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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第2部_ミラー
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終章 鏡の向こう側

 教室に戻った静けさは、本当の静けさではなかった。夕方の校庭が窓硝子に映り、黒板の文字はただの白いチョーク跡に戻り、机も椅子も、いつもの二年三組の形を取り戻している。だが、床の隅には、まだ薄い黒が溜まっていた。リョウの足元から広がった霧は消えたように見えて、完全には消えていない。影の濃い場所、机の脚の裏、窓枠の下、そういう小さな隙間に、夜の色を薄めたようなものが残っている。リョウの指先にも、爪の根元から伸びる細い黒い線があった。触れても痛くない。こすっても消えない。自分の身体に残ったままの、それは記録でも傷でもなく、もっと曖昧なものだった。


 ミラーの残響は退いた。少なくとも、今は。窓に浮かんでいた無数のナギサは消え、アスカの姿をした何かも、硝子の奥へ沈んだ。スマホ画面に並んでいた優しい言葉も消え、黒板の端に残った水のような歪みも乾いた。ナギサはまだリョウの手を握っている。強くではない。支えるためでも、引き留めるためでもなく、そこにいることを互いに確かめるような握り方だった。リョウがその手を握り返すと、教室の輪郭が少しだけ濃くなる。床の硬さ、椅子の影、窓の外の風、ナギサの呼吸。現在はまだ、ここにあった。


 けれど、何も解決していなかった。


 椎名アスカは戻っていない。世界はまだ彼女を知らない。写真にも、連絡先にも、座席表にも、彼女はいない。リョウは自分の世界を失ったままで、この世界に置かれた場所はナギサの認識によって支えられている。ナギサはそれを知った。自分がリョウをこの世界につなぎ止めていることを知り、それでも自分の意志で彼の名前を呼んだ。だからこそ、彼女はもうただ巻き込まれただけの少女ではない。けれど、その選択が彼女を傷つけないわけではなかった。


 アヤトは教室の扉の硝子から、半分だけ現実に滲み出るように立っていた。背後にはレジストリの暗い書架がかすかに見える。無数の記録棚、白いラベル、消えかけた名前たち。彼の姿は安定しているようで、輪郭の端はまだ紙の影に溶けていた。


「ミラーの残響は、今は退いた」


 アヤトは言った。


「でも、完全に消えたわけじゃない。特に、S.A.の記録と接触したあとでは、向こうも君を見つけやすくなっている」


「向こう?」


 リョウが聞くと、アヤトは窓を見た。


「ミラーの残り。アスカさんの欠片。君自身の願望。どれがどこまで分かれているか、もう簡単には判別できない」


「また、本人じゃないって話か」


「そう。何度でも言う。君が追おうとしているものは、本人そのものとは限らない。記憶、願望、コピー、残響、汚染された記録、それらが混ざったものかもしれない」


「それでも、アスカの声があった」


「そうだね」


 アヤトは否定しなかった。


「だから危険なんだ」


 その言い方は、リョウをいらだたせるほど静かだった。だが、今は怒鳴らなかった。ナギサの手がある。彼女が自分を見ている。その視線が、リョウの怒りを全部消すわけではないが、怒りだけで進むことを少しだけ止めていた。


 ローズは窓際に立っていた。白い半仮面は、夕方の光の中で冷たく浮かぶ。黒衣の裾は床に落ちた影と溶け合い、赤黒い蔓はもう振るわれていない。ただ、リョウの足元に残る黒い霧を見張るように、細く床へ伸びている。マナは少し離れた場所にいた。黒い傘を握り、ローズを見ないようにしているのに、意識だけはそちらへ向いている。その関係をリョウはもう追及しなかった。今聞いても、きっと答えは返ってこない。返ってきたとしても、いま抱えきれるものではない。


「春日リョウ」


 ローズが名を呼んだ。


 その呼び方には、以前よりも重い警戒があった。


「あなたが一線を越えれば、私は止める」


「どこからが一線なんだ」


「あなたが、彼女を探すために他者の世界を壊し始めたとき」


「もう壊してるのは、世界の方だろ」


 リョウの声が低くなる。ナギサの手がわずかに動いた。リョウはそれを感じて、息を吸い直した。


「アスカを消したのは、この世界だ。みんなに忘れさせたのも、この世界だ。僕が壊してるんじゃない。最初に壊したのは――」


「それでも」


 ローズの声が硬くなる。


「失われた一人を取り戻すために、別の誰かの輪郭を溶かしていい理由にはならない」


 リョウは言葉に詰まった。ナギサの手がそこにある。ミラーに揺らされ、代わりだと怯え、それでも自分を呼んだ少女の手。もしアスカを追うために、ナギサの世界を削るなら。もしアスカの欠片を集めるために、別の誰かの記憶や名前や場所を壊すなら。それはミラーと何が違うのか。全員を救うために個を溶かすミラー。一人を取り戻すために世界を混ぜる黒い霧。リョウはその類似を、まだ認めたくなかった。


「その力は、あなたの願いに似ている」


 ローズは言った。


「だから危険なの」


「願いが危険なら、僕はどうすればいい」


「願いを捨てろとは言わない」


 その言葉に、リョウは少しだけ目を見開いた。ローズは仮面の奥から、彼をまっすぐ見ていた。


「けれど、願いに自分を渡してはいけない。アスカを探すことと、アスカの名で世界を混ぜ直すことは違う」


 アヤトが静かに続ける。


「君は今、その境目に立っている」


 マナがようやく口を開いた。


「そして、あなたは境目に立つと、いつも前へ倒れようとする」


「マナ先輩」


「私は、あなたがアスカさんを忘れないことを否定しない。でも、アスカさんの名前を理由に、ナギサを見なくなるなら止める。アスカさんの欠片を理由に、他の誰かの世界を傷つけるなら止める。あなたが自分を失って、黒い霧そのものになるなら――」


 マナはそこで言葉を切った。ローズの白い仮面が、ほんのわずかに彼女の方を向く。


「止めるわ」


 マナの声は震えていなかった。だが、その奥に痛みがあることを、リョウはもう知っている。彼女は敵として止めたいのではない。自分と同じ後悔へ落としたくないから止める。そういう顔だった。


「止められても、探します」


 リョウは言った。


 ナギサの手が少しだけ強くなる。リョウはその手を握り返した。


「アスカは戻っていない。声は残ってる。欠片もある。S.A.の記録も、黒い霧の中で聞こえた声も、全部が偽物だって言われても、僕には捨てられない。全部が本物じゃなくても、その中に本物へつながるものがあるかもしれない。なら、追う」


「外へ出ることになる」


 アヤトが言った。


「この世界の外側へ。レジストリの管理下にも、ローズの境界にも、ミラーの反射にも収まりきらない場所へ」


「そこにアスカの欠片があるなら」


「あるかもしれない。ないかもしれない。あっても、君が望む形ではないかもしれない」


「それでも行く」


 リョウは答えた。


 言った瞬間、胸の奥で何かが決まった。恐怖が消えたわけではない。ナギサを傷つけたくない気持ちも消えていない。むしろ強くなった。だが、アスカを追うことをやめる選択はできない。世界が彼女を消した。なら、世界の内側に留まっていても彼女は戻らない。そう思ってしまった時点で、リョウはもう日常へ完全には戻れなかった。


「リョウ」


 ナギサが呼んだ。


 その声だけで、リョウは現在へ引き戻される。彼女は泣いていなかった。泣きそうではあった。けれど、泣き崩れてはいなかった。


「あたしは、止めたい」


「うん」


「行かないでって言いたい。ここにいてって言いたい。アスカさんのことを追うなって言いたいわけじゃない。でも、外へ出るって言われたら、もう戻ってこない気がして怖い」


「戻る」


「簡単に言わないで」


「ごめん」


「禁止」


 ナギサは少しだけ笑った。いつもの形に戻ろうとする笑み。けれど、その笑みの中にはもう、痛みも恐怖も隠されていなかった。


「でも、止められないのも分かってる。リョウがアスカさんを忘れたら、リョウじゃなくなる。さっき、そう思った。だから、止められない」


「ナギサ」


「ただし、条件」


 彼女はリョウの手を離さず、まっすぐ見た。


「また勝手に消えようとしない。アヤトさんのカードだけに頼らない。黒い霧が出たら、自分の名前を呼ぶ。マナ先輩の言葉も聞く。ローズに止められたら、一回は考える」


「一回だけ?」


「一回考えたあと突っ走るかもしれないから、そこはあたしがまた呼ぶ」


 ナギサはそう言って、目を伏せた。


「それと、あたしの名前を忘れないで」


 その声は、どの警告よりも深くリョウに届いた。


「アスカさんを忘れないことが、リョウにとって大事なのは分かる。でも、その途中で、あたしのことを現在に置いていかないで。命綱じゃなくていい。恋人かどうかも、今すぐ答えが出なくていい。でも、あたしの名前を、都合のいいときだけ呼ばないで」


 リョウはナギサの手を見た。小さな手。震えている手。それでも、自分からリョウを呼ぶことを選んだ手。彼は、その手を両手で包むように握った。黒い線の残る指先が触れる。ナギサは少しだけ身を固くしたが、逃げなかった。


「忘れない」


 リョウは言った。


「アスカも、君も」


 ナギサの目が揺れた。


 その答えに、彼女は確かに救われた。少なくとも、その瞬間だけは。アスカの名前と並べられることは痛い。けれど、消されないことは救いだった。代わりではなく、二番目でもなく、同じ「忘れない」の中に置かれたことが、彼女を少しだけ支えた。


 だが同時に、ナギサは分かってしまった。その言葉がどれほど危ういかも。


 アスカも、君も。


 リョウは本気でそう言っている。本気だからこそ危うい。彼はどちらも忘れない。どちらも失いたくない。どちらも本物にしたい。けれど、世界はその両方を同時には許していない。アスカを追えば、ナギサの現在が揺れる。ナギサに留まれば、アスカの声が遠ざかる。その矛盾を、リョウは抱えたまま外へ出ようとしている。いつかその両方を守ろうとして、世界そのものを混ぜ直そうとするかもしれない。ナギサは、それをまだ言葉にはできなかった。ただ、リョウの手を握り返した。


「じゃあ、あたしも忘れない」


 ナギサは言った。


「春日リョウ。椎名アスカ。影山アヤト。鳴海マナ。あと、ファントム・ローズ」


 ローズがわずかに反応した。


「私の名を軽く呼ぶな」


「忘れないためです」


 ナギサは真面目な顔で言った。


「忘れるの、怖いから」


 その言葉に、教室の空気が少しだけ柔らかくなった。マナが目を伏せる。アヤトは静かに頷いた。


「名前は、残すほど重くなる」


 アヤトは言った。


「でも、重いからこそ、世界から浮き上がらずに済むこともある」


「それ、励ましてるんですか?」


 ナギサが聞くと、アヤトは少しだけ考えた。


「たぶん」


「下手ですね」


「よく言われる」


 ほんのわずかな会話。けれど、それが日常の音に似ていて、リョウは息をついた。教室はまだ現実に戻りきっていない。窓の奥には、黒い霧の残響と鏡の曇りがわずかに残っている。それでも、会話ができる。名前を呼べる。互いにそこにいると確認できる。それだけで、今は十分だった。


 ローズは窓へ向き直った。


「ミラーの残響は退く。けれど、完全には消えない。アスカの欠片を追うなら、ミラーも追ってくる」


「分かってる」


「メアの霧も、あなたを追ってくる」


 リョウは自分の指先を見る。黒い線は消えていない。


「それも、分かってる」


「いいえ。あなたはまだ分かっていない」


 ローズの声は冷たかった。


「その霧はあなたの味方ではない。あなたの怒りと喪失に従う。あなたが救おうとしているつもりで、救う対象ごと分解する。アスカの欠片を集めるほど、その霧は“アスカらしいもの”を混ぜ直そうとする」


「それでも、進む」


「なら、私は止める。必要なら何度でも」


 リョウはローズを見た。


「それでも、探す」


 二人の間に、黒い霧と赤黒い薔薇の影が静かに揺れた。敵対ではない。少なくとも、まだ。けれど、いつか刃になることは分かった。ローズは世界と境界を守る。リョウは、世界が消した一人を追う。その二つは、いずれ必ずぶつかる。


 アヤトがレジストリの書架へつながる影を広げた。扉ではない。教室の窓の奥、硝子の向こうに、暗い通路が開いている。そこには、S.A.の未分類ファイルがあった棚よりさらに奥へ続く通路が見えた。無数の名前、無数の欠片、無数の弾かれた者。世界と世界の隙間。そこから、かすかな声が聞こえる。


 リョウ。


 今度は遠い。ノイズに近い。だが、リョウには分かった。アスカの声が、まだ残っている。途切れた言葉の続きが、どこかにある。


 わたしを――。


 助けて、なのか。忘れて、なのか。探して、なのか。来ないで、なのか。今は分からない。分からないから、確かめなければならない。


 リョウはナギサの手を一度強く握り、それからゆっくり離した。ナギサの指が最後まで追いかけるように震えたが、彼女は掴み直さなかった。代わりに、彼の名前を呼んだ。


「リョウ」


 その声で、リョウは振り返る。


「帰ってきて」


 単純な言葉だった。けれど、その中には命令も、願いも、怒りも、愛も、恐怖も、全部が入っていた。


「帰る」


 リョウは答えた。


「簡単に言うなって言ったのに」


「でも、言う。帰る」


 ナギサは少しだけ目を細めた。


「じゃあ、信じるのは半分だけにしておきます」


「半分?」


「残り半分は、あたしが呼び戻す分」


 その言葉に、リョウは小さく頷いた。ナギサは泣きそうな顔で、それでも笑った。世界はまだ安定している。彼女の世界も、今は崩れていない。少なくとも、今は。


 マナがリョウの横を通るとき、短く言った。


「春日くん」


「はい」


「あなたが取り戻そうとしているのが、本当にアスカさんなのか。見失わないで」


 リョウは答えなかった。答えられなかった。けれど、その言葉を捨てることもできなかった。


 アヤトが手を差し出す。


「行こう。まずは、君の名前を正式に記録する。それから、S.A.の欠片を追う」


「記録されると、戻れなくなるんじゃないのか」


「戻り方は変わる。戻れないわけじゃない。少なくとも、今のまま消えるよりはいい」


「生き残るために?」


「そう。まずは消えないこと」


 リョウは苦く笑った。


「アヤトらしいな」


「覚えていてくれて嬉しいよ」


 アヤトは淡く笑った。影山アヤト。絶対に忘れないでほしい。最初にそう名乗った青年。彼もまた、名前を必要としている。リョウはそのことを忘れないように、もう一度胸の中で繰り返した。


 影山アヤト。


 鳴海マナ。


 椎凪ナギサ。


 椎名アスカ。


 春日リョウ。


 名前を持つほど、重くなる。だが、その重さがなければ、世界の外へ踏み出した瞬間に消えてしまうのだろう。


 リョウは窓硝子の前に立った。そこには、夕方の校庭と、自分の顔が映っている。背後にはナギサ、マナ、ローズ、そしてレジストリへ続くアヤトの影。リョウの輪郭は、まだ人間のものだった。けれど、その足元には薄い黒い霧がある。鏡の向こう側には、まだ彼女の声が残っている。


 僕はその声を追うために、もう一度、世界の外へ足を踏み出した。

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