第5章 ファントム・ローズの正体
赤黒い花びらは、昇降口のガラスの中だけで舞っていた。床には落ちていない。風もない。校舎の外では夕方の光が薄くなり、部活動の声が遠くから聞こえている。現実はいつもの六道学園の顔をしていた。だが、ガラスの反射の中でだけ、花びらは一枚、また一枚とマナの背後に降っていた。白いヘアピン。黒い傘。赤い栞を挟んだ古いノート。いつもならただの小物に見えていたものが、急にひとつの線でつながっていく。ローズが現れるときの薔薇の香り。白い半仮面。黒衣。赤黒い蔓。ナギサは、もう見ないふりができなかった。
「マナ先輩」
呼ぶと、マナはすぐには振り向かなかった。昇降口のガラスに映る花びらを見ているのか、それとも見ないようにしているのか分からない。彼女はほんの少しだけ息を吐き、それからナギサへ向き直った。
「さっきの続き?」
「はい」
「今はその話をする時じゃないと言ったはずだけど」
「今じゃなかったら、いつですか」
ナギサの声は、自分でも驚くほど強かった。リョウの写真に黒い滲みが出ている。教室の机の数が変わりかけている。佐伯が一瞬、誰を待っているのか分からなくなった。靴箱の名前が薄れ、窓にアスカらしき影が映った。自分の世界が傷ついている。その中で、目の前の先輩が何かを隠したまま「守る」と言う。もう、ただ頷けなかった。
「マナ先輩は、ファントム・ローズなんですか」
昇降口の空気が止まった。外から聞こえる部活動の声が一瞬遠のく。ガラスの中の花びらが落下を止め、空中で静止する。マナは、驚かなかった。責められた顔もしなかった。ただ、来るべき問いが来たという顔をした。
「そう」
短い答えだった。
ナギサは息を呑んだ。もっとはぐらかされると思っていた。違うと言われるか、今は説明できないと言われるか、あるいは沈黙で返されると思っていた。だが、マナは逃げなかった。
「私が、ファントム・ローズ」
その声は静かだった。派手な告白ではない。仮面の下の正体を明かす劇的な場面でもない。むしろ、ずっと隠していた傷口を自分の手で開くような声だった。
「変身ヒーローみたいな話ではないわ。仮面を被れば強くなれるとか、別の誰かになれるとか、そういう綺麗なものじゃない」
「じゃあ、何なんですか」
「世界から弾かれかけた人間が、それでも誰かの世界を守るために被った仮面」
マナは黒い傘の柄に指を置いた。ガラスの中では、彼女の背後に白い半仮面の輪郭が薄く浮かんでいる。現実のマナの顔と、反射の中のローズの仮面が重なっていた。ナギサは、それを見て喉が渇いた。
「私は、完全にファントムになったわけじゃない。人間の鳴海マナとして学園に残っている。授業も受けるし、出席もするし、進路希望調査も出す。先生に呼ばれれば職員室へ行く。ナギサに余計なお節介も焼く」
「余計じゃないです」
「そう言ってもらえるうちは、まだ人間でいられる」
マナは淡く微笑んだ。すぐにその表情は消える。
「でも、私は一度、境界の向こうへ踏み込みすぎた。誰かを取り戻したかった。誰かを失われたままにしたくなかった。今のリョウと同じように」
「その人は」
「名前は言わない」
「忘れたからですか」
マナの目が揺れた。
「忘れたわけじゃない。忘れたくないから、言えないこともある」
ナギサは口を閉じた。その言葉の重さが分かった気がした。名前を呼ぶことは、この世界ではただの会話ではない。残すことでもあり、傷を開くことでもあり、世界へ矛盾を刻むことでもある。マナはずっと、それを知って名前を扱ってきた。
「私は救えなかった」
マナは続けた。
「その人も、アスカさんも、リョウも。完全には救えなかった。リョウを導いた。危険だと警告した。名前を忘れるなと言った。けれど、アスカさんは戻らず、リョウは世界の外へ行った。今は、アスカさんを取り戻すために、他人の世界から欠片を集めている」
「リョウは、アスカさんを忘れたくないだけです」
「分かっている」
「好きだった人を忘れたくないって、そんなに悪いことですか」
「悪いことではない」
マナの声は少しだけ柔らかくなった。
「でも、本物の気持ちだからといって、何をしても許されるわけではない。リョウの愛は本物だと思う。だからこそ危ない。偽物の執着なら、いつか薄れる。けれど、本物の愛が世界への反逆になったとき、人は自分が誰を壊しているのか見えなくなる」
ナギサはスマホを握った。写真の中の黒い滲み。リョウの輪郭が薄れていく画像。机の数。靴箱の札。全部がその言葉を裏づけているようだった。
「先輩は、リョウを止めるんですか」
「止める」
マナは即答した。
「必要なら、ローズとして」
「戦うってことですか」
「そうなる前に止めたい。でも、彼が一線を越えたら、戦うことになる」
「一線って、どこですか」
「アスカさんを取り戻すために、他人の世界を壊してもいいと思ったとき」
「リョウはそんなこと」
「思いたくなくても、力が先に動くことがある。ナギサも見たでしょう。黒い霧は、彼の優しさだけで動いているわけじゃない。喪失、怒り、後悔、愛情、全部が混ざっている。あの霧は境界を溶かす。ミラーとは違う形で、人の輪郭を危険にさらす」
「でも、リョウは戻ってきました。あたしが呼んだら、戻ってきた」
「だから、あなたを失いたくない」
マナの声が強くなった。
「ナギサ。あなたがリョウを呼べることは、希望でもある。でも同時に、リョウの霧があなたの世界へ届く道でもある。あなたが呼ぶほど、彼は戻れる。けれど、彼が外側で深くなればなるほど、あなたの世界も彼に引っ張られる。写真の滲みは、その最初の傷よ」
ナギサはスマホを見下ろした。リョウの顔が薄い写真。そこに残った黒い霧。自分が彼を呼べば、黒い滲みは止まるかもしれない。だが、その声がリョウと外側をつなぐ線を太くするのかもしれない。命綱は、こちらから伸びる縄であると同時に、向こうから引き返される縄でもある。
「私はリョウを止める」
マナは言った。
「あなたを守るためにも」
ナギサは顔を上げた。
「あたしを守るために、リョウを敵にしないで」
昇降口の空気が、また揺れた。マナの背後の花びらが一枚落ちる。今度は、ガラスの中だけでなく、現実の床にも赤黒い影がかすかに滲んだ。
「ナギサ」
「リョウは危ないかもしれません。黒い霧も怖いです。写真が滲むのも、机が消えそうになるのも、正直すごく怖いです。でも、リョウは敵じゃない。アスカさんを取り戻したいっていう気持ちも、敵じゃない。あたしを守るって言って、リョウを最初から止める対象にしないでください」
「私は、最初から敵として見ているわけじゃない」
「でも、ローズになるとそう見える」
マナは目を伏せた。
「仮面を被ると、迷いを切り落とせる。だから被るの」
「それ、怖いです」
「そうね」
「先輩が怖いんじゃなくて、迷いを切り落とせるって言い方が怖いです」
ナギサは一歩近づいた。
「迷ってください。リョウを止めるときも、あたしを守るときも、迷ってください。リョウがアスカさんを追って誰かの世界を壊しそうなら止めてほしい。でも、リョウごと切り捨てるみたいな止め方はしないでください。あたしを守るためならなおさら」
マナは、少し長く沈黙した。昇降口の外では、夕方の光がさらに薄くなっている。ガラスの中のローズの仮面は、マナの顔の半分に重なったまま動かない。人間の鳴海マナと、ファントム・ローズ。その境界が、ナギサの目の前で静かに揺れていた。
「私はね、ナギサ」
マナはようやく言った。
「迷っていたから、救えなかったことがある」
「それでも」
「迷わなければ、もっと早く切れた。もっと早く止められた。もっと早く誰かを見捨てられた。そうすれば、他の誰かは助かったかもしれない」
「それでもです」
ナギサは言った。
「迷わない人に、リョウを止めてほしくない」
その言葉は、マナの胸へ届いたようだった。彼女の表情が、ほんの少しだけ崩れる。冷静で、理知的で、必要なことだけを言う先輩の顔ではなく、守れなかった人たちの名前を抱えた少女の顔だった。
「あなたは残酷ね」
「よく言われ……ないです。今はちょっと言ってみただけです」
「少しリョウに似てきた」
「それは嫌です」
「ひどいわね」
ほんのわずかなやり取り。けれど、その中に人間の温度があった。ナギサは、マナがまだ人間であることを感じた。仮面を被る存在であっても、境界を切る力を持っていても、彼女は鳴海マナだ。ナギサを守ろうとして、リョウを止めようとして、そのあいだで苦しんでいる。
「マナ先輩」
「何」
「ローズになるとき、先輩はどこにいるんですか」
マナは少し考えた。
「仮面の内側」
「それ、答えになってます?」
「私にとっては、かなり正確」
「怖い答えですね」
「怖いものよ。仮面の内側にいると、自分の顔がどこまで残っているか分からなくなる」
マナはガラスの反射を見た。そこには、白い半仮面をつけたローズが映っている。現実のマナは仮面をつけていない。それでも、反射の中では、仮面が彼女の顔を覆っている。
「世界から弾かれかけたとき、人は他者の認識に縋る。誰かに名前を呼ばれ、誰かの世界に置いてもらわなければ、存在が薄れる。私は、その縋り方を間違えた。だから、別の形で自分を固定した」
「仮面で?」
「ええ。鳴海マナとして壊れそうな部分を、ファントム・ローズという役割で押さえた。境界を切る者。侵食を止める者。名前を忘れるなと告げる者。そういう役割を自分に被せることで、私は残った」
「それって、苦しくないんですか」
「苦しいわ」
マナは淡々と答えた。
「でも、残った」
ナギサは何も言えなかった。残ること。消えないこと。リョウも、アヤトも、マナも、その言葉に縛られている。残るためにカードへ名前を預ける者。残るために欠片を集める者。残るために仮面を被る者。ナギサはそのどれでもないと思っていた。けれど、リョウを忘れたくないと言った自分もまた、残す側に足を踏み入れているのかもしれない。
「アスカさんを救えなかったのは、先輩のせいじゃないです」
ナギサは言った。
マナは首を横に振る。
「そう言ってもらう資格はない」
「資格とか、今はいいです」
「強いわね」
「強くないって言ってるじゃないですか」
「そうだったわね」
マナはほんの少しだけ微笑んだ。それから、表情を引き締める。
「リョウが戻る前に、私は行く」
「どこへ」
「彼のいる個人世界へ」
ナギサの胸が強張る。
「止めに行くんですか」
「今は、見に行く。必要なら止める」
「戦わないでください」
「約束はできない」
「マナ先輩」
「ナギサ。私はあなたに嘘をつきたくない。リョウが誰かの世界から欠片を奪い続ければ、ナギサの世界だけでは済まなくなる。新しい弾かれた者が生まれるかもしれない。アスカさんの名を刻み直すために、別の誰かの名前が薄くなるかもしれない。そのとき、私は止める」
「それでも、リョウを敵にしないで」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「約束はできない。でも、覚えておく」
マナは黒い傘を床へ立てた。先端が昇降口のタイルへ触れる。乾いた音がした。その音を合図にしたように、ガラスの中の赤黒い花びらが一斉に舞い上がる。現実の空気にも薔薇の香りが混じった。甘く、暗く、鉄の匂いを含んだ香り。ナギサは思わず後ずさった。
マナの背後に、白い半仮面が現れた。反射ではない。赤黒い花びらが彼女の肩の周囲を舞い、黒い影が制服の輪郭を覆っていく。けれど、それは一瞬で完全な変身になるわけではなかった。鳴海マナの姿と、ファントム・ローズの姿が重なり、どちらも消えないまま揺れている。黒い傘は、薔薇の蔓を思わせる細い鞭の影をまとった。白いヘアピンが、仮面のひび割れた薔薇の意匠と重なる。
「マナ先輩」
ナギサは呼んだ。
マナは振り返った。その顔には、まだ仮面は完全に降りていない。半分はマナで、半分はローズだった。
「私は鳴海マナ」
彼女は静かに言った。
「そして、ファントム・ローズ」
「はい」
「どちらの名前も、忘れないで」
ナギサは息を吸った。
「鳴海マナ。ファントム・ローズ」
名前を呼ぶと、花びらの舞い方が少しだけ穏やかになった。マナの目に、ほんのわずかな安堵が浮かぶ。
「ありがとう」
その声は、マナのものだった。
次の瞬間、白い半仮面が彼女の顔に重なった。黒衣の影が揺れ、赤黒い薔薇の蔓が床を這う。昇降口のガラスに、個人世界へ続く暗い裂け目が開いた。向こう側には、見知らぬ校舎の廊下と、黒い霧に滲む世界の断片が見える。リョウがいる場所だ。アスカの欠片を追うために、また誰かの世界へ足を踏み入れている場所。
ローズは裂け目の前で立ち止まり、最後にナギサを見た。
「ナギサ。あなたは自分の世界を守って」
「リョウを呼びます」
「自分の名前も」
「分かってます」
「なら、まだ戻れる」
「リョウも?」
ローズは答えなかった。答えられなかったのだと、ナギサには分かった。
代わりに、ローズは黒い蔓を一振りし、裂け目の向こうへ足を踏み出した。赤黒い花びらが昇降口に舞い、黒い傘の影が消える。残されたのは、夕方の光と、薔薇の香りと、ナギサの手の中のスマホだけだった。
写真の中で、リョウの肩に滲む黒はまだ消えていない。
ナギサはその画面へ向かって、小さく言った。
「春日リョウ」
次に、自分の名前を呼ぶ。
「椎凪ナギサ」
そして、もう一つ。
「鳴海マナ。ファントム・ローズ」
昇降口のガラスに、最後の花びらが一枚だけ残った。赤黒いそれは、ゆっくりと硝子の向こうへ沈み、リョウのいる個人世界へ続く暗闇の中へ消えていった。




