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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第2部_ミラー
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第14章 君を現在につなぐ声

 黒い霧は、教室の床を静かに這っていた。音はない。だが、そこに触れたものは音を失っていく。机の脚が黒に沈むと、木の軋みが消えた。落ちていたプリントの端が霧に触れると、紙の白さがほどけ、文字と余白と誰かの筆圧に分かれていく。窓硝子に残っていたミラーの残響は、割れるのではなく、解体されていた。ナギサの鏡像は、笑顔、涙、役割、記憶、嫉妬、恐怖へほどけ、アスカの姿をしたものは、声、髪、保健室の白いカーテン、相談記録の言葉、S.A.の黒い汚れ、そしてリョウの願望へ分かれていく。霧は消滅させているのではない。混ぜ直すために、いったんすべてを素材へ戻している。リョウは、それを見てしまった。見て、分かってしまった。ミラーの優しい残響を乱せる。アスカの顔をした偽物を解体できる。ならば、その奥にある本物だけを取り出せるのではないか。そんな考えが、怒りよりも深い場所から浮かび上がった。


 ローズは黒い蔓を床へ打ちつけ、霧の広がりを押し留めていた。赤黒い蔓と、リョウの足元から湧く黒い霧が接触するたび、教室の空気がぎしりと軋んだ。マナは窓際に立ち、ナギサを庇うように黒い傘を構えている。だが、彼女の視線もまた、リョウから離れない。怯えではない。怒りでもない。判断しようとしている目だった。止めるべきか。呼び戻せるか。もし呼び戻せないなら、切るしかないのか。そこまで考えている目だと分かり、リョウの胸は冷えた。


 胸ポケットのカードが熱を帯びた。春日リョウ。紙に書かれた自分の名前が、焼けるような熱で彼の存在を引き留めている。だが、カードの熱よりも、黒い霧の方がずっと近かった。自分の指先から、足元から、胸の奥から出ている。これは外から来た力ではない。自分の中にあったものが、アスカの声と怒りに押されて形を持った。そう思った瞬間、教室の扉の硝子が黒く染まり、その向こうに影山アヤトの姿が浮かんだ。


「リョウ君」


 アヤトの声が、廊下ではなく、カードの裏側から聞こえた。現実に教室へ入ってきたのではない。レジストリの記録空間から、名前のカードを通じてこちらを覗いているのだろう。彼の顔にも、いつもの静けさはある。けれど、その目は明らかに緊張していた。


「カードを見て。自分の名前を読んで」


「読んだ」


「もう一度」


「それで止まるのか」


「少なくとも、君が紙に残っている春日リョウから完全に外れるのを遅らせられる」


「遅らせるだけか」


「今は、それで十分だ」


「十分じゃない」


 リョウの声が低くなる。黒い霧がわずかに揺れ、机の影を解いた。


「アスカの声が聞こえた。今度は、はっきり。『わたしを』って言った。その先がある。助けてかもしれない。忘れてかもしれない。僕は、それを聞かなきゃいけない」


「聞くために、自分を霧に変えるつもり?」


 アヤトが言った。


「君が消えれば、声を聞く者もいなくなる」


「消えない。僕は――」


「今の君は、消えるより悪い方へ向かっている」


 その言葉に、ローズの仮面がわずかに動いた。マナの指が黒い傘を握り直す。ナギサだけが、何も言わずにリョウを見ていた。涙はまだ頬に残っている。だが、さっきまでの崩れそうな顔ではなかった。恐怖はある。痛みもある。それでも、彼女はもう、ただ泣いていなかった。


 窓硝子の奥で、アスカの姿をした残響がもう一度揺れた。黒い霧に分解されながらも、声だけが形を保とうとしている。


「リョウ」


 ミラーの残響は、アスカの声で呼んだ。


 リョウの足が、無意識にそちらへ動く。ローズの蔓が床を走り、彼の進路を塞いだ。


「行くな」


「退け」


「その声は餌だ」


「それでも、そこにアスカが混じってる」


「混じっているから危険だ」


 ローズの言葉は、アヤトやマナの言葉と同じだった。本人ではない。欠片だ。痕跡だ。汚染されている。だから近づくな。だから疑え。だから手を離せ。何度も聞いた。正しいのだろう。だが、正しさはアスカを戻さない。リョウの中で、また怒りが熱を持つ。


「切る」


 ローズが言った。


 黒い蔓が教室の空間へ伸びる。ミラーの残響と黒い霧、その両方をまとめて断ち切ろうとしている。マナが息を呑んだ。


「ローズ、それは」


「このままでは、教室ごと境界が崩れる」


「春日くんは」


「切らなければ、彼はもっと深く行く」


 リョウはローズを睨んだ。切る。止める。引き戻す。いつもそうだ。誰もその先へ行かせない。誰も、アスカの声の続きを聞かせてくれない。


「勝手に決めるな」


 黒い霧が膨らんだ。ローズの蔓に絡み、赤黒い影をほどこうとする。ローズの仮面の奥で、視線が鋭くなる。


 そのとき、ナギサが一歩前へ出た。


「ナギサ、下がって!」


 マナが叫ぶ。


 ナギサは下がらなかった。黒い霧の端が、彼女の上履きの前で揺れている。触れれば、彼女の輪郭までほどけてしまうかもしれない。リョウは息を止めた。


「来るな」


 自分でも驚くほど、声が焦っていた。


「ナギサ、来るな」


「それは、あたしを心配して?」


 ナギサが聞いた。


 リョウは言葉に詰まる。


「それとも、あたしまで巻き込むと、リョウが困るから?」


「違う」


「じゃあ、見て」


 ナギサはまっすぐリョウを見た。


「あたしを見て」


 リョウの視線が、窓のアスカから、ナギサへ引き戻された。引き戻された、というより、奪い返された。ナギサの声は大きくなかった。けれど、教室のどの反射よりも、黒い霧よりも、アスカの声をした残響よりも、今は強かった。


「リョウ」


 彼女は呼んだ。


 恋人として甘える声ではない。後輩として遠慮する声でもない。命綱として義務を果たす声でもない。椎凪ナギサが、自分の意志で、目の前の少年を呼ぶ声だった。


「リョウ」


 もう一度。


 春日リョウ、と記録する声ではない。アスカを追う者としてでも、メアになりかけた者としてでもない。今ここで、教室に立っているリョウ自身を呼ぶ声。


 黒い霧が弱まった。


 ほんの一瞬だった。だが、確かに床を這っていた霧の端が薄くなり、机の脚の輪郭が戻った。窓の鏡像が、少しだけ遠ざかる。胸ポケットのカードの熱が和らぎ、自分の足裏が床に戻ってくる。リョウは息を吸った。空気が肺に入る。教室の匂いがした。チョーク、古い木の机、夕方の埃、ナギサの髪からかすかに香るシャンプー。現在の匂いだった。


「ナギサ」


 声が出た。


「うん」


「僕は」


「答えを今すぐ出せって言ってない」


 ナギサは言った。涙の跡がある顔で、それでも彼女は立っていた。


「アスカさんを忘れろなんて言わない。言えない。リョウが忘れたら、たぶんリョウじゃなくなるって、もう分かってる。あたしだって、アスカさんの痕跡を見た。声も聞いた。いるんだと思う。いたんだと思う。だから、忘れろなんて言わない」


 リョウは何も言えなかった。


「でも、あたしを見ない理由にしないで」


 その言葉で、胸が痛んだ。


「アスカさんを大事にすることと、あたしを見ないことを同じにしないで。あたしは、アスカさんの代わりになりたくない。命綱だけにもなりたくない。リョウを現在につなぐ声だって言われても、それだけで終わりたくない」


 ナギサの声は震えていた。だが、崩れてはいなかった。


「あたしはリョウが好き。たぶん、この世界が作った記憶が混ざってる。自分でも分からない。でも、今こうやって怖くても逃げたくないのは、あたしの意志だと思う。だからリョウも、あたしを役割で見ないで。好きかどうか分からないなら、分からないって言っていい。でも、分からないからって、あたしを見ないままアスカさんだけ追わないで」


 リョウは、ナギサを見た。


 本当に見た。


 泣いている。怒っている。怖がっている。それでも逃げていない。アスカの名前に傷つきながら、リョウの黒い霧に怯えながら、ミラーの優しい言葉に救われかけながら、それでも自分を「あたしたち」にしないと拒んだ少女。彼女の中にある恋人としての記憶が、どこまで世界に置かれたものなのかは分からない。けれど、今リョウを呼んでいるナギサは、誰かに置かれた人形ではない。


「偽物じゃない」


 リョウは言った。


 ナギサが目を見開く。


「君への気持ちが、何なのか、まだ全部は分からない。恋人としての好きだって、今すぐ言えない。言ったら君を縛る言葉にしてしまう気がする。でも、君が大事なのは偽物じゃない。君を失いたくないのは、消えたくないからだけじゃない。君が泣いてると苦しい。君が僕を呼んでくれると戻ってこられる。でも、それだけじゃない。君が、君としてここにいてくれることが、僕は……嬉しい」


 言葉は不器用だった。足りない。ナギサが欲しかった答えではないかもしれない。けれど、リョウにはそれ以上きれいな言葉を出せなかった。出せば嘘になる。今言える本当は、そこまでだった。


 ナギサの目から、また涙が落ちた。だが、さっきとは違った。壊れる涙ではなく、痛みを抱えたまま立つための涙だった。


「ずるい」


「うん」


「好きって言ってくれた方が、たぶん楽だった」


「うん」


「でも、今の方がリョウっぽい」


 ナギサは小さく笑った。泣きながら、ほんの少しだけ。


「腹立つけど」


 リョウの足元の黒い霧が、さらに薄くなった。完全に消えたわけではない。指先の黒い線も残っている。窓の中のアスカの残響も、まだ消えていない。けれど、教室は少しだけ現在へ戻った。マナが息を吐く。ローズの蔓が、霧を押さえ込む位置で止まった。切断はされていない。アヤトの姿が扉の硝子から、静かにこちらを見ている。


「不安定な固定だね」


 アヤトが言った。


「でも、効いている」


 ローズはアヤトを見ず、リョウを見た。


「その霧は消えていない」


「分かってる」


「次に同じことが起きれば、もっと深く出る」


「それでも、今は止まった」


「止めたのは、あなたではない」


 リョウはナギサを見た。


「分かってる」


 ナギサは少しだけ照れたように眉を寄せた。


「そこで素直に見ないでください。今、泣いた顔なんで」


「ごめん」


「禁止」


 そのやり取りに、マナがほんのわずか表情を緩めた。だが、次の瞬間には警戒へ戻る。窓硝子の奥に、まだアスカの形をした残響がいる。ミラーは完全には消えていない。黒い霧も消えていない。ローズも、アヤトも、マナも、それを分かっていた。


 窓の中のアスカが、薄く微笑んだ。


「リョウ」


 今度の声は、少し遠い。だが、それでもリョウの胸を引っ張る。ナギサの手が震える。リョウは彼女の手を握り返した。命綱としてではなく、彼女がそこにいることを確かめるために。


「今は行かない」


 リョウは窓へ言った。


「でも、忘れない」


 アスカの残響は答えなかった。ミラーの歪みが薄れ、窓は少しずつ夕方の校庭を取り戻していく。最後に、白いカーテンのような光が一瞬だけ揺れ、消えた。


 教室に静けさが戻った。


 だが、何も解決していなかった。リョウはナギサを大事だと認めた。ナギサはリョウを呼ぶことを、自分の意志として選んだ。けれど、アスカの名前はまだ胸にある。ナギサへの感情は偽物ではない。アスカを忘れることもできない。その二つは、どちらかを消せば楽になる矛盾ではなかった。どちらも本物で、だからこそ痛かった。


 アヤトの姿が、扉の硝子から教室の中へ滲むように現れた。完全に現実へ来たわけではない。輪郭の端はまだレジストリの暗い書架に接続している。彼はリョウの足元の薄い霧、胸のカード、ナギサとつながれた手、ローズの蔓、マナの黒い傘を順に見た。


「選ばないといけない」


 アヤトは言った。


「今ここで?」


 ナギサが警戒した声を出す。


「今すぐ扉をくぐれという意味じゃない。でも、先延ばしにはできない」


 アヤトの視線がリョウへ向く。


「この世界に留まるか。それとも、アスカさんの痕跡を追って、外へ出るか」


 教室の空気が重くなる。


「この世界に留まれば、椎凪ナギサさんの世界を傷つけずに済む可能性がある。君自身も、少しずつ安定するかもしれない。ただし、そのためにはアスカさんの痕跡を深追いしないことになる」


「外へ出れば」


 リョウが聞く。


「弾かれた者として、記録と痕跡の外側へ進むことになる。S.A.の記録、ミラーの残響、黒い霧、君のファントム化の兆候。そのすべてを抱えたまま、アスカさんに近い場所へ行く。ただし、戻れる保証はない。君が君のままいられる保証もない」


 ナギサの手が強くなる。


「リョウ」


 彼女は呼んだ。


 その声は、彼を現在につなぐ声だった。


 窓の外では、夕方の校庭に誰もいない。教室の中には、リョウ、ナギサ、マナ、ローズ、そして硝子の向こうから現れたアヤトがいる。春日リョウのカードは胸にあり、白紙のカードはポケットの奥にある。そこにまだ、椎名アスカの名前は書かれていない。


 リョウはナギサの手を握り返した。


 そして、まだ答えを出せないまま、窓に映る自分の顔を見た。


 そこに映る少年の輪郭は、まだ人間のものだった。


 だが、その背後には、薄い黒い霧が残っていた。

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