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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
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第10章 ローズ対メア

 黒い霧を切られた感覚は、肉を裂かれる痛みとは違っていた。もっと内側にあるもの、名前や記憶や怒りや後悔を束ねていた糸を、横から断ち切られたような感覚だった。リョウは息を詰め、床に片膝をついた。ミラーに接続された教室は、まだ柔らかな朝の光を保っている。だが、白い花は黒く滲み、円形に並んだ机は少しずつずれ、生徒たちの穏やかな輪郭は、リョウの霧に触れた場所だけ薄く崩れていた。誰かが小さく泣いている。誰かが自分の名札を見つめている。誰かが、分け合っていたはずの痛みを突然一人で抱え直し、胸を押さえて震えている。その光景を見た瞬間、リョウの怒りは消えなかったが、形を失った。自分はミラーを壊そうとした。アスカの姿をしたものを拒絶しようとした。けれど、その黒い霧は、そこにいる別の誰かの輪郭まで崩していた。


 赤黒い薔薇の蔓が、教室の床へ線を刻む。ローズは白い半仮面をこちらへ向けたまま、もう一度鞭を振るった。霧の先端が切断され、黒い断片が床に落ちる。落ちた霧は消えず、インクを水に垂らしたように広がろうとする。ローズはそれを許さない。蔓が床を叩き、黒と白い反射の間に強引な境界を引く。教室そのものが軋む。ミラーの白い光、リョウの黒い霧、ローズの赤黒い薔薇。その三つが同じ場所でぶつかり、空気は割れそうなほど張りつめていた。


「立って」


 ローズが言った。


 その声は冷たい。けれど、殺意はない。だからこそ、リョウには腹立たしかった。


「倒れて済む状況ではないでしょう」


「止めに来たんだろ」


 リョウは床に手をつきながら言った。指の間から、まだ黒い霧が漏れている。止めようとしても、完全には止まらない。怒りだけではない。屈辱、恐怖、焦り、アスカの声への渇き。それらが全部、霧の形をして外へ出ようとしている。


「そう。止めに来た」


「遅いよ」


「間に合った」


「何に」


「君が、もう一人消す前に」


 リョウは歯を食いしばった。教室の隅で、倒れかけた生徒が仲間に支えられている。ミラーの世界の生徒たち。個人の境界が薄く、名前への執着も弱く、痛みを共有して生きている者たち。リョウにとっては不気味で、間違っているように見えた。けれど、彼らは存在していた。薄くても、曖昧でも、そこにいた。その輪郭を、リョウの霧は崩しかけた。


「……ミラーが悪い」


 リョウは言った。


「アスカの顔を使った。僕の記憶を使った。ナギサの名前まで出した。あいつが」


「だから、ここにいる全員を巻き込んでいいの?」


 ローズの声は鋭かった。


「違う」


「違わない。君の霧は、もう区別していない。アスカの姿をしたミラーも、ミラーに接続された生徒も、反射も、記憶も、痛みも、全部を混沌へ戻そうとした」


「戻そうとしたんじゃない」


「では、何をしたの」


 リョウは答えられなかった。アスカの姿を壊したかった。嘘を暴きたかった。本物ではないものを分解したかった。そう思っていた。だが、そのために放たれた霧は、本物か偽物かを見分けてくれなかった。全部を素材に戻す。全部を混ぜ直せる形にする。それがこの力なのだと、リョウはもう理解し始めていた。


 教室の中央で、アスカの姿をしたミラーが立っている。黒い霧に半ば輪郭をほどかれ、ローズの境界線でそれ以上の崩壊を止められた状態で、彼女はまだ微笑んでいた。


「ローズは、いつも止めるだけ」


 彼女は言った。


「リョウは、いつも取り戻そうとするだけ。二人とも優しいのに、救い方が下手」


「黙りなさい」


 ローズの鞭が空気を裂いた。だが、ミラーは避けない。鞭は彼女のすぐ前で止まり、白い反射面だけを切った。アスカの姿をしたものは、少しだけ寂しそうに首を傾げる。


「リョウ。ここで待ってる。あなたが本物を選べなくなったら、いつでも受け入れる」


「受け入れられるつもりはない」


「そう言いながら、迷ってる」


 ミラーの声が薄くなる。周囲の鏡面が白く光り、彼女の輪郭は教室の反射へ溶けていく。


「本物じゃないものを壊してもいいのか。偽物なら、消しても罪じゃないのか。考えてね」


 最後に、アスカの声が残った。


「リョウ」


 リョウの足元の黒が揺れた。ローズの薔薇の蔓が即座に床を叩く。黒い霧は押さえ込まれ、ミラーの声は遠ざかった。教室に残されたのは、白く霞んだ反射面と、輪郭を保とうとする生徒たちと、赤黒い花びらと、リョウの荒い呼吸だけだった。


「追わせない」


 ローズが言った。


 その一言で、リョウの中の怒りが再び形を持った。


「また、それか」


「ここから先へ行けば、君はもっと壊す」


「ここにいたら、アスカは戻らない」


「戻らないものを戻すために、今いる誰かを壊してはいけない」


「アスカがいない世界を守って、何になるんだ」


 言葉は、ほとんど叫びだった。教室の鏡面が震える。生徒たちの何人かが怯えたようにこちらを見る。リョウは構わなかった。止められなかった。


「アスカがいない。名前もない。写真にもいない。誰も覚えていない。そんな世界を、どうして守らなきゃいけない。守った結果がこれだろ。アスカは消えた。僕だけが覚えている。世界は何もなかったみたいに朝を迎えて、机の数も、写真も、記憶も、勝手に整えていく。そんな世界を守ることに、何の意味があるんだ」


 ローズは、すぐに答えなかった。白い半仮面の奥の目が、リョウを見ている。その視線に怒りはある。だが、それだけではない。痛みがある。知っている痛みだ。失われた名前を、戻せないまま抱えている者の痛み。


「その世界にも、生きている人がいる」


 ローズは言った。


「アスカさんを忘れてしまった人。最初から知らなかった人。別の形で覚えている人。あなたを待っている人。あなたが憎んでいる世界の中で、それでも今日を生きている人がいる」


「知ってる」


 リョウは低く答えた。


「知ってるんだよ」


 ナギサの顔が脳裏に浮かぶ。写真の黒い滲みを見て、きっと不安になっている。佐伯の曖昧な言葉に傷つき、机の数が変わる教室で、それでもリョウの名前を呼んでいる。未登録三七の鈴の音も思い出す。黒瀬遥の涙も。雨の日の傘を覚えていた男子生徒も。みんな生きている。分かっている。ローズの言葉が間違っていないことくらい、分かっている。


「でも、受け入れられない」


 リョウは言った。


「アスカがいないことを、その世界で誰かが生きているから仕方ないって、僕は言えない」


「仕方ないと言えとは言っていない」


「じゃあ、どうしろって言うんだ」


「止まって」


「止まったら、アスカが遠くなる」


「進めば、あなたが遠くなる」


「僕なんて」


「ナギサはそう思っていない」


 その名前で、リョウの霧が一瞬揺らいだ。ローズはそれを見逃さなかった。


「ナギサはあなたを呼んでいる。あなたを、アスカさんのための器としてではなく、春日リョウとして。あなたが黒い霧になってもいいとは思っていない」


「分かってる」


「分かっていない。分かっていたら、ここまで来ない」


「ナギサを使うな」


「使っているのはあなた」


 ローズの声が低くなる。


「あなたは、ナギサの声を帰るための座標にしている。彼女の世界を、戻る場所にしている。けれど、戻る場所を守るために立ち止まろうとはしない」


 リョウは返せなかった。ローズの言葉は痛い。痛いから腹立たしい。ナギサを命綱にしないと約束した。彼女を見ない理由にしないと言った。それでも、アスカの声が近くなれば、足はそちらへ向く。ナギサの声は遠くなる。戻ると言いながら、戻る場所を削っている。


「それでも」


 リョウは言った。


「アスカを取り戻す道を塞ぐなら、君は敵だ」


 ローズの仮面の奥で、目がわずかに揺れた。


「私は、あなたの敵になりたいわけではない」


「僕も、君を憎みたいわけじゃない」


 本当だった。ローズは何度も助けてくれた。ミラーの侵食を切り、名前を忘れるなと言った。アスカが完全には消えていないと教えた。マナとしても、ナギサを守ろうとしている。リョウは彼女を憎んではいない。だが、彼女は止める。アスカを追うリョウの前に立つ。それなら、今は敵だった。


「どいて」


 リョウは言った。


「どかない」


 ローズは薔薇の鞭を構えた。


「なら、越える」


 黒い霧が、教室全体へ広がった。


 ローズの鞭が走る。赤黒い軌跡が空気を裂き、霧の先端を切断する。切られた霧は床へ落ち、すぐに別の形へ広がろうとする。ローズは一歩踏み込み、床に境界線を刻んだ。赤い線が円形に走り、ミラーの生徒たちを囲う。リョウの霧はその線に触れると弾かれ、黒い波紋を広げた。


「守るのはそっちか」


 リョウは吐き捨てた。


「今、壊れかけているのは彼ら」


「ミラーに溶かされてる連中だ」


「それでも生きている」


「名前も薄いのに?」


「薄い名前でも、名前よ」


 ローズの鞭が、リョウの足元を狙う。リョウは黒い霧で床を沈ませ、鞭の軌道をずらした。赤黒い蔓は床を叩き、そこにあった鏡面を割らずに線だけを刻む。境界を守る力。壊すのではなく、分ける力。ミラーの反射とリョウの霧と生徒たちの輪郭を、無理やり別々のものとして押し留める力。


 リョウは霧を集めた。黒が足元で渦を巻く。教室の机、白い花、床の反射、ミラーの残光、それらの輪郭が霧に触れると柔らかくほどける。分解され、混ぜ直せる状態へ戻っていく。ローズはそれを切る。切って境界を刻む。リョウはまた混ぜる。混ぜて線を曖昧にする。二人の力がぶつかるたび、教室の空間が折り畳まれ、旧校舎の廊下、レジストリの通路、ナギサの昇降口、白いカーテンの保健室が一瞬ずつ重なって見えた。


「春日リョウ!」


 ローズが名を呼ぶ。


 名前を呼ばれた瞬間、胸のカードが熱を持つ。リョウの動きが一瞬止まる。ローズはその隙に鞭を振るい、彼の右腕にまとわりついた黒い霧を切った。霧が裂け、指先の黒い線が露わになる。


「名前で縛るな!」


「縛らなければ、あなたは散る」


「散ってもいい」


「よくない!」


 ローズの声が、初めて感情を露わにした。


「あなたが散れば、ナギサが傷つく。アスカさんの欠片も、さらに壊れる。あなた自身も、もう戻れなくなる」


「戻れなくても、アスカが戻るなら」


「それをアスカさんが望んだと、本当に言えるの?」


 リョウは霧を放った。答えられない問いを、黒で押し流すように。霧は巨大な波となり、ローズへ向かう。ローズは後退しない。薔薇の鞭を両手で構え、赤黒い蔓を何重にも展開した。蔓は円を描き、格子を作り、霧を細かく区切る。黒い波は格子にぶつかり、分断され、それでも隙間から滲み出る。境界を守る力と、境界を混ぜる力。どちらも引かない。


 ローズの仮面に、黒い霧が触れた。


 白い半仮面の縁が一瞬黒く濁る。ローズの身体が揺れた。リョウは反射的に霧を引きかける。彼女を消したいわけではない。傷つけたいわけでもない。だが、その躊躇をローズは見逃さない。鞭がリョウの胸元を打ち、カードごと彼の存在を現在へ引き戻した。


「迷うなら、止まりなさい」


「迷うから進むんだ!」


 リョウは叫んだ。


「アスカが本当に何を望んだのか分からない。どの欠片が本物かも分からない。僕の記憶が正しいのかも分からない。だから、全部確かめるしかないんだ。止まったら、分からないまま終わる」


「分からないものを全部混ぜれば、分かるようになると思っているの?」


「少なくとも、何もないよりはいい」


「それがメアの理屈よ」


 ローズの言葉が、教室に落ちた。


 リョウの動きが止まる。


 メア。


 その名は、以前から周囲に漂っていた。アヤトが危険を示すとき。ローズが黒い霧を見たとき。御厨が状態を整理したとき。だが、今ローズの口から出たその名は、初めてリョウの身体へ深く食い込んだ。春日リョウではなく、ファントム・メア。アスカを取り戻せない世界なら、世界ごと混ぜ直そうとする悪夢。


「僕はメアじゃない」


 リョウは言った。


「まだ」


 ローズは静かに返した。


「まだ、だから止めている」


 その優しさが、リョウには耐えられなかった。


 黒い霧が爆発的に広がる。教室の天井が消え、朝の空が黒く染まる。ミラーの世界の生徒たちを囲っていた赤い境界線が軋む。ローズが蔓を張り直す。リョウは霧の中へ踏み込んだ。足元が消える。自分の制服が黒く染まり、袖口が霧に溶ける。顔の輪郭が揺らぐ。胸のカードが熱を持つが、その熱を黒が包んでいく。


 ローズが目を見開いた。


「リョウ!」


 マナの声だった。仮面越しでも分かる。冷たいローズではなく、鳴海マナの声が混じっていた。


 その声に、リョウは一瞬だけ戻りかけた。だが、同時にアスカの声が聞こえた。


『リョウ、わたしを――』


 黒い霧がその声へ反応する。


 リョウの顔の前に、白いものが浮かんだ。


 仮面だった。


 ローズの仮面とは違う。美しく整った半仮面ではない。真白いはずなのに、表面から黒い霧が染み出している。片側は欠け、片目の部分には深い闇が開いている。ひび割れた線が、額から頬へ走る。リョウの顔を隠すためではなく、彼の顔そのものが保てなくなっていることを示すような仮面。黒い霧がそれを彼の顔へ押し上げていく。


「やめなさい!」


 ローズが鞭を振るう。赤黒い蔓が仮面へ届く寸前、リョウの霧がそれを絡め取った。蔓の境界線が黒く滲む。ローズは歯を食いしばり、もう片方の手で新たな薔薇の鞭を生む。


 リョウは、自分の頬に冷たいものが触れる感覚を覚えた。仮面が重なる。視界の半分が黒に沈み、もう半分が青白く光る。教室が遠くなる。ローズの姿も、生徒たちの震える声も、ミラーの残響も、すべてが黒い水の底へ沈むように遠のいていく。だが、アスカの声だけは近い。


『覚えていて』


「覚えてる」


 リョウは呟いた。


 仮面に、黒い亀裂が走った。


 その亀裂から、霧が溢れ出す。リョウの影が膨らみ、黒いコートのように背中へ広がる。制服の輪郭は残っている。人間としての春日リョウは、まだそこにいる。だが、その上に別の存在が重なっていた。喪失と後悔と執着と愛情が、世界から弾かれたことで形を持ったもの。アスカを忘れた世界を許さない悪夢。


 ファントム・メア。


 ローズは、薔薇の鞭を構え直した。仮面の奥の目に、悲しみがあった。


「戻って、リョウ」


 彼女は言った。


「その顔になる前に」


 リョウは、黒い亀裂の入った白い仮面の奥から、ローズを見た。


「どいて」


 声はまだリョウのものだった。


 けれど、黒い霧がその声の周りに、もう一つの響きをまとわせていた。


「アスカを取り戻す」


 その瞬間、ミラーの教室の床が大きく割れ、黒と赤の境界が火花のように散った。

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