ミラー「Cace3帰還」
明るい話題をする雰囲気でもなかった。
家路の間、僕らはほとんど無言。
けど、手はしっかりと握り合っていた。
とりあえず渚の家に向かうことになった。距離的にも僕の家より近いし、住み慣れた家のほうが渚も落ち着くだろう。
渚の部屋には何度も入れてもらったことがある。母親にも会っている。――という記憶がある。世界がこうなってしまってからは、部屋に入ったことも母親に会ったこともない。
記憶が混在すると、感情も混在する。
だから渚の家に行って部屋に入るというのは少し緊張する。
歩くには長い距離だったけど、もうすぐ渚の家だ。
もう見えてきた。
1件隣が渚の家だ。
僕はふと通り過ぎようとした家の表札を見て驚いた。
――鳴海[ナルミ]。
そこにはないはずの物だった。
それは前の世界での話だ。
渚の家の隣に鳴海家はなかったことにされているはずだった。
道路の向こうからこちらに向かって歩いてくる人影。
風に揺れる長い黒髪。
渚が笑顔になった。
「愛[マナ]ちゃん、こんにちわ!」
間違いない。
前から歩いてきたのは鳴海愛だ。この世界にはいないはずの鳴海愛がいる!?
「こんにちは」
凜とした声で鳴海はあいさつをした。なにも変わってない。何事もなかったように鳴海愛がそこに存在している。
どうしてだ!?
世界が変わった。
何かが起ころうとしているのか、すでに起きているのか?
もうきっと起きている。
あの〈ミラーズ〉も現れたんだ。
鳴海が近付いてくるにつれ、なぜか渚は泣きそうな表情をした。
そして、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「あれ……なんで泣いてるんだろ?」
渚は自分が泣いている理由がわからないみたいだ。
鳴海はなにも言わず渚を抱き寄せた。
なにが起きているのかわからない。
〈ミラーズ〉が現れて鳴海愛が現れた。
もしかして鳴海愛はすでに〈ミラーズ〉なのか!?
だとしたら渚を守らなきゃいけない!
でも、二人の間に割って入れる雰囲気でもなかった。僕の考えが違ったら最悪だ。もう少し見守ってみよう。
渚は鳴海の胸で泣き続けていた。
「どうしてか……わからないんだけど……涙が止まらなくて……」
「泣きたい時は泣けばいい。私はいつでも渚の近くにいる」
「でも……こんなこと言うと変に……思われる……かもしれないけど……もう一生会えないと思ってた人に……会えたみたいな。あたしバカみたい……だって愛ちゃんには昨日も会ってるのに」
昨日?
やっぱり世界が改変されてる。
僕と鳴海はクラスメートだった。昨日はちゃんと学校だってあったけど、鳴海は存在してなかった。
……ん?
おかしい。
僕はある疑問にぶち当たった。
世界や渚の記憶が改変されている。にも拘わらず、僕の記憶に変化がない。それはおかしい。
今みたいな世界になってしまったとき、僕は記憶の混在に悩まされたんだ。今だってそれに悩まされている。二人の彼女の存在と、二人を好きだという嘘じゃない気持ち。そういう記憶の混在が僕の中には起こっていない。
もしも昨日から鳴海がいたなら、僕にもその記憶があるはずだ。
やっと涙を拭って渚は顔を上げた。
「ねぇ、愛ちゃんもあたしのウチに来て。愛ちゃんは絶対あたしのことを助けてくれる。絶対頼りになるもん!」
「なにかあったのか?」
「……うん」
渚は暗い表情をして小さくうなずいた。
たしかに鳴海は頼りになる。前の世界でも一緒に事件を追ってたんだ。ただこの世界ではそういう事実はないことになってるけど、きっと今の世界でも頼りになりそうだ。
僕ら3人は渚の家に入った。
まるでデジャブだ。
入ったことがないのにある。記憶にはある風景。
2階の渚の部屋も記憶にある通りだ。
僕はいつもと同じ場所に腰掛けた。ベッドを背中にしたカーペットが僕の定位置という記憶があった。
渚は僕と鳴海を残して部屋を出て行こうとした。
「飲み物取ってくるね」
僕が後を追おうと立ち上がると渚は続けて言う。
「いいよ、待ってて」
渚はひとりで行ってしまった。あんなことがあったのに、ひとりにするのは心配だったけど、もうだいぶ落ち着いたのかもしれない。もしかしたら鳴海効果なのだろうか?
これまで鳴海と二人っきりになったことはあったけど、こうやって小さい部屋の中で二人っきりにされると緊張する。女子ってことを意識するんじゃなくて、鳴海は変な気迫みたいなのを放ってくるからだ。
沈黙は耐えられない。それに聞きたいこともあった。
「本当に鳴海愛なんだよね?」
普通だったら馬鹿な質問だろうな。
「なんだ藪から棒に?」
そんな風に返されるのが普通だよ。
でも、僕の記憶が正しければ、絶対に鳴海愛は昨日までいなかったはずの存在なんだ。
「鳴海って昨日学校休んだ?」
「影が薄くて悪かったな」
いや、鳴海の影は濃いよ。クラスでは浮いてるけど、それは濃すぎるからなんだ。
そういえば僕と鳴海の関係ってどうなんだ?
前の世界では事件を追うまで関わって来なかったけど、この世界での関係はどうなんだろう?
僕の記憶が改変されてないせいで、どう接していいのかわからないな。もしかしたら、こうやって話すのもはじめてだったりして。
渚と鳴海は幼なじみのようなものだった。とすると、僕と渚は付き合ってるんだから、鳴海ともそれなりに関係があると思うんだ。
気にしてたら会話がなにもできない。
初対面だろうがなんだろうが普通に接しよう。初めてでもフレンドリーな人はいるし、逆に友達だったとして変に畏まってたら変だもんな。
「あのさ、〈クラブ・ダブルB〉って知ってる?」
前の世界の記憶を尋ねてなにか意味があるのだろうか?
でも突然現れた鳴海はほかの人と違う可能性だってある。
「知らないな」
鳴海の答えに僕は落胆した。
でも鳴海は嘘をついているのかもしれない。嘘をつく理由はわかんないけど、そういう可能性だってあるんだ。
僕はさらにたずねることにした。
「じゃあ〈ミラーズ〉って知ってる?」
「それも知らないな」
やっぱり鳴海もこの世界の住人なんだ。それが当然なんだ、この世界では。
鳴海がこの世界に現れたのは偶然じゃないと思う。きっと〈ミラーズ〉が現れたのと関係があるって考えた方が自然だ。だってその日の今日の出来事なんだから、結びつけない方が変だと思う。ただ鳴海愛自身が何らかの重要な意味を持って現れたかどうかはわからない。
もしかして鳴海以外の人たちも戻ってきたのか?
その可能性はある。
いなかったことにされた人たちがこの世界に戻ってきたなら、その中の1人として鳴海がいても変じゃない。
月曜日になったらたしかめてみよう。学校でだったら簡単にたしかめられるはずだ。
「いつも様子が違うが平気か春日?」
「えっ?」
鳴海に突然名前を呼ばれた。
最近考え事が多くなって、周りが見えてないことがよくある。今もそうだったみたいだ。
「平気だよ……いや、平気じゃないのかな」
「なにかあったのか?」
「いろいろとね。渚が帰ってきたら話すよ」
「そうか、渚の様子も変だったからな」
僕は重たい表情をした。
起きたことに僕はショックを受けたりはしてないけど、〈ミラーズ〉が現れたって問題は深刻だ。いくら鳴海が頼りになるって言っても、こんな普通の人から見たら超常的なものに巻き込んでいいのだろうか?
巻き込みたくなって気持ちもあるけど、少しでも誰かの手を借りたいっていう気持ちもある。だって僕だけじゃなにもできないんだ。本当に僕は無力だよ。
それにこれは僕だけの問題じゃなくて、渚にも関わりのあることなんだ。鳴海がいてくれたら渚を支えてくれる。少しでも渚を支えてくれる人がいれば僕も助かる。
話すだけ話そう。深く関わるかどうかは鳴海に任せよう。ずるい方法だと思うけど、それがいいと思う。この流れから言っても、僕が話さなくても渚はきっと鳴海に相談するはずなんだから。
渚がコップ3つと1リットルのペットボトルを抱えながら帰ってきた。別の意味でついていけばよかった。
「あ、おっとと、あっ、あっ、ペットボトルがすべり落ちる!」
渚が叫んだ。
慌てて僕はペットボトルをつかむ。
落ちそうだったのはペットボトルだけじゃなかった。
落ちそうになったコップを鳴海が受け取った。
危なかった。
渚は笑って見せた。
「あはは、涼も愛ちゃんもありがと♪」
いつも渚だ。こういう姿を見ると安心する。でも、こういう姿を見てしまうと、このまま話をしないで帰りたくもなってしまう。
逃げれるものなら逃げたいよ。
きっとそれはできないことなんだ。
渚がコップにジュースを注いでくれた。グレープの匂いがする。
今まで気づかなかったけど、すごいのどが乾いてるみたいだ。いろいろあったし、けっこう歩いたりもしたからな。
一気にジュースを飲み干した僕を見て渚が笑っていた。
「涼、飲むの早〜い。あたしまだ一口も飲んでないのにぃ」
そう言いながら渚がコップに口をつけようとした瞬間!
「キャーーッ!」
渚の絶叫と共に持っていたコップが宙を舞った。
そのコップから伸びていた人間の腕!?
突然のことに僕は動くことができなかった。
ジュースが飛び散って溢れ、床に叩きつけられたコップが割れた。
もうそのときには腕なんてなかった。
目の錯覚だったって思えるくらいの出来事だったけど、目撃者はひとりじゃないんだ。
僕は渚の身体を抱きしめた。
「大丈夫?」
渚の身体は酷く震えていた。
「もう……やだ……」
震える声で訴える渚を僕は強く抱きしめた。
鳴海はティッシュを割れたコップの上にかぶせていた。
「人間の手だったな」
淡々としていてまったく動じてないところが、やっぱり鳴海だ。
涙を浮かべた瞳で渚は僕を見つめた。
「早くどこかに逃げようよ!」
僕の服をつかむ渚の手に力が入った。
渚の気持ちはわかる。でも――。
「どこに行っても同じだと思う。ここを離れたいのはわかるけど、変に動かない方がきっといい。まずは鏡になりそうな物を全部隠そう、そうすればきっと大丈夫……大丈夫だから」
鏡が関係あるのか確証はないけど、どこに行っても同じって言うのはあってると思う。
鳴海が僕に尋ねる。
「鏡になりそうな物を隠せばいいのだな?」
僕がうなずいて見せると、深く理由も聞かずに鳴海は素早く行動した。
窓のカーテンをしっかりと閉める。小さな鏡なんかは隠してしまう。テレビには布を隠せた。鏡面になりそうな物はとくにかく手分けして隠した。
さっき腕が出たコップの縁は大きめだった。ギリギリ腕が出せるくらいだ。それを考えると鏡面から出てくるときは、ある程度の物理法則に従わなきゃいけないのかもしれない。身体の大きさよりも小さい場所から出てこられない。
本当にそうなのか?
電車のときはどうだった?
あれは出てきたと言うより、そこにいた人と入れ替わったって感じだった。
考えても駄目だ。そもそもさっきの腕は〈ミラーズ〉だったのかもわからない。とにかく鏡面は危険な気がする。
鳴海が真剣な面持ちで僕を見つめてきた。
「あれが原因か?」
「もっと酷いことがあったんだ」
さっきのあれは起きて欲しくなかったけど、あれがあったことで話しやすくはなったと思う。コップから人の手が出てくる光景を見たら、どんな話だって信じてもらえるだろう。
僕は電車の中であったことを鳴海に聞かせた。ただし僕が元々知っていたことは伏せることにして、見たままのことを話すことにした。
話している間、渚はずっと僕に抱きついたままだった。震えが伝わってくる。
一通り話し終えてから、僕は周りの反応を待った。
深くうなずいて口を開いたのは鳴海。
「正体不明の異質な者に狙われているのはわかった。狙われているのは渚か春日か、それとも2人共なのかはまだわからないな。なにか心当たりはないのか?」
心当たりと言ったら僕は前の世界で〈ミラーズ〉たちと関わっている。渚も関わってはいたけど、そこまで深いところまでは関わってなかった。
「実は……あいつらは〈ミラーズ〉って言うんだ。人攫いをしていて……それ以上のことは僕もよくわからないんだ」
それ以上のことは整理できていない。
〈ミラーズ〉の目的。
前の世界で〈ミラーズ〉たちを操っていたのは……水鏡紫影先生だった。
渚と鳴海に前の世界のことも話すべきなんだろうか?
前の世界では謎の〈鏡〉を使って水鏡先生が〈ミラーズ〉たちをつくっていた。つくっていたという表現が正しいかわからないけど、とにかく人をさらってそのそっくりな〈ミラーズ〉を作ってたんだ。
目的は全ての人の悩みを解消するとか……だったと思う。いまいちその辺りははっきりしない。なんだかわからないうちに終わって、僕は変わってしまった世界にいたんだ。
渚が僕を見つめた。まだ不安そうな表情をしている。
「あたしたちを助けてくれた人は誰だったんだろう……涼は知ってるんでしょ?」
「名前くらいしか知らないんだ。とにかくどこからともなく現れて〈ミラーズ〉と戦ってる。僕が知ってるのはそのくらいなんだよ」
僕だってわからないことだらけなんだ。
しばらく誰もしゃべらなくなって、やっと鳴海が口を開いた。
「相手のことがわからない以上は、こちら側は守りに徹するしかないな」
「そうだね僕もそう思うよ」
「今日は2人とも私の家に泊まるといい。両親は何日か帰ってこない予定だからな。こんなことを大人たちに話しても信用してもらえないだろう。そうなれば私たちで解決しなくてはいけなくなる」
私たち……か。やっぱり鳴海は協力してくれる気なんだ。そうなると思っていたし、そうなることを望んでいた。でもやっぱり巻き込んでしまったという罪悪感はある。
大人たちに話しても無駄っていうのは当たってると思う。両親ですら他人に思えるこの世界じゃ、みんな部外者に感じてしまう。渚が近くにいなきゃみんなぼやけてしまう。
こうやって協力してくれようとしている鳴海だって……。
最後は自分しか頼りにならないんだ、きっと。