第6章 名前のない少女
レジストリへ戻る扉をくぐった瞬間、リョウは足元が沈む感覚を覚えた。世界と世界の隙間にある通路は、いつも乾いた紙のような音を立てる。だが、今は違った。床がわずかに柔らかい。濡れた紙を何枚も重ねたような感触があり、踏むたびに、黒い染みが靴底の形へ広がっていく。リョウの足元から漏れる霧が、レジストリそのものへ染み込もうとしているのだと分かった。アヤトはすぐに立ち止まり、手にした記録カードを数枚、床へ落とした。白いカードは床に触れると薄い光を放ち、黒い染みの広がりを押さえる。消すのではない。記録で縁を留める。アヤトらしい対処だった。
「戻ると言ったのに、戻ってきた君が通路を汚している」
アヤトは皮肉ではなく事実として言った。
「悪い」
「謝罪は記録できない。制御して」
「してる」
「しているつもり、と言い直して」
リョウは言い返そうとして、やめた。指先に残る黒い線が、前よりも濃い。袖口の内側にも、薄い霧がまとわりついている。欠片を集めたぶん、アスカの声は近づいた。雨の傘。歩道橋の横顔。数学のノート。放課後の図書室。誰かの世界に残ったアスカの印象。それらはリョウの中で、確かに輪郭を作り始めている。だが、そのたびに黒い霧も濃くなる。ナギサの声は遠くなった。戻ると決めたのは自分なのに、今も背後のどこかで、アスカの声が呼んでいる気がした。
レジストリの奥から、小さな鈴の音が聞こえた。
リョウは顔を上げた。鈴の音は一度きりではない。ちりん、ちりん、と一定の間隔で鳴っている。学校のチャイムでも、スマホの通知音でもない。もっと古く、もっと細い音。縁日の風鈴か、ランドセルにつけた小さな鈴のようだった。
「何の音だ」
「未固定者の区域から」
アヤトの声が低くなった。
「未固定者?」
「名前の記録が不完全な弾かれた者。正確な名前、過去、所属世界、関係者の認識が欠けている人たち」
「そんな場所があるのか」
「ある。見せたくはなかった」
アヤトは歩き出した。リョウはその背中を追う。通路の奥へ進むほど、書架の形が変わっていく。最初のレジストリは、無数の棚とファイルと白いラベルで構成された記録空間だった。冷たいが、整理されていた。ここは違う。棚はあるが、ラベルの文字が薄い。引き出しには番号だけが振られ、名前がない。写真立ては空白で、音声媒体には再生できないノイズが詰まっている。壁には無数の紙片が貼られていたが、どれも肝心なところが黒く抜けていた。生年月日。住所。学校名。家族構成。友人の名前。本人の名前。記録はある。だが、中心がない。
鈴の音は、さらに奥から聞こえた。
そこには、小さな教室のような空間があった。六道学園の教室ではない。どこかの小学校にも見えるし、病院の待合室にも見えるし、誰かの子ども部屋にも見える。壁紙は薄い黄色で、ところどころ剥がれ、窓の外には何も映っていない。机が一つ。椅子が二つ。棚にはぬいぐるみと古いノートが並んでいる。だが、ぬいぐるみの顔はぼやけ、ノートの表紙には名前を書く欄だけが空白のまま残っていた。
その部屋の中央に、少女が座っていた。
年齢は中学生くらいに見える。けれど、見る角度によって少し幼くも、大人びても見えた。髪は肩のあたりで切られているが、色も長さも安定しない。制服を着ているようで、私服にも見える。輪郭の端が薄く、背景と混ざりかけている。手首には、小さな鈴のついた紐が巻かれていた。鈴は彼女が動くたびに鳴る。あるいは、彼女がここにいることを、世界へ知らせるために鳴っているのかもしれなかった。
少女はリョウたちを見ると、ゆっくり顔を上げた。
「アヤト」
彼女はそう呼んだ。名前を呼べる相手がいる。そのことに、リョウは少しだけ救われるような気がした。だが、アヤトの表情は硬いままだった。
「起きていたんだね」
「鈴が鳴ったから」
少女は手首の鈴を見た。
「誰かが来ると鳴るの。たぶん」
「たぶん?」
「分からない。鳴る理由も、誰がつけたのかも、忘れたから」
その言い方があまりにも自然で、リョウは言葉を失った。少女は「忘れた」と言った。宿題を忘れた、傘を忘れた、そんな日常の言葉のように。だが、彼女が忘れたのは鈴をつけた理由だけではないのだと、この部屋の空気が告げていた。
「この人は?」
少女がリョウを見る。
アヤトが答える前に、リョウは自分で言った。
「春日リョウ」
胸ポケットのカードが熱を持つ。名前を名乗ることが、この場所ではいつもより重い。少女は、その名前を口の中で転がすように繰り返した。
「かすが、りょう」
「君は?」
リョウが聞くと、少女は少しだけ困ったように笑った。
「分からない」
空気が冷えた。
「分からないって」
「名前、分からないの」
少女は自分の胸に手を当てた。そこには名札のようなものがついていた。だが、白いプレートには何も書かれていない。完全な空白ではない。何かが書かれていた跡はある。文字の凹みだけが残っているのに、インクも記号も消えている。
「アヤトは、私のことを未登録三七って呼ぶ」
「それは管理番号だ」
アヤトの声には、苦さが混じっていた。
「名前じゃない」
「うん。名前じゃないのは分かる。でも、名前がないから、それで返事する」
少女は当たり前のように言った。
リョウの喉が締めつけられる。未登録三七。人間の名前ではない。レジストリが彼女を完全に見失わないためにつけた仮の番号。番号がなければ、彼女はこの部屋に座っていることすらできないのかもしれない。
「家は」
リョウは聞いた。
「分からない」
「学校は」
「分からない」
「家族は」
「分からない」
少女は一つずつ首を振った。悲しそうではない。悲しむための対象が、彼女の中から抜け落ちているようだった。家が分からない。学校が分からない。家族が分からない。それがどれほど恐ろしいことなのか、彼女自身が完全には掴めていない。だからこそ、リョウの方が恐ろしくなった。
「何か、覚えてることは」
少女は考えた。手首の鈴が小さく鳴る。
「朝の匂い」
「匂い?」
「トーストかな。違うかも。雨の日の靴箱の匂いかも。あと、誰かが私の名前を呼んでた気がする。でも、呼ばれた名前のところだけ、穴が空いてる」
彼女は自分の胸を指さした。
「ここに穴があるみたいなの」
リョウは何も言えなかった。
アヤトが静かに部屋の棚へ近づき、ファイルを一冊取った。薄いファイル。ラベルには「未登録三七」とだけある。ページを開くと、そこには断片的な記録が並んでいた。身長、おおよその年齢、発見時の状態、保持していた物品、鈴つきの紐、半分消えた学生証、欠けた写真。だが、名前欄は空白。家族欄も空白。所属世界、確認不能。関係者、確認不能。過去記録、破損。
「レジストリの記録だけが、彼女の存在を保っている」
アヤトは言った。
「このファイルがなければ、彼女はここに座っていることもできない。名前を失い、誰の世界にも強く結びついていない弾かれた者は、こうなる」
「どうして」
リョウの声は掠れていた。
「どうして、こんな」
「世界改変、記憶干渉、個人世界の崩壊、ミラーの残響、あるいは誰かの強すぎる干渉。原因は一つではない」
アヤトはリョウを見る。
「君が世界を傷つければ、こういう子が増える」
その言葉は、刃物のようにまっすぐだった。
リョウは反射的に言い返した。
「僕のせいじゃない」
「まだ、彼女は君のせいではない」
「僕はアスカを取り戻したいだけだ」
「それは知っている」
「誰かをこんなふうにしたいわけじゃない」
「それも知っている」
「じゃあ、そんな言い方するな」
「言わなければ、君は見ない」
アヤトの声は静かだったが、引かなかった。
「君はアスカさんの欠片を見る。アスカさんの声を聞く。アスカさんへ近づく感覚を得る。そのたびに、自分がどこを傷つけているのか見えなくなる。だから見せる。名前を失うとはどういうことか。世界から弾かれるとはどういうことか」
リョウは拳を握った。黒い霧が指先に滲む。少女がそれを見て、首を傾げた。
「黒いね」
リョウは慌てて手を背中へ隠した。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「怖いだろ」
少女は考えるように目を瞬かせた。
「分からない。怖いって、たぶん知ってた気がする。でも今は、あまり上手に思い出せない」
その言葉が、リョウの胸へ深く刺さった。怖いという感情さえ、彼女の中では薄くなっている。悲しい、寂しい、懐かしい、帰りたい。そういう言葉の輪郭も、きっと失われているのだろう。名前を失うとは、単に呼び名をなくすことではない。自分が誰とつながり、何を大切にし、どこへ帰りたかったのか、その地図を失うことなのだ。
「君は」
少女が言った。
「誰かを探してるの?」
リョウは頷いた。
「椎名アスカ」
名前を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに揺れた。棚の上のぬいぐるみの顔が一瞬だけ白い影を帯びる。少女の足元の影が、ぴくりと動いた。リョウは気づかなかった。アヤトだけが目を細める。
「大事な人?」
「うん」
「名前を覚えてるんだね」
「覚えてる」
「いいな」
少女は羨ましそうに笑った。痛みを知らない笑みではない。痛みの場所が分からない笑みだった。
「私は、誰かに大事にされてたのかな」
リョウは答えられなかった。
「たぶん、されていた」
アヤトが言った。
少女はアヤトを見る。
「たぶん?」
「君の持っていた鈴は、誰かが君を見失わないようにつけたものかもしれない。学生証の裏に、消えた文字の跡がある。写真の端に、誰かの指が写っている。証拠はある。完全ではないけれど」
「じゃあ、その人は私を探してる?」
アヤトは沈黙した。
少女は、答えを待つ顔をした。リョウは思わずアヤトを見る。アヤトは嘘をつかなかった。
「分からない」
少女は少しだけ頷いた。
「そっか」
それだけだった。泣かない。怒らない。落胆すら、うまく形にならない。リョウはそのことが一番つらかった。
「あなたは」
少女がリョウへ向き直る。
「誰かの名前を取り戻せるの?」
部屋の空気が止まった。
リョウは少女を見た。名前のない少女。未登録三七。番号で呼ばれ、過去も家族も学校も分からず、レジストリのファイルだけで存在を保っている子。彼女はリョウの中の黒い霧を怖がらなかった。むしろ、その黒に何かを期待するように見ていた。世界が消した名前を呼び戻す力。アスカを取り戻すための力。もしそれが本当に名前を刻み直せるなら、この少女の名前も取り戻せるのではないか。そう思った瞬間、リョウの霧が胸の奥で熱を持った。
「取り戻す」
リョウは言った。
アヤトが何か言おうとした。リョウはそれを遮るように続けた。
「必ず」
少女の目が、わずかに明るくなった。
「私の名前も?」
リョウは言葉に詰まった。約束していいのか。名前も過去も失った少女に、取り戻すと言っていいのか。できる保証はない。過去を完全には戻せない。本人そのものを復元できる保証もない。欠片を集めても、それは他者の記憶にすぎないかもしれない。アヤトの警告が頭をよぎる。だが、少女の目が見ていた。名前を失ったまま、希望という形だけを思い出そうとしている目。
「取り戻す方法を探す」
リョウは言い直した。
「嘘はつきたくない。今すぐできるとは言えない。でも、アスカを探すだけじゃなくて、君みたいに名前を失った人をそのままにしない方法を探す」
アヤトがリョウを見た。その視線には、驚きと警戒が同時にあった。少女は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、忘れないで」
その言葉に、リョウの心臓が跳ねる。
「私には名前がないけど、ここにいたこと、忘れないで」
「忘れない」
「番号でも?」
リョウは胸が痛くなった。番号で呼びたくない。だが、呼ばなければ彼女を指すものがない。アヤトがつけた未登録三七という管理番号は、冷たく、非人間的で、それでも彼女をここに留めるための細い杭だった。
「未登録三七」
リョウはゆっくり言った。
「君を忘れない」
少女は微笑んだ。鈴が小さく鳴った。その音に合わせて、部屋の壁に貼られていた空白の写真が一枚揺れる。リョウはその揺れを見た。写真には何も写っていないはずだった。だが、光の角度が変わった瞬間、そこに薄い影が浮かんだ。長い髪。白いカーテンのような光。アスカに似た横顔。
「アヤト」
リョウは写真を指さした。
アヤトはすでに見ていた。表情が険しい。少女の足元の影もまた、さっきより濃くなっている。そこに、細い白い線が混じっていた。リョウの黒い霧ではない。ミラーの反射とも違う。もっと弱く、ほとんど消えかけた光。けれど、リョウはそれを知っている気がした。
アスカの欠片。
少女の影の中に、それが宿っている。
「どうして」
リョウは呟いた。
アヤトは少女へ近づき、床に膝をついた。彼女の影へ触れないように、指先を寸前で止める。影の中で白い光がかすかに脈打つ。そこから、ノイズのような声が漏れた。
『……名前……』
リョウの全身が強張る。
『……呼んで……』
少女は首を傾げた。
「今の、誰?」
リョウは答えられなかった。アスカの声に似ていた。だが、完全ではない。少女の失われた名前への渇きと、アスカの欠片が混ざっている。名前を呼んで。誰の名前を。アスカの名前か。少女の名前か。それとも、世界から消されたすべての名前か。
アヤトが低く言った。
「この子は、ただの未登録者じゃない」
「どういうことだ」
「彼女の欠落に、アスカさんの欠片が引っかかっている。名前を失った空洞に、別の失われた名前の痕跡が宿っているんだ」
「そんなことが」
「ある。特に、世界の修正で消えた名前同士は、欠落の形が似ることがある」
少女は二人の会話を理解できない様子で、自分の影を見ていた。
「私の中に、誰かいるの?」
「いる、というより」
アヤトは言葉を探した。
「君の影に、誰かの声が引っかかっている」
「それが、私の名前?」
リョウは息を止めた。
少女は、本気でそう思っていた。自分の中に宿ったアスカの欠片を、自分の名前かもしれないと感じている。名前を失った空洞に、アスカの声が触れている。もしリョウがその欠片を取れば、アスカへ近づく。だが、少女の影からその光を剥がせば、彼女はさらに空っぽになるのではないか。今かろうじて「何かがある」と感じている場所まで失うのではないか。
黒い霧が、リョウの指先に滲んだ。
アヤトが立ち上がる。
「リョウ君」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
リョウは自分の手を見た。霧は、少女の影へ向かおうとしている。アスカの欠片がそこにある。欲しい。取れば、声がまた近づく。名前を呼んでという言葉の続きを聞けるかもしれない。アスカの輪郭がまた鮮明になるかもしれない。
だが、目の前には名前のない少女がいる。
彼女はリョウを見上げた。
「あなたは、取り戻せるんでしょ?」
その問いは、信頼に似ていた。だからこそ重かった。
リョウは、黒い霧を握りつぶすように拳を閉じた。霧は指の隙間から漏れ、床へ落ちる前に消える。完全には消えない。だが、今は伸ばさない。
「まだ、取らない」
リョウは言った。
アヤトの目がわずかに揺れる。
「まだ?」
「この欠片が何なのか、確かめる。彼女から剥がしていいものなのか。アスカのために必要なのか。それとも、彼女を保っているものなのか。分からないまま取らない」
「成長したね、と言いたいところだけど」
「言わなくていい」
「うん。まだ危ないから」
リョウは少女へ向き直った。
「未登録三七」
「うん」
「君の影にある声を、勝手には取らない」
「取ったら、私の名前が分かる?」
「分からない」
「そっか」
「でも、調べる。アヤトと一緒に。君の名前も、アスカの欠片も」
少女は、少しだけ笑った。
「じゃあ、また来る?」
「来る」
「忘れない?」
「忘れない」
「名前がなくても?」
リョウは頷いた。
「名前がなくても、君がここにいることは忘れない」
鈴が鳴った。ちりん、と小さく。部屋の空白の壁に、ほんの一瞬だけ影が走る。そこには、少女が誰かと手をつないで歩く姿のようなものが映った。顔は見えない。声も聞こえない。だが、彼女が完全な空白ではなかったことだけは分かった。誰かの世界に、彼女もいた。誰かの名前を呼び、誰かに名前を呼ばれていたはずだった。
アヤトは未登録三七のファイルへ、新しい紙を挟んだ。
「影内にS.A.関連欠片の疑い。音声断片、名前要求。摘出保留。春日リョウの干渉、未遂で停止」
「何でも書くんだな」
「書かないと残らない」
「冷たい」
「知ってる」
アヤトはペンを止めた。
「でも、君が今取らなかったことも書いておく」
リョウは少しだけ目を伏せた。慰めではない。記録だ。それでも、今はその冷たさが必要だった。自分が取らなかったこと。欠片を見つけても、すぐに奪わなかったこと。その事実を、リョウ自身の願望があとで書き換えないように。
部屋を出る前に、少女がもう一度リョウを呼んだ。
「春日リョウ」
リョウは振り返った。
「私、あなたの名前は覚えてると思う」
彼女は少し不安そうに笑った。
「今だけかもしれないけど」
「それでもいい」
「じゃあ、次に来たら、また教えてね。私が忘れてたら」
「何度でも言う」
「うん」
鈴が鳴る。
リョウとアヤトが部屋を出ると、扉は静かに閉じた。閉じた扉の表札には、相変わらず名前はない。ただ、未登録三七という番号だけが薄く光っている。その下に、かすかな白い線が増えていた。S.A.の欠片がそこにある証拠のように。
レジストリの通路へ戻ると、空気が重く感じた。欠片は見つかった。アスカへ近づく手がかりが増えた。だが、リョウはそれを取らなかった。取れなかった。その事実は、痛みでもあり、わずかな安堵でもあった。
「アヤト」
「何」
「名前を取り戻す方法は、本当にないのか」
「ないとは言わない」
「あるとも言わない」
「今のところ、完全な方法は記録されていない」
「じゃあ、作るしかない」
アヤトはリョウを見た。
「その言い方は危ない」
「分かってる」
「分かっていても言うんだね」
「言う」
リョウは閉じた扉を見た。
「アスカだけじゃない。あの子みたいな人を、そのまま番号で呼ばせたくない」
「それは善意?」
「たぶん」
「善意も世界を壊す」
「知ってる」
リョウの声は低かった。
「それでも、何もしない理由にはならない」
アヤトは長く黙った。やがて、小さく息を吐く。
「だから君は危険なんだ」
「知ってる」
「でも、必要かもしれない」
その言葉に、リョウは驚いてアヤトを見た。アヤトは視線を逸らし、通路の奥へ歩き出す。
「調べるよ。未登録三七の影に宿った欠片。S.A.との関連。名前欠落とアスカさんの消失の共鳴。君が勝手に取る前に、僕が記録する」
「信用していいのか」
「信用しなくていい。記録を見て判断して」
アヤトらしい答えだった。リョウは少しだけ笑いそうになった。笑えなかったが、胸の奥の黒い霧がほんのわずかに静まる。
そのとき、通路の向こうで薔薇の香りがした。
リョウとアヤトが同時に振り向く。暗い書架の間に、赤黒い花びらが一枚舞っている。もう一枚。さらに一枚。白い半仮面の気配が、世界の外側から近づいてくる。
「ローズ」
リョウが呟く。
アヤトの顔が険しくなる。
「思ったより早い」
赤黒い花びらは、未登録三七の部屋の扉の前を通り、リョウの足元へ落ちた。床に触れた花びらは黒い霧とぶつかり、小さく燃えるように消える。ローズが来る。リョウを止めるために。あるいは、名前のない少女の影に宿ったアスカの欠片を守るために。
リョウは拳を握った。
彼の背後で、名前のない少女の鈴がもう一度、小さく鳴った。




