第10章 ローズ対メア
黒い霧を切られた感覚は、肉を裂かれる痛みとは違っていた。もっと内側にあるもの、名前や記憶や怒りや後悔を束ねていた糸を、横から断ち切られたような感覚だった。リョウは息を詰め、床に片膝をついた。ミラーに接続された教室は、まだ柔らかな朝の光を保っている。だが、白い花は黒く滲み、円形に並んだ机は少しずつずれ、生徒たちの穏やかな輪郭は、リョウの霧に触れた場所だけ薄く崩れていた。誰かが小さく泣いている。誰かが自分の名札を見つめている。誰かが、分け合っていたはずの痛みを突然一人で抱え直し、胸を押さえて震えている。その光景を見た瞬間、リョウの怒りは消えなかったが、形を失った。自分はミラーを壊そうとした。アスカの姿をしたものを拒絶しようとした。けれど、その黒い霧は、そこにいる別の誰かの輪郭まで崩していた。
赤黒い薔薇の蔓が、教室の床へ線を刻む。ローズは白い半仮面をこちらへ向けたまま、もう一度鞭を振るった。霧の先端が切断され、黒い断片が床に落ちる。落ちた霧は消えず、インクを水に垂らしたように広がろうとする。ローズはそれを許さない。蔓が床を叩き、黒と白い反射の間に強引な境界を引く。教室そのものが軋む。ミラーの白い光、リョウの黒い霧、ローズの赤黒い薔薇。その三つが同じ場所でぶつかり、空気は割れそうなほど張りつめていた。
「立って」
ローズが言った。
その声は冷たい。けれど、殺意はない。だからこそ、リョウには腹立たしかった。
「倒れて済む状況ではないでしょう」
「止めに来たんだろ」
リョウは床に手をつきながら言った。指の間から、まだ黒い霧が漏れている。止めようとしても、完全には止まらない。怒りだけではない。屈辱、恐怖、焦り、アスカの声への渇き。それらが全部、霧の形をして外へ出ようとしている。
「そう。止めに来た」
「遅いよ」
「間に合った」
「何に」
「君が、もう一人消す前に」
リョウは歯を食いしばった。教室の隅で、倒れかけた生徒が仲間に支えられている。ミラーの世界の生徒たち。個人の境界が薄く、名前への執着も弱く、痛みを共有して生きている者たち。リョウにとっては不気味で、間違っているように見えた。けれど、彼らは存在していた。薄くても、曖昧でも、そこにいた。その輪郭を、リョウの霧は崩しかけた。
「……ミラーが悪い」
リョウは言った。
「アスカの顔を使った。僕の記憶を使った。ナギサの名前まで出した。あいつが」
「だから、ここにいる全員を巻き込んでいいの?」
ローズの声は鋭かった。
「違う」
「違わない。君の霧は、もう区別していない。アスカの姿をしたミラーも、ミラーに接続された生徒も、反射も、記憶も、痛みも、全部を混沌へ戻そうとした」
「戻そうとしたんじゃない」
「では、何をしたの」
リョウは答えられなかった。アスカの姿を壊したかった。嘘を暴きたかった。本物ではないものを分解したかった。そう思っていた。だが、そのために放たれた霧は、本物か偽物かを見分けてくれなかった。全部を素材に戻す。全部を混ぜ直せる形にする。それがこの力なのだと、リョウはもう理解し始めていた。
教室の中央で、アスカの姿をしたミラーが立っている。黒い霧に半ば輪郭をほどかれ、ローズの境界線でそれ以上の崩壊を止められた状態で、彼女はまだ微笑んでいた。
「ローズは、いつも止めるだけ」
彼女は言った。
「リョウは、いつも取り戻そうとするだけ。二人とも優しいのに、救い方が下手」
「黙りなさい」
ローズの鞭が空気を裂いた。だが、ミラーは避けない。鞭は彼女のすぐ前で止まり、白い反射面だけを切った。アスカの姿をしたものは、少しだけ寂しそうに首を傾げる。
「リョウ。ここで待ってる。あなたが本物を選べなくなったら、いつでも受け入れる」
「受け入れられるつもりはない」
「そう言いながら、迷ってる」
ミラーの声が薄くなる。周囲の鏡面が白く光り、彼女の輪郭は教室の反射へ溶けていく。
「本物じゃないものを壊してもいいのか。偽物なら、消しても罪じゃないのか。考えてね」
最後に、アスカの声が残った。
「リョウ」
リョウの足元の黒が揺れた。ローズの薔薇の蔓が即座に床を叩く。黒い霧は押さえ込まれ、ミラーの声は遠ざかった。教室に残されたのは、白く霞んだ反射面と、輪郭を保とうとする生徒たちと、赤黒い花びらと、リョウの荒い呼吸だけだった。
「追わせない」
ローズが言った。
その一言で、リョウの中の怒りが再び形を持った。
「また、それか」
「ここから先へ行けば、君はもっと壊す」
「ここにいたら、アスカは戻らない」
「戻らないものを戻すために、今いる誰かを壊してはいけない」
「アスカがいない世界を守って、何になるんだ」
言葉は、ほとんど叫びだった。教室の鏡面が震える。生徒たちの何人かが怯えたようにこちらを見る。リョウは構わなかった。止められなかった。
「アスカがいない。名前もない。写真にもいない。誰も覚えていない。そんな世界を、どうして守らなきゃいけない。守った結果がこれだろ。アスカは消えた。僕だけが覚えている。世界は何もなかったみたいに朝を迎えて、机の数も、写真も、記憶も、勝手に整えていく。そんな世界を守ることに、何の意味があるんだ」
ローズは、すぐに答えなかった。白い半仮面の奥の目が、リョウを見ている。その視線に怒りはある。だが、それだけではない。痛みがある。知っている痛みだ。失われた名前を、戻せないまま抱えている者の痛み。
「その世界にも、生きている人がいる」
ローズは言った。
「アスカさんを忘れてしまった人。最初から知らなかった人。別の形で覚えている人。あなたを待っている人。あなたが憎んでいる世界の中で、それでも今日を生きている人がいる」
「知ってる」
リョウは低く答えた。
「知ってるんだよ」
ナギサの顔が脳裏に浮かぶ。写真の黒い滲みを見て、きっと不安になっている。佐伯の曖昧な言葉に傷つき、机の数が変わる教室で、それでもリョウの名前を呼んでいる。未登録三七の鈴の音も思い出す。黒瀬遥の涙も。雨の日の傘を覚えていた男子生徒も。みんな生きている。分かっている。ローズの言葉が間違っていないことくらい、分かっている。
「でも、受け入れられない」
リョウは言った。
「アスカがいないことを、その世界で誰かが生きているから仕方ないって、僕は言えない」
「仕方ないと言えとは言っていない」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「止まって」
「止まったら、アスカが遠くなる」
「進めば、あなたが遠くなる」
「僕なんて」
「ナギサはそう思っていない」
その名前で、リョウの霧が一瞬揺らいだ。ローズはそれを見逃さなかった。
「ナギサはあなたを呼んでいる。あなたを、アスカさんのための器としてではなく、春日リョウとして。あなたが黒い霧になってもいいとは思っていない」
「分かってる」
「分かっていない。分かっていたら、ここまで来ない」
「ナギサを使うな」
「使っているのはあなた」
ローズの声が低くなる。
「あなたは、ナギサの声を帰るための座標にしている。彼女の世界を、戻る場所にしている。けれど、戻る場所を守るために立ち止まろうとはしない」
リョウは返せなかった。ローズの言葉は痛い。痛いから腹立たしい。ナギサを命綱にしないと約束した。彼女を見ない理由にしないと言った。それでも、アスカの声が近くなれば、足はそちらへ向く。ナギサの声は遠くなる。戻ると言いながら、戻る場所を削っている。
「それでも」
リョウは言った。
「アスカを取り戻す道を塞ぐなら、君は敵だ」
ローズの仮面の奥で、目がわずかに揺れた。
「私は、あなたの敵になりたいわけではない」
「僕も、君を憎みたいわけじゃない」
本当だった。ローズは何度も助けてくれた。ミラーの侵食を切り、名前を忘れるなと言った。アスカが完全には消えていないと教えた。マナとしても、ナギサを守ろうとしている。リョウは彼女を憎んではいない。だが、彼女は止める。アスカを追うリョウの前に立つ。それなら、今は敵だった。
「どいて」
リョウは言った。
「どかない」
ローズは薔薇の鞭を構えた。
「なら、越える」
黒い霧が、教室全体へ広がった。
ローズの鞭が走る。赤黒い軌跡が空気を裂き、霧の先端を切断する。切られた霧は床へ落ち、すぐに別の形へ広がろうとする。ローズは一歩踏み込み、床に境界線を刻んだ。赤い線が円形に走り、ミラーの生徒たちを囲う。リョウの霧はその線に触れると弾かれ、黒い波紋を広げた。
「守るのはそっちか」
リョウは吐き捨てた。
「今、壊れかけているのは彼ら」
「ミラーに溶かされてる連中だ」
「それでも生きている」
「名前も薄いのに?」
「薄い名前でも、名前よ」
ローズの鞭が、リョウの足元を狙う。リョウは黒い霧で床を沈ませ、鞭の軌道をずらした。赤黒い蔓は床を叩き、そこにあった鏡面を割らずに線だけを刻む。境界を守る力。壊すのではなく、分ける力。ミラーの反射とリョウの霧と生徒たちの輪郭を、無理やり別々のものとして押し留める力。
リョウは霧を集めた。黒が足元で渦を巻く。教室の机、白い花、床の反射、ミラーの残光、それらの輪郭が霧に触れると柔らかくほどける。分解され、混ぜ直せる状態へ戻っていく。ローズはそれを切る。切って境界を刻む。リョウはまた混ぜる。混ぜて線を曖昧にする。二人の力がぶつかるたび、教室の空間が折り畳まれ、旧校舎の廊下、レジストリの通路、ナギサの昇降口、白いカーテンの保健室が一瞬ずつ重なって見えた。
「春日リョウ!」
ローズが名を呼ぶ。
名前を呼ばれた瞬間、胸のカードが熱を持つ。リョウの動きが一瞬止まる。ローズはその隙に鞭を振るい、彼の右腕にまとわりついた黒い霧を切った。霧が裂け、指先の黒い線が露わになる。
「名前で縛るな!」
「縛らなければ、あなたは散る」
「散ってもいい」
「よくない!」
ローズの声が、初めて感情を露わにした。
「あなたが散れば、ナギサが傷つく。アスカさんの欠片も、さらに壊れる。あなた自身も、もう戻れなくなる」
「戻れなくても、アスカが戻るなら」
「それをアスカさんが望んだと、本当に言えるの?」
リョウは霧を放った。答えられない問いを、黒で押し流すように。霧は巨大な波となり、ローズへ向かう。ローズは後退しない。薔薇の鞭を両手で構え、赤黒い蔓を何重にも展開した。蔓は円を描き、格子を作り、霧を細かく区切る。黒い波は格子にぶつかり、分断され、それでも隙間から滲み出る。境界を守る力と、境界を混ぜる力。どちらも引かない。
ローズの仮面に、黒い霧が触れた。
白い半仮面の縁が一瞬黒く濁る。ローズの身体が揺れた。リョウは反射的に霧を引きかける。彼女を消したいわけではない。傷つけたいわけでもない。だが、その躊躇をローズは見逃さない。鞭がリョウの胸元を打ち、カードごと彼の存在を現在へ引き戻した。
「迷うなら、止まりなさい」
「迷うから進むんだ!」
リョウは叫んだ。
「アスカが本当に何を望んだのか分からない。どの欠片が本物かも分からない。僕の記憶が正しいのかも分からない。だから、全部確かめるしかないんだ。止まったら、分からないまま終わる」
「分からないものを全部混ぜれば、分かるようになると思っているの?」
「少なくとも、何もないよりはいい」
「それがメアの理屈よ」
ローズの言葉が、教室に落ちた。
リョウの動きが止まる。
メア。
その名は、以前から周囲に漂っていた。アヤトが危険を示すとき。ローズが黒い霧を見たとき。御厨が状態を整理したとき。だが、今ローズの口から出たその名は、初めてリョウの身体へ深く食い込んだ。春日リョウではなく、ファントム・メア。アスカを取り戻せない世界なら、世界ごと混ぜ直そうとする悪夢。
「僕はメアじゃない」
リョウは言った。
「まだ」
ローズは静かに返した。
「まだ、だから止めている」
その優しさが、リョウには耐えられなかった。
黒い霧が爆発的に広がる。教室の天井が消え、朝の空が黒く染まる。ミラーの世界の生徒たちを囲っていた赤い境界線が軋む。ローズが蔓を張り直す。リョウは霧の中へ踏み込んだ。足元が消える。自分の制服が黒く染まり、袖口が霧に溶ける。顔の輪郭が揺らぐ。胸のカードが熱を持つが、その熱を黒が包んでいく。
ローズが目を見開いた。
「リョウ!」
マナの声だった。仮面越しでも分かる。冷たいローズではなく、鳴海マナの声が混じっていた。
その声に、リョウは一瞬だけ戻りかけた。だが、同時にアスカの声が聞こえた。
『リョウ、わたしを――』
黒い霧がその声へ反応する。
リョウの顔の前に、白いものが浮かんだ。
仮面だった。
ローズの仮面とは違う。美しく整った半仮面ではない。真白いはずなのに、表面から黒い霧が染み出している。片側は欠け、片目の部分には深い闇が開いている。ひび割れた線が、額から頬へ走る。リョウの顔を隠すためではなく、彼の顔そのものが保てなくなっていることを示すような仮面。黒い霧がそれを彼の顔へ押し上げていく。
「やめなさい!」
ローズが鞭を振るう。赤黒い蔓が仮面へ届く寸前、リョウの霧がそれを絡め取った。蔓の境界線が黒く滲む。ローズは歯を食いしばり、もう片方の手で新たな薔薇の鞭を生む。
リョウは、自分の頬に冷たいものが触れる感覚を覚えた。仮面が重なる。視界の半分が黒に沈み、もう半分が青白く光る。教室が遠くなる。ローズの姿も、生徒たちの震える声も、ミラーの残響も、すべてが黒い水の底へ沈むように遠のいていく。だが、アスカの声だけは近い。
『覚えていて』
「覚えてる」
リョウは呟いた。
仮面に、黒い亀裂が走った。
その亀裂から、霧が溢れ出す。リョウの影が膨らみ、黒いコートのように背中へ広がる。制服の輪郭は残っている。人間としての春日リョウは、まだそこにいる。だが、その上に別の存在が重なっていた。喪失と後悔と執着と愛情が、世界から弾かれたことで形を持ったもの。アスカを忘れた世界を許さない悪夢。
ファントム・メア。
ローズは、薔薇の鞭を構え直した。仮面の奥の目に、悲しみがあった。
「戻って、リョウ」
彼女は言った。
「その顔になる前に」
リョウは、黒い亀裂の入った白い仮面の奥から、ローズを見た。
「どいて」
声はまだリョウのものだった。
けれど、黒い霧がその声の周りに、もう一つの響きをまとわせていた。
「アスカを取り戻す」
その瞬間、ミラーの教室の床が大きく割れ、黒と赤の境界が火花のように散った。




