序章 世界の外へ
レジストリの通路は、夜よりも暗かった。暗いというより、光が名前を失っている場所だった。天井は見えない。壁は書架で埋まり、その書架の奥にはさらに細い棚、古い引き出し、透明な保存ケース、紙片、写真、録音媒体、名札、学生証、割れた鏡片が眠っている。どれも誰かがいた証拠であり、誰かがもう普通の世界には戻れなくなった証拠でもあった。歩くたびに、床は乾いた紙のような音を立てる。石でも木でもない。無数の記録を踏み固めたような足触りだった。リョウは、その感触を忘れないように歩いた。自分がまだ足で立っていることを、確かめるために。
胸ポケットには、春日リョウと書かれたカードが入っている。白い紙に黒いインク。影山アヤトが書いた名前。紙一枚に、自分の存在の一部を預けている。その事実は、今でも気持ち悪い。けれど、カードがなければ、世界の隙間へ踏み込むことさえできなかっただろう。カードは心臓の近くで、低い熱を持っている。ナギサの声とは違う。彼女に名前を呼ばれたときのような温度はない。ただ、記録としての自分を、冷静にこちら側へ縛っている。
アヤトはリョウの少し先を歩いていた。黒いコートの裾が揺れるたび、書架の影と輪郭が混ざる。彼はこの場所に慣れている。慣れているということが、少し悲しかった。世界から弾かれた者たちの名前を保管する場所。消えた人を取り戻す場所ではなく、完全に消えないように残す場所。彼はその区別を、何度もリョウに言った。リョウはそのたびに怒りを覚えた。今も、怒りは消えていない。けれど、怒りだけでは歩けないことも、もう知っている。
後ろにはナギサがいた。レジストリの中では、彼女の足音だけが妙に生々しい。上履きではなく、学校からそのまま来たローファーの音。現実のもの。今いる世界に属している音。ナギサは両手を胸の前で握り、時々リョウの背中を見る。手を伸ばせば届く距離ではない。けれど、声は届く距離だった。彼女はそれを選んだ。命綱として縋られるのではなく、自分の意志で呼び戻すための距離。リョウは振り返りたい衝動を何度も抑えた。振り返れば、彼女の顔を見てしまう。見れば、ここに留まる理由が増える。留まる理由が増えることは、救いでもあり、残酷でもあった。
マナはナギサの隣を歩いている。黒い傘を持ち、表情は硬い。ここへ来ることを最後まで嫌がった。けれど、止められないと分かった瞬間から、彼女は同行を選んだ。止めるために。見届けるために。もしリョウが一線を越えたとき、その場で引き戻すために。ローズは姿を見せていない。だが、レジストリの奥へ続く暗い硝子面のあちこちで、白い仮面の気配だけが薄く瞬くことがある。リョウはそれを見ないふりをした。見張られている。守られているのではなく、見張られている。その違いを、今はもう理解していた。
アヤトが未分類棚の前で足を止めた。
「ここから先は、正式記録ではない」
彼は言った。
「欠片、残響、主観、汚染、未確認記録。本人と断定できないものばかりだ」
「分かってる」
「分かっていない人ほど、そう言う」
アヤトの声は静かだった。リョウは睨んだが、彼は表情を変えない。
「もう一度言う。これから君に渡すものは、椎名アスカ本人ではない。世界に残った痕跡だ。君の記憶、ミラーのコピー、相談記録の破片、誰かの世界に残った印象、レジストリに漂着した音声ノイズ。それらが混ざっている可能性が高い」
「それでも、アスカにつながってる」
「つながっている可能性はある」
「同じだ」
「違う」
アヤトは振り返った。
「同じだと思った瞬間、君は欠片を本人として扱う。本人として扱えば、欠片が君の望む顔をする。君が望む声で話す。君が聞きたい言葉を言う。そして君は、それを救済だと思う」
リョウは奥歯を噛んだ。反論は喉まで上がってきた。けれど、言葉にならなかった。ミラーの残響は、アスカの声で呼んだ。S.A.の記録は、アスカの声に似たノイズを再生した。黒い霧の中で、確かに鮮明な声がした。リョウ、わたしを――。その先を聞きたかった。何度思い返しても、そこだけ途切れる。助けて、なのか。忘れて、なのか。探して、なのか。来ないで、なのか。答えはない。だから、追うしかない。
アヤトは黒く汚れたファイルを棚から取り出した。ラベルには、まだ「S.A.」とだけある。以前よりも汚れが濃くなっているように見えた。紙の端から、薄い黒い霧が漏れている。リョウの指先に残る黒い線が、それに反応してかすかに脈打った。ナギサが小さく息を呑む。
「リョウ」
呼ばれて、リョウは振り返った。
ナギサは怖がっていた。けれど、逃げてはいなかった。
「順番」
彼女は言った。
リョウは胸ポケットのカードに触れる。
「春日リョウ」
カードの熱が、ゆっくり安定する。
ナギサは自分の胸に手を当てた。
「椎凪ナギサ」
彼女の声は震えていたが、まっすぐだった。
リョウは、最後の名前を口に出さなかった。ここで呼べば、レジストリそのものが反応する。だが、胸の奥では呼んだ。椎名アスカ。忘れないために。本人ではない欠片を、本人として抱きしめないためにも。名前を呼ぶことは、縋ることだけではない。確かめることでもある。そう自分に言い聞かせた。
アヤトはファイルを開いた。中にあったのは、以前見た断片と同じものに見えた。相談記録の欠片。白いカーテンの布。アスカの筆跡に似た文字。音声チップ。鏡面から切り離された小さな欠片。ただし、すべてが少しずつ位置を変えている。記録が生き物のように、ファイルの中で呼吸しているようだった。
「再生する」
アヤトが言った。
音声チップを、小さな読み取り台へ置く。レジストリの棚の一部が淡く光り、通路の奥で何かが目を覚ましたように、紙片が震えた。ノイズが流れる。水の底で誰かが硝子を引っかくような音。遠い校内放送のような歪み。白いカーテンが揺れる布擦れ。保健室の薬品の匂いまで、音に混じって漂ってくる気がした。
『……覚えていて』
声がした。
リョウの心臓が強く打った。ナギサの呼吸が止まる。マナの黒い傘の先が、床へ小さく触れた。
『……リョウ……覚えていて……』
ノイズがかぶる。だが、声は前よりも少しだけ近い。アスカに似ている。似ているだけではない、とリョウは思ってしまう。そこに彼女がいる。消えた世界のどこかから、細い糸だけを伸ばしている。そう思いたくなる。
『でも、リョウ――』
そこから先は、ノイズに裂かれた。
ザー、という音が通路を満たす。声は砕け、いくつもの音片へ分かれた。リョウ、リョウ、リョ、ウ。覚えて。忘れて。来て。来ないで。助けて。違う。わたし。私たち。ノイズは意味を持ちかけて、すぐに崩れる。リョウは読み取り台へ手を伸ばしかけた。ナギサが名を呼ぶ。
「リョウ」
手が止まる。
アヤトは音声を止めた。通路は急に静かになった。静かになったせいで、途切れた言葉だけが、耳の中に残る。
でも、リョウ――。
「その先は」
リョウの声は掠れていた。
「解析できない」
アヤトが答えた。
「欠落しているのか、意図的に切断されたのか、ミラーの残響が混ざって意味を壊しているのか、まだ分からない」
「もう一度」
「再生すればするほど、記録は劣化する」
「もう一度だけ」
「リョウ君」
「もう一度だ」
アヤトはリョウを見た。しばらく沈黙したあと、音声チップを外した。
「今日はここまで」
「勝手に決めるな」
「この記録はアスカさん本人ではない」
「またそれか」
「何度でも言う」
アヤトの声は、少しだけ鋭くなった。
「これはアスカさんの声に似た痕跡だ。君がこの声を追うことは止めない。もう止まらないのも分かっている。でも、本人として抱くな。欠片は欠片だ。君がそこを間違えた瞬間、黒い霧は欠片を材料にして、君が望むアスカを組み立て始める」
「望むアスカ」
「そう。君にとって都合のいい、君を責めず、君を呼び、君に救われるアスカを」
「黙れ」
リョウの指先から、薄い黒がにじんだ。通路の床に落ちた黒は、紙の繊維へ染み込まず、霧のように浮いた。ナギサが一歩前へ出る。マナも動いた。アヤトは逃げない。ただ、リョウの胸ポケットを指さした。
「自分の名前」
リョウは息を吐いた。怒りを飲み込むように、カードへ触れる。
「春日リョウ」
黒い霧が少し弱まる。
ナギサが続ける。
「椎凪ナギサ」
リョウは彼女を見た。ナギサの目は揺れている。けれど、彼女は今も自分の名前を持って立っている。自分の役割ではなく、自分の意志で。
「ナギサ」
「うん」
「僕は、この声を追う」
「分かってる」
彼女は、思っていたより落ち着いた声で言った。
「止めたい。でも、止められないのも分かってる。リョウがこの声を追わなかったら、たぶん一生ここに残る。教室にいても、隣にいても、心だけこのノイズの前に戻り続ける」
「ごめん」
「禁止」
ナギサは小さく笑おうとして、できなかった。
「でも、ひとつだけ」
「うん」
「あたしの名前も忘れないで」
その言葉は、レジストリのどの記録より重かった。リョウは、ナギサの名前がこの暗い通路で消えないように、ゆっくり繰り返した。
「椎凪ナギサ」
彼女の肩が少し震える。
「忘れない。アスカも、君も」
「その答え、まだ怖い」
「分かってる」
「でも、今はそれでいい」
ナギサはそう言った。救われたようでもあり、さらに深い場所へ見送るようでもあった。彼女はリョウを引き止めたい。けれど、引き止めることでリョウの中にアスカの声が閉じ込められるのも分かっている。だから、彼女は止めない。ただ名前を預ける。忘れないで、と。かつてアスカが言った言葉と同じ形で。
マナが静かに言った。
「リョウ」
その呼び方に、リョウは少しだけ驚いた。春日くん、ではなかった。
「あなたが取り戻そうとしているのは、本当にアスカなのか。何度でも自分に問いなさい」
「分かってます」
「分かっていないから、問い続けるの」
マナは黒い傘を握りしめる。
「そして、ナギサの名前を、アスカの名前の後ろに置かないで。彼女は現在のあなたを呼ぶ人であって、過去の欠けた場所を埋める人ではない」
リョウは頷いた。完全に理解したとは言えない。だが、その言葉を持っていく必要があることは分かった。
レジストリの奥で、通路が開いた。アヤトが何かを操作したわけではない。S.A.のファイルから漏れた黒いノイズと、リョウの指先に残る黒い線が反応し、書架の隙間に裂け目が生まれた。そこは扉ではなかった。廊下でもない。暗い水面に似た境界が、縦に広がっている。向こう側には、何かの世界の残像が見えた。白いカーテン。校舎の窓。知らない部屋。誰かの机。雨の音。アスカの横顔に似た影。それらが一瞬ずつ浮かび、互いに重なり、すぐに黒へ沈む。
「これが、外側?」
リョウが聞くと、アヤトは頷いた。
「ナギサさんの世界の外。レジストリの管理領域からも半分外れている。個人世界と欠片の漂流域の境目だ。長く留まれば、君の霧が反応する。反応しすぎれば、世界を歪める」
「そこに、アスカの声の続きを探しに行ける」
「探せる。ただし、見つかるものが本人とは限らない」
「分かってる」
「言葉ではね」
アヤトは、いつものように穏やかだった。だが、目は厳しい。
「君が外へ出るなら、正式記録を済ませる。春日リョウとして戻るための最低限の座標を残す。これがなければ、君は次に戻る場所を見失う」
「記録されたら、僕は弾かれた者になるのか」
「もう弾かれている。記録は、それを認めるだけだ」
その言葉は、思ったより静かにリョウへ落ちた。もう戻れない。そう言われているのに、不思議と驚きは少なかった。教室で世界がぼやけた日から、駅前で誰にも認識されなくなった日から、レジストリで名前のカードを受け取った日から、彼は少しずつ自分が普通の場所から外れていることを知っていた。
アヤトは小さな金属板を取り出した。学生証より少し小さい。表面は黒に近い灰色で、文字はまだない。
「名前を」
リョウは答えた。
「春日リョウ」
「確認者」
ナギサがすぐに言った。
「椎凪ナギサ」
マナが続く。
「鳴海マナ」
アヤトは自分の名も添える。
「影山アヤト」
金属板に、細い光が走った。春日リョウという文字が刻まれる。完全な登録ではない。仮登録。そうアヤトが言った。けれど、リョウにはそれだけでも、自分の名前が世界の外側に打ち込まれるように感じた。胸が重くなる。もう、なかったことには戻れない。
境界の裂け目から、声が漏れた。
『……覚えていて』
リョウは振り返らない。ナギサを見た。彼女も声を聞いたのだろう。顔が強張っている。それでも、彼女は目を逸らさなかった。
『でも、リョウ――』
また途切れる。
リョウは白紙のカードを取り出した。そこには、まだ何も書いていない。書けば何かが始まる。世界に傷がつく。アヤトは止めるだろう。マナも警告するだろう。ナギサはきっと、震えながらも自分の名前を呼ぶだろう。
今は、まだ書かなかった。
ポケットへ戻す。名前を胸の中に置いたまま、欠片を追う。本人ではないと知りながら。それでも、本人へつながる可能性を捨てられずに。
「行く」
リョウは言った。
黒い霧が足元から立ち上がった。前よりも濃い。けれど、教室で暴れたときのような怒りだけの霧ではなかった。名前のカード、レジストリの仮記録、ナギサの声、マナの警告、アヤトの視線。それらがかろうじて霧の形を留めている。黒は何もない色ではない。すべてが混ざった色。ならば、この霧の中にはリョウの願いだけでなく、彼を止めようとする声も混ざっているはずだった。
ナギサが一歩近づいた。霧には触れない距離で止まる。
「リョウ」
呼ばれる。
今の世界へ戻す声。メアではなく、春日リョウとして呼ぶ声。
「帰ってきて」
「帰る」
「半分だけ信じる」
「残り半分は?」
「あたしが呼び戻す」
ナギサはそう言って、泣きそうな顔で笑った。
リョウはその顔を目に焼きつけた。アスカの声を追うために。ナギサを置き去りにしないために。その二つが同時にできるのかは分からない。たぶん、何度も間違える。何度も傷つける。それでも、忘れないと決めた。アスカも、ナギサも。決めた言葉の危うさごと、持っていくしかなかった。
アヤトが境界の方へ手を向ける。
「外へ出たら、自分の名前を失わないで。声に引かれたら、まず自分の名前を呼ぶ。それから、ナギサさんの名前。それでも足りなければ、戻る」
「戻れないときは?」
アヤトは少しだけ黙った。
「そのときは、誰かが君を止めに来る」
ローズの白い仮面が、遠い硝子の中に一瞬だけ映った。答えはそれで十分だった。
リョウは境界へ足を踏み出した。
黒い霧が彼を包む。レジストリの書架が遠ざかり、ナギサの世界の光が後ろへ薄れていく。名前のカードが胸で熱を持つ。爪の下の黒い線が脈打つ。耳元で、アスカの声がまた揺れた。
『覚えていて』
リョウは答えた。
「忘れない」
次の瞬間、足元の床が消えた。世界と世界の隙間が開き、彼の身体は黒い霧とともに、初めてナギサの世界の外へ踏み出した。




