を掴もうとして、マナに腕を取られた。あのときのナギサの顔を、リョウは覚えている。置いていかれる顔だった。自分が命綱だと言われた少女が、その命綱から手を離された瞬間の顔。リョウは何か言おうとしたが、黒い霧が喉の奥へ沈むような感覚に邪魔され、声が出なかった。
今、ナギサは教室で待っている。机の上に両手を置き、俯き、眼鏡の奥の目を隠すように前髪を垂らしている。リョウが入ってきても、すぐには顔を上げなかった。気づかなかったわけではない。気づいていて、どういう顔で迎えればいいか分からなかったのだろう。
「ナギサ」
リョウが呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。
「……おかえり」
その言葉が、胸に刺さった。おかえり。恋人として待っていた相手に言う言葉。世界の上では自然な言葉。けれど、今のリョウには、自分が本当に帰ってきたのか分からなかった。レジストリから。未分類棚から。S.A.の記録から。黒い霧から。ファントムという言葉から。どこまで戻ってこられたのか、自分でも分からない。
「ただいま」
返すと、ナギサはようやく顔を上げた。目が赤い。泣いたのだと分かった。たぶん、リョウが見ていない場所で。笑おうとした形跡もある。口元だけが少し疲れている。
「その手」
ナギサの視線がリョウの指先へ落ちた。
「消えてないんだ」
「ああ」
リョウは手を隠そうとして、やめた。隠せば、また彼女だけが知らない場所へ置かれる。ナギサは席を立ち、近づいた。手を伸ばしかけて、止める。触れたい。確かめたい。でも触れれば何が移るか分からない。彼女の迷いが、その数センチの距離に浮かんでいた。
「痛い?」
「痛くない」
「それが逆に怖いね」
「うん」
「アヤトさんは、何て?」
「今は触らない方がいいって。広がるようなら、すぐに知らせろって」
「マナ先輩は?」
「怒ってた」
「でしょうね」
ナギサは少しだけ笑った。けれど、すぐに笑みは消えた。
「リョウは?」
「何が」
「怖い?」
リョウは答えるまでに時間がかかった。怖い。もちろん怖い。自分の指先に得体の知れない黒い線が残っている。ファントムになりかけているかもしれない。そう言われて怖くないはずがない。けれど、同時に、怖いだけではなかった。S.A.のファイル。相談記録の欠片。白いカーテン。アスカの筆跡に似た文字。ノイズの中の声。鏡面から切り離された硝子片。そこに触れた瞬間、確かにアスカへ近づいた気がした。危険だと分かっていても、あの感覚を手放せない。怖いのに、もう一度触れたいと思っている。そのことの方が、リョウには怖かった。
「怖い」
彼は言った。
「でも、それだけじゃない」
ナギサは目を伏せた。
「そう言うと思った」
「ごめん」
「禁止」
「……うん」
いつものやり取りの形だけが残る。けれど、二人とも笑えなかった。教室の空気は静かだった。校舎のどこかで、清掃用具入れの扉が閉まる音がした。遠い。世界がまだ少し遠い。カードは胸にある。春日リョウ。けれど、ナギサが近くにいると、カードとは違う場所から世界が鮮明になっていく。机の木目、ナギサの眼鏡の縁、窓に映る二人の影。それが、今は救いであり、同時に刃だった。
「ナギサ」
リョウは言った。
「話さないといけないことがある」
「うん」
「アヤトが言ってた。君が僕を恋人として認識しているから、僕はまだこの世界にいられるって」
ナギサの顔がこわばった。知っている言葉だった。駅前でも聞いた。けれど、改めて二人きりの教室で言われると、重さが違う。彼女は机の端を握った。
「それ、どういう意味なの」
「僕も完全には分かってない。でも、たぶん、今の世界で僕の場所は君の世界にある。君が僕をリョウとして、恋人として見ているから、僕はここに固定されている」
「固定」
「アヤトはそういう言い方をした。マナ先輩は命綱って」
「命綱」
ナギサはその言葉を繰り返した。
「あたしが、リョウの命綱」
「そういうことになる」
「それ、あたしがリョウを好きだから?」
リョウは息を止めた。
「それとも、この世界でそういう役目にされたから?」
答えられない問いが、また来た。ナギサはリョウを責めるために聞いているのではない。自分自身を確かめるために聞いている。自分の気持ちが本物なのか。リョウに必要とされていることが嬉しいのは、愛されているからなのか、機能として求められているからなのか。彼女はそれを知りたい。知りたいのに、たぶん誰にも正確には答えられない。
「分からない」
リョウは言った。
ナギサは目を閉じた。傷つくと分かっていて、聞いたのだろう。それでも、実際にその答えを聞けば痛い。
「そうだよね」
「でも、ナギサの気持ちは偽物じゃない」
「それも、何度も聞いた」
ナギサの声が少し硬くなった。
「リョウは優しいから、そう言う。あたしが傷つくの分かってるから。でも、あたしが聞きたいのは、あたしの気持ちが本物かどうかだけじゃない」
彼女は机から手を離し、リョウを見た。
「リョウの方は?」
「僕の方?」
「あたしがリョウを好きなのは本物だって言うなら、リョウがあたしを必要としてる気持ちは何なの。あたしが近くにいると世界がはっきりするから? 消えなくて済むから? それとも、あたしだから?」
リョウの喉が詰まった。
アスカの名を忘れないと決めている。ナギサを代わりにしないと決めている。ナギサはナギサだと、何度も自分に言い聞かせている。彼女を大切に思っていることは確かだ。傷つけたくない。消したくない。彼女の名前も忘れたくない。けれど、それが恋愛なのか、生存本能なのか、同情なのか、罪悪感なのか、リョウには分からない。分からないまま、彼女のそばにいると安心してしまう。彼女の声を聞くと戻ってこられる。手を握れば世界が鮮明になる。その安心を、必要としてしまっている。
「分からない」
また同じ答えになった。
ナギサは笑った。笑おうとして、失敗した。
「分からない、か」
「ごめん」
「禁止って言ったのに」
「でも」
「うん。今のは、謝られた方がまだ楽かも」
ナギサは椅子に座り込んだ。膝の上で両手を握る。指先が白くなっている。
「あたし、嫌なこと言うね」
「うん」
「リョウがあたしを必要としてるって分かったとき、ちょっと嬉しかった」
その告白は、ひどく小さかった。
「最低だよね。リョウが消えそうで苦しんでるのに、あたしがいないと駄目なんだって思ったら、少し嬉しかった。アスカさんの名前ばかり呼ぶリョウが、あたしの声で戻る。あたしの手で世界がはっきりする。あたしだけが、リョウをここに留められるかもしれない。そう思ったら、嬉しかったの」
リョウは何も言えなかった。
「でも、すぐに怖くなった。だって、それって愛されてるのと似てるけど、違うかもしれないから」
ナギサは顔を上げた。目に涙が溜まっている。
「あたしがリョウに必要なのは、あたしが椎凪ナギサだから? それとも、リョウをこの世界に置いておくための部品だから?」
「部品じゃない」
「じゃあ、何?」
「君は、君だ」
「それも聞いた」
ナギサの声が震えた。
「リョウ、それしか言えないじゃん。あたしは君だって。代わりじゃないって。本物だって。でも、それって、あたしが何なのかの説明で、リョウがあたしをどう思ってるかの答えじゃない」
その通りだった。リョウは残酷なほど答えを持っていなかった。彼女の存在を肯定することと、自分の感情を答えることは違う。ナギサはそれを見抜いている。
窓の外で、風が吹いた。硝子がかすかに鳴る。リョウは反射的にそちらを見た。まだ何も映っていない。夕方の校庭と、教室の中の二人だけだ。けれど、その反射がいつ変わるか分からない。鏡も、窓も、スマホの画面も、もうただの反射ではない。
「リョウがあたしを好きじゃなくても」
ナギサはゆっくり言った。
「あたしが好きでいれば、リョウはここにいられるの?」
その問いは、教室の空気を凍らせた。
リョウは、何も言えなかった。
言えなかったことが答えだった。少なくとも、ナギサにはそう見えた。
「そっか」
彼女は小さく呟いた。
「ありえるんだ」
「ナギサ、違う」
「何が違うの?」
「僕は、そんなふうに君を」
「使うつもりはない?」
ナギサが先に言った。
「分かってる。リョウはそんな人じゃない。あたしを道具にしようとしてるわけじゃない。そんなの分かってる。でも、世界の仕組みがそうなら、リョウの気持ちがどうかなんて関係ないじゃん」
「関係ある」
「あるなら答えてよ」
ナギサの目から、涙が一粒落ちた。
「リョウは、あたしのこと好き?」
今度は、逃げ場のない問いだった。恋人としての問いであり、命綱としての問いであり、椎凪ナギサが自分自身を守るための問いだった。リョウは口を開いた。好きだ、と言いたかった。言えば彼女は救われるかもしれない。世界も安定するかもしれない。リョウ自身も、少し楽になるかもしれない。だが、その言葉の中にアスカへの裏切りと、生き残りたいという本能が混ざるのを感じた。純粋な答えとして渡せない。濁った言葉でナギサを救うことは、たぶん彼女をもっと傷つける。
だから、声が出なかった。
ナギサはもう一度、静かに笑おうとした。今度は完全に失敗した。涙が頬を伝う。彼女は慌てて拭おうとしたが、次の涙が落ちた。
その瞬間、世界の輪郭が揺らいだ。
教室の壁がほんの少し伸びた。黒板の文字が滲み、机の脚が床から浮いたように見える。蛍光灯の音が遠ざかる。窓硝子が震えた。夕方の校庭を映していたはずの窓に、ひとつ、またひとつと、別の像が浮かび上がる。
リョウとナギサ。
リョウとナギサ。
リョウとナギサ。
無数の教室。無数の窓。無数の二人。ある窓では、ナギサが笑ってリョウの手を握っている。ある窓では、ナギサが泣きながら背を向けている。ある窓では、リョウがナギサではない誰かの名前を呼んでいる。ある窓では、ナギサの顔がぼやけ、長い髪の別の少女の輪郭と重なっている。ある窓では、ナギサが鏡の前で一人、口を動かしている。あなた一人で支えなくていい。聞こえないはずの声が、窓の反射の奥から滲んだ。
「何、これ」
ナギサが震える声で言った。
リョウは彼女の名を呼ぼうとした。
「椎凪」
声が途中で歪んだ。窓の中の無数のナギサが、一斉にこちらを向く。どのナギサが本物なのか分からない。目の前にいるナギサは一人だ。分かっている。なのに、窓の中には数えきれないほどの彼女がいる。恋人としてのナギサ。後輩としてのナギサ。命綱としてのナギサ。代わりかもしれないと怯えるナギサ。リョウを好きなナギサ。リョウを支えるために壊れかけるナギサ。
リョウの指先の黒い線が、かすかに熱を持った。
マナの声が、廊下の向こうから聞こえた気がした。けれど遠い。アヤトのカードが胸元で熱くなる。春日リョウ。自分の名前を呼べ。そう訴えている。
「春日リョウ」
リョウは必死に言った。
少しだけ、教室の床が戻る。
「椎凪ナギサ」
今度は、はっきり呼んだ。
目の前のナギサが、涙に濡れた目でリョウを見る。窓の中の無数のナギサも、同時に振り向く。リョウは彼女だけを見ようとした。窓ではなく、反射ではなく、役割ではなく、命綱ではなく、目の前で泣いている少女を見る。
「ナギサ」
声が震えた。
「僕は、君を利用したくない」
「それは、もう聞いた」
「答えになってないのも分かってる」
「じゃあ」
「でも、今ここで好きだって言ったら、君をつなぎ止めるための嘘になるかもしれない」
ナギサの顔が痛みに歪む。
「……嘘、なんだ」
「違う。嘘にしたくないんだ」
リョウは言った。
「君を大事だと思ってる。失いたくない。君の名前を忘れたくない。君が泣いてるのを見るのが苦しい。それは本当だ。でも、それを“好き”って言葉にしていいのか、今の僕には分からない。生き残りたい気持ちと、君自身への気持ちが混ざってる。混ざったまま、綺麗な言葉にして渡したくない」
ナギサは何も言わなかった。涙だけが落ちる。窓の中の鏡像たちも泣いている。ある像は笑っている。ある像は無表情にこちらを見ている。教室の輪郭はまだ揺れている。
「最低だよね」
ナギサが言った。
「ちゃんと考えてくれてるのに、あたし、今ちょっと、嘘でも好きって言ってほしかった」
「ナギサ」
「だって、苦しい」
彼女は両手で顔を覆った。
「正しい言葉じゃなくていいから、リョウに好きって言ってほしかった。あたしがリョウの命綱でも、代わりでも、役割でもないって、言葉で縛ってほしかった。そんなの嘘かもしれないって分かってても、今だけ信じたかった」
窓硝子が大きく震えた。無数の鏡像が、さらに増える。教室の窓が、窓ではなく鏡の壁になる。反射の奥で、誰かが微笑んだ。ナギサの顔をした誰か。アスカの輪郭を持つ誰か。ミラーズの穏やかな目をした誰か。
あなた一人で支えなくていい。
声が、今度ははっきり聞こえた。
ナギサが顔を上げた。涙で濡れた目が、窓の奥を見ている。リョウの胸が冷えた。
「見るな!」
叫んだ瞬間、教室の扉が開いた。
「ナギサ!」
マナの声だった。黒い傘を手に、彼女が駆け込んでくる。白いヘアピンが乱れている。彼女は窓を見て、表情を凍らせた。
「名前を呼んで!」
マナが叫ぶ。
リョウはナギサへ手を伸ばした。触れていいのか、ためらった。命綱にしないと誓ったばかりなのに。だが、今は彼女が沈みかけている。支えるためではなく、彼女を彼女として呼ぶために、リョウはその手を取った。
「椎凪ナギサ!」
ナギサの指が、リョウの手の中で震えた。
窓の中の無数のナギサが、一斉に口を開いた。
その中のどれかが、ナギサではない声で囁いた。
「本当に?」
教室の窓一面に、割れない鏡像が浮かび続けていた。




