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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
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第14章 すべてをひとつに

 鏡の中のナギサは、泣いていなかった。怒ってもいなかった。白い反射面の向こうで、穏やかに微笑んでいる。そこには、リョウを責める痛みも、アスカへの嫉妬も、自分の思い出を守らなければならない恐怖もない。すべてが薄く溶けて、やさしい形になっていた。現実のナギサは、その手を見つめたまま動けなかった。伸ばせば楽になる。そう分かってしまうことが、まず怖かった。リョウに見てほしいと叫ぶ必要がなくなる。アスカの代わりではないと証明し続ける必要がなくなる。自分の中にある恋人としての記憶が本物か偽物か、もう判定しなくていい。リョウもアスカもナギサも、境界を失えば、誰も選ばれず、誰も捨てられない。ミラーの囁きは、あまりにも甘く、あまりにも残酷だった。


「手を取らないで」


 ローズが言った。声は鋭かったが、そこには焦りがあった。赤黒い薔薇の鞭が、床の反射へ向けて震えている。切れば、ナギサを映す鏡も、ナギサ自身の心に触れた誘惑も、同時に裂いてしまうかもしれない。だからローズは振るえない。境界を守る者である彼女は、境界を切る痛みを誰より知っている。


 ナギサは鏡の中の自分を見たまま、唇を震わせた。


「……楽に、なるんですか」


 その問いは、ミラーへ向けたものだった。だが、答えを聞きたいわけではなかった。自分の弱さを確認するための問いだった。


 鏡の中のナギサが微笑む。


「楽になるよ。一人でリョウを呼ばなくていい。一人でアスカを憎まないように頑張らなくていい。一人で自分の記憶を守らなくていい」


「それは」


 ナギサの目から涙が落ちた。


「それは、ちょっとだけ、うらやましいです」


 リョウの黒い霧が、ナギサの足元で震えた。白い仮面の亀裂の奥から、リョウの目がナギサを見る。今度は逃げずに見ていた。彼女の涙を。怒りを。誘惑に揺れる弱さを。自分が材料にしかけた記憶を、自分のものとして守ろうとしている姿を。


「ナギサ」


 リョウは呼んだ。


 声にはまだ黒い響きが混じっている。だが、その奥に春日リョウの声が残っていた。


「手を取るな」


 ナギサは泣きながら、少しだけ笑った。


「リョウに言われると、腹立ちます」


「……ごめん」


「でも、取らない」


 ナギサは鏡の中の自分から目を逸らさなかった。逃げるためではなく、拒むために見続けた。


「楽になりたいです。でも、あたしの痛みを、勝手にみんなのものにしないで。リョウに怒ってるのも、アスカさんに嫉妬してるのも、それでもリョウを呼びたいのも、全部あたしのものです。溶けたら、あたしが何を選んだのか分からなくなる」


 鏡の中のナギサの微笑みが、ほんの少しだけ歪んだ。


「選ばなくていいのに」


「選ばなきゃ嫌なんです」


 ナギサは言った。


「あたしは、選ばされるのも嫌だけど、選ばなくていいって言われるのも嫌です」


 その瞬間、床の反射面に細い亀裂が入った。ローズが動く。薔薇の鞭が赤い軌跡を描き、ナギサを映していた鏡面と現実の床の境界を切った。鏡の中のナギサは白い光へほどけ、反射面の奥へ沈む。だが、完全には消えない。ミラーは消えたのではなく、ナギサの拒絶すら取り込み、次の形へ移ろうとしていた。


 壊れた教室の空気が変わった。


 ミラーの白い反射面が、床だけではなく、壁、天井、机の破片、白い花びら、赤黒い薔薇の境界線、リョウの黒い霧、アヤトの白い記録線、そのすべてに広がり始めた。ローズの境界線が赤く燃える。アヤトの記録線が遠くで明滅する。レジストリの棚、未登録三七の部屋、黒瀬遥の図書室、雨のバス停、駅前の写真、ナギサの昇降口、ミラーの幸福な教室。無数の世界の断片が、鏡面の裏側で重なっていく。


「始まった」


 アヤトの声が遠くから聞こえた。彼の声には、冷静さを保とうとしても隠しきれない緊張があった。


「ミラーが、接続権限を奪いに来ている。リョウ君の黒霧が開いた経路、ローズの境界干渉、ナギサさんのホスト性、レジストリの記録線。全部を中継点にしている」


「中継点?」


 リョウが言うと、ミラーの声が答えた。


「橋だよ」


 声は教室中から聞こえた。アスカの声、水鏡紫影の声、穏やかな生徒たちの声、鏡の中のナギサの声、そのどれでもあり、どれでもない。


「リョウが集めた欠片は、世界と世界をつなぐ糸。黒い霧は境界を柔らかくする力。レジストリの記録は、消えかけた人たちを固定する杭。ナギサさんの世界は、リョウを現在へ留める強い座標。ローズの境界は、切り分けるための線。全部そろった。リョウがアスカを作ろうとしたから、私たちも作れる」


「何を」


 ローズが低く問う。


「誰も一人にならない世界」


 ミラーの声は、嬉しそうだった。


 教室の奥に、白い光が集まる。そこに、アスカの姿をしたミラーが現れた。今度の彼女は、さきほどまでよりさらに鮮明だった。リョウの記憶に近く、他者の世界に残ったアスカの仕草も含み、ミラーの白い光をまとっている。彼女の背後には、無数の鏡が開いていた。一枚一枚に別の世界が映っている。黒瀬遥の図書室。雨のバス停。数学のノートが置かれた部屋。未登録三七の小さな教室。レジストリの疑似世界。ナギサの昇降口。壊れかけたミラーの教室。六道学園の窓。保健室の白いカーテン。どの鏡にも、人がいる。誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが名前を失い、誰かが記憶を守り、誰かが呼び続けている。


 ミラーは両手を広げた。


「アスカも、ナギサも、リョウも、マナも、アヤトも。みんな一つになれば、誰も失わない」


 ローズの薔薇の鞭が、空気を裂いた。だが、ミラーの背後の鏡は割れない。鞭は鏡面に触れた瞬間、赤黒い境界線として吸収され、別の鏡へ分配される。ローズの力すら、ミラーは利用しようとしていた。切り分ける力を、統合の輪郭として。個人世界を完全に溶かすのではなく、境界を薄く保ったまま、すべてを反射し合う巨大な鏡面へ変えるために。


「ローズの線は便利だね」


 ミラーが微笑む。


「完全に溶けると怖がる人がいる。だから線を残してあげる。薄い線。痛くない線。行き来できる線。誰も閉じ込められず、誰も一人にならない線」


「それは境界じゃない」


 ローズは吐き捨てた。


「境界の形をした通路よ」


「通路があれば、会えるよ」


「閉じることもできなければ、守れない」


「閉じるから孤独になる」


「閉じられるから、自分でいられる」


 赤黒い花びらが舞う。ミラーの白い光がそれを映し、無数の鏡の中へ増やしていく。赤黒い花びらは、鏡の中で白くなり、黒くなり、誰かの記憶の花びらへ変わる。ミラーは、ローズの拒絶さえ材料にしている。


 アヤトの記録線が走った。白いカードの光が、鏡面へ杭を打つように突き刺さる。


「統合率上昇。個人世界間の境界が相互反射を開始。記録固定が逆利用されている。局長、遮断を」


 遠くで御厨の声が聞こえた。


「レジストリ側接続を切る」


「切れば未登録者区域が孤立します」


「統合されるよりはましだ」


 白い線が一部消えた。その瞬間、未登録三七の小さな教室が映った鏡が揺れる。手首の鈴をつけた少女が、不安そうに顔を上げている。彼女の影に宿るアスカの欠片が白く瞬いた。ミラーは、その光へも手を伸ばす。


「名前のない子も、一つになれば怖くない」


「やめろ」


 リョウが言った。


 黒い霧が足元から立ち上がる。ミラーはそれを見て、優しく微笑んだ。


「リョウの霧も、来て」


「ふざけるな」


「ふざけていないよ。リョウの力があれば、欠片を分解して、矛盾を柔らかくできる。アスカを作るために並べた要素を、もっと大きく使える。アスカだけじゃなくて、みんなを失わない世界へ」


「僕は、おまえとは違う」


 リョウは叫んだ。


 黒い霧が、白い鏡面へぶつかった。鏡が一枚、黒く濁る。だが、割れない。ミラーは首を傾げた。


「本当に?」


 その問いに、リョウの足元が揺れた。


「リョウはアスカを失いたくなかった。だから、いろんな世界から欠片を集めた。名前、声、記憶、願い、コピー、代替配置、記録、境界痕。全部を一つにして、アスカがいる世界を作ろうとした。私は、みんなを失いたくない。だから、いろんな世界を一つにしようとしている。どこが違うの?」


「僕は、アスカを」


「私は、みんなを」


「僕は、本人を」


「本人って何?」


 ミラーの声が、リョウの胸に刺さる。


「リョウはまだ、アスカ本人の願いの続きを聞いていない。戻してほしいのか、忘れてほしいのか、来てほしいのか、来ないでほしいのか、分からない。それでも作ろうとした。なら、私がみんなを一つにするのと、何が違うの?」


 リョウは言葉に詰まった。


 違う。違うはずだった。自分はミラーのように個人を溶かしたいわけではない。アスカを戻したいだけだ。ナギサを消したいわけではない。未登録三七を利用したいわけではない。黒瀬遥の記憶を奪いたいわけではない。だが、実際にはどうだった。アスカの再構成に必要だと分かった瞬間、ナギサの写真から思い出が引き剥がされかけた。黒瀬遥の世界から放課後の記憶を取ろうとした。未登録三七の影に宿った欠片へ手を伸ばしかけた。ミラーの問いは、嘘ではなかった。


「違う」


 リョウはもう一度言った。だが、声は最初ほど強くなかった。


「違うんだ」


「違うなら、何が違うのか教えて」


 ミラーはアスカの顔で言った。


「境界を守ること? でも、リョウは境界を越えた。名前を尊重すること? でも、ナギサさんの思い出を欠片にしかけた。本人の意思を確かめること? でも、アスカの続きを聞く前に世界を作ろうとした。ねえ、リョウ。本当に違う?」


 黒い霧が震えた。リョウの仮面の亀裂から、黒が涙のように流れる。


「違う、って言いたい」


 リョウは言った。


 その声は、初めて叫びではなく、告白に近かった。


「でも、同じところがあるのは分かってる。僕も、世界を信じなかった。今ある境界を信じなかった。アスカがいない世界を許せなくて、欠片を集めて、作ろうとした。おまえと似てる。分かってる」


 ローズがリョウを見た。ナギサも見ている。アヤトの記録線が、わずかに落ち着いた光を帯びる。


「でも」


 リョウは顔を上げた。


「似ているからって、おまえに渡す理由にはならない」


 黒い霧が、今度は爆発ではなく、狭く鋭く集まった。広げれば、ミラーに使われる。混ぜようとすれば、統合の材料にされる。だからリョウは霧を絞る。自分の足元、自分の手、自分の仮面の亀裂の周囲だけに黒を留める。初めて、黒い霧を広げるのではなく、引き締めようとした。


 アヤトが息を呑む。


「制御している……?」


「まだ不安定です」


 ローズが答える。けれど、その声にはわずかな希望が混じった。


 ミラーは微笑む。


「それでも、リョウの霧は私たちの橋になるよ」


「させない」


 ナギサが言った。


 彼女はリョウの隣ではなく、少し前へ出た。黒い霧にも、白い鏡にも触れそうな位置。ローズが止めようとするが、ナギサは手で制した。


「あたしの世界を、勝手に橋にしないで」


「ナギサさんも、一人で頑張らなくていい」


「頑張るかどうかは、あたしが決めます」


 ナギサはスマホを握っている。白い亀裂の入った写真が、画面の中で光っていた。


「リョウとの思い出も、アスカさんへの嫉妬も、リョウを呼びたい気持ちも、あたしのものです。溶かさない。渡さない。選ばなくていい世界なんて、あたしはいらない」


 ミラーの背後で、ナギサの昇降口を映す鏡が揺れた。白い光が少しだけ弱まる。


 ローズが続ける。


「私は境界を守る。たとえ痛くても、線を引く」


 赤黒い薔薇の鞭が、無数の鏡の前に赤い線を刻む。


 アヤトの声が重なる。


「僕は記録する。統合される前の名前を、できる限り残す」


 白い記録線が、鏡の一枚一枚へ名前の杭を打とうとする。


 リョウは、黒い霧を握るように片手を閉じた。


「僕は」


 言葉が詰まる。


 アスカを作る。そう言えば、ミラーに近づく。アスカを諦める。そう言えば、自分が壊れる。何と言えばいいのか分からない。けれど、分からないまま黒い霧を広げることだけは、もうできなかった。


「僕は、アスカの続きを聞く」


 ようやく言った。


「作る前に。混ぜる前に。アスカが何を言おうとしたのか、聞く。聞かないまま、世界を作らない」


 ミラーの笑みが、初めて少しだけ消えた。


「聞いたら、望まない答えかもしれないよ」


「それでも」


「忘れてって言うかもしれない」


 リョウの胸が痛む。


「それでも」


「来ないでって言うかもしれない」


 仮面の亀裂が軋む。


「それでも、聞く」


 黒い霧が、リョウの足元で低く唸った。納得しているわけではない。今にも再び広がり、欠片を集め、世界を作りたいと暴れ出しそうだった。だが、リョウはそれを押さえた。完全な制御ではない。かろうじての抑制。それでも、これまでとは違った。


 ミラーは静かにリョウを見つめた。アスカの顔で。アスカの声で。アスカではない何かとして。


「じゃあ、聞かせてあげる」


 その言葉に、全員が身構えた。


「でも、そのためには、もっと深く来ないといけない。アスカの声の続きを聞くには、アスカが消えた場所へ。ミラーの奥へ。レジストリの記録にも、リョウの記憶にも、ナギサさんの世界にも、ローズの境界にも残っていない、一番深いところへ」


 ミラーの背後の鏡が一斉に開いた。無数の世界が鏡のように重なり、奥へ奥へと連なっていく。黒瀬遥の図書室の向こうに雨のバス停があり、その向こうに未登録三七の小部屋があり、その向こうにナギサの昇降口があり、その向こうにレジストリの書架があり、そのさらに向こうに白い保健室のカーテンが揺れている。どの世界も完全には重ならず、けれど完全には分かれていない。ミラーが作ろうとしている統合の雛形だった。


 その最前面に、アスカの姿をしたミラーが立っている。


 彼女はリョウへ手を伸ばした。


「来て、リョウ」


 背後には、無数の世界が鏡のように重なっている。


「本物の続きを聞きたいなら、私たちの奥へ」


 リョウは、その手を見た。


 今度は、すぐには伸ばさなかった。

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