第8章 ミラーの幸福
リョウは、夜明け前の青い空へ落ちた。いや、落ちたと思っただけで、足はすでに屋上のコンクリートを踏んでいた。世界の接続はいつも乱暴だ。レジストリの通路で御厨の声を背に受け、アヤトの制止を振り切り、赤黒い花びらを黒い霧に呑ませた直後、視界は紙のように裂けた。そして今、彼は見知らぬ校舎の屋上に立っている。空は薄い青。まだ朝ではない。夜でもない。境界だけが引き伸ばされたような時間だった。フェンスには白いカーテンの切れ端が絡まり、風もないのにゆっくり揺れている。床には誰かのスマホが落ちていた。画面は割れていない。だが、再生中の音声だけが、壊れた水面のように震えている。
『……リョウ、わたしを――』
声はそこまでで途切れた。リョウは膝をつき、スマホへ手を伸ばした。指先から黒い霧が漏れる。拾い上げる前に、画面の中の再生バーが勝手に戻る。ノイズ。息遣い。白い布が擦れる音。そして、また声。
『リョウ、わたしを――』
「何だよ」
リョウは呟いた。
「その先を言えよ」
スマホは答えない。画面には、保存された音声ファイルの名前が表示されている。だが、文字は水に濡れたインクのように崩れて読めない。S.A.でもない。椎名アスカでもない。誰かの個人世界に残った音声の欠片。リョウは、それがアスカ本人のものではない可能性をもう知っている。知っているのに、指が震えた。その先を聞きたい。助けて、なのか。忘れて、なのか。来て、なのか。来ないで、なのか。たった数音の欠落が、彼を世界の外へ引きずっている。
屋上の扉が開いた。
リョウは振り向いた。そこにいたのは、生徒たちだった。制服は六道学園のものに似ている。だが、リボンの色がない。全員が同じ灰色のネクタイをしている。顔立ちはそれぞれ違うはずなのに、表情だけが驚くほど似ていた。穏やかで、柔らかく、少しだけ微笑んでいる。誰も慌てていない。屋上に知らない少年がいて、黒い霧を指先にまとい、割れていないスマホの前で膝をついているのに、誰も悲鳴を上げない。先頭にいた女子生徒が、静かに言った。
「大丈夫?」
声は優しかった。あまりにも優しかった。リョウは立ち上がり、スマホを握った。
「ここはどこだ」
「学校」
「それは見れば分かる」
「あなたが落ちてきた場所」
「誰の世界だ」
女子生徒は、少し不思議そうに首を傾げた。
「誰の、って?」
その反応で、リョウは嫌な予感を覚えた。個人世界なら、中心がある。ホストがいる。世界を強く認識している誰かがいるはずだ。けれど、この生徒たちは、その問いの意味を理解していない。自分の世界、自分の認識、自分の名前。そういったものに対する手触りが薄い。
屋上の扉から、さらに生徒たちが出てくる。全員が穏やかだ。誰も急がない。誰も怒らない。誰もリョウを排除しようとしない。ただ、こちらを見て微笑んでいる。ひとりが泣いていた。頬に涙が伝っている。だが、その本人も微笑んでいる。周りの生徒たちも同じように微笑んでいる。泣いている少女の肩に手を置き、別の生徒が言う。
「つらいね」
「うん」
「分けよう」
「うん」
それだけだった。泣いていた少女の涙が少し薄くなる。代わりに、その場にいる全員の目元がわずかに潤んだ。誰か一人の痛みが、空気の中へ溶け、全員の表情に薄く分配される。少女は楽になったように息を吐く。周囲も、苦しそうではない。むしろ、満ち足りたように穏やかだった。
リョウの背筋が冷えた。
「ミラー」
名前を口にした瞬間、屋上の床が硝子のように澄んだ。コンクリートの下に、別の校舎が映る。廊下、教室、保健室、旧校舎の空き教室。どこも明るい。どこにも争いがない。生徒たちは輪になって話し、誰かの悩みに全員が頷き、誰かの孤独に全員が少しずつ手を伸ばしている。ここでは、秘密がない。あるいは、秘密を持って一人で抱える必要がない。誰かが「怖い」と言えば、隣の誰かが「私たちも怖い」と言う。誰かが「消えたい」と言えば、全員が「一人で消えなくていい」と言う。その言葉は、かつてリョウが嫌悪したものと同じ根を持っていた。だが、目の前の生徒たちは本当に救われているように見えた。
リョウは屋上の扉へ向かった。生徒たちは道を空けた。止めない。閉じ込めない。優しく通す。その優しさが気味悪い。階段を下りると、廊下が広がっていた。六道学園に似ている。けれど、鏡が多すぎる。窓硝子、掲示板の透明カバー、床のワックス、扉の小窓、消火栓のガラス、そのすべてが柔らかく反射している。反射の中には、別の廊下が映っている。そこでも生徒たちは穏やかに歩いている。
廊下の掲示板に、名簿が貼られていた。リョウは近づく。名前が並んでいるはずの表には、名字と名前の欄がある。だが、そこに書かれている文字はどれも薄い。読もうとすると、読み方が曖昧になる。田中のようで田村のようで、由梨のようで由理のようで、千尋のようで千広のように見える。誰も訂正しない。生徒たちは掲示板を見ても、自分の名前を指ささない。
「名前が薄い」
リョウは呟いた。
近くにいた男子生徒が微笑む。
「大丈夫。呼ばれ方はたくさんあるから」
「自分の名前が分からなくて、怖くないのか」
「怖いときは、みんなで怖がるよ」
「そういう問題じゃない」
「一人で怖がるより、楽だよ」
彼は本気で言っていた。リョウは言葉を失う。彼の目には虚ろさがない。壊れているようにも見えない。むしろ、あまりにも安定している。名前への執着が薄い代わりに、孤独への恐怖も薄い。自分が誰かを強く持たない代わりに、私たちという大きな器の中で守られている。
教室では、ひとりの生徒が黒板の前に立っていた。彼は震える声で、自分が家族に期待されるのが苦しいと話している。周囲の生徒たちは黙って聞いていた。誰も笑わない。誰も正論を言わない。話し終えると、全員が同じように頷いた。
「それは苦しいね」
「うん。苦しい」
「私たちで持とう」
その瞬間、彼の肩から重さが抜けたように見えた。代わりに、教室中の生徒がほんの少しだけ肩を落とす。負担が分散される。彼は泣き出した。だが、泣いている彼の周りで、全員が穏やかに微笑んだ。彼だけが泣いているわけではない。全員が少しずつ泣いている。だから、彼は一人ではない。
リョウは、気持ち悪いと思った。
同時に、羨ましいとも思った。
アスカが不安を一人で抱えなかったら。幸せなのに怖いと感じたとき、誰かがこうして分けてくれていたら。彼女は〈クラブ・ダブルB〉へ行かずに済んだのか。水鏡紫影の優しさが、もっと早く、もっと安全な形で届いていたら。誰かがアスカの「消えたくない」を一人のものにしなかったら。アスカは世界から消されなかったのかもしれない。そう考えてしまった瞬間、リョウは自分の胸に爪を立てたくなった。
廊下の奥から、声がした。
「ここでは、誰も一人ではない」
静かな声だった。水鏡紫影の声にも似ていた。白鳥由梨の声にも似ていた。だが、もっと大きい。ひとりの声ではなく、無数の声が同じ方向を向いたときに生まれる響き。ファントム・ミラー。
廊下の鏡面が一斉に曇り、そこに白い光が広がった。リョウは身構える。黒い霧が足元から立ち上がる。周囲の生徒たちは怯えない。黒い霧を見ても、誰も逃げない。ただ、痛みを見つけたときと同じ顔でリョウを見ている。
「怖いんだね」
「怒っているんだね」
「探しているんだね」
「一人で覚えているんだね」
複数の声が重なる。リョウは耳を塞ぎたくなった。だが、声は外からではなく、反射面のすべてから入ってくる。
「黙れ」
黒い霧が廊下を這う。床の鏡面が黒く濁る。だが、この世界は壊れない。ミラーに接続された世界だからだろう。黒い霧が触れても、反射は割れず、痛みが分散されるように全体へ薄く広がる。生徒たちが同時に少しだけ眉を寄せ、それから同時に微笑む。リョウの怒りさえ、ここでは共有されようとしている。
「勝手に分けるな」
リョウは叫んだ。
「僕の怒りは、僕のものだ」
「一人で持つから、苦しい」
「苦しくても、僕のものだ」
「一人で持つから、彼女も消えた」
その言葉で、リョウの黒い霧が濃くなった。廊下の窓が震える。生徒たちの微笑みが一瞬だけ乱れる。しかし、すぐに戻る。ここでは、怒りも悲しみも、全体に吸収されていく。
「アスカの名前を使うな」
リョウは低く言った。
「アスカを奪ったのはお前だろ」
「奪っていない」
声は廊下の奥から返る。
「彼女は、一人で消えたくなかった。だから、私たちは彼女の願いを受け取った」
「願いを利用したんだ」
「願いを分けた」
「境界を溶かした」
「孤独を溶かした」
「本人を消した」
「本人という形が、彼女を苦しめていた」
リョウは走り出した。声のする方へ。廊下は長く伸びる。教室の扉が次々に開き、どの部屋にも穏やかな生徒たちがいる。悩みを語る者。共有する者。泣いている者。微笑む者。誰も孤独ではない。誰も一人で倒れない。誰かが傷つけば、全員の表情に同じ薄い傷が浮かぶ。ここは、ミラーの幸福の完成形だった。個人の輪郭を薄めることで、誰も完全には壊れない世界。名前への執着を弱めることで、忘却の恐怖を薄める世界。誰か一人が消えても、全体の中に残る世界。
リョウは、そのすべてを憎んだ。
同時に、そのすべてに惹かれた。
曲がり角の先に、旧校舎の空き教室があった。かつて〈クラブ・ダブルB〉が開かれていた場所に似ている。机は円形に並べられ、中央に大きな鏡が置かれている。だが、ここでは暗くない。窓からは柔らかな朝の光が入り、机の上には白い花が一輪ずつ置かれている。参加者たちは笑っている。全員が穏やかで、誰も痛みを一人で抱えていない。中央の鏡の前に、少女が立っていた。
椎名アスカだった。
リョウの足が止まる。
長い髪。制服。こちらを見る目。唇の形。今まで見たどの欠片よりも、リョウの記憶に近い。黒瀬遥の世界で笑っていたアスカとも違う。雨の傘の印象とも違う。ミラーの残響でリョウを呼んだアスカとも違う。今そこに立つアスカは、リョウの記憶と、集めた欠片と、ミラーの中核に残ったコピーが、完璧に近いバランスで重なっていた。
「リョウ」
彼女は呼んだ。
声が近い。
リョウの中で、アスカの名前が痛む。
「お前は」
「アスカだよ」
「違う」
「そう言うと思った」
アスカの姿をしたミラーは、悲しそうに微笑んだ。
「リョウは、いつも確かめる。名前を言えって。本物かって。本人なのかって」
「当たり前だ」
「当たり前かな」
彼女は首を傾げた。その仕草まで、アスカに似ていた。似すぎていた。リョウはそれが腹立たしかった。けれど、目を逸らせなかった。
「ここなら、誰も一人じゃない」
彼女は言った。
「アスカの声で、それを言うな」
「ここなら、わたしもナギサさんも、誰も消えないよ」
リョウの呼吸が止まった。
ナギサの名前。
アスカの姿をしたミラーは、まっすぐリョウを見ていた。
「リョウはアスカを忘れたくない。ナギサさんも忘れたくない。アスカを追えば、ナギサさんの世界が傷つく。ナギサさんを見れば、アスカの声が遠くなる。苦しいよね。選べないよね。なら、選ばなくていい場所を作ればいい」
「黙れ」
「ここなら、分けられる」
彼女の声は、ひどく優しかった。
「リョウの記憶も、アスカの欠片も、ナギサさんの声も、未登録の子の空っぽも、黒瀬遥さんの放課後も、全部、私たちで持てる。誰か一人の世界から奪わなくてもいい。誰か一人に押しつけなくてもいい。みんなで少しずつ持てば、誰も壊れない」
リョウは反論しようとした。だが、言葉が出なかった。
それは、彼が一番望んでいたものに近かった。アスカを消さない世界。ナギサを置き去りにしない世界。未登録三七のような子を番号のままにしない世界。黒瀬遥の記憶からアスカを奪わない世界。誰かの世界だけを傷つけず、全員で少しずつ矛盾を引き受ける世界。もしそれが本当に可能なら。もし、ミラーの言う救済が、境界を完全に消すのではなく、苦しみを分けるだけで済むなら。
そんなことはない、とリョウは思う。
けれど、思い切れなかった。
「リョウはもう、少し分かっているでしょう」
アスカの姿をしたミラーは、机の間を歩く。周囲の生徒たちは、その歩みに合わせて微笑む。誰も彼女をアスカと呼ばない。誰も特別扱いしない。彼女もまた、私たちの一部としてそこにいる。
「一人のアスカを取り戻そうとすると、誰かの世界が欠ける。黒瀬遥さんの放課後、雨の日の傘、知らない子のノート、未登録の子の影。リョウが欠片を集めるほど、誰かから何かが薄くなる。だったら、全部を一つの場所で持てばいい」
「それは、個人を溶かすことだ」
「境界を少し柔らかくすること」
「名前を薄めることだ」
「名前に縛られて消えるより、呼び合える形を増やすこと」
「本人じゃなくなる」
「本人って、どこにあるの?」
アスカの姿をしたミラーは、リョウの前で立ち止まった。
「リョウが覚えているアスカ? 遥さんが友達として覚えているアスカ? 雨の日に傘を貸したアスカ? ミラーの中に残ったアスカ? 世界から消された痕跡のアスカ? どれが本物? どれを偽物って捨てるの?」
リョウの胸の奥で黒い霧が揺れた。
「全部、アスカの一部だ」
「そう」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「なら、全部でいいよね」
「違う」
「どう違うの?」
「混ぜたら、アスカ本人の意志が分からなくなる」
「リョウは、今分かってるの?」
その問いが、リョウを貫いた。
アスカは、本当に戻りたいと言ったのか。覚えていて。リョウ、わたしを――。その先は聞こえない。リョウは、助けてほしいと思っているのだと信じたい。だが、忘れて、かもしれない。来ないで、かもしれない。アスカ本人の意思を、リョウはまだ知らない。知らないまま、欠片を集めている。
「ここなら、意志も分けられる」
ミラーは言った。
「分からない痛みも、一人で抱えなくていい。リョウが決めなくていい。アスカが一人で決めなくていい。ナギサさんが一人で支えなくていい。みんなで、少しずつ決めればいい」
「それは、誰も決めていないのと同じだ」
「一人で決めて、誰かを壊すより優しい」
リョウは奥歯を噛んだ。
「お前は、優しい言葉で全部を薄める」
「リョウは、強い言葉で全部を自分の方へ引っ張る」
アスカの姿をしたミラーは、静かに言った。
「似ているね」
黒い霧が足元で膨らんだ。教室の鏡面が一瞬だけ黒く濁る。生徒たちの微笑みが乱れる。だが、ミラーは怯えない。むしろ、その霧すら理解するように目を細めた。
「リョウの霧も、私たちに似ている。境界を壊して、混ぜて、もう一度組み直そうとする。違うのは、リョウがアスカだけを中心にしていること。私たちは、みんなを中心にしていること」
「みんなを中心にしたら、誰も中心じゃなくなる」
「中心がひとつじゃなくても、世界は優しくなれる」
「優しさで消されるのはごめんだ」
「消えないよ」
彼女は手を伸ばした。
「ここなら、リョウも消えない。アスカも消えない。ナギサさんも消えない。名前が薄れても、痛みが薄れても、誰かの中に残る。私たちの中に残る」
リョウは動けなかった。
その手を取れば、アスカの声の続きを聞けるかもしれない。ナギサの世界を傷つけずに済むかもしれない。未登録三七の空白も、黒瀬遥の放課後も、全部を分けられるかもしれない。誰も一人ではなくなる。誰も完全には消えない。リョウが一番嫌った救済が、今、彼の一番欲しい形に近づいている。
胸ポケットのカードが熱を持った。
春日リョウ。
名前が、彼を引き留める。ナギサの声は遠い。アヤトの声も、ローズの薔薇の香りも、今はここまで届かない。聞こえるのは、アスカの声をしたミラーだけ。
「リョウ」
彼女は優しく呼んだ。
「本物かどうかなんて、そんなに大事?」
差し出された手は、アスカの手に見えた。
リョウの黒い霧が、その指先へ向かってゆっくり伸びた。




