第3章 欠片を集める者
黒瀬遥の世界を離れてから、リョウはしばらく口を利かなかった。世界と世界の隙間に戻ると、足元の黒い通路は前より少し沈んでいた。紙を踏み固めたような床に、リョウの靴跡だけが薄く残り、その縁に黒い霧が滲む。アヤトはそれを見て何かを書き留めていた。小さな記録カード。そこには、たぶん黒瀬遥の名前と、放課後の図書室と、リョウが欠片を取ろうとして世界が歪みかけたことが記される。遥が理由も分からず泣いたことも、アスカが彼女へ差し出したハンカチも、リョウがその記憶を奪いかけたことも、冷たい文字へ変換されるのだろう。リョウはそれを見たくなかった。だが、見ないで済ませれば、今度は自分の中で別の形に変わる。遥の涙は、リョウの罪悪感に合わせて大きくも小さくもなる。アスカの笑顔は、リョウが欲しい形へ歪む。だからアヤトは書く。冷たく、正確に、残酷に。
「次へ行く」
リョウは言った。
アヤトは記録カードから目を上げた。
「休まないの?」
「休んでも、アスカは戻らない」
「急いでも、取り戻せるとは限らない」
「それでも、止まっていたら何も増えない」
増える、という言葉を使った瞬間、リョウ自身が少しだけ嫌になった。欠片を増やす。アスカの情報を増やす。記憶を、声を、筆跡を、表情を集める。それは救うための行為のはずだった。けれど、言葉にすると、どこか収集に似ていた。失われた人間を、分類できる部品のように扱っている。そんなつもりはない。ないはずなのに、次の欠片を求めている自分は確かにいた。
アヤトはそれを見透かしたように、静かに言った。
「焦りは霧に食われる」
「説教はいい」
「警告だよ」
「同じだ」
「違う。説教は君を正したい人がする。警告は、君が壊れたときに周りも巻き込むと知っている人がする」
リョウは睨んだ。アヤトは表情を変えない。彼の横で、暗い通路の壁にいくつもの小さな窓が浮かんでいる。ひとつは六道学園に似た廊下。ひとつは駅前の歩道橋。ひとつは知らないマンションの一室。ひとつは雨のバス停。どれも誰かの個人世界で、どれもアスカに関連する痕跡を持っている可能性がある。可能性。リョウはその言葉だけで足が前へ出るようになっていた。
最初に入ったのは、雨のバス停だった。世界の中心にいたのは、名前も知らない男子生徒だった。彼にとってのアスカは、雨の日に傘を半分だけ貸してくれた上級生だった。顔はよく覚えていない。名前も曖昧だ。ただ、白い傘の内側に落ちる雨音と、「風邪ひくよ」という声だけが妙に鮮明に残っていた。リョウはその声を聞いた瞬間、胸が詰まった。アスカの声に似ている。少し違う。だが、優しさの温度は知っていた。リョウが欠片に触れると、白い傘の縁から透明な雨粒のような光が一粒落ちた。アヤトはそれを「声の印象」と呼んだ。男子生徒は一瞬だけバス停で立ち尽くし、自分がなぜ傘を大事に取っておいたのか分からない顔をした。涙は出なかった。ただ、彼の世界から、雨の日の暖かさが少し薄れた。
「取ったのか」
リョウは光の粒を見つめながら聞いた。
「一部だけ」
アヤトが答える。
「中心記憶までは剥がれていない。けれど、彼にとってのアスカさんの印象は弱くなった」
「弱くなった、だけ」
「今はね」
その「今は」が、リョウの胸に残った。だが、手の中の光は温かかった。耳の奥で、アスカの声が少しだけ近くなる。風邪ひくよ。覚えていて。リョウ。断片同士がつながる。リョウの中のアスカが、雨の匂いをまとって輪郭を増す。それが嬉しかった。嬉しいと思ってしまった。
次の世界は、駅前の歩道橋だった。そこに残っていたアスカは、誰かの写真に偶然写り込んだ横顔だった。ホストの少女は友人たちと自撮りをしていて、その背後にアスカが歩いていた。笑ってもいない。話してもいない。ただ、夕方の光を受けて少し眩しそうに目を細めている。その一瞬だけのアスカ。誰とも関わらない、背景に近い欠片。リョウはそれでも手を伸ばした。アヤトは止めなかった。写真の端から薄い銀色の膜が剥がれ、リョウの黒い霧に絡まる。すると、歩道橋の世界では、少女たちの写真の背景からその横顔が消えた。誰も気づかない。もともと気に留めていなかったからだ。けれど、リョウの中では、アスカの横顔が鮮明になった。髪の先が風で揺れる角度、夕方の光に目を細める癖、唇の薄い緊張。知らなかったはずの映像が、記憶の中へ自然に入り込んでくる。
「今の、本当に記憶なのか」
リョウは思わず聞いた。
「記憶に似た再構成だと思う」
アヤトは答えた。
「欠片が君の中のアスカ像に接続して、欠けていた場所を補っている」
「補ってるなら、戻ってるってことじゃないのか」
「そう見える」
「違うのか」
「分からない」
その答えばかりだ。リョウは苛立った。だが、アヤトが簡単に断言しないことも、もう分かっていた。断言した瞬間、リョウはその言葉に縋る。だからアヤトは、分からないものを分からないまま記録する。
三つ目の世界は、知らないマンションの一室だった。そこでは、アスカは家庭教師のように記憶されていた。実際に家庭教師だったわけではない。ホストの中学生が、文化祭の準備で知り合ったアスカに一度だけ数学を教えてもらった記憶だ。部屋の机、消しゴムのかす、薄いカーテン、冷めた麦茶。アスカはノートに式を書きながら、「ここで急がなくていいよ」と言った。リョウはその横顔を見て、息を止めた。彼の知らないアスカは、知らない誰かへも同じように優しかった。けれど、その優しさは恋人のものではない。友人のものでもない。一度だけ通り過ぎた年上の生徒のものだ。その距離の違いが、アスカという人間の広がりを示していた。
リョウが欠片へ触れると、中学生の机から、アスカの筆跡に似た式の線が一部だけ浮かび上がった。黒い霧がそれを包む。すると、中学生の世界では、ノートの余白が白く抜けた。彼は首を傾げ、「ここ、誰に教わったんだっけ」と呟く。リョウの胸が痛む。だが、手の中にはアスカの筆跡が残った。リョウの中のアスカが、少しだけ賢そうに、少しだけ照れくさそうに、ノートへペンを走らせる。記憶が増える。声が増える。仕草が増える。アスカが近づく。
近づいているはずだった。
通路へ戻るたび、リョウの周囲の黒い霧は濃くなった。最初は指先だけだった霧が、今は袖口の内側からも漏れる。歩くと足元に薄い黒が残り、それはすぐにレジストリの床へ吸われるが、消える前に周囲の記録片をわずかに揺らす。アヤトはそれを記録する。リョウは見ないふりをする。見ないふりをして、次の扉を選ぶ。アスカの声が近くなるからだ。
雨音。
夕方の歩道橋。
数学のノート。
図書室の笑い声。
白いカーテン。
傘の内側。
知らない誰かへ向けた「大丈夫」。
知らない誰かへ向けた「急がなくていいよ」。
知らない誰かへ向けた笑顔。
それらを集めるたび、リョウの中のアスカは鮮明になった。曖昧だった輪郭に影がつく。声に息遣いが戻る。笑うときの目の動き、黙るときの指先の癖、考え込むときに髪を耳へかける仕草。リョウが覚えていたものと、知らなかったものが混ざって、ひとつの像になっていく。リョウはそれを回復だと思いたかった。失われたアスカが、少しずつ戻っているのだと。だが、別の疑いも同時に育っていた。これは本当にアスカなのか。欠片を材料にして、リョウの中で「アスカらしいもの」が組み上がっているだけではないのか。
その疑いが湧くたび、黒い霧は少しだけ濃くなった。疑いごと混ぜてしまえばいい。そう言われている気がした。欠けた記憶も、他人の主観も、ミラーの残響も、リョウの願望も、全部混ぜれば、ひとつのアスカになる。そうすれば、もう疑わなくて済む。もう「本人ではないかもしれない」と言われずに済む。黒い霧は、そんな考えを静かに差し出してくる。
「リョウ君」
アヤトが呼んだ。
リョウは振り返った。いつの間にか、自分が次の扉へ手を伸ばしていたことに気づく。そこには、水面のような窓があった。向こう側に、誰かのスマホ画面が見える。保存された短い動画。画面の端にアスカらしい声が入っている。
「休む」
「まだ行ける」
「行けるかどうかの話じゃない」
「声が近い」
「近いから止めている」
アヤトは通路の中央に立ち、リョウの進路を塞いだ。
「君の黒い霧が強くなっている。欠片を取るたびにね」
「だから何だ」
「君の中のアスカ像も鮮明になっている」
「いいことだろ」
「本当に?」
その一言が、リョウの胸を刺した。
「君は今、アスカさんを思い出しているのか。それとも、集めた欠片を使って再構成しているのか」
「違いがあるのか」
「ある」
「でも、忘れたままよりはいい」
「そう思うなら、君はかなり危ないところにいる」
リョウは黙った。言い返したかった。忘れるよりいい。空白よりいい。世界から消されたままよりいい。そう言いたかった。けれど、その言葉は世界を混ぜ直そうとする霧の理屈に似ていた。何もないより、作った方がいい。忘れられるより、再構成した方がいい。アスカ本人の意志がそこにあるのかを問わないまま。
通路の奥で、声がした。
『リョウ』
リョウの身体が反応する。アヤトも聞いたのだろう。表情が変わる。
『リョウ、聞こえる?』
今までより、はっきりしていた。ノイズはある。だが、声は遠い硝子越しではなく、耳元に近い。リョウは息を止める。
「アスカ」
『覚えていて』
「覚えてる」
『でも、リョウ――』
また途切れる。けれど、途切れ方が変わった。先がある。もう少しで聞こえそうだった。リョウは扉へ向かおうとする。アヤトが腕を掴んだ。
「今は駄目だ」
「離せ」
「声が君の中の欠片を通っている。外から届いているとは限らない」
「聞こえてるんだ!」
「だから危険だと言っている!」
アヤトが珍しく声を荒げた。リョウは一瞬だけ動きを止める。彼の手はリョウの腕を掴んでいるが、その指先はわずかに黒く汚れていた。リョウの霧が、アヤトの記録固定にまで触れ始めている。
「……悪い」
リョウは言った。自分でも驚くほど小さな声だった。
アヤトは手を離し、少しだけ息を吐いた。
「謝る相手は僕だけじゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる、つもりだ」
言い直すと、アヤトはようやく頷いた。
「ナギサさんの声は?」
その問いに、リョウは顔を上げた。
「聞こえる?」
リョウは耳を澄ませた。世界の外側の通路。紙の床。記録棚の奥。遠い声。アスカの声はまだ残っている。リョウ、覚えていて。でも、リョウ――。その声ばかりが濃い。ナギサの声を探す。リョウ。帰ってきて。半分だけ信じる。残り半分は、あたしが呼び戻す。記憶にはある。だが、音としては遠い。ずっと遠い。以前なら、胸の近くで聞こえていたはずの声が、今は厚い壁の向こうにあるようだった。
「……遠い」
リョウは答えた。
アヤトの表情が硬くなる。
「欠片を集めるほど、君の座標はアスカさん側へ寄っている。ナギサさんの世界からは離れている」
「でも、アスカの声は近くなった」
「その交換を、君は本当に望んでいるの?」
リョウは答えられなかった。
望んでいる。望んでいない。どちらも本当だった。アスカの声が近くなることは、リョウにとって救いだった。だが、ナギサの声が遠くなることは、現在から離れることでもある。ナギサを置き去りにしないと約束した。名前を忘れないと言った。アスカも、君も。あの言葉は本当だった。けれど、欠片を集めるたび、言葉の重さが変わっていく。アスカの名前が強くなり、ナギサの声が遠ざかる。
そのころ、ナギサの世界では、放課後の六道学園が何事もなかったように続いていた。
ナギサは二年三組の教室にいた。リョウがいない教室。正確には、リョウの席はある。鞄も、ノートも、机の傷も、彼がそこにいるはずの形で残っている。けれど、本人はいない。世界の外へ出た。アスカの欠片を追っている。そう知っているのは、ナギサとマナだけだ。佐伯は廊下で「春日、また椎凪ちゃん怒らせたのか?」と笑った。ナギサはうまく笑い返せなかった。世界は、リョウが少し席を外しているだけの顔をしている。けれど、ナギサには分かる。彼は少しずつ遠くなっている。
スマホを開く。写真フォルダ。リョウとの写真。映画館の帰り、駅前の自販機、図書室の机、文化祭の準備。世界が用意した恋人としての記憶。ナギサにとっては暖かく、リョウにとっては借り物だった写真たち。彼女は何度も見た。自分の気持ちが偽物ではないと確かめるために。リョウが確かにこの世界にいたと確かめるために。
駅前の写真を開いた。
ナギサは息を止めた。
写真の右端、リョウの肩のあたりに、黒い滲みがあった。最初は影かと思った。自販機の反射か、夕方の光の乱れか。だが、拡大すると違った。墨を水に垂らしたような黒。写真の中で、そこだけ画素が溶けている。リョウの制服の肩と背景の看板が混ざり、輪郭が曖昧になっていた。黒い霧。教室で見たものと同じ色。
「……嘘」
ナギサは別の写真を開く。図書室。リョウが本を持っている写真。その指先に、薄い黒い線がある。文化祭準備の写真。リョウの足元に、かすかな黒い影。映画館帰りの写真。ナギサが笑っている隣で、リョウの輪郭だけが少し滲んでいる。
写真が書き換わっている。
リョウの不在が、ナギサの世界へ染み出している。
ナギサはスマホを握りしめた。指が震える。電話をかけようとする。リョウへ。だが、通話ボタンを押す直前、画面の中の黒い滲みがわずかに広がった気がした。呼べば戻るのか。呼べば、さらに引っ張ってしまうのか。自分の声が命綱なのか、鎖なのか、分からない。
それでも、ナギサは通話ボタンを押した。
コール音は鳴らなかった。
代わりに、ひどく遠いノイズが聞こえた。水の底のような音。紙が擦れる音。誰かの声。リョウ、と呼びかけようとして、ナギサの喉が詰まる。
『……覚えていて』
聞こえたのは、アスカの声だった。
ナギサの目に涙が浮かぶ。自分が呼んだはずなのに、届いたのは別の少女の声。リョウが追っている声。彼を遠ざけている声。
ナギサは震える唇で、それでも言った。
「春日リョウ」
ノイズが揺れる。
「椎凪ナギサ」
自分の名前も呼ぶ。
「聞こえてるなら、帰ってきて。まだ半分しか信じてないんだから、残り半分、勝手に捨てないで」
返事はなかった。けれど、写真の黒い滲みが、一瞬だけ止まった。
世界の外側で、リョウは遠い声を聞いた気がした。アスカの声に重なって、ひどく小さく、自分の名前を呼ぶ声。
リョウ。
春日リョウ。
椎凪ナギサ。
彼は顔を上げる。アヤトも何かを感じたのか、通路の奥を見た。
「ナギサ?」
リョウが呟くと、アスカの声が少し遠のいた。代わりに、胸のカードが熱を取り戻す。黒い霧がわずかに揺れる。
だが、完全には戻らなかった。
リョウの中で、アスカの声は確かに近くなっている。ナギサの声は、まだ遠い。それでも消えてはいない。リョウはその二つの距離の差を、初めて本当の恐怖として理解した。
「次へ行く前に戻る」
アヤトが言った。
「ナギサさんの世界に、影響が出ている可能性がある」
「でも」
「リョウ君」
アヤトの声が低くなる。
「これ以上進めば、君はアスカさんの声へもっと近づく。その分、ナギサさんの声はさらに遠くなる。選んで」
選ぶ。アスカか、ナギサか。欠片か、現在か。そんな単純な選択ではないはずだった。どちらも忘れないと言った。どちらも失いたくないと思った。だが、世界の外側は、そんな言葉を簡単には許さない。歩いた分だけ、距離は変わる。集めた分だけ、何かが薄れる。
リョウは拳を握った。
「戻る」
声は、苦しかった。
「今は、戻る」
アヤトは頷いた。黒い通路の奥で、レジストリへ戻る扉が開く。リョウは振り返る。次の世界へ続く水面の窓が、まだ揺れている。そこから、アスカの声がかすかに漏れる。
『リョウ』
戻る足が止まりかける。
ナギサの声が、遠くで重なる。
リョウ。
リョウは胸のカードを握りしめた。
「春日リョウ」
自分の名前を呼ぶ。
「椎凪ナギサ」
次に、現在の名前を呼ぶ。
最後に、胸の奥でだけ呼ぶ。
椎名アスカ。
黒い霧は消えない。アスカの声も消えない。ナギサの写真に滲み始めた黒も、きっと消えてはいない。欠片を集める者として進むたび、彼は何かを近づけ、何かを遠ざける。
それでも、リョウは戻る扉へ足を踏み出した。
背後で、まだ見ぬ世界の窓が静かに閉じた。




