第4章 ナギサの世界の傷
リョウが戻ると言ったあとも、ナギサの世界はすぐには戻らなかった。スマホの画面には、駅前の写真が開かれたままだった。自販機の横で、リョウが少し困ったように立っている写真。ナギサはその写真を何度も見てきた。映画の帰り、飲み物を買うかどうかで少し言い合いになったあと、リョウが結局自分の分まで買ってくれた。そんな記憶が、この世界では自然にある。ナギサはその記憶を、最初は怖がった。自分のものなのに、リョウにはない。暖かいのに、どこか借り物のようだった。それでも、何度も写真を見返すうちに、その暖かさは彼女の中に根を張っていた。リョウが笑ったこと。リョウが隣にいたこと。自分がその隣で嬉しかったこと。それを偽物だと言い切るには、あまりにも痛かった。
だが、今の写真には黒い滲みがある。リョウの肩のあたりから背景へ、墨を水に落としたような黒が広がっていた。最初に見たときより、わずかに濃くなっている。画面を拡大すると、制服の布目と駅前の看板とリョウの輪郭が混ざり合い、どこまでが彼の体で、どこからが背景なのか分からなくなっていた。ナギサは息を止めたまま、別の写真を開く。図書室の写真。リョウが本を持ち、ナギサが横から覗き込んでいる。リョウの指先に細い黒い線。文化祭準備の写真。リョウの足元に薄い霧。映画館帰りの写真。ナギサが笑っている横で、リョウの顔だけが少し薄い。昨日見たときは、こんなではなかった。少なくとも、ここまでではなかった。
教室のざわめきが遠くなる。放課後の二年三組。誰かが机を動かし、誰かが笑い、廊下では運動部の掛け声がしている。世界はいつもの顔をしている。リョウが世界の外で何かを集め、そのたびにこの写真へ黒い霧が滲んでいることなど、誰も知らない。知らないまま、普通に時間が流れている。その普通さが、ナギサには怖かった。
「椎凪ちゃん?」
声をかけられて、ナギサはスマホを伏せた。佐伯律が教室の入口に立っていた。彼はリョウのクラスメイトで、ナギサに対しても気安い。世界がそう作っているのだろう。彼にとってナギサは、春日リョウの恋人であり、よく教室へ顔を出す後輩であり、リョウを怒らせたり怒らせられたりする相手だった。
「春日、まだ戻ってないの?」
佐伯は軽い調子で聞いた。
その言葉に、ナギサの胸が強張る。
「戻ってない、って」
「いや、さっきから椎凪ちゃん、春日の席見てるから。待ってんのかなって」
佐伯はそう言いながら教室の中を見た。リョウの席は、窓側から三列目の後ろ寄りにある。あるはずだった。ナギサもそう認識していた。だが、佐伯の視線を追った瞬間、彼女は息を呑んだ。
机の数が変わっていた。
リョウの席が、少しずれている。いや、ずれているのではない。列そのものが不自然に詰まっていた。昨日まであったはずの机一つ分の空間が、教室全体の配置に吸収されるように消えている。リョウの机はある。だが、そこだけ存在が薄い。周囲の机が自然に間隔を詰め、リョウの席を「なくても成立する場所」に変えかけている。
「……佐伯先輩」
「ん?」
「リョウの席、あそこですよね」
ナギサは指さした。
佐伯は少し首を傾げる。
「ああ、まあ、そうだけど。春日って、あんな端だったっけ」
「端じゃないです」
「だよな。何か、変な感じするな。机動かした?」
佐伯は笑おうとしたが、笑いきれなかった。違和感はあるのだろう。だが、それが何なのか分かっていない。ナギサは机へ近づいた。リョウの鞄はない。ノートもない。机の表面には小さな傷がある。ナギサが知っている傷だ。以前、リョウがシャープペンで無意識にこすった跡。そんな記憶がある。けれど、指で触れようとすると、傷の輪郭がぼやける。そこにあったはずの小さな時間が、うまく掴めない。
「椎凪ちゃん、誰待ってるの?」
佐伯の声がした。
ナギサは振り返った。
「今、何て言いました?」
「え? だから、誰待ってんのって。春日?」
佐伯は自分で言った名前に少し引っかかったような顔をした。
「……あれ、春日だよな。俺、何言ってんだ?」
ナギサの背筋が冷たくなった。今、一瞬、佐伯の中からリョウの名前が滑り落ちかけた。完全には落ちなかった。けれど、引っかかった。世界がリョウの席を詰め、周囲の人の認識から彼の名前を薄くしている。リョウが外で欠片を集めるたび、ナギサの世界からもリョウが少しずつ外れていく。
「春日リョウです」
ナギサは強く言った。
「リョウは、春日リョウです」
「お、おう。何かごめん」
佐伯は気圧されたように頷いた。彼には何が起きているのか分からない。分からないまま、ナギサの必死さだけを見ている。彼女はそれ以上説明できなかった。説明すれば、佐伯まで引き込む。引き込んでいいのか分からない。世界の外側の話、レジストリ、欠片、黒い霧。そんなものを普通の生徒へ渡したら、その人の机まで薄くなってしまうかもしれない。
「すみません。ちょっと、用事あるので」
ナギサは教室を出た。廊下へ出ると、足元が少し柔らかい。いつもの六道学園の床なのに、歩くたびに水面のような感触がする。廊下の窓には夕方の光が映っていた。ナギサはそこを見ないようにした。だが、視界の端に白いものが揺れる。白いカーテンのような影。保健室のような光。長い髪の少女の輪郭。ナギサは立ち止まった。
窓硝子に、アスカらしき影が映っていた。
顔ははっきりしない。長い髪、制服、少し俯いた肩。ナギサの背後に立っているようにも、硝子の向こう側にいるようにも見える。ナギサは振り向かなかった。振り向いても、きっと誰もいない。それはもう知っている。
「……椎名アスカさん?」
小さく呼ぶと、窓の影がかすかに揺れた。返事はない。ただ、硝子の表面に薄い白い曇りが広がり、指で書いたような文字が浮かぶ。
覚えていて。
ナギサは唇を噛んだ。
「それ、リョウだけじゃなくて、あたしにも言うんですか」
問いかけても、影は答えない。文字はすぐに消えた。廊下の奥から誰かが歩いてくる足音がして、ナギサは慌ててその場を離れた。自分が何に話しかけていたのか、人に見られたくなかった。
階段を降りる途中、スマホが震えた。リョウからの通知かと思い、反射的に画面を開く。だが、通知は何もない。代わりに、ホーム画面の壁紙が一瞬だけぼやけた。ナギサは自分とリョウの写真を壁紙にしていた。世界がそうしていた。最初は気恥ずかしくて変えようとしたが、結局そのままにしていた。二人で駅前にいる写真。リョウは少し困った顔で、ナギサは笑っている。そこに、黒い滲みがまた増えていた。リョウの輪郭だけでなく、ナギサの笑顔の端にまで、薄く黒が触れている。
「やめてよ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
リョウに。黒い霧に。アスカの声に。世界に。自分に。
ナギサは昇降口へ向かった。外へ出れば少しは息ができると思った。だが、靴箱の前で足が止まる。リョウの靴箱がどこだったか、一瞬分からなくなった。高等部二年の列。春日。春日リョウ。場所は知っている。何度も見ている。彼を待ったことも、そこで言い合いをしたことも、この世界の記憶としてある。なのに、目で探すと、名前の札がぼやける。別の名前と重なり、春日という文字が薄くなる。
「春日リョウ」
ナギサは声に出した。
靴箱の札が少し濃くなる。
「椎凪ナギサ」
自分の名前も呼ぶ。足元が戻る。自分が誰で、誰を待っているのかを、言葉で釘のように打ち込む。
「椎名アスカ」
そこまで言った瞬間、背後の鏡面のようなガラスに白い影が走った。ナギサは振り向かなかった。アスカの名前を呼ぶと、世界が反応する。リョウがそうだったように、ナギサの世界も反応する。彼が追っている欠片は、こちらにも糸を伸ばしている。
「ナギサ」
声がした。
マナだった。昇降口の端、薄暗い掲示板の前に立っている。黒い傘を持ち、白いヘアピンで髪を留めている。姿勢はいつも通りまっすぐだったが、顔色は少し悪い。彼女はナギサの靴箱と、ぼやけかけた春日の札を見た。何も聞かなくても、状況を理解したようだった。
「見えているのね」
マナが言った。
「リョウの席が、少し変でした。写真も。靴箱も。佐伯先輩が、一瞬、リョウの名前を変に言いかけて」
「始まっている」
「何がですか」
「リョウが外側で動くほど、この世界の彼の座標が揺れる。彼はナギサの世界に支えられている。でも今、その彼自身が別の世界の欠片へ近づいている。引っ張られる力が逆向きにかかっているの」
「それで、あたしの世界からリョウが消えかけるんですか」
マナはすぐには答えなかった。その沈黙で十分だった。
ナギサは靴箱の札を見た。春日リョウ。まだ読める。けれど、世界はそれを薄くしようとしている。リョウをアスカの欠片へ近づけるたび、ナギサの現在からは彼が遠のく。
「ずるいですよね」
ナギサは呟いた。
「アスカさんを追うリョウを止めたくないって思ったのに。リョウが近づくほど、あたしからは遠くなるって。そんなの、ずるいです」
「ナギサ」
「あたし、いい子じゃないです」
ナギサは笑おうとした。うまくいかなかった。
「アスカさんの声が聞こえたら、リョウがそっちへ行くのは分かります。だって大事な人だから。世界から消された恋人だから。あたしだって、忘れろなんて言えない。でも、写真のリョウが薄くなって、佐伯先輩が誰を待ってるのって言って、リョウの靴箱が分からなくなったら、怖いんです。あたしの方が置いていかれる気がして」
「怖くていい」
マナは静かに言った。
「怖いのは、あなたがまだ自分の世界を守ろうとしているから」
「守れるんですか」
「簡単には無理」
「先輩、そういうところ正直ですよね」
「嘘を言っても、ここではすぐ歪む」
マナはナギサの前に立った。
「リョウを追いすぎると、あなた自身が壊れる。彼の名前を呼ぶたびに、あなたの世界は彼を支えようとする。彼が遠くへ行くほど、呼び戻す力は強く必要になる。その負荷は、あなたの記憶、写真、人間関係、日常の配置にかかる。机の数が変わる。思い出がぼやける。周囲の認識が揺れる。最後には、あなた自身が何を待っていたのか分からなくなる」
ナギサは息を呑んだ。
「それ、あたしが弾かれるってことですか」
「可能性はある」
「リョウみたいに?」
「同じではない。でも、近い場所へ行くかもしれない」
マナの声は低かった。
「あなたまで消えたら、私は今度こそ自分を許せない」
その言葉には、マナの後悔が滲んでいた。アスカを救えなかったこと。リョウを止めきれなかったこと。過去にも誰かを失ったかもしれないこと。彼女は多くを語らない。だが、言葉の裏にある沈黙は深かった。
「じゃあ、忘れた方がいいんですか」
ナギサは聞いた。
「リョウの名前を呼ばない方がいいんですか。写真も見ないで、席も気にしないで、佐伯先輩が変なこと言っても流して、リョウが遠くなっても、あたしは関係ありませんって顔してた方が、壊れずに済むんですか」
「それが一番安全かもしれない」
マナは言った。
「でも、私はそれをあなたに言いたくない」
「どうして」
「忘れることでしか守れない安全を、私は信用していないから」
ナギサはマナを見た。黒い傘。白いヘアピン。静かな目。マナはいつも、忘れないことにこだわる。失踪者名簿、黒いノート、名前を記録する手帳。彼女は誰かの名前を残すことを、祈りのように続けてきた。だからこそ、ナギサに忘れろとは言えないのだろう。
「それでも、あたしはリョウを忘れたくない」
ナギサは言った。
声は震えた。けれど、はっきりしていた。
「リョウがアスカさんを忘れたくないのと同じかは分からないです。あたしの気持ちには、この世界が作った恋人としての記憶も混ざってます。リョウがあたしを好きなのかも、まだ分からない。でも、リョウの名前が薄くなるのを見て、嫌だと思ったのは、あたしです。佐伯先輩が誰を待ってるのって言ったとき、怖かったのは、あたしです。写真のリョウが黒く滲んで、泣きそうになったのも、あたしです。だから、忘れたくないです」
マナは黙って聞いていた。
「リョウがアスカさんを追うなら、あたしはリョウを呼びます。命綱にされたくないって言ったけど、呼ばないで消えるくらいなら、呼びます。でも、それはリョウのためだけじゃなくて、あたしがリョウを忘れたくないからです」
昇降口の空気が揺れた。靴箱の札が少しだけ濃くなる。春日リョウ。ナギサの言葉に反応したように、薄れかけていた文字が戻った。
マナは、ほんの少しだけ微笑んだ。柔らかい笑みではない。痛みを含んだ、けれど誇らしさもある表情だった。
「強いわね」
「強くないです」
「知っている」
「じゃあ言わないでください」
「強くないのに立っている人を、私は強いと思う」
ナギサは返す言葉を失った。
そのとき、昇降口の鏡面になったガラスに、赤黒い花びらが一枚映った。実際の床には落ちていない。けれど、マナの背後の反射の中で、薔薇の花びらがふわりと舞った。もう一枚。さらに一枚。深い赤。黒を含んだ赤。ローズが現れるときの影に似ていた。
ナギサは息を止めた。
マナは気づいているのか、いないのか、表情を変えない。だが、白いヘアピンの下で、わずかに目元が揺れた。
「マナ先輩」
「何?」
「先輩って、ローズと」
言いかけた瞬間、赤い花びらが反射の中で散った。マナはナギサの言葉を遮らなかった。ただ、ゆっくりと目を伏せた。
「今は、その話をする時じゃない」
「否定しないんですね」
「否定できることなら、した方が楽だったかもしれない」
ナギサの胸がざわついた。マナとローズ。ずっと重なっていた影。声の響き。黒い傘。白いヘアピン。赤い栞。説明されない沈黙。リョウを止めるときの痛み。今、その輪郭が少しだけ見えてしまった。完全には分からない。けれど、マナもまた、ただの先輩ではない場所に立っている。
マナは黒い傘を持ち直した。
「ナギサ。リョウを呼ぶなら、あなた自身の名前も必ず呼んで」
「はい」
「彼の名前だけを呼び続けると、あなたの世界は彼のための場所になってしまう。あなたは椎凪ナギサであって、春日リョウを保存するための世界ではない」
「……はい」
「写真に黒い滲みが出たら、消そうとしないで。隠さないで。記録して。私に見せて」
「消さなくていいんですか」
「消そうとすると、何が消えたのか分からなくなる。黒い滲みでも、残っている方がいいことがある」
ナギサはスマホを握りしめた。黒い滲み。怖い。けれど、それはリョウがまだ写真の中にいる証拠でもあるのかもしれない。薄れている証拠であり、完全には消えていない証拠。ナギサはその矛盾を飲み込んだ。
「分かりました」
マナは頷く。
「もし、あなたの世界で机が消えかけたら、名前を呼びなさい。春日リョウ。椎凪ナギサ。順番はどちらでもいい。大事なのは、あなたが誰を呼んでいるのか、自分で分かっていること」
「椎名アスカさんの名前は?」
マナは少しだけ考えた。
「呼ぶなら、覚悟して。彼女の名前は、リョウだけでなく、あなたの世界にも反応する。アスカさんを敵にしないで。でも、あなた自身の場所を譲らないで」
「難しすぎます」
「そうね」
「先輩、たまに無茶言いますよね」
「よく言われる」
「アヤトさんみたい」
マナは少し嫌そうな顔をした。
「それは心外」
その反応が少しだけ普通で、ナギサは小さく笑った。笑える自分がまだいることに、少し安心した。
昇降口の外は、もう夕方だった。校庭の向こうに薄い茜色の光が差している。ナギサは靴箱の札をもう一度見た。春日リョウ。さっきよりはっきり読める。けれど、安心はできない。リョウが外で欠片を集めれば、また薄くなるかもしれない。写真の滲みも広がるかもしれない。自分の思い出も、机の数も、周囲の認識も、少しずつ傷ついていくかもしれない。
それでも、ナギサは忘れたくなかった。
「春日リョウ」
彼女は小さく呼んだ。
次に、自分の胸に手を当てる。
「椎凪ナギサ」
ガラスの反射の奥で、赤黒い花びらがもう一枚だけ舞った。今度はナギサにも、はっきり見えた。マナはそれを見ないふりをしている。あるいは、見ないことで保っているのかもしれない。
ナギサは、その花びらから目を逸らさなかった。
マナとローズの間に何があるのか。まだ聞けない。聞けば、何かが変わる。けれど、もう気づかないふりもできなかった。リョウの世界が外側へ進むほど、ナギサの世界にも、隠されていたものが浮かび上がってくる。
スマホがまた震えた。
今度は通知ではなかった。写真フォルダが勝手に開き、駅前の写真が表示される。黒い滲みは、さっきよりほんの少しだけ薄くなっていた。その代わり、リョウの顔も少し薄い。戻ったのか、遠ざかったのか分からない。
ナギサは画面に向かって言った。
「帰ってきて、リョウ」
声は小さかった。
けれど、彼女の世界のどこかで、薄れかけた机の傷が少しだけ濃くなった。




