第2章 リョウを知らないアスカ
黒瀬遥という名前を、リョウは知らなかった。レジストリの仮記録に照合されたあと、アヤトが淡々とそう告げた。先ほどの個人世界の中心にいた人物。この歪んだ六道学園を、紫がかった空と長すぎる廊下と一画だけ歪んだ校名板を、日々の記憶と認識で形作っていた生徒。高等部二年。クラスはリョウの知る配置では二組に相当するが、この世界では三組の隣の教室が二組で、階段の位置も廊下の長さも違っている。アヤトはそれを「黒瀬遥の世界」と呼んだ。リョウには、その呼び方がひどく乱暴に聞こえた。世界。校舎も、空も、教室も、そこにいる生徒たちの声も、全部ひとりの認識を中心にしている。そう言われても、目の前の風景はあまりにも学校に似ていた。似すぎていて、だからこそ気持ちが悪かった。
リョウはまだ、階段の踊り場で聞いた言葉から立ち直れていなかった。あなた、誰。アスカの顔をした少女が、リョウを知らない目で言った。知らないからこそ、その言葉には悪意がなかった。ミラーの誘惑よりも、ノイズの呼び声よりも、ずっと正直だった。だから深く刺さった。リョウの中では、アスカは恋人だった。失踪する前、隣にいて、手を伸ばせば届き、名前を呼べば振り向いてくれる人だった。けれど他人の世界では、彼女はただ窓際で笑っていた誰かであり、廊下ですれ違った優しい生徒であり、リョウのことを知らない少女でもあった。そんな当たり前の事実が、リョウの胸をえぐっている。
「もう一度入る」
アヤトが言った。
「同じ世界に?」
「完全に同じではない。さっき見たのは、表層に近い場所だ。君がアスカさんの姿を追いかけたせいで、世界の一部が剥がれた。今度は中心に近い記憶へ接続する」
「中心って、黒瀬遥の?」
「そう。彼女がアスカさんをどう覚えていたのかを見る」
「見るだけか」
リョウの声が硬くなる。
アヤトはすぐに答えなかった。黒い通路の奥で、さっき崩れた個人世界の断片がまだ揺れている。紫の空、階段の窓、アスカに似た横顔。それらは消えきらず、薄い硝子片のように宙に浮かんでいた。
「原則は見るだけ」
「原則?」
「君は欠片を集めようとしている。けれど、欠片は物体じゃない。誰かの中に残った印象、記憶、声、仕草、関係性。そういうものだ。取り出せる場合もある。でも、取り出せば、その世界からは欠ける」
「アスカの欠片なのに?」
「その人の世界に残ったアスカさんだからね」
アヤトは静かに言った。
「アスカさんだけでできているわけじゃない。黒瀬遥が彼女をどう見ていたか。どんな会話をしたか。何に救われ、何を失ったと思っているか。そういう遥さん自身の記憶も混ざっている」
「それじゃ、純粋なアスカなんてどこにもないみたいじゃないか」
「少なくとも、他人の世界に残った欠片は純粋じゃない」
「じゃあ、僕の記憶なら純粋なのか」
言った瞬間、リョウは自分で答えを知っていた。違う。リョウの記憶も歪む。後悔で強調され、喪失で美化され、取り戻したい願望で都合よく形を変える。アスカが何を怖がっていたのか、リョウは失ってから知った。なら、自分の中のアスカだけが完全だと言えるはずがない。
アヤトはそれを責めなかった。ただ、事実として頷いた。
「だから記録する。冷たい形で残す。君の願望から距離を取るために」
「記録にすれば、アスカはただの資料になる」
「記録しなければ、君の中で都合のいい形になる」
リョウは拳を握った。どちらも嫌だった。アスカを資料にしたくない。けれど、自分の願望で作り替えることもしたくない。したくないのに、黒い霧はそれをできてしまうかもしれない。存在を分解し、混ぜ直す霧。救いに見えて、救う対象ごと変えてしまう力。
「行く」
リョウは言った。
「黒瀬遥が何を覚えているのか、見る」
「見るだけだよ」
「分かってる」
「たぶん分かっていない」
「うるさい」
アヤトはそれ以上言わなかった。彼が指先で空中の記録片に触れると、紫の空の欠片が広がり、再び六道学園に似た世界が開いた。
今度は朝だった。空の色は薄紫ではあるが、光は柔らかい。校門の前には生徒たちが流れ込み、昇降口では笑い声が響いている。前に見た無人に近い学校よりも、ずっと生々しかった。誰かの記憶が濃く残る場所なのだろう。リョウとアヤトは生徒たちの流れの中に立っていたが、やはり誰もこちらを見ない。存在しているが、登場人物ではない。そういう立場で、この世界に重なっている。
昇降口の隅に、一人の少女がいた。肩の少し下で切りそろえた髪。小柄で、丸みのある目。制服の着方は真面目だが、靴箱の前で鞄の中身を確認する仕草は少し慌ただしい。彼女が黒瀬遥なのだと、説明されなくても分かった。世界の光が、彼女の周囲だけ少し濃い。彼女が見るものは輪郭がはっきりし、彼女が気にしていないものは背景のように淡くなる。昇降口の掲示物はぼやけているのに、彼女が何度も見上げる時計だけはやけに鮮明だった。
「遅刻しそう」
遥が小さく呟いた。
その声に反応して、昇降口の時計の針が一瞬だけ速く動く。リョウは眉をひそめた。
「今、時計が」
「彼女がそう感じているから」
アヤトが言う。
「この世界では、彼女の焦りが時間の見え方に影響する」
「めちゃくちゃだな」
「人の主観は、だいたいめちゃくちゃだよ」
遥は上履きへ履き替え、廊下を急いだ。リョウとアヤトはその後を追う。廊下の長さは遥の焦りに合わせて縮み、角を曲がるたびに教室の位置が入れ替わる。やがて彼女は二年二組に飛び込んだ。教室の中は朝の騒がしさで満ちている。机の列はリョウの知る六道学園と違う。窓の数も違う。だが、生徒たちが鞄を置き、友人に声をかけ、宿題を写し、購買の新商品について話している空気は、どの世界でも同じだった。
その教室の窓際に、アスカがいた。
リョウの身体が硬直する。今度のアスカは、さっきの階段の少女よりも鮮明だった。髪はリョウの記憶とほぼ同じ長さ。制服の着方も、声も、表情も、ずっと近い。けれど、その顔にはリョウの知らない明るさがあった。アスカは机に肘をつき、遥の方を見て笑っている。少し遠慮がちではあるが、リョウの前で見せていた不安を隠す笑みとは違う。肩の力が抜けている。遥が教室へ駆け込むと、アスカは片手を上げた。
「遥、またぎりぎり」
「違う、今日は時計が早かった」
「時計のせいにした」
「だって本当に早かったんだもん」
遥が息を切らして席へ向かう。アスカは小さく笑い、机の横に置いていた紙袋を差し出した。
「はい。昨日言ってたやつ」
「えっ、ほんとに持ってきてくれたの?」
「うん。妹がもう読まないって言ってたから」
「助かる。これ、探してたんだよね」
紙袋の中には少女漫画らしい単行本が入っていた。遥は目を輝かせる。アスカはその反応を見て、嬉しそうに笑った。リョウはその笑顔を知らなかった。いや、見たことがないわけではない。アスカは笑う人だった。けれど、遥に向けたその笑顔は、リョウの前で恋人として見せるものとは違う。もっと軽く、気安く、友人同士の距離で、少しだけ悪戯っぽい。
「返すの遅くなるかも」
「いいよ。遥、読むの遅いし」
「そこは言わなくていいじゃん」
「だって、前のも一ヶ月かかった」
「テスト期間だったから」
「はいはい」
アスカが笑う。遥が頬を膨らませる。周囲の生徒がそのやり取りを見て、また始まった、という顔をする。親しい。確かに親しい。リョウは、その関係に立ち入る場所を持っていなかった。
「アスカ」
思わず呼んだ。声は、この世界の教室に届かない。アスカは振り向かない。遥も気づかない。リョウはもう一度呼ぼうとして、やめた。彼女たちは生きている記憶の中にいる。リョウはその外側にいる。声を届かせるには、世界へ干渉しなければならない。干渉すれば、何かが歪む。
「これが黒瀬遥のアスカさんだ」
アヤトが言った。
「友人としてのアスカさん。リョウ君の恋人ではない」
「そんなの、見れば分かる」
「見て分かっても、受け入れるのは別だ」
リョウは黙った。アスカと遥の会話は続いている。朝の教室。貸し借りした漫画。テストの愚痴。購買のパンの話。放課後に図書室へ寄る約束。リョウの知らない時間が、そこにあった。リョウがいなくても、アスカは笑っている。リョウの恋人ではない場所で、誰かの友人として存在している。その事実は、アスカが豊かだった証拠のはずなのに、リョウには胸が軋むほど苦しかった。
チャイムが鳴る。朝のホームルームが始まる。教師の顔はぼやけている。遥にとって重要なのは、教師ではないのだろう。授業風景は断片的に流れた。黒板の文字は読めない。ノートの端、遥のペン先、アスカから回ってくる小さなメモだけが鮮明だった。
今日、放課後どうする?
図書室。あと、遥が泣いた漫画の続き聞く。
泣いてない。
目、赤かった。
アスカひどい。
リョウは、その筆跡を見た。アスカの字だ。少しだけ違う。だが、近い。近すぎる。指先が熱くなる。黒い霧が爪の下でうごめいた。
「触らないで」
アヤトが言った。
「触ってない」
「触ろうとした」
「メモだ。アスカの字だ」
「遥さんの世界に残ったメモだ」
「アスカが書いたものだろ」
「ここでは、遥さんが“アスカさんからもらったメモ”として覚えているものだ。物理的な原本じゃない」
「でも、アスカの欠片だ」
「そう。だから危ない」
リョウは歯を食いしばった。メモの文字が、彼を呼んでいる気がした。持っていける。これを取れば、アスカの筆跡がひとつ増える。アスカの友人としての表情、言葉、会話、笑い方。リョウの知らないアスカを、少しでも集められる。そう思った瞬間、黒い霧がリョウの指先からごく薄く漏れた。
教室の時間が飛んだ。
放課後になっていた。世界の記憶は、遥にとって大事な場面へ移ったのだろう。図書室。窓から淡い紫の光が入る。現実の六道学園の図書室に似ているが、棚の並びが違う。奥にあるはずの郷土資料コーナーがなく、代わりに漫画研究の雑誌が少しだけ置かれている。遥とアスカは窓際の席に向かい合って座っていた。机の上には漫画、ノート、購買で買ったらしい紙パックの飲み物。
「アスカはさ」
遥が言った。
「人に合わせるのうまいよね」
アスカは少し驚いた顔をした。
「そうかな」
「うん。なんか、誰とでもうまく話せるっていうか」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。私は無理。顔に出るし」
「遥は顔に出るね」
「やっぱり褒めてないでしょ」
遥が笑う。アスカも笑う。けれど、次の瞬間、アスカの表情に少しだけ影が差した。リョウはその影を知っている。自分の胸の奥へ何かをしまうときの顔。
「でも、合わせるのがうまいって、いいことばかりじゃないよ」
アスカは言った。
「相手が見たい自分になってるだけかもって、思うことがあるから」
リョウの心臓が痛んだ。アスカは、ここでもそんなことを言っている。リョウの知らない友人の前でも、同じ不安の別の形をこぼしていた。
遥は、難しい顔をした。
「それ、疲れない?」
「疲れるときもある」
「じゃあ、私の前ではやめれば」
あまりにもまっすぐな言葉だった。アスカは目を瞬かせる。遥は照れたように視線を逸らした。
「いや、えっと、別にかっこいいこと言ったつもりじゃなくて。私、アスカが完璧じゃなくても気にしないし。むしろ完璧だと緊張するし。漫画返すの遅いし、朝もぎりぎりだし、そういう私と友達やってくれてる時点で、アスカもだいぶ変だと思う」
アスカは一瞬ぽかんとして、それから声を出して笑った。リョウはその笑い方を知らなかった。目を細め、机に額がつきそうになるほど笑うアスカ。遠慮なく、友達の言葉で救われた顔。リョウの前で見せたら、きっと彼は驚いただろう。驚いて、嬉しくなって、それから少しだけ寂しくなったかもしれない。
「遥って、たまにすごいこと言うよね」
「たまに?」
「うん。たまに」
「そこはいつもって言って」
「いつもは言いすぎ」
二人は笑った。図書室の紫の光が柔らかく揺れる。その会話は、とても小さなものだった。世界を救う話でも、失踪事件の核心でもない。ただの友人同士の放課後。だが、遥にとっては大事な記憶だったのだろう。図書室のこの席だけが、世界の中で異様に鮮明だった。紙パックの水滴、机の傷、アスカが笑ったときに髪が頬へ落ちる角度、遥が照れ隠しに漫画の表紙を指で叩く癖。すべてが濃く残っていた。
リョウは、その濃さに手を伸ばしたくなった。
アスカの欠片だ。リョウの知らないアスカ。けれど、確かにアスカ。彼女が誰かに救われた瞬間。彼女が恋人ではない顔で笑った記憶。これを持っていけば、アスカを再構成するための大切な一部になる。そう思った。
黒い霧が、指先から机の方へ伸びた。
「リョウ君」
アヤトの声が鋭くなる。
「やめて」
「少しだけだ」
「少しだけでも、取れば欠ける」
「でも、これはアスカの」
「遥さんの記憶でもある」
霧は止まらなかった。リョウの意志よりも、胸の奥の渇きに従っているようだった。机の上に置かれた小さなメモ、アスカの笑顔、遥の言葉、それらが黒い霧に触れる。触れた瞬間、図書室の空気が揺れた。
アスカの笑い声が、少し薄くなる。
遥が不意に顔を上げた。彼女はリョウを見ていない。見えていない。けれど、何かが失われようとしていることだけは感じたのだろう。彼女の表情が不安に変わる。
「あれ」
遥が呟いた。
アスカが首を傾げる。
「どうしたの?」
「今、何の話してたっけ」
「漫画の話?」
「違う。なんか、もっと大事な」
遥は机の上の紙袋を見た。そこにあったはずの漫画の表紙がぼやけている。アスカが渡したはずのメモの文字が薄くなる。図書室の窓際の席が、急に遠くなる。リョウの黒い霧が、記憶を引き剥がし始めていた。
遥の目から、理由の分からない涙が落ちた。
「え」
彼女自身が驚いたように頬に触れる。
「何で、泣いてるんだろ」
アスカが心配そうに身を乗り出す。
「遥?」
「分かんない。何か、忘れた気がする」
遥は胸元を押さえた。
「すごく大事なことを、今、忘れそうになった気がする。誰かに何か言ってもらって、すごく嬉しかったはずなのに。何だっけ。誰だっけ」
アスカの姿が薄くなる。リョウは息を止めた。遥の記憶からアスカとの放課後が抜けようとしている。欠片を取るとは、こういうことなのだ。アスカの一部を集めるだけではない。遥の世界から、アスカが彼女に与えた救いの瞬間を奪うこと。
「リョウ君、止めて」
アヤトが言う。
リョウは黒い霧を引こうとした。だが、引けない。霧は、アスカの笑顔を素材として絡め取ろうとしている。持っていける。持っていけば、アスカに近づける。そういう欲求が、喉の奥から湧き上がる。
「春日リョウ」
アヤトが名を呼んだ。
胸のカードが熱を持つ。リョウは歯を食いしばる。
「春日リョウ」
自分でも呼ぶ。霧の進行が少しだけ止まる。
その隙に、アヤトが手を伸ばした。彼の指先から薄い白い紙片のようなものが広がり、黒い霧と図書室の記憶の間へ挟まる。霧は紙片を黒く染めながら、それ以上進めなくなった。アヤトの顔がわずかに歪む。
「戻して」
「どうやって」
「取ろうとしたものを、取らないと決める」
「そんなことで」
「ここでは、意思が構造に干渉する。君の霧は君の願いに従う。なら、止めるのも君がやるしかない」
リョウは図書室の中を見た。遥は泣いている。理由が分からないまま、胸を押さえて泣いている。アスカはそんな遥を心配している。けれど、そのアスカ自身も薄くなりかけている。リョウがこのまま欠片を取れば、遥はアスカと交わした大事な会話を失う。もしかすると、アスカが友人だったことさえ薄れていく。
リョウは自分の手を握った。
「取らない」
声が震えた。
黒い霧はまだ揺れる。
「取らない。これは、僕のものじゃない」
言葉にした瞬間、胸が裂けるように痛んだ。アスカの欠片を目の前にして、取らないと決める。救うために必要かもしれないものを、他人の世界を守るために置いていく。その選択は、正しいのかどうか分からない。だが、遥の涙を見たあとで、奪うことだけはできなかった。
黒い霧がゆっくり退いた。
図書室の光が戻る。机の上のメモの文字が濃くなる。紙袋の中の漫画の表紙が輪郭を取り戻す。アスカの笑い声が、薄い膜の向こうから戻ってくる。遥はまだ泣いていたが、胸を押さえていた手の力が少し緩んだ。
「何か」
遥が涙を拭う。
「変なの。急に、怖くなった」
アスカが困った顔でハンカチを差し出す。
「大丈夫?」
「分かんない。でも、アスカがいてよかった」
アスカは少し照れたように笑った。
「それ、急に言われると恥ずかしい」
「今言わなきゃいけない気がした」
遥はハンカチを受け取り、鼻をすすった。
「忘れそうだったから」
「何を?」
「分かんない。でも、アスカのこと」
アスカの表情が、ほんの少しだけ揺れた。その揺れに、リョウは息を止める。ここにいるアスカ像にも、消えることへの影があるのか。あるいは、リョウがそう見たいだけなのか。分からない。
世界が静かに閉じ始めた。放課後の図書室は紫の光に包まれ、遥とアスカの姿は遠ざかっていく。今度はリョウは追わなかった。追えなかった。追えば、また奪いたくなる。
黒い通路へ戻ると、リョウはその場に膝をついた。胸のカードは熱を持ち、指先には薄い黒い霧が残っている。アヤトはしばらく黙っていた。責めるでもなく、慰めるでもなく、記録する者の顔でリョウを見ている。
「今のが、欠片収集の危険だ」
アヤトが言った。
リョウは顔を上げない。
「君が持っていこうとしているのは、アスカさんだけじゃない。彼女の世界の一部だ」
その言葉は、黒い通路の奥へ深く響いた。
「遥さんにとってのアスカさん。アスカさんが遥さんに渡した言葉。遥さんがアスカさんに救われた時間。君がそれを取れば、君の中にはアスカさんの欠片が増える。でも、遥さんの世界からは、その分だけ彼女が欠ける」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
リョウの声は掠れていた。
「欠片を集めなきゃ、アスカには近づけない。でも集めたら、誰かの世界からアスカが消える。僕がやろうとしてることは、世界がアスカを消したのと同じなのか」
アヤトはすぐには答えなかった。
「同じではない」
少しして、彼は言った。
「でも、似ていく可能性はある」
その答えは、慰めにならなかった。むしろ、最も残酷な正確さだった。リョウは笑いそうになった。笑えなかった。
「アスカを取り戻すために、アスカが誰かに残したものを奪うのか」
言葉にすると、胸の奥が冷えた。
「それで再構成したアスカは、本当にアスカなのか」
アヤトは答えなかった。答えないことが答えだった。
リョウは拳を床についた。黒い通路の床は紙のように乾いている。そこに指先の黒が少しだけ滲んだ。慌てて手を引く。自分が触れた場所が歪むことが、怖くなっていた。
ナギサの声が、耳の奥で蘇る。
あたしの名前も忘れないで。
リョウは目を閉じた。
「椎凪ナギサ」
小さく呼ぶ。
現在へ戻る声。ここにはいない少女の名前。それを呼ぶことで、リョウは自分がまだ完全に霧ではないと確かめた。
そして、もう一つの名前を胸の奥で呼ぶ。
椎名アスカ。
その名前は、もう一人の人間だけを指す単純な記号ではなくなっていた。リョウの恋人。遥の友人。誰かの廊下で見かけた優しい少女。誰かに漫画を貸し、誰かの前で声を出して笑い、誰かに「完璧じゃなくていい」と言われて救われた人。リョウの知らないアスカが、世界のあちこちに残っている。
それを集めることは、救うことなのか。
奪うことなのか。
アヤトが記録用の薄いカードを取り出した。
「黒瀬遥。アスカさんとの友人関係あり。放課後の図書室に強い記憶。欠片収集への反応、涙。記憶欠落寸前で停止。リョウ君の干渉により世界表層に歪み」
「書くなって言っても、書くんだろ」
「書くよ」
「冷たいな」
「冷たくしないと、残せない」
アヤトはそう言って、カードへ淡々と記録していく。リョウはその文字を見ていた。遥の涙が、冷たい文面へ変換されていく。けれど、書かなければ彼女の涙も消えるのかもしれない。その矛盾が、レジストリそのものだった。
記録が終わると、黒い通路の奥に次の扉が浮かんだ。今度の扉は、校舎ではない。水面のように揺れる窓。向こう側には、夕暮れの住宅街と、白いカーテンの影が見えた。アスカの別の欠片が、そこにあるのだろう。
リョウは立ち上がった。
足は重い。だが、止まれない。
アヤトが横に並ぶ。
「次へ行く前に、もう一度だけ言う。君が欲しいものは、必ず誰かの世界に結びついている」
「分かってる」
「分かっているなら、次は奪わない方法を考えて」
「そんな方法があるのか」
「分からない」
「無責任だな」
「でも、考えなければ君は奪う」
リョウは扉を見た。黒い霧が足元で静かに揺れる。奪う力。混ぜ直す力。アスカへ近づく力に見えて、アスカが誰かに残したものを壊す力。
それでも、彼は扉へ向かった。
黒瀬遥の世界の奥で、アスカが笑っていた。リョウの知らない笑顔で。遥の涙を止めるために、そこに残してきた笑顔で。
その笑顔を置いていく痛みを抱えたまま、リョウは次の世界へ足を踏み出した。




