第12章 ミラーの残響
教室の窓は、もう窓ではなかった。夕方の校庭を映していた硝子は、いつの間にか内側から冷たく濁り、そこに無数の教室が重なっていた。どれも二年三組に似ている。机の配置も、黒板の位置も、窓際の光も同じだ。けれど、そこにいるナギサは少しずつ違っている。笑っているナギサ。泣いているナギサ。リョウの手を握るナギサ。リョウから離れて立つナギサ。眼鏡を外して鏡の前にいるナギサ。長い髪の少女と輪郭が重なっているナギサ。すべてが同時にこちらを見ていた。ナギサは教室の真ん中で立ち尽くし、自分が無数に増えていく光景を見ていた。リョウの手は届いている。彼は彼女の名を呼んだ。椎凪ナギサ。たしかに聞こえた。けれど、その名前は窓硝子の奥で何度も反響し、いくつもの声に分かれて返ってきた。椎凪ナギサ。ナギサ。ナギサちゃん。リョウの恋人。彼の命綱。誰かの代わり。かわいそうな子。強い子。明るい子。支える子。支えきれない子。どれも自分のことのようで、どれも自分だけではなかった。
「ナギサ、見るな」
リョウの声がした。近いはずなのに遠い。手を握られているのに、指先の温度が硝子越しのように薄い。彼は必死だった。自分を見ている。たぶん、今は自分を見ている。アスカではなく、目の前の椎凪ナギサを。なのに、その必死ささえ、ナギサには痛かった。リョウが自分を呼ぶのは、自分が沈みかけているからか。それとも、自分が沈めばリョウも落ちるからか。そんな考えが頭の奥で生まれた瞬間、窓の中のナギサたちが一斉に微笑んだ。
あなた一人で支えなくていい。
声は、窓から聞こえた。誰の声でもあり、誰の声でもなかった。白鳥由梨の穏やかさに似ている。水鏡紫影の保健室の声にも似ている。洗面所の鏡で聞いた声にも似ている。リョウがかつて恐れた、けれど疲れた人間なら一度は縋りたくなる優しさを持っていた。
「聞くな!」
マナが叫んだ。彼女は黒い傘を手に、教室の入口からこちらへ駆け寄ろうとしていた。だが、教室の床が歪んでいる。机と机の間があり得ないほど長く伸び、近づこうとしても距離が縮まらない。マナの白いヘアピンが光る。彼女の顔には焦りがある。ナギサは初めて、マナが本気で怖がっているのを見た気がした。
あなた一人で支えなくていい。
また声がする。今度はスマホの画面からだった。ナギサのポケットに入っていたスマホが勝手に震え、画面が点灯している。通知はない。ただ、黒い画面に白い文字が浮かんでいた。
あなた一人で支えなくていい。
次の瞬間、文字は水面のように崩れ、別の文章へ変わった。
リョウが見たいあなたになればいい。
ナギサの喉が凍った。
「違う」
声に出したつもりだった。けれど、言葉は小さくしか出なかった。リョウが見たい自分。リョウをここに留められる自分。リョウが安心して名前を呼べる自分。アスカの名前に怯えず、笑って支えられる自分。そんなものになれたら、どれほど楽だろう。リョウがアスカを忘れなくても、ナギサが苦しまなければいい。ナギサがもっと強ければいい。リョウが必要とする形に、自分が変われればいい。そうすれば、誰も壊れないのではないか。そんな考えが、一瞬だけ胸に入ってきた。あまりにも自然で、あまりにも優しかった。
「ナギサ!」
リョウの手に力がこもる。彼の指先は冷たい。爪の根元に残る黒い線が、わずかに脈打っている。ナギサはその線を見て、胸が締めつけられた。リョウも壊れかけている。アスカを忘れないために、世界から外れ、黒い霧を指に宿し、自分の名前すらカードに預けなければならなくなっている。ナギサが手を離せば、彼は消えるかもしれない。握り続ければ、自分が溶けるかもしれない。
みんなで支えれば、誰も壊れない。
窓硝子、スマホ画面、黒板の端、蛍光灯の反射、机の上の透明な下敷き。そのすべてに、同じ言葉が波紋のように浮かぶ。
みんなで支えれば、誰も壊れない。
痛みを分ければ、誰も一人で泣かなくていい。
リョウを一人にしなくていい。
あなたも一人にならなくていい。
「やめて」
ナギサは言った。今度は少しだけ声が出た。
「それ、優しいこと言ってるだけじゃない」
窓の中の無数のナギサが首を傾げた。どうして、という顔だった。どうして拒むの。あなたは苦しいのでしょう。リョウを支えるのが怖いのでしょう。アスカという名前で胸が冷えるのでしょう。なら、分ければいい。ナギサ一人で持たなくていい。みんなで持てばいい。あなたの痛みも、リョウの痛みも、アスカの痛みも、私たちで。
私たち。
その言葉が浮かんだ瞬間、ナギサの足元が冷えた。
「あたしを、あたしたちにしないで」
洗面所で言った言葉を、もう一度言う。けれど、教室の窓の中では、無数のナギサが同時に唇を動かした。
どうして?
問いは、ナギサ自身の声にも聞こえた。
あたし一人でいたいの?
支えきれないくせに?
リョウの恋人でいたいの?
でも、リョウはアスカを見ているのに?
代わりじゃないと言ってほしいの?
でも、答えられない彼に?
だったら、形を変えればいい。
リョウが求めるあなたに。
アスカを責めないあなたに。
自分も傷つかないあなたに。
みんなで混ざれば、もう苦しくない。
ナギサは耳を塞ぎたかった。だが、リョウに握られた手を離せなかった。片方の手で耳を塞いでも、声は入ってくる。耳からではない。胸の奥から響く。自分が本当に思っていたことを、別の誰かが優しく言語化してくる。それが一番怖かった。嘘なら拒める。悪意なら怒れる。けれど、ミラーの声は、ナギサが自分で認めたくなかった本音をなぞってくる。
教室の窓の一枚に、別の影が浮かんだ。
ナギサではない。リョウでもない。長い髪の少女。制服の肩。少し伏せた目。写真の空白に立っていたかもしれない人。ノートの筆圧と、ノイズの奥と、リョウの胸の中にだけ残っていた名前。椎名アスカ。ナギサは、その姿を初めてはっきり見た気がした。完全な顔ではない。輪郭は時々揺れ、髪の先は硝子の曇りに溶けている。それでも、その少女がアスカの姿をしていることだけは分かった。
リョウの手が震えた。
「アスカ」
彼が呟く。
その声を聞いた瞬間、ナギサの胸が冷たくなる。分かっている。彼にとって、その名前は世界の中心なのだ。ナギサが泣いていても、教室が歪んでいても、ミラーの声が響いていても、アスカの影が現れた瞬間、彼はそちらを見る。それが当然なのかもしれない。けれど、当然だからといって、痛くないわけではなかった。
窓の中のアスカが、ナギサを見た。
「ごめんね」
声は柔らかかった。リョウが聞いた音声ノイズよりも近く、洗面所の鏡の声よりも少女らしい。アスカ本人なのか、アスカの姿をした何かなのか、ナギサには分からない。分からないからこそ、胸が揺れた。
「あなたに、わたしの場所を背負わせて」
ナギサの息が止まった。
その言葉は、残酷なほど欲しかった言葉だった。誰かに言ってほしかった。アスカ本人に、もし会えるなら、謝ってほしかったのかもしれない。ナギサが悪いわけではないと。あなたは奪ったのではなく、背負わされたのだと。そう言ってもらえれば、少しは楽になれる気がした。窓の中のアスカは、その最も弱い場所を正確に撫でた。
「わたしが消えたから、あなたがリョウのそばに置かれた」
アスカの姿をしたものは続けた。
「リョウは、あなたを見ようとしている。でも、わたしの名前が彼を引っ張る。あなたは苦しいよね」
ナギサの目に涙が浮かぶ。
「苦しいって言っていいよ。わたしを嫌ってもいいよ。わたしのせいだもの」
「違う」
ナギサは首を振った。
「あなたのせいじゃない。たぶん、あなたも被害者で」
「でも、あなたは傷ついている」
その声は、やはり優しかった。
「リョウを支えるために、あなたが泣いている。わたしの場所が空いたせいで、あなたがそこに立たされている。ごめんね。あなた一人に背負わせて」
「やめて」
ナギサの声が崩れる。
「そんな言い方されたら、あたし、あなたを責められないじゃん。嫌いになれないじゃん。ずるいよ」
「嫌いにならなくていい」
アスカの姿をしたものが微笑む。
「みんなで持てばいい。あなたも、わたしも、リョウも。一人で形を保とうとするから苦しいの。リョウが見たいあなたにならなくてもいい。あなたがリョウを支えきれなくてもいい。私たちで、リョウを支えればいい」
私たち。
その言葉と同時に、窓の中のアスカの輪郭が少し溶けた。ナギサの顔、アスカの顔、見知らぬ少女たちの顔が薄く重なる。リョウの手の中で、ナギサの指が冷たくなった。彼女は崩れそうだった。救われそうだった。自分一人で支えなくていい。アスカも、リョウも、他の誰かも一緒に支えてくれる。なら、自分はもう、恋人であることに傷つかなくていいのではないか。代わりかどうかに怯えなくていいのではないか。好きという気持ちが愛なのか役割なのか、答えを出さなくていいのではないか。
それは、あまりにも優しい地獄だった。
「ナギサ!」
リョウが叫んだ。彼の声は震えている。アスカの姿を見て、呼ばれそうになって、それでもナギサを呼ぼうとしている。ナギサはその声を聞いた。聞こえた。まだ、聞こえる。
「椎凪ナギサ!」
マナの声も重なる。彼女は黒い傘を振り上げ、教室の窓へ叩きつけた。硝子は割れない。代わりに、黒い波紋が広がる。窓の中の無数のナギサが揺れ、アスカの影も一瞬ぼやける。
「名前を離さないで!」
マナが叫ぶ。
ナギサは唇を震わせた。
「椎凪、ナギサ」
自分の名前を呼ぶ。声が細い。足元がまだ冷たい。
「椎凪ナギサ」
もう一度。今度は少しだけ強く。
窓の中のアスカが、悲しそうに目を細めた。
「一人で頑張らなくていいのに」
「一人じゃない」
ナギサは言った。
「でも、あたしは、あたし一人でいたい。リョウを支えたいのも、苦しいのも、嫉妬するのも、泣くのも、全部あたしのものだから。みんなで薄めたら、たぶん楽になる。でも、楽になったら、あたしがあたしじゃなくなる」
アスカの姿をしたものの微笑みが、少しだけ深くなった。
「強いのね」
「強くない」
ナギサは涙を拭わずに言った。
「強くないから、混ぜられたら戻れない。だから嫌」
その瞬間、窓の中のアスカの顔が揺れた。ほんの一瞬だけ、そこに別の表情が浮かんだ。悲しみとも、安堵ともつかない、ひどく人間らしい表情。けれど次の瞬間には、ミラーの穏やかな笑みに戻る。
「それでも、リョウは来るわ」
アスカの姿をしたものが言った。
「わたしが呼べば」
ナギサの胸が凍る。
「やめて」
リョウが一歩前へ出た。ナギサの手を離さないまま、窓の方を見る。彼の指先の黒い線が熱を持ち、胸ポケットのカードが白く光った。春日リョウ。彼は自分の名前を保とうとしている。だが、窓の向こうにアスカの姿がある。彼がどれほど耐えられるか、ナギサには分からなかった。
マナがリョウの肩を掴もうとした。
「春日くん、見ないで」
「見ないと、分からない」
「違う。今見ているのは、アスカさんじゃない」
「分かってる」
「分かっていない!」
マナの声が鋭くなる。その瞬間、教室のスマホ画面が一斉に光った。机の上に残されていた誰かのスマホ、ナギサのポケットのスマホ、リョウのスマホ。画面には同じ文字が浮かぶ。
リョウ。
次に、声がした。
「リョウ」
アスカの声だった。
リョウの体が、はっきり震えた。
窓の中のアスカが、こちらへ手を伸ばしている。声は近い。S.A.のファイルで聞いたノイズよりも、保健室の記録よりも、ずっと近い。リョウが何度も思い出した声。中庭で不安を打ち明けた声。写真から消えたはずの少女の声。
「リョウ」
もう一度、呼ばれる。
ナギサはリョウの手を握りしめた。命綱としてではなく、自分の名前を保つために。リョウをこちらへ引き戻すために。けれど、リョウの視線は窓の中のアスカへ吸い寄せられている。
ナギサは叫んだ。
「春日リョウ!」
リョウの瞳が揺れる。
窓の中のアスカは、優しく微笑んだ。
「リョウ」
その声は、救いにも呪いにも聞こえた。




