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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
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第12章 アスカ再構成計画

 なら、作ればいい。アスカがいる世界を。ミラーの囁きは、声として消えたあとも、リョウの仮面の内側に残り続けた。白い仮面に走った黒い亀裂が、脈のように熱を持つ。黒い霧は足元から静かに広がり、壊れかけたミラーの教室、ローズが刻んだ赤黒い境界、遠く重なっているレジストリの記録線、そのすべてを同じ暗い水面へ沈めていく。リョウは、もう怒鳴っていなかった。怒りで霧が爆ぜる段階は過ぎていた。もっと深く、もっと静かなものが彼の中に沈殿していた。怒りではない。決意に似ている。けれど決意と呼ぶには、あまりにも多くのものを踏み越えようとしている。


 アスカがいる世界を作る。


 言葉にすれば単純だった。だが、そのために必要なものは、リョウの足元へ、黒い霧の中から次々と浮かび上がってきた。椎名アスカという名前。覚えていてと繰り返した声。保健室の白いカーテンの向こうで零れた不安。大切な人の世界から消えない自分になりたいという願い。リョウの記憶。恋人として隣にいた時間。失踪したあとも忘れなかった痛み。ミラーに残ったアスカのコピー。黒瀬遥の世界で友人として笑っていたアスカ。雨の日に傘を貸したアスカ。誰かに数学を教えたアスカ。名前のない少女の影に引っかかった、呼んで、という声。ナギサの世界に残った代替配置の痕跡。恋人として置き換えられた日常。写真、メッセージ、駅前、自販機、図書室。レジストリのS.A.記録。黒く汚れたファイル、白い紙片、音声ノイズ、切り離された鏡面。ローズが守っていた境界の中に残る、アスカが消えた瞬間の裂け目。


 それらが黒い霧の中で、ひとつずつ光った。


 欠片。


 材料。


 記録。


 記憶。


 願望。


 どの言葉で呼ぶかによって、罪の重さが変わるように感じた。欠片と言えば、集めてもよいものに思える。記録と言えば、保管すべきものに見える。記憶と言えば、誰かの内側にあるものだと分かる。願望と言えば、リョウの中で膨らんだ歪みだと認めなければならない。材料と言った瞬間、アスカが人間ではなくなってしまう。だからリョウは、材料という言葉を避けた。避けたまま、霧はそれらを並べていく。


「リョウ」


 ローズの声がした。


 近い。だが、遠い。黒い霧の外側から呼ばれているようだった。白い半仮面の奥にあるマナの目が、こちらを見ている。彼女の薔薇の鞭は構えられたままだが、すぐには振るわれない。今、力で切れば、何か取り返しのつかないものまで裂けると分かっているのだろう。


「今、何を組み上げようとしているの」


「アスカがいる世界」


 リョウは答えた。自分の声が怖いほど穏やかだった。


 ローズの肩がわずかに震えた。


「それは、アスカさんを探すことではない」


「知ってる」


「取り戻すことでもない」


「そうかもしれない」


「リョウ」


「でも、アスカがいない世界を歩き続けるよりはいい」


 ローズの花びらが空中で止まった。リョウは黒い霧の中へ視線を落とす。そこには、アスカの名前があった。世界から消された文字。座席表から消え、写真から消え、連絡先から消え、誰の口にも上らなくなった名前。リョウだけが覚えていた名前。それを霧が包み、世界へ刻み直すための核にしようとしている。


「名前が必要だ」


 リョウは呟いた。


「椎名アスカ。まず名前。世界が消した名前を、中心に置く」


 黒い霧の中に、白い文字が浮かぶ。椎名アスカ。文字は何度も滲み、消えかけ、そのたびにリョウの声で濃くなる。


「声が必要だ。覚えていて。リョウ。来て。来ないで。助けて。違う。まだ聞こえない続きを、全部拾う」


 霧の中に音が降る。ノイズまじりの声。保健室のカーテン。鏡面の奥。ミラーの囁き。名前のない少女の影。どれがアスカ本人の声なのか、完全には分からない。だが、リョウはそれらを捨てられない。


「記憶が必要だ。僕の記憶だけじゃ足りない。遥の中のアスカ。雨の日のアスカ。ノートに式を書いたアスカ。誰かの横顔として残ったアスカ。僕が知らなかったアスカも」


 黒い霧に映像が混ざる。笑うアスカ。困った顔のアスカ。リョウを知らないアスカ。友人としてのアスカ。背景の中のアスカ。誰かを少しだけ救ったアスカ。


「願いが必要だ。消えたくない。大切な人の世界から、消えない自分になりたい。その願いが、アスカをミラーへ近づけた。でも、願いそのものはアスカのものだ。だから、核にしなきゃいけない」


「その願いを、もう一度利用するつもり?」


 ローズの声が鋭くなった。


「利用じゃない」


「なら、何」


「叶える」


「誰の形で?」


 リョウは答えなかった。


 ローズは一歩近づいた。赤黒い境界線が、黒い霧の縁を押しとどめる。


「消えない自分になりたいという願いを、あなたが望む形で叶えたら、それはアスカさんの救済ではなく、あなたの再構成になる」


「でも、アスカは消えたままだ」


「だからといって、あなたが作るアスカを、アスカさん本人と呼んでいい理由にはならない」


「本物はどこにいる」


 リョウはローズを見た。白い仮面の亀裂の奥で、視界が黒く揺れる。


「本物のアスカがどこにいるのか、誰も答えない。アヤトは記録するだけ。御厨は利用しようとする。ミラーは全部を溶かそうとする。君は止める。じゃあ、誰がアスカを戻すんだ」


「戻す、という言葉に逃げないで」


「逃げてない」


「逃げている。作ることを、戻すと言い換えようとしている」


 リョウの霧がわずかに膨らむ。ローズの鞭が反応する。だが、振るわれない。


 そのとき、遠くで紙が擦れる音がした。レジストリの記録線が黒い霧の外側に浮かび、アヤトの声が届いた。


「リョウ君」


 リョウはそちらを見ない。


「聞こえているなら、今すぐ構造化を止めて」


「構造化?」


「君の霧が、集めた欠片を配置し始めている。名前、声、記憶、願い、代替配置、ミラーコピー、S.A.記録、ローズ境界内の残留痕跡。分類できるほど進行している」


「記録してるんだな」


「記録しなければ止められない」


「止めるためか」


「君を失わないためだ」


 その言葉に、リョウは一瞬だけ息を止めた。アヤトの声には、御厨のような利用の冷たさはなかった。だが、止めようとしていることに変わりはない。


「それでできるのは、椎名アスカとは限らない」


 アヤトは言った。


「君が望むアスカだ」


 黒い霧の中で、アスカの声が揺れた。覚えていて。リョウ。わたしを――。その先はまだ分からない。リョウは拳を握る。


「知ってる」


「知っているなら、なぜ続ける」


「それでも、何もしないよりいい」


 アヤトの声が止まった。


 リョウは続けた。


「何もしなければ、アスカはいないままだ。名前は消えたまま。声はノイズのまま。写真も座席表も連絡先も、全部、なかったことになったまま。僕が覚えているだけじゃ足りない。僕の記憶だって、いつか薄れるかもしれない。だったら、欠片を集めて、形にするしかない」


「形になったものが、君の願望でも?」


「願望が混ざっても、空白よりはいい」


「それが危険なんだ」


「分かってる!」


 黒い霧が震え、遠くの記録線が歪んだ。アヤトの声にノイズが混じる。ローズが薔薇の境界を張り直す。ミラーの教室の残骸が、黒い水面の奥で揺れる。


「分かってるんだよ、アヤト。誰かの世界を傷つけるかもしれない。本人とは限らない。僕が望むアスカになるかもしれない。ナギサの世界も壊れるかもしれない。全部、分かってる。でも、分かってるから止まれるなら、とっくに止まってる」


 リョウの声は、もう怒鳴り声ではなかった。むしろ、疲れ切っていた。


「僕はアスカを忘れられない。忘れたくない。なかったことになんか、させられない。世界がアスカを消したなら、僕が世界に思い出させる。思い出せないなら、作る。作ってでも、彼女の名前を置く」


「それは、愛じゃなくて呪いになる」


 ローズが言った。


「もう、そうかもしれない」


 リョウは答えた。


 ローズは言葉を失った。


 黒い霧は、さらに深く広がっていく。霧の中に、いくつもの欠片が浮かぶ。リョウはそれを一つずつ見た。S.A.の黒く汚れた記録ファイル。白いカーテンの布切れ。アスカの筆跡に似た「リョウ」。雨の日の傘から落ちた透明な音。黒瀬遥の図書室で、アスカが声を出して笑った記憶。未登録三七の影に宿った「名前……呼んで……」という断片。ミラーの中で差し出された手。ローズが切った境界の裂け目に残った、アスカの消失の痕。ナギサの世界で、恋人として置き換えられた日常の写真。駅前。自販機。映画館。図書室。文化祭準備。そこには本来アスカがいたかもしれない空白と、ナギサがいた暖かさが同時に存在していた。


 それらすべてが、黒い霧の中で互いに引き寄せられる。


「やめて」


 ローズが言った。


 声が震えていた。


「ナギサの世界に手を伸ばさないで」


 リョウは反射的に顔を上げた。


「何?」


 黒い霧の奥で、別の光が開いた。六道学園の昇降口。夕方。ガラスに映る赤黒い花びら。ナギサのスマホ。写真フォルダ。リョウとの写真。駅前、自販機、図書室、文化祭。そこに黒い滲みがある。前からあった滲みだ。リョウが欠片を集めるたび、少しずつ広がっていたもの。だが今、その滲みが形を変えている。黒い霧は写真を汚しているのではない。写真の中の記憶を、欠片として引き剥がそうとしていた。


 ナギサが映っている。写真の中のナギサが笑っている。隣にいるリョウの輪郭は薄い。けれど、そこには時間がある。ナギサにとっては確かにあった時間。リョウにとっては借り物の記憶。世界がアスカを消したあと、代わりに配置した恋人としての痕跡。リョウはそれを受け入れきれなかった。けれど、ナギサにとっては本物だった。その本物が、黒い霧に引っ張られている。


「リョウ」


 遠くから、ナギサの声が聞こえた。


 今度は近い。いや、近いというより、引き剥がされる痛みと一緒に届いている。


「何、これ」


 ナギサの声は震えていた。


「写真が……リョウとの写真が、剥がれてる」


 黒い霧の中で、駅前の写真から小さな光片が浮かび上がった。リョウが飲み物を選ぶとき少し困った顔。ナギサが笑った記憶。世界が二人を恋人として配置した証拠。その欠片が、アスカ再構成の要素として呼ばれている。代替配置の痕跡。アスカが消えたあと、その空白を埋めるために作られた関係性。その痕跡を解析すれば、世界がアスカをどう置き換えたのかが分かる。逆にたどれば、アスカがいた場所を復元できるかもしれない。


 リョウの胸が冷たくなった。


「違う」


 彼は呟いた。


「ナギサのは、取らない」


 だが、霧はもう動いていた。リョウがアスカ再構成に必要な要素を思い浮かべた瞬間、ナギサの世界に残った代替配置の痕跡が、条件に合致した。黒い霧は倫理を判断しない。必要な欠片を引き寄せる。そこにナギサの心があるかどうかを、霧は問わない。


「止めろ」


 リョウは自分の霧へ命じた。


 光片は止まらない。


 ナギサの写真から、もう一つ欠片が浮かび上がる。図書室で、リョウとナギサが同じ本を見ている写真。ナギサが覚えている、静かな放課後。彼女が偽物ではないと自分に言い聞かせていた記憶。その端が黒くほどけ、リョウの霧へ向かう。


「リョウ!」


 ナギサが叫んだ。


 その声で、胸のカードが激しく熱を持った。春日リョウ。椎凪ナギサ。名前が、黒い霧の奥で光る。リョウは仮面の亀裂を押さえるように顔へ手を当てた。


「やめろ!」


 叫んだのは、自分へだった。黒い霧へだった。メアへだった。


 ローズが動く。赤黒い薔薇の鞭が、ナギサの世界へ伸びる黒い接続を斬ろうとする。アヤトの記録線も遠くから走った。白いカードの光が、欠片の流れへ割り込む。だが、黒い霧はすでにいくつもの世界を接続していた。アスカの名前、声、記憶、願い。リョウの記憶。ミラーのコピー。S.A.記録。ローズの境界痕。そこへナギサの代替配置が加わりかけている。ひとつを切れば、別の糸が引く。構造が複雑すぎた。


「リョウ、聞いて!」


 ナギサの声が、黒い水面の向こうから響く。


「あたしの思い出まで、アスカさんのために使わないで!」


 その言葉が、リョウを貫いた。


 使わないで。


 ナギサは、怒っていた。傷ついていた。怖がっていた。けれど、何より、自分の思い出を自分のものとして守ろうとしていた。世界が作った恋人としての記憶でも、それはナギサが感じた痛みであり喜びであり、彼女自身の現在だった。リョウはそれを、アスカを取り戻すための代替配置痕跡として引き剥がしかけている。


 黒い霧が一瞬だけ止まった。


 ローズがその隙を逃さなかった。薔薇の鞭が走り、ナギサの写真から伸びていた黒い糸を切断する。アヤトの記録線が欠片の周囲へ白い枠を作り、写真の中へ押し戻す。駅前の光片が震え、ナギサのスマホへ戻っていく。完全には戻らない。写真の端には黒い傷が残る。それでも、引き剥がしは止まった。


 リョウは膝をついた。


 黒い霧が彼の周囲で荒くうねる。白い仮面の亀裂から、黒が涙のように流れた。


「ナギサ」


 声が掠れる。


 返事はすぐには来なかった。遠くの世界で、ナギサが息を整えている音だけが聞こえる。やがて、彼女は震える声で言った。


「リョウ。あたし、怒ってる」


「……うん」


「怖い」


「うん」


「あたしのこと、大事って言ったの、嘘じゃないんだよね」


 リョウは言葉に詰まった。


「嘘じゃない」


「なら、あたしの思い出を、勝手に材料にしないで」


 材料。


 その言葉を、ついにナギサが言った。リョウが避けていた言葉。欠片、記録、痕跡と呼んでいたものの正体。再構成のために引き寄せた瞬間、それは誰かの生きた時間ではなく、材料になってしまう。


 リョウは、何も返せなかった。


 黒い霧の外側で、ミラーが静かに微笑んでいる。


「ほら」


 アスカの声で、囁く。


「一人で作ろうとすると、誰かから奪う。だから、みんなで分ければいいのに」


 ローズが鋭く振り返る。


「黙りなさい」


 ミラーは笑う。


「でも、リョウはもう知ったよ。アスカを作るには、ナギサさんの世界も必要だって」


「違う」


 リョウは言った。


 声は弱かった。


「違う、はずだ」


「本当に?」


 ミラーは優しく問いかける。


「アスカが消えたあと、世界はナギサさんを恋人として配置した。その痕跡をたどれば、アスカがいた場所に近づける。リョウの霧はそれを知っている。だから、手を伸ばした。リョウが止めたいと思っても、メアは必要なものを見つけてしまう」


 その言葉は、否定できなかった。


 アヤトの声が遠くから響く。


「現時点で、アスカ再構成計画は中止して。これ以上進めれば、ナギサさんの世界が巻き込まれる」


「中止したら」


 リョウは呟いた。


「アスカは?」


「今は、止めることが先だ」


「いつもそれだ」


 リョウはゆっくり立ち上がった。膝が震えている。仮面の亀裂は深い。黒い霧は収まっていない。ナギサの世界から引き剥がしかけた欠片は戻された。だが、その接続は完全には閉じていない。リョウは、もう知ってしまった。アスカを再構成するためには、ナギサの世界に残った代替配置の痕跡が重要な鍵になる。知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。


 ローズが構える。


「リョウ。これ以上、進ませない」


「君は止める」


「ええ」


「アヤトは記録する」


「そうだよ」


「ナギサは呼ぶ」


 遠くで、ナギサが息を呑む。


「ミラーは囁く」


 白い反射の奥で、アスカの姿をしたミラーが微笑む。


「僕は」


 リョウは、自分の胸に手を当てた。カードはまだ熱い。春日リョウ。けれど、その周囲を黒い霧が包んでいる。ファントム・メア。二つの名前が、一つの胸の中で軋み合っている。


「僕は、作ろうとした」


 言葉にした瞬間、ローズの目が痛ましげに揺れた。アヤトの記録線が静かに光る。ナギサの呼吸が遠くで震える。


「アスカがいる世界を」


 黒い霧は、まだその言葉を覚えていた。覚えている限り、再構成計画は完全には消えない。


 ナギサの世界では、スマホの写真の端に、新しい傷が残っていた。リョウとの駅前の写真。黒い滲みは薄くなったが、その代わり、二人の間に細い白い亀裂のような線が走っている。思い出が引き剥がされかけた痕だった。


 ナギサはその画面を握りしめ、涙をこらえながら言った。


「リョウ。あたしは、欠片じゃない」


 その声は、黒い霧の中のリョウへ確かに届いた。


 けれど、同時に、アスカの声もまた近くで囁いた。


『リョウ、わたしを――』


 未完成の言葉が、再構成される世界の中心で、まだ続きを待っていた。

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