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ファントム・ローズ  作者: 秋月キアラ
第3部_ワールド
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第15章 アスカの意思

 ミラーの背後に、無数の世界が開いていた。黒瀬遥の図書室、雨の日のバス停、誰かの勉強机、未登録三七の小さな部屋、レジストリの書架、ナギサの昇降口、白いカーテンの保健室、そして、どこにも属さない白い部屋。鏡は奥へ奥へと重なり、通路ではなく傷口のように開いている。アスカの姿をしたミラーは、その入り口で手を差し出していた。来て、リョウ。本物の続きを聞きたいなら、私たちの奥へ。その声はアスカの声に似ていた。似すぎていた。けれどリョウは、すぐには手を伸ばさなかった。黒い霧は足元で低く渦を巻き、白い仮面の黒い亀裂からは熱が漏れている。メアの霧は、ミラーの鏡面を使えばさらに深く進めると知っている。アスカの欠片がそこにあると知っている。だが、今度はその知識だけで動くことができなかった。


 ナギサの言葉がまだ胸に残っていた。あたしは、欠片じゃない。あたしの思い出まで、アスカさんのために使わないで。リョウはそれを聞いた。聞いてしまった。自分がナギサから奪おうとしていたものを、言葉として認めた。黒瀬遥の放課後も、雨の日の傘も、未登録三七の影も、ナギサとの写真も、全部が誰かの世界の中で生きていた。アスカのためだと呼べば許されるものではなかった。


 それでも、奥から声がした。


『リョウ、わたしを――』


 まだ途切れる。まだ先は聞こえない。けれど、確かに近い。


「行く」


 リョウは言った。


 ローズがすぐに薔薇の鞭を構えた。


「一人では行かせない」


「一人で行く」


「だめ」


「僕の中の欠片が中心へ反応してる。僕が行かないと、声は聞けない」


「あなたが行けば、ミラーはあなたの霧を使う」


「使わせない」


「言葉だけでは足りない」


 ローズの声は厳しかった。けれど、そこには先ほどまでのような即座の拒絶だけではなく、薄い迷いが混じっていた。リョウが「作る」と言い切ったとき、彼女は止めるしかなかった。だが今、リョウは「聞く」と言った。アスカ本人の続きを聞く。作る前に、混ぜる前に。それは危険な道であると同時に、初めてリョウがアスカの意思へ向かおうとした道でもあった。


 アヤトの記録線が、白い糸のようにリョウの胸元へ伸びた。


「座標を残す。拒否しないで」


「拘束か」


「違う。戻るための記録」


「信用しろって?」


「信用しなくていい。でも、これがなければ君は奥で春日リョウの名前を失う可能性がある」


 リョウは少しだけ黙った。胸のカードはまだ熱い。アヤトが書いた名前。レジストリの杭。利用されかけた証でもあり、消えないための証でもある。リョウは白い記録線を拒まなかった。線はカードの縁に触れ、そこへ細い白い枠を作る。


「ナギサさん」


 アヤトの声が、次にナギサへ向いた。


「君の声も必要になる。けれど、近づきすぎないで」


「近づきすぎないと、届かないんじゃないですか」


「届きすぎると、君の世界ごと引かれる」


「難しいことばっかり言いますね」


「僕もそう思う」


 ナギサは泣き腫らした目で、リョウを見た。怖がっている。怒っている。それでも、見ている。リョウが顔を背けようとすると、彼女は小さく首を横に振った。


「見てから行って」


 ナギサは言った。


「また、勝手に遠くへ行かないで」


 リョウは頷いた。


「椎凪ナギサ」


「はい」


「君の思い出は、持っていかない」


「本当に?」


「本当に。……持っていきたくなったら、止めて」


「止めます。怒ります。泣きます」


「うん」


「あと、帰ってきたら説教します」


「それは」


「決定です」


 その言い方があまりにナギサで、リョウの胸の奥が軋んだ。黒い霧の中に、ほんの少しだけ人間の呼吸が戻る。白い仮面の亀裂は消えない。だが、亀裂の奥で、春日リョウという名前が小さく熱を持った。


 ミラーは微笑んでいた。


「準備はできた?」


「おまえの手は取らない」


 リョウは言った。


 ミラーは差し出した手をそのままにして、首を傾げる。


「じゃあ、どうやって来るの?」


「僕の名前で行く」


 リョウは胸のカードに触れた。


「春日リョウ」


 白い記録線が光る。


「椎名アスカ」


 黒い霧の奥で、無数の欠片が震える。


「椎凪ナギサ」


 遠くの昇降口が、細く光る。


「鳴海マナ。ファントム・ローズ」


 赤黒い薔薇が境界を刻む。


「影山アヤト」


 白い記録線が道になる。


 そして最後に、リョウは仮面の奥で息を吸った。


「僕は、作りに行くんじゃない。聞きに行く」


 その言葉を合図に、黒い霧が細く収束した。広がるのではなく、針のように細く、奥へ向かう一本の道になる。ミラーの鏡面はそれを受け入れた。無数の世界が一斉に反射し、リョウの身体を奥へ引き込む。ローズの赤い境界線がリョウの背中に触れ、切るのではなく、外側に戻るための縁を残す。ナギサの声が背後から響く。


「リョウ!」


 リョウは振り返らなかった。


 振り返れば、戻りたくなる。戻りたくなることを、今は覚えていたかった。


 鏡の奥は、廊下ではなかった。教室でも、レジストリの通路でも、保健室でもない。最初に見えたのは、白い水面だった。天井も床もなく、上下の区別も曖昧で、無数の欠片が水の中に沈んでいる。声、名前、写真、手書きのメモ、誰かの笑顔、誰かの涙、白いカーテン、黒い霧、赤い薔薇、ナギサの写真の亀裂、未登録三七の鈴。それらが水の中でゆっくり回転していた。リョウはその中心へ歩いた。歩いているのに、足音はしない。水面は揺れない。ここは物理的な場所ではない。集めた欠片が互いに引き合い、アスカという名前を中心に仮の重力を作った場所だった。


 その中心に、椎名アスカがいた。


 リョウは息を止めた。


 彼女は、ミラーの作った完璧なアスカではなかった。黒瀬遥の世界で明るく笑っていた友人としてのアスカでも、雨の日に優しく傘を差し出すだけのアスカでも、リョウの記憶の中で何度も美しく保護された恋人でもなかった。そこにいるアスカは、少し疲れた顔をしていた。制服の袖を握りしめ、目元には眠れない夜の影がある。髪は少し乱れ、唇は何かを言いかけて何度も閉じた人の形をしている。優しい。けれど、優しいだけではない。弱く、不安で、隠し事をして、救いを求める場所を間違えた少女。リョウが愛していた人であり、リョウが見落としていた人だった。


「アスカ」


 声が掠れた。


 彼女は顔を上げた。


「リョウ」


 その声に、ノイズはなかった。


 リョウの足が止まる。仮面の内側で、何かが壊れそうになった。ずっと聞きたかった声。何度も欠片の中で追った声。途中で切れ、歪み、ミラーに真似され、記録として再生され、他人の世界の印象として揺れた声。その声が、今、目の前でリョウの名前を呼んでいる。


「本物、なのか」


 言ってしまってから、リョウは自分を殴りたくなった。


 アスカは少しだけ笑った。悲しそうな笑いだった。


「それ、わたしに聞くんだ」


「違う。ごめん。僕は」


「いいよ。聞きたくなるよね」


 アスカは自分の手を見下ろした。その手も、輪郭が少し揺れている。完全ではない。ここにいる彼女は肉体ではない。集めた欠片の中心で、アスカ本人の意思に近いものが形を取っているだけだ。それでも、彼女の目はリョウを見ていた。誰か全員へ向けたミラーの目ではなく、リョウひとりを見て、同時にリョウから少し距離を取る目だった。


「わたしが本物かどうか、わたしにも分からない」


 アスカは言った。


「でも、リョウが聞きたかった続きに一番近い場所にはいると思う」


 リョウの胸が痛む。


「じゃあ、言ってくれ」


「うん」


 アスカは少しだけ視線を伏せた。


「でも、その前に、リョウに聞きたい」


「何」


「リョウが戻したいのは、わたし?」


 白い水面が静まり返った。


「それとも、わたしを失う前のリョウ?」


 リョウは、答えられなかった。


 その問いは、ローズやマナに似ていた。だが、アスカの口から聞くと、重さがまったく違った。あなたが取り戻そうとしているのは本当にアスカなのか。それとも、アスカを失う前の自分なのか。誰かに問われたとき、リョウは怒れた。違うと言えた。アスカを取り戻したいだけだと叫べた。だが、アスカ本人に近いものの前では、同じように叫べなかった。


「わたしが戻ったら」


 アスカは続けた。


「リョウは、失う前のリョウに戻れると思った?」


「違う」


 反射的に言った。けれど、声は弱かった。


「本当に?」


「僕は、君を」


「うん。わたしを大事に思ってくれたのは、分かってる」


 アスカは遮らなかった。ただ、静かに受け止めた。


「覚えていてくれたことも、探してくれたことも、嬉しい。怖いくらい嬉しい。リョウがわたしの名前を呼んでくれたから、わたしは完全にはほどけなかった。たぶん、そういう部分はある。でも」


 彼女は袖を握る指に力を込めた。


「リョウの中のわたしは、いつも少し綺麗だった」


 リョウの喉が詰まる。


「違う」


「違わないよ。リョウは、わたしの弱いところも思い出そうとしてくれた。保健室で相談していたことも、ダブルBに行ったことも、不安だったことも。だけど、それでもどこかで、わたしを守る対象にしていた。救えなかった人にしていた。取り戻せば、自分の失敗も、わたしの失敗も、なかったことにできるかもしれないって、少し思っていた」


「思ってない」


 リョウは言った。


 しかし、その声はすぐに崩れた。


「……思ってない、つもりだった」


 白い水面に、かつての日常が映る。中庭での会話。アスカが「いなくなっても覚えていてくれる?」と聞いた瞬間のリョウ。彼は戸惑い、怖がり、その不安を深く受け止めきれなかった。保健室の白いカーテン。アスカが水鏡に相談している。リョウはそれを知らない。〈クラブ・ダブルB〉へ向かうアスカ。リョウは止められない。鏡面の奥で「覚えていて」と言うアスカ。リョウは手を伸ばすが、届かない。翌朝、写真から消えたアスカ。世界が書き換わり、ナギサが恋人としてそこにいる。リョウだけが覚えている。


 リョウは、そのすべてを見た。


 そして、その中にいる自分を見た。


「僕は」


 声が震えた。


「君を取り戻せば、あの朝を否定できると思った」


 アスカは何も言わない。


「世界が君を忘れたことを、間違いだったって証明できると思った。僕が君を救えなかったことも、君が一人で抱えていたことに気づけなかったことも、全部、取り返せるって」


 黒い仮面の亀裂から、霧が静かに落ちる。


「君を取り戻したかった。これは本当だ。でも、それだけじゃなかった。君を失って壊れた僕を、君が戻れば救えると思っていた。君がいれば、失う前の僕に戻れるんじゃないかって。世界を恨む前の、メアになる前の、ただ君の隣にいた僕に」


 言葉にした瞬間、白い水面が深く揺れた。


 リョウは、初めて認めた。


 アスカを取り戻したいという願いの中に、自分自身を救いたい欲望が混ざっていたことを。アスカのためだと信じていた道の奥に、アスカを失った自分をなかったことにしたい願いがあったことを。


 アスカは、泣かなかった。責めもしなかった。ただ、少しだけ目を細めた。


「リョウ」


「ごめん」


「謝るのは、あとでいい」


「でも」


「まだ、聞いてないことがある」


 アスカはリョウの前に立った。手を伸ばせば届く距離。けれど、彼女はリョウに触れなかった。触れないことが、彼女の意思だった。


「わたしは、リョウの記憶の中だけにいるものなの?」


 リョウは息を止めた。


「リョウが覚えているわたし。リョウが集めた欠片で作るわたし。リョウが失いたくないわたし。そういうものだけが、椎名アスカなの?」


「違う」


 今度は、すぐに答えた。


 アスカは、静かに見ている。


「違う。君は、僕の記憶だけじゃない。僕の恋人だったことだけでもない。遥の友達だった。雨の日に誰かへ傘を貸した。知らない子に勉強を教えた。僕に隠し事をした。水鏡先生に相談した。〈クラブ・ダブルB〉に行った。救いを求めて、間違えた。怖がって、弱くて、優しくて、僕が知らない顔をたくさん持っていた」


 言葉にするたび、リョウの中のアスカ像が変わっていく。綺麗な恋人でも、失われた被害者でも、取り戻すべき名前でもない。一人の少女。自分の弱さを抱えきれず、誰かに分かってほしくて、しかしその願いがミラーへつながってしまった少女。


「僕は、君を全部知っていたわけじゃなかった」


「うん」


「知らないまま、取り戻そうとしていた」


「うん」


「知らない部分まで、僕の願望で埋めようとしていた」


「うん」


 アスカの頷きは優しかった。だから痛かった。


「でも、リョウが覚えていてくれたことは、嘘じゃない」


 アスカは言った。


「わたし、怖かった。リョウの世界から消えるのが怖かった。幸せだったのに、いつかリョウだけが前へ進んで、わたしだけいなくなるような気がしていた。馬鹿みたいだよね。隣にいたのに。リョウはちゃんと見てくれていたのに。それでも怖かった」


「馬鹿じゃない」


「うん。でも、わたしはその怖さをリョウにちゃんと言わなかった」


 アスカの声が震えた。


「リョウに言えばよかった。怖いって。消えたくないって。もっと見てって。助けてって。でも、言えなかった。困らせたくなかったし、重いって思われるのも怖かった。リョウがわたしを大事にしてくれているからこそ、わたしはその大事さを疑っている自分が嫌だった」


 白い水面に、保健室のカーテンが映る。


「水鏡先生は、優しかった。少なくとも、わたしにはそう見えた。一人で抱えなくていいって言われて、救われた気がした。クラブも、最初は怖くなかった。みんな分かってくれる気がした。わたしが消えたくないって願っても、誰も重いって言わなかった」


「アスカ」


「わたしは、自分で近づいた」


 その言葉は、リョウが聞きたくなかったものだった。


「さらわれただけじゃない。騙されただけでもない。わたしの中に、そこへ行きたい理由があった。だから、全部を誰かのせいにしないで。水鏡先生だけのせいにしないで。ミラーだけのせいにしないで。リョウが救えなかったせいだけにもしないで」


 リョウは、崩れそうになった。


 救えなかったのは自分のせいだと思っていた。そう思うことで、逆に世界を恨む理由にしていた。自分が救うべきだった、自分が取り戻すべきだ、自分が世界に思い出させるべきだ。けれど、アスカはそこからもリョウを引き離そうとしている。自分の弱さも、自分の選択も、自分の過ちも、自分のものだと言っている。


「わたしは、リョウの罪じゃない」


 アスカは言った。


「リョウの救済でもない」


 リョウは顔を上げられなかった。


「じゃあ、僕は」


「覚えていてくれた」


 アスカの声が柔らかくなる。


「それは、すごく嬉しかった。世界が忘れても、リョウが名前を呼んでくれた。わたしが完全にほどけないように、何度も何度も呼んでくれた。それは、リョウにしかできなかったことだと思う」


「でも」


「でも、作り直さないで」


 リョウの心臓が止まったように感じた。


 アスカは、ようやくリョウへ一歩近づいた。手を伸ばす。けれど、触れない。指先は、リョウの白い仮面の亀裂の少し手前で止まった。


「覚えていてくれて、ありがとう」


 その言葉は、ずっと欲しかったものだった。リョウが世界に逆らい、記憶を握りしめ、名前を呼び続けたことへの返事。けれど、その次に来る言葉を、彼はもう予感していた。


「でも、わたしを作り直さないで」


 白い水面が静かに揺れた。


 リョウは、何も言えなかった。


「作り直されたわたしは、きっとリョウに優しい。リョウが欲しい言葉を言える。リョウの記憶と、欠片と、願いでできているから。でも、それはわたしなのかな。弱くて、隠し事をして、リョウにちゃんと言えなくて、救いを求める場所を間違えたわたしまで、そこにいるのかな」


「入れる」


 リョウは必死に言った。


「全部、入れる。君の弱さも、怖さも、僕の知らなかったことも」


「それを入れるのは、リョウでしょう」


 アスカは静かに言った。


「リョウが選んで、リョウが配置して、リョウが“これがアスカだ”って決める。それは、わたしが生きることとは違う」


 言葉が、黒い霧を切る。


「わたしは、リョウの記憶の中だけにいるものじゃない。誰かの欠片だけでもない。ミラーの中に残ったコピーだけでもない。全部がわたしに近い。けれど、全部を集めたらわたしになるわけじゃない」


「じゃあ、どうすればいい」


 リョウの声は、子どものようだった。


「僕は、どうすればいい。忘れればいいのか。君を置いて帰ればいいのか。世界が君を消したままで、生きていけばいいのか」


 アスカは答えなかった。すぐに答えられる問いではなかった。彼女の輪郭も、少し揺れている。ここにいるアスカは完全な本人ではない。意思に近いもの。声の続きを持つもの。だからこそ、万能の答えは出せない。


「忘れないで」


 アスカは言った。


 リョウは顔を上げる。


「でも、作り直さないで。わたしを、リョウの傷を埋める形にしないで。わたしがいない世界を許せないのは分かる。でも、わたしがいる世界を作るために、ナギサさんや、他の人の世界を壊さないで」


「僕は」


「リョウ」


 アスカの声が少しだけ強くなる。


「わたしを覚えていてくれるなら、わたしが嫌だと言うことも覚えていて」


 リョウの仮面の黒い亀裂が、深く震えた。


 遠くで、ミラーの白い光が揺れる。ここまでの対話を聞いていたのだろう。アスカの姿をしたミラーではない。もっと大きな、反射そのものの気配が、白い水面の外側で囁く。


「本当にそれでいいの?」


 ミラーの声だった。


「作り直さなければ、アスカは戻らない。リョウはまた失う。ナギサも傷ついたまま。みんなばらばらのまま。それでもいいの?」


 アスカは、ミラーの声へは答えなかった。リョウだけを見た。


「リョウが決めて」


「僕が?」


「うん。わたしの言葉を聞いたうえで、リョウが決めて。わたしを作り直すのか。覚えたまま、作り直さないのか」


「そんなの」


 リョウは震えた。


「そんなの、残酷だ」


「うん」


 アスカは頷いた。


「わたしも、リョウに残酷なことを言ってる」


「君は、戻りたくないのか」


 アスカは目を伏せた。


「戻りたい、って思う欠片もある」


 リョウの胸が跳ねる。


「でも、戻るためなら誰かを壊していい、とは思わない」


 その言葉で、胸の熱は沈んだ。


「リョウの隣にいたかった。消えたくなかった。覚えていてほしかった。それは本当。でも、わたしが怖がっていた“消えること”を、リョウが誰かに渡してしまうのは嫌」


 ナギサの写真。未登録三七の空白。黒瀬遥の涙。ミラーの生徒たちの輪郭。すべてがリョウの中でつながる。


「アスカ」


 リョウは、ようやく手を伸ばした。


 アスカは、今度は避けなかった。触れる寸前、彼女の指先は光になり、リョウの仮面の亀裂へそっと触れた。冷たくはなかった。温かくもなかった。ただ、名前を呼ぶときの温度があった。


「覚えていてくれて、ありがとう」


 アスカはもう一度言った。


「でも、わたしを作り直さないで」


 その瞬間、白い水面が大きく波打ち、リョウの足元の黒い霧が初めて後退した。


 仮面の亀裂から、黒ではない透明な水滴が一つ落ちた。

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