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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
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第11章 ファントム・メア

 黒と赤の境界が砕けた。ミラーの教室の床は硝子のように割れ、白い朝の光は黒い霧に沈み、赤黒い薔薇の花びらがその上を斬るように舞った。リョウは立っていた。立っているはずだった。だが、自分の足がどこにあるのか、もうはっきり分からなかった。床に触れている感覚はある。けれど、その床は教室のものでも、レジストリのものでも、六道学園のものでもない。壊れかけたミラーの世界、ローズが刻んだ境界、リョウの黒い霧、それらが重なり合い、世界の外側に広がる暗い水面へ変わっている。


 顔には白い仮面があった。触れなくても分かる。冷たい。重い。頬の右側から額へかけて、黒い亀裂が走っている。亀裂の隙間から霧が漏れ、視界の端に黒い靄を作る。仮面の内側に自分の顔が残っているのか、それとも自分の顔が仮面に押しつぶされているのか分からない。呼吸をすると、喉の奥で黒が擦れた。声を出すたび、春日リョウの声に、別の低い響きが重なる。


 ローズは数歩先にいた。白い半仮面。黒衣。赤黒い薔薇の鞭。彼女は倒すためではなく止めるために立っている。それは分かる。分かるからこそ、リョウは苦しかった。憎めれば楽だった。ミラーのように、はっきり敵だと思えればよかった。けれど、ローズの仮面の奥にはマナがいる。ナギサを守りたい先輩。名前を記録し、失った者を忘れまいとする少女。リョウを同じ後悔へ落としたくないと願う人。そのすべてを知ってしまったから、彼女の鞭が痛かった。


「リョウ」


 ローズが呼んだ。


 その声は、まだ届いた。白い仮面の内側で、リョウの意識がかすかに揺れる。


「戻って」


「どこへ」


 リョウは聞いた。


 自分の声が遠い。問いかけたのは自分のはずなのに、霧の底から誰かが言ったように聞こえた。


「ナギサのいる世界へ」


「その世界に、アスカはいない」


「あなたはまだそこに帰れる」


「帰って、何をするんだ」


 リョウは一歩踏み出した。黒い霧が足元で波紋を作る。ローズの薔薇の境界線が赤く光り、霧を押し返そうとする。二つの力が触れた場所で、空気が軋んだ。


「アスカのいない教室に戻るのか。写真が黒く滲むのを見ながら、ナギサに名前を呼ばれて、アスカの声が遠くなるのを我慢するのか。世界がアスカを忘れたまま普通に動くのを、今日も守るのか」


「守らなければ、ナギサも消える」


「分かってる」


「分かっていない」


「分かってるんだよ!」


 黒い霧が膨らんだ。ミラーの教室の残骸が、黒の中でばらばらに解ける。机、白い花、生徒たちの声、反射面。ローズは即座に鞭を振るい、生徒たちを囲う境界を補強した。赤い線が光る。守られている。あの穏やかな生徒たちも、名前の薄い者たちも、ミラーに接続された世界でかろうじて生きていた者たちも、ローズは守ろうとしている。


 リョウはそれを見て、胸の奥が裂けるようだった。


 守るものが多すぎる。


 アスカを追うたびに、守らなければならない誰かが増える。黒瀬遥。雨の日の傘を覚えていた男子生徒。数学を教わった中学生。未登録三七。ミラーの幸福に身を預けていた生徒たち。ナギサ。マナ。アヤト。みんな生きている。みんな消してはいけない。そんなことは分かっている。分かっているのに、アスカはいない。


 その不在だけが、世界の中心に穴を開けている。


 穴の向こうから、声がした。


『リョウ』


 アスカの声だった。


 ローズの薔薇の線を越え、ミラーの反射の奥を抜け、黒い霧の深い場所から響く声。ノイズはある。けれど、以前よりはるかに近い。リョウの仮面の亀裂が熱を持った。


『覚えていて』


「覚えてる」


『でも、リョウ――』


「その先を言え」


 リョウは虚空へ手を伸ばした。


「アスカ。頼む。その先を」


 声はそこで途切れた。代わりに、別の音が聞こえた。紙片が擦れる音。レジストリの通路。記録カードの冷たい光。そして、アヤトの声。


「春日リョウ、現状態記録」


 リョウは振り返った。


 世界の外側の暗い水面に、レジストリの書架が重なっていた。完全にここへ来ているわけではない。アヤトは遠い。だが、彼の記録は届いている。黒い通路の奥で、影山アヤトが白いカードを手に立っていた。御厨の白線とは違う。拘束のためではなく、消えないための記録。けれど、今のリョウには、それすら自分を測るための目に見えた。


「世界外側にて、黒霧の自律拡張を確認。白仮面の顕現。黒い亀裂。ローズとの境界衝突。ミラー接続世界への損傷」


「記録するな」


 リョウは低く言った。


 アヤトの表情は苦しそうだった。


「記録しなければ、君はこのまま自分の名前を失う」


「僕の名前は春日リョウだ」


「そう。だから呼び続けている」


「なら、メアなんて呼ぶな」


 アヤトは沈黙した。


 ローズがゆっくりと言った。


「それは、もう君の状態の名前よ」


「違う」


「春日リョウが消えたわけではない。けれど、今のあなたは春日リョウだけではない」


「違う」


 リョウは繰り返した。黒い霧が足元で震える。否定したい。否定しなければならない。メアなどではない。自分はアスカを探しているだけだ。アスカを忘れたくないだけだ。世界から消された名前を、なかったことにさせたくないだけだ。けれど、顔には仮面がある。黒い霧は自分の意思だけでは止まらない。境界を混ぜ、記憶を分解し、他者の世界へ入り込み、欠片を集め、再構成の形を探している。


 否定しても、霧は消えなかった。


 レジストリの書架の奥で、御厨玲士の声も聞こえた。姿は見えない。だが、記録を通してこちらを観測しているのだろう。


「ファントム・メア。悪夢のファントム。失われた一人を取り戻すために、世界を混ぜ直す者」


「勝手に名づけるな」


「名づけなければ、管理できない」


「管理される気はない」


「管理できないなら、討伐対象になる」


 ローズの鞭がわずかに震えた。リョウはその反応を見た。ローズは討伐という言葉を嫌った。やはり彼女は、リョウを倒したいわけではない。止めたいだけだ。戻したいだけだ。その事実が、少しだけリョウの中の黒を揺らす。


 だが、ミラーは微笑んだ。


 教室の割れた鏡面の向こう、白い光の奥に、アスカの姿をしたミラーが立っている。輪郭は前より薄い。ローズの境界とリョウの霧に挟まれ、完全な形を保てていない。それでも、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。


「名前がついたね」


「黙れ」


「ファントム・メア」


 その名が、ミラーの声で呼ばれると、黒い霧が深く波打った。


「悪夢。いい名前だと思う。リョウが見続けている夢。アスカがいない世界で、終わらない悪夢。目を覚ますために世界を変えたくなるのは、当然だよ」


「お前に言われたくない」


「わたしたちも、同じだったから」


「同じじゃない」


「似ているよ」


 ミラーは白い指を自分の胸へ当てる。


「私たちは、苦しみを一人で抱えない世界を作った。リョウは、アスカを一人で消さない世界を作ろうとしている。私たちは全員を溶かす。リョウは一人のために混ぜ直す。違うように見えて、どちらも今ある世界を信じていない」


 リョウは言い返せなかった。


 ローズが一歩前へ出る。


「ミラーの言葉を聞かないで」


「ローズは怖いんだね」


 ミラーが笑う。


「メアが自分たちと似ていることを、リョウが受け入れるのが怖い。メアが名前を得て、自分の力を肯定するのが怖い。そうなったら、もう春日リョウとしてだけでは止められないから」


「黙りなさい」


「でも、本当でしょう」


 ミラーの視線がリョウへ戻る。


「リョウ。メアは悪い名前じゃないよ。世界がアスカを忘れたなら、世界に思い出させる。アスカがいないなら、欠片を集める。過去が戻らないなら、新しい世界を作る。それの何が悪いの?」


「他の誰かを壊す」


 リョウは言った。声が低い。自分の中から出た言葉なのに、ローズの言葉にも、アヤトの記録にも似ていた。


「黒瀬遥の記憶が欠ける。未登録三七みたいな子が増える。ナギサの世界が傷つく。さっきも、生徒たちを消しかけた」


「なら、壊れないように作ればいい」


 ミラーは囁く。


「全部を少しずつ使って。全部が残るように。誰か一人の世界から奪うのではなく、全部の世界を混ぜて、一つの新しい形にする。リョウの黒い霧なら、それができるかもしれない」


「できるかもしれない、じゃない」


 アヤトの声が遠くから割り込んだ。


「その発想が危険なんだ。リョウ君、聞くな。混ぜれば残るというのは、ミラーの理屈だ。君の霧でそれをやれば、誰も元の形では残らない」


「元の形で残らないことと、消えることは違うよ」


 ミラーは穏やかに言った。


「アスカが完全に消えるより、アスカがいる世界を作る方がいいでしょう?」


 リョウの胸の奥が、深く沈んだ。


 アスカがいる世界。


 その言葉だけで、すべての音が遠ざかる。ローズの警告も、アヤトの記録も、御厨の観測も、ミラーの白い世界も、足元で震える生徒たちの声も、ナギサの遠い呼び声さえ薄くなる。アスカがいる世界。朝、写真から消えていない。連絡先に名前がある。座席表に椎名アスカがいる。誰も「そんな人はいない」と言わない。ナギサが恋人として置き換わるのではなく、ナギサはナギサとしてそこにいる。アスカはアスカとしてリョウの隣にいる。そんな世界。


 作れるのか。


 思ってしまった。


 その瞬間が危険だった。


 ローズが鋭く息を呑んだ。アヤトが「リョウ君」と叫ぶ。レジストリの白い記録線が遠くで明滅する。ミラーは微笑む。黒い霧は、リョウの足元から静かに広がり、壊れた教室の床を覆い始めた。これまでの霧とは違う。怒りで爆ぜるのではない。悲しみで漏れるのでもない。目的を得たように、静かに、深く、広がっていく。


「リョウ」


 ローズの声が近い。


「今、何を考えたの」


 リョウは答えなかった。


「答えて」


「もし」


 リョウの声は、自分でも怖いほど穏やかだった。


「もし、アスカがいる世界を作れるなら」


「だめ」


 ローズは即座に言った。


「それは、もう探すことではない」


「でも、取り戻せるかもしれない」


「違う。作ることと取り戻すことは違う」


「違っても」


「リョウ!」


 ローズの声が、仮面を越えてマナのものになった。


「違っても、いいと思ったの?」


 リョウは黙った。


 沈黙が答えだった。


 アヤトの記録カードが震える。彼は遠くから、ほとんど祈るように言った。


「その考えを記録して。自分で言葉にして。言葉にすれば、まだ引き返せる」


「何を」


「アスカを取り戻せるなら、メアでもいいと思ったこと」


 リョウの仮面の亀裂がさらに深くなる。


「言え」


 ローズが言った。


「自分が今、どこに立っているのか見なさい」


 リョウは呼吸をした。黒い霧が肺の内側まで満ちているようだった。自分は春日リョウだ。そう思う。胸のカードはまだある。ナギサの声も、遠くにある。アスカの名前も、忘れていない。なのに、白い仮面の内側で、別の名前が静かに自分の輪郭へ重なっていく。


 ファントム・メア。


 悪夢のファントム。


 失われた一人を取り戻すために、世界を混ぜ直す者。


「僕は」


 リョウは言った。


 ローズが身構える。アヤトの記録が止まる。ミラーが微笑む。


「僕は、メアじゃない」


 言葉は出た。


 けれど、以前ほど強くなかった。


「でも」


 黒い霧が、仮面の亀裂から流れ落ちる。


「アスカを取り戻せるなら、その名前でもいいと、少しだけ思った」


 世界の外側が沈黙した。


 それは、認めてはいけない言葉だった。自分の中にある危険を、初めて自分の口で認めた言葉。アスカのためなら、春日リョウでなくなることさえ選びかけている。ナギサが呼ぶリョウから遠ざかり、ローズが止めるメアへ近づいている。その瞬間を、自分で言葉にしてしまった。


 ローズは、悲しそうに鞭を構え直した。


「なら、私は止める」


「分かってる」


「今度は、本気で」


「それでも、行く」


「アスカさんが、本当に戻りたいと言ったの?」


 その問いが、リョウを刺した。


 答えられない。


 覚えていて。リョウ、わたしを――。その先はまだ分からない。戻して、とは言っていない。助けて、とも言っていない。リョウは、答えのない欠落を、自分の願いで埋めようとしているだけかもしれない。


 ミラーが、その沈黙へそっと入り込んだ。


「分からないなら」


 アスカの声で囁く。


「なら、作ればいい。アスカがいる世界を」


 黒い霧が、静かにその言葉を受け取った。


 リョウの白い仮面に入った黒い亀裂が、さらに深く走った。

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