表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
41/49

第9章 本物とは何か

 差し出された手は、アスカの手に見えた。細い指。少し冷えやすくて、冬になると袖口の中に隠していた手。リョウが何度か握ったことのある、けれど最後には引き戻せなかった手。ミラーの教室は柔らかな朝の光に満ちていて、円形に並べられた机の上には白い花が置かれている。周囲の生徒たちは穏やかに微笑み、誰かの痛みを少しずつ引き受けるように、同じ表情を共有していた。その中心にいるアスカの姿をしたものだけが、リョウに向かって手を伸ばしている。黒い霧はリョウの足元からゆっくり伸び、その指先へ近づいた。触れれば、分かるかもしれない。本物か、偽物か。欠片か、コピーか。アスカなのか、アスカを使ったミラーなのか。そう思うこと自体が、すでに誘いに乗っているのだと分かっていた。けれど、リョウは動けなかった。


「本物かどうかなんて、そんなに大事?」


 アスカの声で、彼女はもう一度言った。


「大事に決まってる」


 リョウは答えた。声は低く、掠れていた。


「アスカじゃないものを、アスカとして受け入れたら、それはアスカを二度消すのと同じだ」


「じゃあ、リョウが覚えているアスカは、本物?」


 彼女は手を下ろさないまま、静かに首を傾げた。


「リョウの中のアスカは、何でできているの? 中庭で隣に座った記憶。駅前で自販機を見ながら迷った顔。図書室で本を抱えた姿。白いカーテンの向こうで言えなかった不安。世界から消えたあと、リョウが何度も思い出して、何度も直して、何度も痛いところをなぞった声。それは、本当にアスカそのもの?」


「やめろ」


「やめない」


 彼女は少しだけ微笑んだ。アスカなら、そんなふうに笑うかもしれない。けれど、アスカならこんなに残酷な角度で問いを差し込まないかもしれない。いや、分からない。リョウは、アスカのすべてを知っていたわけではない。黒瀬遥の世界で笑っていたアスカを知らなかった。雨の日に傘を貸したアスカを知らなかった。知らない誰かに数学を教えたアスカを知らなかった。なら、目の前のアスカがリョウの知らない言葉で話すことを、偽物の証拠にできるのか。


「リョウは、わたしを覚えているって言う。でも、わたしが怖がっていたことを、失うまで知らなかった」


 その言葉に、リョウの胸が痛んだ。


「幸せなのに、不安だった。リョウの隣にいるのに、いつかリョウの世界からわたしだけ落ちるんじゃないかって思っていた。言えば困らせるから、笑っていた。リョウは優しいから、気づいたら自分を責めると思った。だから言えなかった」


「それは」


「保健室で、白いカーテンの向こうで、水鏡先生に言った。大切な人の世界から、消えない自分になりたいって」


 リョウの指先が震えた。知っている。記録で見た。ノイズで聞いた。けれど、今それを語る声は記録の読み上げではない。息遣いがある。ためらいがある。自分の弱さを恥じるような、アスカの音がある。


「リョウしか知らないはずのことも、知ってるよ」


 彼女は続けた。


「駅前で、飲み物を買うとき、リョウはいつも先にわたしに選ばせた。自分は何でもいいって顔をして、本当は甘すぎるものが苦手だった。図書室では、ページをめくるのが少し早い。わたしが追いつけなくて黙っていると、気づかないふりをして同じページを読み返してくれた。雨の日、傘を少しだけこっちへ寄せすぎて、リョウの肩が濡れていた。わたしが言うと、どうせ乾くって言った」


「黙れ」


「中庭で、わたしが『いなくなっても覚えていてくれる?』って聞いたとき、リョウは怒ったみたいな顔をした。本当は怒っていたんじゃなくて、怖かったんだよね。そんなことを言わせてしまったことが怖かった。答えを間違えたら、わたしが本当に消える気がした」


「黙れ!」


 黒い霧が、床の鏡面へ広がった。白い花が一斉に黒く染まりかける。周囲の生徒たちが少しだけ眉を寄せた。だが、彼らは逃げない。リョウの怒りを、苦しみを、分けようとするように、全員が同時に同じ痛みの表情を浮かべた。その光景が、さらにリョウを苛立たせた。


「どうして知ってる」


 リョウは声を絞り出した。


「ミラーだから? アスカを取り込んだから? 僕の記憶を覗いたから? それとも、集めた欠片がここへ流れてるからか」


「全部」


 アスカの姿をしたミラーは答えた。


「わたしは、アスカの願いを知っている。アスカの不安を知っている。リョウの記憶も知っている。誰かの世界に残ったアスカの印象も知っている。ミラーの中に残ったコピーも、失われた世界の痕跡も、全部ここにある」


「だから本物だと?」


「だから、問い直しているの」


 彼女は手を胸に当てた。


「あなたが覚えているアスカと、ここにいるわたし。どちらが本物なの?」


 その問いは、刃ではなく水だった。リョウの足元に入り込み、立っている場所を静かに崩していく。リョウが覚えているアスカは、本物だった。そう信じている。だが、記憶とは何か。忘れないために繰り返すたび、記憶は少しずつ形を変える。欠片を集めるたび、知らなかったアスカが加わり、自分の中の像は鮮明になっていく。鮮明になればなるほど、それは回復なのか再構成なのか分からなくなる。目の前のミラーは、その曖昧さをそのまま人の形にしていた。


「本物は、そんなことを聞かない」


 リョウは言った。


「本物のアスカは、自分が本物かなんて言葉で僕を追い詰めない」


「本当に?」


 彼女の目が、少しだけ悲しそうに細まった。


「リョウの中のアスカは、リョウを傷つけない人?」


「違う」


「リョウにとって都合のいい人?」


「違う!」


「じゃあ、わたしがリョウを傷つけることも、偽物の証拠にはならない」


 リョウは言葉に詰まった。黒い霧がまた膨らむ。教室の床に映っていた反射が乱れ、周囲の生徒たちの輪郭がわずかにぶれる。ひとりの男子生徒の顔が、隣の女子生徒の顔と一瞬重なった。泣いていた少女の目元が、別の生徒の微笑みへ溶ける。ミラーに接続されたこの世界は、痛みを分散することで安定している。その安定を、リョウの霧が逆方向からほどいている。


「リョウ」


 アスカの姿をしたものは、なおも優しく呼ぶ。


「わたしはここにいる。あなたの記憶よりも広く。あなたの願望よりも多く。あなたが知らなかったアスカも、あなたが取り戻したいアスカも、ここでは一人で壊れない」


「お前は、アスカじゃない」


「そう言い切れる?」


「言い切る」


「じゃあ、どうして手を伸ばしかけたの?」


 リョウの呼吸が止まる。


「どうして、わたしの言葉で傷つくの? どうして、わたしの声で怒るの? どうして、わたしがナギサさんの名前を出したとき、揺れたの? 偽物なら、そんなに苦しくないでしょう」


「偽物でも、アスカの顔をしてるからだ」


「顔だけ?」


「声もだ」


「声だけ?」


「記憶も、少しは」


「じゃあ、どこからが本物?」


 彼女は、もう一度手を差し出した。


「境界はどこ?」


 その言葉に、リョウの中で何かが熱くなった。境界。ローズが守ろうとするもの。アヤトが記録で留めようとするもの。ミラーが薄めようとするもの。リョウの黒い霧が混ぜようとするもの。境界を問われるたび、彼は自分が立っている場所を失う。アスカとアスカではないものの境界。記憶と再構成の境界。救済と侵食の境界。愛と執着の境界。


「僕が決める」


 リョウは言った。


「アスカを探しているのは僕だ。覚えているのも僕だ。だから、僕が決める」


「それは、アスカのため?」


 彼女は静かに聞いた。


「それとも、リョウが失いたくないから?」


 黒い霧が爆ぜた。


 床の鏡面が黒く染まり、円形の机が軋む。白い花がほどけ、花びらと茎と誰かの記憶の断片へ分かれていく。生徒たちの微笑みが崩れた。痛みを共有していた穏やかな顔が、一斉に不安へ変わる。泣いていた少女が、自分の涙がどこから来たのか分からなくなったように目を見開く。男子生徒が胸を押さえ、「あれ、僕は何で楽になったんだっけ」と呟く。別の生徒が、自分の名札を見下ろして首を傾げる。文字が黒く滲み、読み取れなくなっていた。


 リョウはそれでも霧を止められなかった。


「アスカの顔で、僕を裁くな!」


 叫びが教室を裂いた。黒い霧はアスカの姿をしたミラーへ向かう。彼女の輪郭が分解される。髪、声、制服、白いカーテン、相談記録、遥の図書室、雨の傘、ミラーの白い光、リョウの願望。それらが霧の中でばらばらになり、混ざりかける。


 だが、霧はそこで止まらなかった。


 周囲の生徒たちにも触れた。穏やかな男子生徒の肩が黒く崩れ、彼が共有していた誰かの痛みが切断される。彼は膝をつき、突然、自分だけの苦しみを取り戻したように悲鳴を上げた。別の生徒は逆に、自分の名前がさらに薄れていく。名札にあった文字が白く抜け、彼女は周囲を見回して言った。


「私たちは、誰?」


 その声は、かつての失踪者たちの声に似ていた。リョウは息を呑む。教室の幸福が崩れていく。ミラーの世界は気味悪かった。個人の境界は薄かった。だが、そこにいる生徒たちは確かに何かから救われていた。リョウの霧は、その救済ごと分解している。


「止まれ」


 自分に命じる。


 霧は止まらない。


「止まれ!」


 さらに黒く広がる。白い花が黒に沈む。生徒たちの輪郭が崩れる。穏やかだった世界が、痛みを一人ずつへ戻し、名前をさらに曖昧にし、救済と侵食を同時に壊していく。リョウは、自分がミラーを攻撃しているのではなく、この世界にいる誰かの居場所を壊していることを理解した。遅すぎる理解だった。


 アスカの姿をしたミラーは、霧に半分ほど輪郭をほどかれながらも、悲しそうにリョウを見ていた。


「ねえ、リョウ」


 声が揺れる。アスカの声と、ミラーの声と、生徒たちの声が混ざる。


「本物じゃないものなら、壊してもいい?」


 リョウは言葉を失った。


「ここにいる子たちは、本物じゃない? 名前が薄いから? 痛みを分けているから? 私たちだから? なら、リョウが取り戻そうとしている欠片も、誰かにとっては壊していいものになるの?」


 黒い霧が震えた。


「違う」


「何が違うの?」


「違うんだ」


「リョウが違うと決めたから?」


 彼女の問いは続く。リョウは答えられない。答えられないまま、霧はまだ広がっている。生徒たちの中には、床に倒れる者もいた。彼らは消えてはいない。だが、輪郭が薄い。誰かの痛みを共有していた接続が切れ、自分だけでは持てないものを急に返されたように、震えている。リョウは彼らを救ったのか。ミラーから解放したのか。それとも、別の形で壊したのか。


 そのとき、薔薇の香りがした。


 赤黒い花びらが、黒い霧の中を切り裂いた。ひとひらではない。無数の花びらが刃のように走り、教室の鏡面に蔓の影を描く。白い半仮面が、入口の反射の中に浮かぶ。次の瞬間、ファントム・ローズが教室へ踏み込んだ。黒衣が揺れ、薔薇の鞭が鋭く振るわれる。


 リョウの黒い霧が、横から切断された。


 痛みはなかった。だが、胸の奥の何かが引き裂かれるような感覚があった。霧の先端が床から剥がれ、アスカの姿をしたミラーへ伸びていた黒が途中で断たれる。生徒たちに絡んでいた霧も、赤黒い蔓に切り分けられ、反射面の外へ叩き出された。黒い霧は切られても消えない。床の隅で渦を巻き、また別の形へ広がろうとする。だが、ローズは二度、三度と鞭を振るい、境界を刻むように霧を分断した。


「ローズ!」


 リョウは叫んだ。


 ローズは振り返らなかった。まず倒れた生徒たちを見た。彼らの輪郭が完全に崩れないように、薔薇の蔓で教室の床に赤い境界線を引く。ミラーの白い光と、リョウの黒い霧。その間に、強引に線を刻む。生徒たちの呼吸が少しだけ戻る。彼らはまだ混乱している。だが、輪郭は保たれた。


 アスカの姿をしたミラーは、ほどけた輪郭を少しずつ戻しながら微笑んだ。


「ローズも来たんだ」


「黙りなさい」


 ローズの声は冷たかった。けれど、その冷たさの奥に、怒りと焦りがあった。


「ここをこれ以上、餌場にしないで」


「餌場じゃないよ。救いの場所」


「救いの名で、名前を薄める場所でしょう」


「ローズはいつも線を引く。だから、一人で泣く子が出る」


「線がなければ、人は自分を保てない」


「線があるから、弾かれる子もいる」


 二人の言葉がぶつかる。リョウは立ち尽くしていた。黒い霧はまだ足元にある。切断され、抑えられ、それでも完全には消えない。ローズはようやくリョウへ向き直った。白い半仮面の奥の視線が、まっすぐ彼を射抜く。


「君は今、アスカを探しながら、別の誰かを消しかけた」


 その言葉は、どんな刃より深く刺さった。


 リョウは反論しようとした。ミラーが悪い。アスカの姿を使った。自分を揺さぶった。生徒たちだって個の境界を薄められていた。救済ではなく侵食だった。そう言いたかった。言えるはずだった。だが、床に座り込んで震えている生徒たちの姿が視界に入った。自分の名前を思い出そうとして名札を見つめる少女。急に戻ってきた苦しみに耐えきれず胸を押さえる男子生徒。痛みを分けることでかろうじて立っていた者たち。


 リョウの霧は、彼らを壊しかけた。


 アスカの姿をしたミラーは、静かに言った。


「ねえ、リョウ。これでもまだ、本物だけを探しているつもり?」


 ローズの薔薇の鞭が、再び黒い霧を押さえ込む。赤黒い花びらが舞い、白い朝の教室を血のように染めた。


 リョウは、初めて自分の足元の黒を怖いと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ