第1章 個人世界
世界の外は、空白ではなかった。そこには、あまりにも多くのものがあった。色を失った廊下、途切れた階段、途中で終わる窓枠、誰も座っていない机、開いたまま凍りついた扉、どこにも接続していない横断歩道、夕焼けだけが貼りついた空の断片。リョウは黒い霧に包まれながら、そのすべての間を落ちていた。落ちているのか、歩いているのか、漂っているのかも分からない。足の裏には床の感触がある。だが、その床は一歩ごとに別のものへ変わる。学校の廊下のリノリウム、駅前のタイル、レジストリの乾いた紙の床、濡れた鏡面、そして見知らぬ誰かの部屋の畳。どれも一瞬だけ本物になり、すぐに背後へ流れていく。
胸ポケットのカードが熱を持っていた。春日リョウ。レジストリで仮に記録された自分の名前。そこへ指を当てると、霧の中でも自分の輪郭が少しだけ濃くなる。ナギサの声は、もう近くにはない。けれど、耳の奥には残っている。リョウ。帰ってきて。半分だけ信じる。残り半分は、あたしが呼び戻す。彼女の言葉が、今のリョウにとって唯一の現在だった。アスカの声を追うために世界の外へ出たのに、現在へ戻るための声はナギサのものだった。その矛盾が、胸の内側で痛む。
「足を止めないで」
隣からアヤトの声がした。黒い霧の中に、影山アヤトは自然に立っていた。歩いているようにも、記録の余白を滑っているようにも見える。黒いコートの裾が、周囲の断片に触れるたび、世界の破片が少しだけ輪郭を取り戻す。彼は案内人としてこの場所に馴染みすぎていた。だからこそ、リョウには少し腹立たしくもあった。
「止まったらどうなる」
「君の足が、どの世界へ属していたのか分からなくなる」
「もう分からないだろ」
「完全には、まだ分かっている。春日リョウとして記録されているからね」
アヤトは淡々と言った。リョウは胸のカードを握る。
「記録されてるから僕は僕だって言われるの、やっぱり気持ち悪いな」
「気持ち悪いと感じられるうちは、生きている君の方が強い。紙に書かれた名前だけになれば、その違和感も消える」
「励ましてるつもりか」
「注意しているつもり」
「だろうな」
会話はそこで切れた。黒い霧の向こうで、声が聞こえる。覚えていて。リョウ。わたしを――。途切れた声の続きを求めて、リョウの足は自然に前へ出そうになる。アヤトはそのたびに、わずかに進路をずらした。声に向かって一直線に進ませない。まるで、川の激流を斜めに渡らせるように。
「声だけを追うと、落ちる」
「何度も聞いた」
「何度でも言う。ここでは声も、記憶も、風景も、全部が入口になる。開いているように見えるものが、必ず出口とは限らない」
「アスカの声も?」
「特に」
リョウは舌打ちした。アヤトは気にしない。
「最初に入るのは、比較的安定している個人世界だ。六道学園に近い。君にとって馴染みがある分、崩れにくい」
「誰の世界だ」
「完全には特定できていない。六道学園に在籍していた誰かの認識を中心にしている。君とアスカさんに近すぎない。だから、最初に見るには向いている」
「近すぎないなら、アスカはいないんじゃないのか」
「近すぎないから、見えるものもある」
アヤトが前方を指した。
霧の向こうに、校門が現れた。
六道学園だった。少なくとも、最初はそう見えた。黒い鉄の門。石造りの校名板。奥へ伸びる通学路。校舎の窓。植え込み。自転車置き場。見慣れたものが並んでいる。リョウは思わず息を止めた。戻ってきたのかと思った。だが、すぐに違うと分かった。空の色が違う。夕方ではないのに、空は薄い紫を帯びていた。雲は低く、ガラスに映った光のように硬い。校舎の配置も、記憶と少しずれている。本来なら右にあるはずの旧校舎が、正面の奥へ移動していた。昇降口の庇は長すぎる。時計塔の針は、十一時と四時を同時に指している。校名板の文字は「六道学園」と読めるのに、最後の一画だけが知らない字のように歪んでいた。
「ここが」
「個人世界」
アヤトが答える。
「現実の六道学園ではない。誰かが記憶し、認識し、日々の習慣として組み立てた六道学園だ」
「夢みたいなものか」
「夢よりは硬い。記憶よりは柔らかい」
「分かりにくい」
「慣れるよ」
「慣れたくない」
リョウは校門をくぐった。門の内側へ入った瞬間、空気が変わった。レジストリや世界の外側の乾いた匂いではなく、学校の匂いがした。湿った土、部室棟の古い木材、誰かが飲み残した紙パックの甘い匂い、廊下に染みついたワックス。懐かしい。だが、少し違う。どの匂いも半歩ずつずれている。知っている場所のようで、知っている場所ではない。自分の学校を誰かの記憶越しに歩いている感覚だった。
昇降口に生徒たちがいた。制服は六道学園のものに似ているが、リボンの色が違う。鞄の形も少し古い。誰もリョウを見ない。駅前で消えかけたときのような無視ではなかった。彼らにとって、リョウは最初から風景の外にいるのだ。存在しないのではなく、この世界の登場人物ではない。アヤトはそれを気にせず進む。
「彼らには見えていないのか」
「基本的には見えていない。ただし、中心人物に近い記憶ほど、外から来た存在を異物として感じることがある」
「中心人物?」
「この世界を形作っている認識の持ち主。ホストと言ってもいいけれど、今はまだ言葉に引っ張られない方がいい。要するに、この世界を最も強く“そうである”と認識している人だ」
「人の記憶で世界ができるなんて、そんな理屈」
「理屈より先に、見えているはずだよ」
アヤトは廊下の窓を指した。
窓硝子に、校庭が映っている。だが、現実の窓なら映るはずの反射の奥に、別の校庭が重なっていた。ひとつは晴れ。ひとつは雨。ひとつは誰もいない。ひとつは文化祭の準備中。どれも六道学園の校庭で、どれも少しずつ違う。リョウはその重なりを見て、胸が悪くなった。
「人は、同じ学校にいても同じ学校を見ているわけじゃない」
アヤトが言った。
「ある人にとっての教室は逃げ場かもしれない。別の人にとっては檻かもしれない。ある人にとっての保健室は休める場所で、別の人にとっては戻れなくなる入口かもしれない。世界は共有されているように見える。でも、内側では無数に分かれている」
「そんな話はどうでもいい」
リョウは言った。
「僕はアスカを探しに来た」
「だから説明している」
「説明を聞いてもアスカは戻らない」
「説明を聞かないと、君は最初に見えたアスカらしいものへ飛びつく」
リョウは黙った。アヤトの言葉は腹立たしいほど正しい。自分がそうする可能性を、リョウ自身が一番分かっている。
廊下へ入る。長い。リョウの知る六道学園の廊下より、三割ほど長い。窓の数が合わない。階段の位置もずれている。二年三組へ向かっているはずなのに、途中に見覚えのない音楽室がある。掲示板には、存在しなかったはずの部活動のポスターが貼られている。鏡面研究会。写真部。合唱委員会。文字は読めるのに、読んだ瞬間に少し忘れる。
「この世界の持ち主は、空間を正確には覚えていない」
アヤトが言った。
「だから廊下が伸びる。教室の位置がずれる。席順も、本人にとって意味がある部分だけが濃く残る」
「そんな不完全なものが世界なのか」
「人の記憶なんて、だいたい不完全だよ」
「アスカの記憶も?」
自分で言って、声が鋭くなった。
アヤトはリョウを見る。
「そう。アスカさんに関する記憶も、世界ごとに不完全だ。君の記憶でさえ、完全ではない」
「僕は覚えてる」
「名前を覚えている。好きだったことを覚えている。失ったことを覚えている。でも、彼女が見ていた世界を完全に覚えているわけじゃない」
リョウは反論しようとした。だが、アスカの不安を思い出す。幸せなのに怖い。大切な人の世界から消えるのが怖い。彼女がそれを抱えていたことを、リョウは失ってから知った。覚えていると言いながら、彼女の見ていた世界を見ていなかった。その事実が、今も胸に刺さる。
階段を上がると、二年三組に似た教室があった。表札は「二年三組」と読める。けれど、教室の扉の高さが少し低い。窓は四枚のはずが五枚ある。黒板の右端に、知らない小さな掲示板が付いている。席順も違った。リョウの席があるはずの場所には別の生徒が座っている。アスカの席があったはずの場所には、空席でも別人の席でもなく、机そのものがなかった。
「ここにも、アスカの席はない」
リョウは呟いた。
「この世界の持ち主が、アスカさんをどう認識していたかによる」
「いなかったってことか」
「そうとは限らない。重要な人物ではなかった場合、席や日常の配置としては残らない。でも、印象としては残ることがある」
「印象」
「優しかった人。廊下で見た人。誰かの隣にいた人。自分と話したことはないけれど、名前だけ知っていた人。そういう浅い記憶も、個人世界には残る」
「浅い記憶のアスカなんて」
リョウは言いかけて、止まった。浅い記憶のアスカ。それはアスカ本人ではない。けれど、誰かの世界にはそういうアスカがいた。リョウの恋人ではなく、クラスの女子。廊下で見かける生徒。優しそうな人。名前を知らないまま、顔だけ覚えている人。アスカはリョウの世界だけにいたわけではない。そんな当たり前のことが、今さら彼を殴った。
教室の奥で、笑い声がした。
リョウは振り向いた。
窓際に、少女が立っていた。
長い髪。制服。横顔。少しだけ肩をすくめて笑う癖。リョウの呼吸が止まった。アスカだった。いや、アスカに見えた。見えた瞬間、他のすべてが消えた。廊下の長さも、アヤトの説明も、個人世界の理屈も、胸のカードも、ナギサの声も、一瞬だけ遠ざかった。
「アスカ!」
リョウは叫んだ。
少女は廊下へ出ていった。リョウは走り出した。アヤトが何か言ったが、聞こえなかった。黒い霧が足元に薄く出る。胸のカードが熱を持つ。教室の机が歪み、廊下の距離が伸びる。だが、リョウは止まらなかった。窓際にいた少女の背中を追う。曲がり角を曲がる。廊下の先に彼女がいる。階段の踊り場。夕方のような紫の光。白いカーテンの影。少女は振り向かずに歩いていく。
「待て!」
叫ぶ。声はこの世界の廊下に反響しない。まるで他人の記憶に入った声は、壁に届かないのだと言われているようだった。
それでも、少女は止まった。
階段の踊り場だった。窓の外には、紫色の空が広がっている。校庭には誰もいない。時計塔の針が、ありえない角度で止まっている。少女はゆっくり振り返った。
アスカの顔だった。
少なくとも、リョウにはそう見えた。けれど、細部が違う。目元の不安が薄い。口元の癖も少し違う。髪の長さも、記憶よりほんの少し短い。制服の着方も違う。リョウが愛したアスカの輪郭に、誰か別の記憶が色を塗っている。
「アスカ」
リョウは一歩近づいた。
少女は不思議そうにリョウを見た。
「わたし?」
その声はアスカに似ていた。だが、距離がある。リョウの名前を呼んだことのない声だった。胸の中で何かが冷たくなる。
「椎名アスカだろ」
リョウは言った。
少女は少し考えるように目を伏せた。
「たぶん、そう呼ばれていた気がする」
「たぶん?」
「名前は、はっきりしないの。ここでは、あまり必要じゃなかったから」
リョウの足が止まる。ここでは、必要じゃなかった。アスカの名前が必要ではない世界。誰かの個人世界に残った彼女は、名前ではなく印象として存在している。優しそうな横顔。窓際で笑っていた少女。廊下で誰かに道を譲った人。その程度の記憶。
「僕だ」
リョウは言った。
「春日リョウ。分かるだろ。僕は――」
恋人だった。そう言おうとして、喉が詰まった。このアスカに、その言葉をぶつけていいのか。彼女はアスカ本人ではない。誰かの記憶に残ったアスカ像。ここで恋人だったと言えば、それはリョウの記憶を押しつけることになる。分かっている。分かっていても、言いたかった。
「リョウ」
少女はその名前を繰り返した。音の形を確かめるように。初めて聞く言葉を口にするように。
そして、困ったように首を傾げた。
「あなた、誰?」
リョウの世界が止まった。
その問いは、どんな拒絶より深く刺さった。アスカの姿をしたものに騙されたことはある。ミラーの声に呼ばれたこともある。ノイズの中の声に縋りそうになったこともある。だが、目の前の少女は騙そうとしていない。優しく誘ってもいない。リョウを惑わせようとしているわけでもない。ただ、本当に知らないのだ。彼女の中に、春日リョウはいない。リョウと過ごした時間も、恋人だった記憶も、覚えていてと願った声もない。ここにいるのは、誰か別の人物の世界に残った、リョウを知らないアスカの印象だった。
「僕は」
声が出ない。
黒い霧が足元ににじむ。怒りではない。悲しみでもない。もっと深い、輪郭のないもの。彼女に自分を思い出させたい。名前を刻み込みたい。リョウを知らないアスカなど、アスカではないと言いたい。いや、彼女もアスカの一部かもしれない。誰かの世界にいたアスカ。リョウの知らないアスカ。彼女を否定すれば、リョウはまたアスカの別の一面を消すことになるのではないか。
アヤトが追いついた。彼はリョウの少し後ろで止まり、静かに言った。
「これが個人世界だよ」
「黙れ」
「彼女は、君のアスカさんではない」
「黙れ」
「でも、アスカさんと無関係でもない」
リョウは拳を握った。少女は、リョウとアヤトを交互に見ている。怯えてはいない。ただ、分からないものを見る顔をしている。その表情が、さらにリョウを苦しめた。アスカに似た顔で、リョウを知らない。
「あなたは、わたしを知っているの?」
少女が尋ねた。
リョウは息を吸った。
「知ってる」
「どんな人だった?」
その問いもまた残酷だった。どんな人だった。過去形。リョウは答えようとした。優しくて、少し不安が強くて、笑うときに目を伏せて、本当の怖さを言えなくて、それでも誰かを傷つけないようにして、僕の世界から消えたくないと願っていた。いくらでも言葉は出る。だが、それはリョウのアスカだ。目の前の少女が問うているのは、彼女自身の空白なのかもしれない。
「大切な人だった」
リョウはそれだけ言った。
少女は少しだけ目を細めた。
「そう」
彼女は窓の外を見た。
「なら、忘れないであげて」
その言葉に、リョウの胸が裂けそうになった。知らないのに。リョウを知らないのに。その口で、同じ言葉へ近づく。忘れないで。覚えていて。誰かの世界に残った浅い印象でさえ、アスカの欠片は同じ方向を向いているのか。それとも、リョウの願いがそう聞かせているだけなのか。分からない。
「忘れない」
リョウは言った。
「絶対に」
少女は微かに笑った。だが、その笑みはアスカのものではなかった。誰かが遠くから見て、優しい人だったと記憶した笑顔だった。
次の瞬間、階段の踊り場が薄くなった。紫の空が割れ、校舎の輪郭が紙片のように剥がれていく。少女の姿も、窓の反射に溶け始める。
「待って」
リョウは手を伸ばした。
「まだ、聞きたいことが」
「わたしは、あなたを知らない」
少女は言った。責めるのではなく、事実として。
「でも、あなたがわたしを探していることは、少しだけ分かる」
「アスカ」
「それが、わたしの名前なら」
彼女は最後に、困ったように笑った。
「忘れないで」
踊り場が崩れた。
世界が暗転し、リョウは廊下へ戻された。いや、さっきまでの六道学園に似た世界の廊下ではない。レジストリと個人世界の間にある、黒い霧の通路だった。アヤトがすぐそばに立っている。リョウの足元には黒い霧が渦を巻いていた。胸のカードは痛いほど熱い。
リョウは膝をつきそうになった。だが、倒れなかった。ナギサの声が耳の奥に残っていたからだ。リョウ。帰ってきて。彼はその声を手がかりに、どうにか自分を保った。
「今のは」
リョウは言った。
「アスカじゃないのか」
アヤトはすぐには答えなかった。
「アスカさんの一部ではある」
「本人じゃない」
「本人そのものではない」
「じゃあ、何だよ」
「誰かが覚えていたアスカさん。君を知らないアスカさん。君の世界ではなく、別の世界に残った彼女の影」
リョウは顔を歪めた。
「そんなものまで、集めなきゃいけないのか」
「君がアスカさんを取り戻すと言うなら、いずれ向き合うことになる」
「僕の知らないアスカにも?」
「そう」
アヤトの声は静かだった。
「君が取り戻したいのが、君の知っているアスカさんだけなら、それは君の記憶の再構成になる。彼女自身を求めるなら、君の知らなかった彼女にも触れることになる」
リョウは何も言えなかった。
世界の外側は、アスカへ近づく場所だと思っていた。けれど、最初に突きつけられたのは、リョウを知らないアスカだった。彼女は確かにアスカに似ていた。けれど、リョウの恋人ではなかった。リョウを見て、あなた、誰、と言った。その問いが、今も胸の奥で響いている。
アヤトは歩き出した。
「次へ行く前に、記録を残す」
「何の」
「今見たアスカ像の記録。個人世界由来。リョウ君との関係認識なし。名前認識、不安定。忘却への抵抗、弱いが存在」
「やめろ」
リョウは言った。
「そんなふうに書くな」
「書かないと消える」
「書いたら、あれがそんな言葉になる」
「言葉にしなければ、次に君が思い出すとき、君の願望で形が変わる」
アヤトは振り返らない。
「記録は冷たい。でも、冷たいからこそ、願望に侵されにくい」
リョウは拳を握った。反論できないことが悔しかった。
彼はもう一度、胸の中で名前を呼んだ。
春日リョウ。
椎凪ナギサ。
椎名アスカ。
最初の個人世界は消えた。けれど、アスカの影は消えなかった。リョウを知らないまま、忘れないでと言った少女。その矛盾した欠片を、リョウは持っていかなければならない。自分の知っているアスカだけを集めれば、それは本当にアスカなのか。自分を知らないアスカを受け入れれば、リョウは何を取り戻そうとしているのか。
答えはなかった。
ただ、世界の外側には、次の扉が開いていた。




