表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
45/49

第13章 ナギサの選択

 ナギサのスマホ画面には、駅前の写真が開かれたままだった。夕方の自販機、少し困った顔のリョウ、隣で笑っている自分。世界が作った恋人としての記憶。最初は、その写真を見るたびに胸がざわついた。これは本当に自分のものなのか。誰かの空白を埋めるために、自分へ押しつけられた役割ではないのか。そう疑いながら、それでも何度も見返してきた。見返すたびに、そこにいた自分の感情だけは嘘ではないと思えた。リョウが飲み物を選ぶのに迷って、結局ナギサの好きなものを先に買ったこと。缶が冷たくて、指先が少し触れたこと。帰り道、何を話したのかは曖昧なのに、隣にいた温度だけは残っていること。それはたとえ世界の書き換えが用意した場面でも、ナギサがその中で笑った事実までは偽物ではなかった。


 その写真の中央に、細い白い亀裂が走っていた。


 黒い滲みとは違う。黒はリョウが遠ざかるたびに現れた。彼の輪郭から染み出し、背景と身体を混ぜ、存在が世界から外れかけていることを示す傷だった。だが、この白い亀裂は違った。写真そのものを内側から剥がそうとしている。駅前の光、冷たい缶、笑っている自分、困った顔のリョウ、その時間を構成する薄い膜が、リョウのいる外側へ引っ張られた痕。ナギサはそれを見て、ようやく理解した。リョウは、自分の世界に残ったものを使おうとしたのだ。アスカが消えたあと、世界がナギサへ背負わせた代替配置。恋人としての記憶。リョウをこの世界につなぎ止めていた認識。その痕跡が、アスカを再構成する材料として呼ばれた。


 材料。


 自分でその言葉を言った瞬間、喉の奥が焼けた。怒りなのか、恐怖なのか、悲しみなのか分からなかった。全部だった。ナギサはスマホを握りしめる。手が震えて、画面に触れた指紋が滲む。写真の中の自分は笑っている。何も知らずに。自分がいつか、誰かを取り戻すための欠片として引き剥がされるかもしれないなんて知らずに。


「あたしは、欠片じゃない」


 そう言った声は、黒い霧の向こうへ届いた。リョウに届いた。届いたことは分かった。写真の白い亀裂が、それ以上広がるのを一瞬だけやめたからだ。けれど、止まっただけだった。消えたわけではない。亀裂の奥には、まだ黒い霧がいる。リョウが望み続ける限り、アスカがいる世界を作ろうとする限り、その霧はまたナギサの世界へ手を伸ばす。リョウ本人が止めたいと思っても、メアは必要なものを見つけてしまう。ミラーの声がそう言った。ナギサは、それが嘘ではないと分かってしまった。


 昇降口の空気が歪む。ガラスの反射に赤黒い花びらが散り、遠くでローズの薔薇が黒い接続を切断している気配がした。マナの声は聞こえない。けれど、彼女が向こう側で戦っていることは分かる。アヤトの白い記録線も、写真の亀裂の縁にかすかに残っていた。二人が止めてくれた。ナギサの思い出が完全に剥がれ落ちる前に。けれど、それは一時的な処置でしかない。


 ナギサはスマホを胸に抱いた。涙が落ちた。悔しかった。アスカのことを忘れろとは言えない。リョウがアスカを追う気持ちは分かる。分かってしまう。もし自分がリョウの立場なら、きっと同じように忘れたくないと思う。世界が大切な人をなかったことにしたら、世界の方が間違っていると叫ぶかもしれない。だからこそ、怒りの行き場がない。リョウを責めたい。責めたくない。助けたい。助けたくない。自分を見てほしい。アスカを諦めてほしくない。矛盾ばかりが胸の中でぶつかり、息が詰まった。


「ナギサ」


 声がした。


 マナではなかった。ローズでもない。鏡の中から聞こえる柔らかな声。廊下の窓硝子に、白い影が映っていた。アスカに似た輪郭。けれど、アスカではない。ミラーだ。ナギサはすぐに分かった。優しすぎる声。痛みを一人で持たなくていいと言う声。誰かの弱さに入り込み、境界を柔らかくする声。


「あなたも、苦しいね」


「入ってこないで」


 ナギサは言った。涙で声が震えた。けれど、後ろへは下がらなかった。


「リョウに怒ってる。アスカさんにも少し怒ってる。世界にも、自分にも。そうでしょう?」


「勝手に言わないで」


「言葉にしないと、もっと苦しくなるよ」


「あなたに言うことじゃない」


 窓の影は微笑んだ。アスカのように。けれど、その微笑みは誰にでも向けられる。ナギサ一人を見ているようで、世界中の苦しみに同じ手つきで触れている。そこが怖かった。


「リョウは選べない。アスカを失いたくない。ナギサも失いたくない。でも、選ばなければならないと思っている。だから壊れる。ナギサも選べない。リョウを止めたい。アスカを消したくない。自分も消えたくない。だから苦しい」


「だから何」


「選ばなくていい場所がある」


 ナギサは唇を噛んだ。


「ミラーの中?」


「みんなの中」


「個人が薄くなる場所でしょ」


「一人で壊れるより、みんなで薄くなる方が優しい」


「それ、優しさじゃない」


「そうかな」


 ミラーは首を傾げる。窓硝子の中で、長い髪が揺れる。アスカのような影。その背後に、たくさんの生徒たちの穏やかな微笑みが薄く映った。誰も孤独ではない世界。苦しみが分散され、涙も怒りも共有される世界。ナギサはそれを見たことはない。けれど、リョウの黒い霧を通して、少しだけ感じてしまった。あの場所では、誰か一人が背負わなくてよかった。ナギサも命綱でいなくていい。アスカの代わりでいなくていい。リョウもアスカを一人で覚えなくていい。アスカも消えたくない願いを一人で抱えなくていい。


 その甘さが、恐ろしかった。


「ナギサ」


 今度は別の声がした。


 マナの声だった。だが、遠い。黒い霧と薔薇の境界越しに届いている。声の端が擦れている。向こうでローズとして戦いながら、人間のマナとしてナギサを呼んでいる。


「窓を見すぎないで」


「先輩」


「ミラーの言葉に答えないで。答えると、あなたの世界に鏡面が増える」


「でも、リョウのところへ行きたい」


 一瞬の沈黙。


「だめ」


 マナは即答した。


「行けば、あなたは巻き込まれる。今のリョウの黒霧は、あなたの世界にある代替配置を引き寄せる。あなたが近づけば、もっと強く反応する」


「だから行くんです」


「ナギサ」


「ここにいても、取られかけました」


 ナギサはスマホを見下ろした。白い亀裂の走った写真。黒い滲みの残るリョウの顔。自分の笑顔。


「ここで待っていても、リョウはあたしの中のものを使おうとする。本人がそうしたくなくても、霧が見つける。だったら、あたしが行って言います。何を持っていこうとしているのか、ちゃんと見ろって」


「危険すぎる」


「知ってます」


「あなたまで壊れたら」


「先輩は、また自分を許せなくなるんですよね」


 マナの声が詰まった。


 ナギサは涙を拭った。強くこすると、目元が痛かった。


「でも、あたしは先輩の後悔のために残るんじゃないです」


 その言葉は、自分で言っていて怖かった。マナを傷つけているかもしれない。けれど、今言わなければ、自分はまた守られる位置に戻される。守られること自体は嬉しい。マナの優しさは分かる。だが、リョウに自分の思い出を欠片として扱われるかもしれない状況で、ただ待つことはもうできなかった。


「あたしは、あたしの世界を守りたい。リョウを呼びたい。アスカさんを憎みたくない。だから、行きます」


「どうやって」


 マナの声は低かった。止める言葉ではなく、確認する言葉になっていた。


「写真から」


「写真は傷ついている。接続路として使えば、さらに裂ける」


「それでも、まだ残ってます」


 ナギサはスマホの画面に指を置いた。駅前の写真。白い亀裂。リョウの輪郭。自分の笑顔。そのすべてが、リョウへつながっている。世界が作った恋人としての記憶。リョウを存在させていた認識。ナギサが偽物ではないと守ってきた時間。リョウがそれを材料にしかけたなら、逆に言えば、その傷はリョウのいる場所へ続く道でもある。


「春日リョウ」


 ナギサは写真へ向かって呼んだ。


 画面が震える。


「椎凪ナギサ」


 自分の名前も呼ぶ。足元が少しだけ固くなる。昇降口の床、靴箱、ガラス、夕方の光。それらが自分の世界だと確かめる。


「鳴海マナ。ファントム・ローズ」


 遠くで薔薇の花びらが舞う。


「影山アヤト」


 白い記録線が写真の亀裂の縁に灯る。


 最後に、ナギサは息を吸った。


「椎名アスカ」


 窓硝子のミラーの影が、嬉しそうに揺れた。スマホの写真の白い亀裂が開く。黒い霧がそこから漏れる。ナギサは恐怖で一瞬足がすくんだ。だが、画面の向こうにリョウの声が聞こえた気がした。ナギサ、と掠れた声。自分を材料にしかけたことに気づいて、傷ついた声。


 ナギサは画面へ手を伸ばした。


 写真の中へ落ちる感覚は、水に落ちるのとは違っていた。記憶の中へ落ちる感覚だった。駅前の自販機の光が伸び、図書室の紙の匂いが混ざり、映画館の暗いロビー、文化祭準備の机、教室の窓、リョウの席、靴箱の名前札、それらが縦に重なってナギサを通り過ぎていく。どれも自分の記憶だ。どれも世界が用意したものかもしれない。けれど、その中で感じた恥ずかしさも、嬉しさも、痛みも、嫉妬も、全部ナギサのものだった。


 だから、持っていくなら見てからにして。


 ナギサはそう思いながら、黒い霧の先へ出た。


 そこは壊れた教室だった。朝の光が黒に沈み、白い花びらと赤黒い薔薇が床に散っている。ミラーに接続された生徒たちが遠くで震え、ローズが赤い境界線を張り、アヤトの白い記録線が薄く空間に浮かんでいる。その中心に、リョウがいた。


 いや、リョウだったものがいた。


 白い仮面。黒い亀裂。制服の輪郭を侵食する霧。片目だけが、仮面の奥で青白く揺れている。ナギサは息を呑んだ。怖かった。紛れもなく怖かった。リョウの姿が遠い。自分の知る、困ったように笑って、言葉を選びすぎて、肝心なときに不器用な返事をする少年とは違う。けれど、完全に違うわけでもない。その仮面の奥で、彼は確かにこちらを見た。


「ナギサ」


 リョウの声がした。


 黒い霧が、その名前に反応して一瞬揺らぐ。


 ローズが振り返る。


「ナギサ、どうして」


「来ました」


「戻りなさい」


「嫌です」


 ナギサは震える足で、一歩踏み出した。赤い境界線の内側へ。ローズが止めようとする。だが、ナギサは首を横に振った。


「マナ先輩。止めないでください。あたし、リョウに言わなきゃいけないことがあります」


 ローズは何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。白い半仮面の奥の目が痛そうに細まる。彼女は鞭を下ろさない。けれど、ナギサの進路を完全には塞がなかった。


 リョウは動けずにいた。黒い霧はナギサへ伸びようとして、途中で震えている。欲しがっている。ナギサの世界にある代替配置の痕跡を。恋人としての記憶を。リョウを存在させていた認識を。アスカがいない世界で、リョウをこの世界へつなぎ止めていたナギサの気持ちを。霧はそれを欠片として認識している。アスカ再構成に必要な鍵として見ている。


 リョウの仮面の奥で、目が揺れた。


「来るな」


 彼は言った。


「今の僕に近づくな」


「遅いです」


 ナギサは涙をこぼした。


「もう、取られかけました」


 リョウの身体が強張る。


「あたしの写真。あたしの思い出。リョウとの時間。リョウが借り物だと思ってた記憶。世界が勝手に作った恋人の配置。そういうものが、アスカさんを作るために必要だって、リョウの霧が見つけたんでしょう」


「違う」


「違わない」


 ナギサは叫んだ。


「違うって言わないで! あたしの写真が裂けたの。あたしの中の時間が剥がれそうになったの。リョウがそうしたくなかったとしても、リョウの霧がやったの。だから、違うって言われたら、あたしの痛みまでなかったことになる」


 リョウは何も言えなかった。


 その沈黙で、ナギサはまた泣いた。怒っているのに、涙が止まらない。情けないと思った。けれど、もう隠さなかった。


「アスカさんのこと、忘れろなんて言いません。言えません。リョウがどれだけ苦しいか、全部は分からないけど、分かりたいとは思ってます。でも、あたしの中にあるものを、アスカさんのために使うなら、せめてあたしを見てから持っていって」


 リョウの仮面の亀裂が、微かに光った。


「ナギサ」


「あたしを見てください」


 ナギサは一歩、また一歩と近づく。黒い霧が足元へ絡む。冷たい。写真の中から引き剥がされかけたときと同じ感覚がする。自分の記憶が薄くなるような、名前の端を撫でられるような感覚。怖い。けれど、ナギサは止まらなかった。


「あたしは、アスカさんの代わりに配置されたのかもしれない。リョウの恋人って役割を、世界に背負わされたのかもしれない。リョウにとっては借り物の記憶かもしれない。でも、あたしがリョウを好きになったことまで、材料にしないで。あたしが泣いたことまで、アスカさんの欠片にしないで。あたしがリョウを呼んだことを、ただの座標にしないで」


 リョウは、初めて明確に理解した。


 ナギサから奪おうとしていたものは、ただの痕跡ではなかった。代替配置のデータではなかった。アスカがいたはずの位置をたどるための手がかりではなかった。ナギサが自分の痛みとして抱え、自分の現在として守ってきた時間だった。世界が作ったとしても、その中で泣いたのはナギサだった。好きになったのも、嫉妬したのも、支えたいと思ったのも、怒っているのも、全部ナギサだった。


 それを、リョウはアスカを作るために使おうとした。


「ごめん」


 声は、仮面の奥から落ちた。


「ごめん、ナギサ」


「謝らないで終わりにしないで」


「うん」


「ちゃんと見て」


 ナギサは彼の前に立った。黒い霧が二人の足元で渦を巻く。ローズがいつでも切れるように構えている。アヤトの記録線が周囲を囲う。ミラーの反射が、白く静かに笑っている。


「椎凪ナギサ」


 リョウは言った。


 ナギサの胸が痛んだ。


「僕は、君から奪おうとした」


「うん」


「君の世界に残った、僕との思い出を。君が守ってきたものを。アスカがいた場所を探すために、君の中の配置を使おうとした」


「うん」


「君を、欠片にしようとした」


 言葉にした瞬間、リョウの仮面に入った黒い亀裂が大きく震えた。霧が一瞬だけ引いた。ナギサは泣きながら頷いた。


「そうです」


 その肯定は、残酷だった。だが、必要だった。リョウが自分のしたことを曖昧にしないために。


「でも」


 ナギサは続けた。


「あたしは、リョウをまだ呼びます」


「どうして」


「呼びたいから」


「僕は、君を壊しかけた」


「知ってます」


「またやるかもしれない」


「怖いです」


「なら」


「それでも、あたしが決めることです」


 ナギサは涙を拭った。


「リョウを呼ぶかどうかも、あたしの中のものを守るかどうかも、あたしが決めます。リョウが勝手に持っていくのも嫌だし、マナ先輩が守るために遠ざけるのも嫌です。あたしはここにいます。リョウの前に立ちます。怒って、泣いて、それでも呼びます。だから、見ないで持っていかないで」


 リョウは、仮面の奥で目を閉じた。


 黒い霧の中で、アスカの声がした。


『リョウ、わたしを――』


 その声に、リョウの霧が反応する。けれど、今はナギサの声も同じくらい近かった。


「リョウ」


 ナギサが呼ぶ。


 アスカの声が、リョウを過去と欠片へ引く。ナギサの声が、現在の彼を呼ぶ。二つの名前の間で、白い仮面が軋む。


 ミラーが、そこで囁いた。


 声はアスカのものではなかった。水鏡紫影のようでもあり、教室の生徒たちのようでもあり、ナギサ自身の心の奥から聞こえてくるようでもあった。


「ナギサ」


 窓も鏡もないはずの壊れた教室の床に、白い反射面が開く。そこに、もう一人のナギサが映っていた。泣いていない。怒っていない。穏やかに微笑んでいる。アスカの影とも、リョウの霧とも、ミラーの白い光とも、柔らかく混ざっているナギサ。


「あなたも一緒に溶ければ、誰も選ばなくていい」


 ナギサの背筋が凍った。


 ミラーは優しく続ける。


「リョウはアスカを選ばなくていい。ナギサを捨てなくていい。アスカもナギサも、リョウも、みんなで混ざればいい。代わりも本物もなくなる。誰も奪われない。誰も置き去りにならない。一人で支えなくていい。怒らなくていい。泣かなくていい」


 床の反射の中のナギサが、手を差し出した。


 ナギサは息を呑んだ。怖い。けれど、その誘惑は甘かった。リョウに見てもらう痛みも、アスカに嫉妬する苦しさも、自分の思い出を守らなければならない重さも、全部なくなるなら。誰も選ばなくていいなら。自分が代わりなのか本物なのか、もう悩まなくていいなら。


 リョウの黒い霧が、ナギサへ伸びかける。


 ローズの薔薇が、ミラーの反射を切ろうと震える。


 ナギサは、差し出された鏡の中の自分の手を見つめた。


 そして、まだ答えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ