第13章 黒い霧
窓の中から、アスカの声がした。
「リョウ」
その一音で、リョウの中の何かが止まった。教室の床も、ナギサの手の温度も、マナの警告も、胸ポケットのカードの熱も、全部が一瞬だけ遠ざかる。窓硝子の向こうに、椎名アスカの姿をした少女がいる。長い髪。伏せがちな目。少しだけ不安そうに笑う口元。声は、ノイズの奥で聞いたものより近かった。相談記録の欠片に残っていたものよりも、写真の空白に滲んだ影よりも、ずっと生々しかった。リョウの記憶が、声に反応して勝手に形を作り始める。中庭で隣に座ったアスカ。駅前の自販機の横で首を傾げたアスカ。図書室で本を抱えたアスカ。保健室の白いカーテンの向こうで、一人で何かを話していたアスカ。全部が窓の中の少女へ流れ込み、その輪郭を本物に近づけていく。
「リョウ」
もう一度、呼ばれる。
ナギサの手が強くなった。彼女はリョウの指を握りしめている。命綱としてではなく、必死に自分を保つために。それが分かるのに、リョウの視線は窓から剥がれなかった。ナギサの前には無数のナギサが映っている。代わりかもしれない恐怖、恋人としての記憶、リョウを支えたい気持ち、支えきれない痛み。そのすべてをミラーの残響が優しく撫でている。リョウの前にはアスカがいる。アスカの姿をした何かが、彼の名前を呼んでいる。二人の世界が、別々の痛みから同時に崩れ始めていた。
「春日くん、見ないで!」
マナの声が教室を切った。黒い傘を構えた彼女は、窓とリョウの間へ入ろうとしていた。だが、窓の中から伸びる反射の帯が床を滑り、机の脚や椅子の影を鏡のように変えていく。現実の距離が狂い、マナの足元は何度も同じ場所へ戻された。彼女の白いヘアピンが蛍光灯を受けて光る。その光だけが、窓の中の無数の像に呑まれずに残っていた。
「リョウ、聞いて!」
ナギサが叫んだ。
「それ、アスカさんじゃないかもしれない!」
「分かってる」
リョウの声は掠れていた。
「分かってる。分かってるんだ」
分かっている。窓の中のアスカは本人ではないかもしれない。ミラーが作った残響かもしれない。S.A.の記録に混ざっていた声の延長かもしれない。リョウの願望が形を与えているだけかもしれない。全部分かっている。けれど、その声で呼ばれると、胸の奥にある名前が痛む。覚えていることそのものが、彼を窓へ引っ張る。忘れないと誓った名前が、彼を壊す方向へも力を持っている。
窓の中のアスカが、リョウだけを見ていた。
「リョウ。わたし、ここにいるよ」
その言葉は、以前も聞いた気がした。鏡の奥で。旧校舎の歪んだ教室で。アスカの姿をした何かが、何度も同じ言葉を使った。わたしはここにいる。忘れないで。来て。リョウだけが覚えてくれた。優しさの形をして、彼の後悔を正確に刺す言葉。
リョウの指先の黒い線が熱を持った。
「ここにいるなら」
彼は低く言った。
「名前を言え」
窓の中のアスカが、少しだけ首を傾げた。
「リョウ?」
「お前の名前だ。言ってみろ」
ナギサが息を呑む。マナも一瞬だけ動きを止める。窓の中のアスカは悲しそうに目を伏せた。その表情まで、アスカによく似ている。似すぎている。だからこそ、リョウの怒りがじわじわと熱を持った。
「ひどいよ。リョウが忘れないでいてくれたのに」
「名前を言え」
「リョウは、わたしを疑うの?」
「疑う」
リョウは一歩前へ出た。ナギサの手が引かれる。彼女は離さない。離せばリョウが行ってしまうと分かっている。けれど、近づけば自分も巻き込まれる。それでも、彼女は離さなかった。
「疑う。疑わなきゃいけない。アスカの姿をしたものを、アスカの声を持つものを、アスカの記憶を語るものを、僕は全部疑わなきゃいけない」
窓の中のアスカの顔が、ほんの少しだけ歪んだ。
「リョウ」
「その顔で呼ぶな」
声が震えた。
「その声で、僕を呼ぶな」
窓の中の少女が、今度ははっきり悲しそうに笑った。
「でも、リョウはこの声が聞きたかったんでしょう?」
その瞬間、リョウの中で何かが切れた。
「黙れ!」
叫びは、教室の壁を震わせた。窓硝子に浮かんでいた無数の鏡像が、一斉に歪む。ナギサの顔をした像、アスカの姿をした像、見知らぬ少女たちの輪郭、スマホ画面に浮かんでいた文字、黒板の端に滲んだ言葉。すべてが一瞬、音を失った。
リョウの足元から、黒い霧が発生した。
最初は、指先に残っていた細い線から煙が漏れたように見えた。爪の根元から黒が滲み、手首を伝い、袖口を越え、空気へ溶ける。だが、それはすぐに彼の周囲へ広がった。霧は冷たく、重く、色を持たない黒ではなかった。赤も白も青も灰色も、すべてを潰して混ぜたような黒。何もない闇ではない。すべての断片が溶け込んだ混沌の色。レジストリで硝子片に触れたとき、指先からにじんだものと同じだった。けれど、今はずっと濃い。
「春日くん!」
マナが叫んだ。
黒い霧は床を這い、机の脚へまとわりつき、窓硝子へ向かった。ミラーの反射が作った無数の像へ触れる。すると、像は割れなかった。消えもしなかった。分解された。ナギサの鏡像は、笑顔、涙、眼鏡の反射、髪の影、制服の襟、恋人としての記憶、命綱としての役割、代わりかもしれない恐怖へほどけていく。アスカの姿をしたものも、声、髪、白いカーテン、相談記録の言葉、S.A.の黒い汚れ、ミラーの残響、リョウの記憶へ分かれていく。黒い霧はそれらを壊すのではなく、混ぜ返す前の素材へ戻すように、ばらばらにしていった。
窓の中のアスカが、初めて表情を失った。
「リョウ?」
声が揺れる。アスカの声に、ミラーの声が混ざり、さらに別の少女たちの声が剥がれていく。何人もの「リョウ」が重なり、ほどけ、乱れた。リョウはその乱れを見て、怒りと快感に近い感覚を同時に覚えた。ミラーの残響が崩れている。アスカの顔を使って呼ぶな。ナギサの不安を餌にするな。優しさのふりをして輪郭を溶かすな。そう思うたび、黒い霧は濃くなった。
「リョウ、やめて!」
ナギサの声が届く。
「その霧、怖い!」
怖い、と言われて、リョウはようやく彼女を見た。ナギサはすぐそばにいる。手はまだつながっている。けれど、彼女の顔は青ざめていた。リョウを止めたい。けれど、リョウから出ている黒い霧に怯えている。その事実が、リョウの胸を刺した。
黒い霧がナギサの足元へ近づいていた。
リョウは反射的に手を引いた。霧が少しだけ退く。ナギサはそれに気づき、泣きそうな顔でリョウを見る。
「リョウ、戻って」
「戻ってる」
「違う。今のリョウ、遠い」
遠い。ナギサの言葉が胸に落ちる。リョウは自分の手を見た。黒い霧が指の間から流れている。自分の怒りで動いている。自分の意志に従っているように見える。だが、本当にそうなのか。ミラーの鏡像を分解する力。アスカの姿をした残響を乱す力。救っているのか。壊しているのか。判別できない。
教室の窓が、黒い霧とミラーの反射で激しく揺れた。スマホ画面が次々に割れるような光を放ち、黒板の文字が水に溶けた墨のように流れる。机の上の透明な下敷きに映ったナギサの顔が、アスカの顔へ変わり、次に知らない少女の顔へ変わり、黒い霧に触れてまたただの光へほどける。ミラーの残響は、確かに乱れていた。けれど、教室そのものも壊れかけていた。
そのとき、薔薇の香りがした。
甘く、暗く、どこか鉄の匂いを含んだ花の香り。黒い霧の中に、深い赤が一筋走った。窓と黒板の間、ありえないはずの空間に、白い半仮面が浮かぶ。ひび割れた薔薇の意匠。黒衣。赤黒い影が蔓のように広がり、教室の床へ絡みつく。ファントム・ローズは、黒い霧と鏡像の揺らぎの間に立っていた。
マナが息を呑んだ。彼女の顔に浮かんだのは、驚きではなく痛みだった。ナギサもローズを見て、目を見開く。リョウは仮面の奥の視線を感じた。ローズはミラーを見ていなかった。リョウを見ていた。
「止めろ」
ローズの声は低かった。マナの声に似た響きがある。だが、もっと遠く、もっと硬い。
「その霧を、これ以上広げるな」
「ミラーを壊せる」
リョウは言った。自分の声が、少し歪んで聞こえた。
「この力なら、あいつらを」
「壊しているのはミラーだけではない」
ローズの黒い蔓が床を叩いた。黒い霧の先端がそこで止まる。霧と蔓が触れた場所で、空気が軋んだ。赤黒い影と、すべてを混ぜたような黒が押し合う。
「その力は、救う力ではない」
ローズは言った。
その言葉は、リョウの怒りをさらに煽った。
「じゃあ、アスカを救える力はどこにあるんだ」
教室が静まった。ミラーの残響さえ、一瞬黙った。
「ローズは僕に探せと言った。名前を忘れるなと言った。アヤトは記録しろと言う。マナ先輩は止まれと言う。ナギサは戻れと言ってくれる。でも、誰もアスカを救えるとは言わない。誰も戻せるとは言わない。なら、僕は何で探せばいいんだ。何で覚えていればいいんだ。何で、アスカの声が聞こえるたびに、これは本物じゃないかもしれないって疑い続けなきゃいけないんだ!」
黒い霧が再び膨らむ。窓の中のアスカの顔が歪み、ナギサの鏡像がほどけ、教室の輪郭が一瞬だけ別の形へ変わりかける。ローズが一歩踏み出した。黒衣の裾が揺れ、仮面の奥の目が鋭くなる。
「救えない怒りで世界を混ぜれば、彼女はもっと遠くなる」
「分かったようなことを言うな」
「分かっているから言う」
「本当に? ローズはアスカを救えなかった。あのときも、今も、止めることしかしてない」
マナが「春日くん」と声を漏らした。ローズは動かなかった。だが、仮面の奥の空気がわずかに揺れた。
「止めなければ、あなたも彼女も失われていた」
「失っただろ」
リョウの声は低かった。
「アスカは戻らなかった。世界はアスカを忘れた。僕だけが覚えている。その僕にまで、忘れないこと以外は許されないのか」
ローズは答えなかった。
その沈黙が、リョウには答えに聞こえた。黒い霧が指先からさらに広がる。窓硝子の一部が黒く曇り、そこにアスカの顔が再び浮かぶ。今度はミラーの穏やかな笑みではない。泣きそうな顔。白いカーテンの向こうで、言えなかった言葉を抱えていた少女の顔。
「リョウ」
声がした。
黒い霧の中からだった。
ミラーの反響とは違う。ノイズはある。途切れかけている。けれど、その一瞬だけ、声はあまりにも鮮明だった。リョウの心臓が止まりかける。ナギサも、マナも、ローズも、その声を聞いたのか、同時に動きを止めた。
「リョウ、わたしを――」
その先は途切れた。
黒い霧がざわめき、窓硝子の像が砕けるように乱れた。アスカの顔は消え、ミラーの残響も、ナギサの無数の鏡像も、教室の奥へ引きずられるように薄くなる。残ったのは、リョウの荒い呼吸と、ナギサの震える手と、床に漂う黒い霧だけだった。
「今の」
リョウは呟いた。
「今のは、アスカだ」
誰もすぐには否定しなかった。
だからこそ、怖かった。
ローズは黒い蔓を構えたまま、リョウを見ていた。仮面の奥の視線は、ミラーを見るときよりも厳しかった。
「その声を追えば、あなたは戻れなくなる」
「追う」
リョウは言った。
ナギサの手が震えた。
「リョウ」
「追うしかない」
黒い霧が、彼の足元で静かに渦を巻いた。
その中心で、リョウはもう一度、途切れた言葉の続きを探していた。
わたしを――。
助けて、だったのか。
忘れて、だったのか。
それとも、別の何かだったのか。
答えは黒い霧の奥へ沈み、誰にも届かないままだった。




