第7章 レジストリの判断
赤黒い花びらが、レジストリの暗い通路に落ちた。床に触れた瞬間、花びらは小さく燃えるように消え、代わりに薔薇の香りだけが残った。甘く、暗く、鉄の匂いを含んだ香り。リョウは反射的に振り返った。アヤトも同じ方向を見ている。書架と書架の間、名前の欠けた記録棚の奥に、白い半仮面の気配があった。ローズが近づいている。ナギサの世界から、こちらへ来たのだ。止めるために。見張るために。あるいは、未登録三七の影に宿ったアスカの欠片を、リョウの黒い霧から守るために。
リョウの指先に黒い霧が滲んだ。さっき、少女の影から欠片を取らないと決めたばかりなのに、ローズの気配を感じただけで、霧は警戒するように揺れる。自分の意志なのか、霧の反応なのか、もうはっきりしない。アヤトがそれを見て、低く言った。
「出さないで」
「分かってる」
「分かっているなら、手を開いて。握ると圧が上がる」
「圧って何だよ」
「君の怒りと霧の密度。今は冗談を言っている場合じゃない」
アヤトの声はいつもより硬かった。未登録三七の部屋の中では、鈴がまだかすかに鳴っている。名前のない少女は、自分の影に誰かの声が引っかかっていることを知らされたばかりだ。あれをアスカの欠片と呼んでいいのか、彼女自身の失われた名前と切り離していいのか、何も分かっていない。その状態でローズが来る。リョウは、また自分が裁かれるような感覚を覚えた。
しかし、白い半仮面が姿を現す前に、通路の明かりが変わった。
レジストリの書架に並ぶ白いラベルが、一斉に淡く光った。光は通路の奥から走り、床の黒い染みを囲むように幾何学的な線を描く。アヤトが表情を変えた。警戒ではない。もっと厄介なものを見た顔だった。
「局長」
その一言で、空気がさらに重くなった。
通路の奥から、一人の男が歩いてきた。年齢は四十代にも、五十代にも見える。黒に近い灰色のスーツを着て、襟元には細い銀のピンを留めている。髪は後ろへ撫でつけられ、目元には疲労ではなく、長く物事を測り続けてきた者の冷えた光があった。彼が歩くたび、周囲の書架が自動的に整列する。乱れた紙片が棚へ戻り、黒く滲んだ床には仮の白線が引かれ、未登録者区域の扉には封印のような文字が浮かんだ。レジストリという場所そのものが、彼を管理者として認識している。
「影山」
男はアヤトを名前で呼んだ。
「報告よりも状況が進んでいる」
「御厨局長」
アヤトは硬い声で答えた。
「まだ報告を上げる前です」
「だから来た」
御厨玲士。アヤトが以前、レジストリの上層について多くを語らなかった理由を、リョウは一瞬で理解した。御厨は敵の顔をしていない。助けに来た顔もしていない。そこにあるのは評価する目だった。被害、価値、危険、使用可能性。目の前の人間を、そういう項目に分けて見ている目。
御厨はリョウへ視線を移した。
「春日リョウ」
胸ポケットのカードが、勝手に熱を持った。名前を呼ばれたというより、記録を照合されたような感覚だった。
「世界改変後の孤立記憶保持者。椎名アスカの消失を認識し続け、ナギサ世界を座標として存在を維持。その後、S.A.関連欠片との接触により黒霧を発現。複数個人世界への侵入、欠片収集、未登録三七への干渉未遂。現時点で、ファントム・メア化進行中」
淡々とした言葉が、リョウを資料へ変えていく。アヤトの記録も冷たい。だが、アヤトの冷たさは残すためのものだった。御厨の冷たさは違う。使える形へ並べるための冷たさだった。
「勝手にまとめるな」
リョウは言った。
御厨は表情を変えない。
「事実関係に誤りがあれば訂正する」
「僕は、ファントムなんかになりたいわけじゃない」
「願望は確認していない。状態を述べた」
「状態?」
「君はすでに、人間のままでは扱えない干渉能力を持っている」
御厨の視線が、リョウの指先の黒い霧へ落ちる。
「存在構造の分解。欠片の抽出。世界修正力への抵抗。名前欠落への反応。これらは危険だ。同時に、極めて有用でもある」
「有用」
リョウの声が低くなった。
アヤトが一歩前へ出る。
「局長。彼を道具にする話なら、ここでするべきではありません」
「道具という言葉は感情的だ、影山」
「では、資源ですか。実験体ですか。危険個体ですか」
「危険で有用な存在」
御厨は即答した。
リョウの胸の奥で、黒い霧が熱を持った。ローズに警戒されるのは分かる。マナに止められるのも、痛いが分かる。アヤトに記録されるのも、腹は立つが理解はできる。だが、今の御厨の言い方は違った。彼はリョウの痛みも、アスカの名前も、ナギサの声も、未登録三七の鈴の音も、すべてを同じ台の上に置いて測っている。
「僕はアスカを探している」
「知っている」
「弾かれた者の居場所を作るために、ここに来たんじゃない」
「それも知っている」
「なら、何でそんな話になる」
「君の目的と、レジストリの目的が一部重なるからだ」
御厨は片手を上げた。通路の壁が透け、奥に別の空間が現れる。そこには、小さな街の模型のようなものが広がっていた。教室、駅前、病院の待合室、団地の階段、公園、図書室、誰かの部屋。それらがばらばらに置かれ、薄い白線で仮につながれている。人影もある。輪郭の薄い者、顔のぼやけた者、名札のない者。未登録三七ほどではないが、どこにも完全には属せない者たちが、疑似的な街の中を歩いていた。
「疑似世界」
アヤトが小さく言った。
御厨は頷く。
「レジストリが保管している記録を用い、弾かれた者の居住可能領域を構築している。完全な世界ではない。だが、何もない通路に留めるよりは安定する」
リョウはその模型のような街を見た。空は白く、影は薄い。人々は歩いているが、笑い声はない。窓には光があるが、匂いはない。生活の形はある。けれど、生活そのものではない。仮の街。消えかけた者たちを置いておくための器。
「これを拡張するには、何が足りないと思う」
御厨が聞いた。
リョウは答えなかった。
「世界としての連続性だ。記録だけでは、部屋は作れても時間が流れない。駅は作れても、誰かを待つ感情までは再現できない。教室は作れても、そこに座っていた理由までは固定できない。欠けているのは、世界同士の断片をつなぎ、矛盾を一時的に混ぜ合わせる力」
御厨の視線がリョウへ戻る。
「君の黒霧は、それができる可能性がある」
「ふざけるな」
アヤトの声が鋭くなった。
御厨はアヤトを見る。
「影山。君は弾かれた者の生存を第一に考えているはずだ」
「だからこそです。リョウ君の霧はまだ制御できていません。彼自身も安定していない。未登録三七の影から欠片を取らずに踏みとどまったばかりです。今ここで利用価値を語れば、彼は自分の危険性を正当化するか、逆にレジストリを信用しなくなる」
「後者は既に起きている」
御厨はリョウを見た。
「違うか」
リョウは答えなかった。信用。そんなものは、今の一言でかなり薄くなっていた。アヤト個人を信用できるかどうかと、レジストリという組織を信用できるかどうかは別だ。リョウは今、それをはっきり理解した。
アヤトは御厨の前に立った。
「彼は道具ではありません」
「道具ではない。だから交渉する」
「交渉に見せた収容です」
「収容が必要な状態でもある」
「局長」
「影山。彼が世界を壊す前に、こちらの目的へ使うべきだ」
その言葉は、通路の奥まで冷たく響いた。
アヤトの顔から、いつもの薄い笑みが完全に消えた。
「本気で言っているんですか」
「もちろん」
「リョウ君は、アスカさんを探しています。彼の願いが危険であることは分かっています。でも、それは彼の痛みです。痛みごと利用するんですか」
「痛みを理由にして世界を壊すなら、痛みを管理する必要がある」
「管理という言葉で、人を削らないでください」
「削られるのを恐れて放置した結果、新しい未登録者が生まれる。君はそれを望むのか」
アヤトは言葉に詰まった。未登録三七の鈴が、扉の奥でかすかに鳴る。御厨の言葉は冷酷だった。だが、完全に間違ってはいない。リョウが欠片を求めて世界へ干渉し続ければ、誰かが弾かれるかもしれない。なら、組織として管理し、目的ある形へ向けるべきだ。御厨の理屈は、鋭く、冷たく、実用的だった。
だからこそ、リョウは気持ち悪かった。
「僕を使って、何をするつもりだ」
リョウが聞くと、御厨は待っていたように答えた。
「疑似世界の接続実験。欠片収集時の副次記録の保存。名前欠落者への仮名固定。君の黒霧による混沌化を、再構成ではなく安定化へ転用する」
「分かるように言え」
「君の霧で壊すのではなく、ばらばらの記録を仮につなぐ。弾かれた者たちに、より広い居場所を作る」
「そのために、僕にアスカの欠片を集めさせるのか」
「君は止めても集めるだろう。ならば、監督下で行った方が被害を抑えられる」
「僕が欲しい欠片を、レジストリが欲しい疑似世界の材料にするってことか」
「相互利益だ」
「アスカは材料じゃない」
「アスカさんだけではない。君が触れるすべての欠片は、誰かの世界の材料でもある」
御厨は、リョウの怒りを見ても一切揺れない。
「そこから目を逸らすな。君は既に、誰かの記憶へ触れ、誰かの世界から印象を剥がしかけた。君が純粋にアスカさんを探していると言っても、結果として世界に干渉している。ならば、その干渉に責任を持つ必要がある」
「責任を持つことと、あんたたちに使われることは違う」
「違う。だが、管理されない責任はしばしば願望に負ける」
リョウの足元で、黒い霧が広がった。御厨の張った白線に触れる。白線は一瞬黒く染まり、すぐに別の線が上書きする。御厨はそれを観察するように見た。恐怖ではない。興味だった。
「反応速度は想定以上だ」
「局長!」
アヤトが叫ぶ。リョウも気づいた。御厨は今、リョウの怒りを止めようとしたのではなく、測っていた。どれだけの霧が出るか。レジストリの白線がどれだけ耐えるか。リョウがどの言葉に反応するか。すべてを観察している。
リョウの中で、何かが冷えた。
ローズはリョウを危険だと見る。だが、彼女は止めると言う。マナはリョウを怒る。ナギサを守るために。アヤトは記録する。消えないために。御厨は違う。彼は危険だと知ったうえで、有用だと見る。利用できるうちに使うべきだと言う。リョウは、自分がどの勢力からも「危険で有用な存在」と見られていることを、ここでようやくはっきり知った。救う対象でも、ただの被害者でも、恋人を探す少年でもない。管理すべき危険。使えるかもしれない資源。止めなければならないファントム。呼び戻さなければならないリョウ。
そのどれもが、少しずつ本当だった。
「僕は」
リョウは言った。
「アスカを取り戻したいだけだ」
御厨は静かに頷く。
「その“だけ”が、世界を変える」
リョウは笑った。笑い声は出なかった。喉の奥で壊れたような息だけが漏れた。
「結局、誰も同じことを言うんだな」
「何を?」
「僕の気持ちは分かる。でも危険だ。僕を止める。僕を記録する。僕を使う。僕を管理する。誰も、アスカを返すとは言わない」
「返せないものを返すとは言わない」
御厨の答えは即座だった。
「レジストリは失われた者を完全には復元しない。残す。保管する。可能なら居場所を作る。それ以上を約束すれば、詐欺になる」
「正直で結構だな」
「正直は冷たい。だが、役に立つ」
リョウはアヤトを見た。アヤトは苦しそうな顔をしていた。御厨の理屈に反発しながらも、完全に否定できない顔だった。彼もレジストリの人間だ。消えかけた者を残すことを第一にしている。未登録三七のような子を増やしたくない。なら、リョウの力に可能性を見てしまうこと自体は、アヤトにも理解できているのだろう。だから苦しんでいる。
「アヤト」
リョウは言った。
「君も、僕の力を使えば居場所を作れるかもしれないって思ってるのか」
アヤトはすぐには答えなかった。その沈黙が答えだった。
「……可能性としては」
「そうか」
「でも、僕は君を道具にしたくない」
「したくない、か」
「リョウ君」
「したくなくても、必要ならするんだろ。レジストリは」
アヤトは何も言えなかった。
通路の奥で、また薔薇の香りが強くなる。ローズが近づいている。御厨の白線がその侵入にも反応し、通路の境界を補強し始めた。レジストリはローズも歓迎していないらしい。世界を守る仮面も、名前を記録する組織にとっては外部干渉者だ。
「局長」
アヤトが低く言った。
「ローズが来ています」
「知っている。境界切断能力は、レジストリ内では制限される」
「戦闘になれば、未登録区域に影響が出ます」
「だから、その前に春日リョウを収容する」
その言葉で、リョウは決めた。
収容。交渉ではない。管理でもない。彼らは、自分をここに留めるつもりだ。アスカの欠片を追うための自由を奪い、黒い霧を疑似世界の拡張へ使い、暴走しそうになれば記録固定で封じる。御厨にとっては合理的な判断だろう。未登録三七のような子を守るためなら、危険なリョウを制御するべきだ。ローズも、いずれ同じように止めに来る。ナギサは呼び戻す。アヤトは記録する。誰もが、自分の理由でリョウの行き先を決めようとしている。
リョウは胸ポケットのカードへ触れた。
春日リョウ。
カードは熱い。アヤトが書いた名前。レジストリに戻るための座標。生き残るための杭。だが、それは同時に、レジストリがリョウを固定するための杭でもある。
「悪い、アヤト」
リョウは小さく言った。
アヤトが顔を上げる。
「リョウ君?」
「君には、感謝してる」
リョウはカードを抜き取った。
「でも、ここにはいられない」
黒い霧が一気に広がった。御厨の白線が光る。記録棚が震える。アヤトが手を伸ばす。
「待って!」
「待ったら、収容される」
「逃げれば、座標を失う!」
「それでも」
リョウはカードを握りしめた。破りはしない。捨てもしない。けれど、カードの表面を黒い霧で包む。記録固定の熱が一瞬揺らいだ。レジストリの白線がリョウの足元を囲もうとする。御厨が片手を上げる。
「春日リョウを仮拘束」
通路の書架から、白い紙帯が無数に飛び出した。名前のラベルを伸ばしたような帯が、リョウの腕、足、胸のカードへ向かう。アヤトが叫んだ。
「局長、やめてください!」
「拘束は必要だ」
「今それをすれば、彼は完全に離脱する!」
「既に離脱行動を取っている」
白い紙帯がリョウへ絡みつく寸前、赤黒い花びらが通路を切った。ローズの蔓が、白い帯の一部を断ち切る。仮面の姿はまだ遠い。だが、彼女の境界切断はレジストリの白線を完全には防げないまでも、一瞬の隙を作った。
リョウはその隙へ黒い霧を流し込んだ。
床がほどける。紙の通路が、記録の繊維へ分解される。御厨の白線が再構成しようとするが、霧はその境界を混ぜる。書架の奥に、複数の個人世界へ続く窓が一斉に開いた。雨のバス停。紫の校舎。歩道橋。白いカーテン。知らない住宅街。未登録三七の影に宿っていた白い声の痕跡。アスカの欠片が散らばる方向が、黒い霧の中で星座のように浮かび上がる。
「春日リョウ!」
御厨の声が初めて強くなった。
「単独離脱は認めない。君は自分の危険性を理解していない」
「理解してる」
リョウは答えた。
「危険で、有用なんだろ」
「感情的な反発で動けば、多くの世界を傷つける」
「ここにいても、僕は材料になる」
「材料ではない。協力者として扱う」
「収容って言った」
御厨は一瞬だけ黙った。リョウは笑った。
「正直は役に立つんだろ」
アヤトが紙帯を押しのけながら近づこうとする。
「リョウ君、頼む。せめて僕と」
「アヤト」
リョウは彼を見る。
「未登録三七の欠片は、取らない。約束する。調べてくれ。あの子の名前も、アスカの声も」
「君はどこへ行くつもりだ」
「アスカの欠片を追う」
「一人で行けば、戻る座標が薄くなる」
「ナギサが呼ぶ」
「ナギサさんの世界が壊れる」
その言葉に、リョウの足が一瞬止まる。ナギサ。写真に黒い滲みが出ている。声が遠くなっていた。自分が進めば、彼女の世界も傷つく。それは分かっている。分かっているのに、黒い霧の向こうでアスカの声がする。
『リョウ』
呼んでいる。
リョウは目を閉じた。
「ナギサ、ごめん」
声に出すと、胸が痛んだ。
「でも、僕は行く」
アヤトの表情が歪む。
「それを、メアと呼ぶんだよ」
その言葉は、通路のどの警告より深く刺さった。リョウは答えなかった。答えれば、否定になる。否定できる自信がなかった。
レジストリの白い帯が再び迫る。御厨の目は冷静だ。ローズの花びらが遠くから走る。アヤトが手を伸ばす。未登録三七の鈴が、扉の奥で小さく鳴る。
リョウは黒い霧に身を沈めた。
世界の窓がひとつ開く。そこはまだ見たことのない個人世界だった。空は夜明け前の青。古い校舎の屋上。白いカーテンの切れ端が風に揺れ、誰かが残したスマホから、短い音声が再生されている。
『……リョウ、わたしを――』
リョウはその声へ手を伸ばした。
「春日リョウ、離脱」
御厨の声が記録として響く。
「追跡班を」
「やめてください!」
アヤトの声が遠ざかる。
赤黒い花びらが一枚、リョウの肩へ触れようとして、黒い霧に呑まれた。
次の瞬間、レジストリの通路は消えた。
リョウは一人で、アスカの声が残る世界へ落ちていった。




