ミラー「Cace2襲撃」
地下ホームに僕たちは下りた。
まばらに見える人たち。
何気なく壁の広告を見ていると渚が声をかけてきた。
「ねぇ、涼?」
「なに?」
「体調悪いのに出掛けて大丈夫?」
「大丈夫だよ」
出掛けることは問題じゃない。僕は渚と一緒にいなければいけない。
ホームにアナウンスが流れ、すぐに電車がやってきた。
電車に乗ると席がまばらに空いていた。けど2つ並んで空いている場所はなくて、渚を座らせて僕はつり革につかまることにした。
「あたしが座って大丈夫?」
渚はまだ体調を心配してくれていた。
「大丈夫だよ」
「向こうの席空いてるから座ったら?」
「いいよ、近くにいるよ」
僕は微笑んで見せた。それに渚も微笑んで返してくれた。
緩やかに動き出す電車。
暗い窓に映り込む僕の姿。
ここに僕はいる。
窓に映っているのは僕以外の何者でもない。
間違いなく僕の顔。
たまに不安になるときがある。そこに僕の顔がなかったらって。
渚といるときはまだいい。家で独りでいるときに鏡を見たりするのが怖い。もしも自分の顔がぼやけていたら、恐ろしくてたまらない。
僕は僕だ。
大丈夫、心も体も僕のものだ。
そんな当たり前のことが今じゃ当たり前じゃない。
窓を見ると不安そうな顔をした僕が映っていた。そんな顔をしてちゃいけない。不安はそれに見合った結果を呼び寄せる。こんな顔してたら渚だって不安に思うじゃないか。
笑顔を作ろう。
窓を見ながら表情を変えようとした。
しかし、僕の表情は笑顔どころか恐怖に染まってしまった。
恐ろしいことが起きてしまった。
僕は慌てて振り返った。
向かいの席に何事もなく座っている人々。
だが、再び顔を戻した窓に映り込む人々の姿は――〈ミラーズ〉!
まさかこんな場所に現れるなんて!?
渚が叫ぶ。
「きゃーっ、涼っ!!」
すでに鏡となった窓の中だけではなく、こちらの世界の人々もみんな〈ミラーズ〉に変わってしまっていた。
僕は慌てて渚の腕をつかんで立たせると、そのまま胸に抱き寄せた。
席に座っていた〈ミラーズ〉たちが一斉に立ち上がった。
僕らに逃げ場はない。
隣の車両にも目を配ったけど、向こう側も〈ミラーズ〉で溢れている。
なにがなんだかわからない。なんで〈ミラーズ〉が現れるんだ。もう全部無かったことになったんじゃなかったのか!
〈ミラーズ〉たちがじわじわと寄ってくる。
僕らになにをする気なんだ。なんの目的があって現れたんだ!
まだ〈ミラーズ〉に関してはわからないことばかりだ。
僕は、僕は……巻き込まれただけなんだ!
〈ミラーズ〉たちの手が僕らに伸びる。
もうダメだ!!
強く目をつぶった。
悲鳴があがった。
それは渚の叫び声だった。
恐る恐る目を開けると、そこには紅く彩られた〈ミラーズ〉の姿。
ゆっくりと〈ミラーズ〉たちが崩れ落ちていく。
薔薇の香りが鼻を突く。
その先に立っていたのは――。
「ファントム・ローズ!」
僕は叫んだ。
また僕はファントム・ローズに会ってしまった。
薔薇の鞭が舞い、白い薔薇が紅く染まっていくのを僕は見た。
恐ろしい光景。
まるでマネキンのように〈ミラーズ〉たちが倒されていく。
あまりにも無機質な光景なのに、血があまりにも生々しく流れている。
渚は眼を見開いたまま瞬き一つしていない。
誰もこんな光景現実だとは思えない。
でも僕は知っている。
現実だろうが夢だろうが、そんなことどうでもいいんだ。
目の前で起きていることからは逃れられない。
電車が止まった。
ドアが開いた瞬間に何事も無かったことにされた。
電車には僕ら以外乗っていない。倒れた〈ミラーズ〉たちも、血の一滴も残っていなかった。そこにはファントム・ローズの姿すらない。
ホームにいた人々が電車に乗り込んでくる。
僕は渚の腕を取って、人の波に逆らってホームに出た。
渚の身体が重い。力がまったく入っていない感じだ。
近くにベンチがあったので、そこに渚を座らせた。
渚の眼は虚ろでどこを見ているのかわからない。ショックを受けているのは見て明らかだ。
なんて声をかけてあげればいいんだろう。
「大丈夫?」
そんな言葉しか思い付かなかった。
返事は返ってこない。
こうやって渚を見ているとわかる。僕の感覚はおかしくなってるんだ。おかしくなってしまったこの世界で、1番おかしくなってしまったのは僕かもしれない。
渚の横の席に座った。
世界は何事も無かったように流れている。
行き交う人々。
ホームの反対側にやって来た電車。
さっきの出来事は白昼夢じゃないかって思えるくらいだ。
でも僕はこの世界でどんなことが起きても、それが特別なことだとは思わないだろう。
そう思えるということは僕がおかしくなっているということだろう。
それとも、僕だけが正しくて、周りがみんな変なのだろうか?
おかしくなる前の世界がまやかしで、今の世界が本当の世界の姿だったら、それに気づいている僕はおかしくないんじゃないか?
でもこのおかしな世界がまやかしだったら、こんな世界を見ている僕がおかしいんだ。
……こんなこと考えても仕方ない。
起きていることが今の僕にとっては全部現実なんだ。そう思わないと生きていけない。目を背けたくても見えてしまうんだから。
渚の様子をうかがうと、まだ立ち直っていないようだった。
やっぱりどうしてあげたらいいのかわからない。
パニックになって取り乱してるなら、落ち着くようになだめるけど、渚は完全に放心状態だ。
僕は渚の手を握った。
その手は冷たかった。渚の身体から体温が奪われていた。
「もう大丈夫だよ渚」
その言葉がどれほどの効果を持つのかわからない。
時間が流れる。
とても長く感じる時間だ。
この時間の間にまた〈ミラーズ〉が現れないとも限らない。でも僕になにができる?
とりあえず電車にはもう乗らない方がいいだろう。
帰りはどうしよう。一駅だけでよかった。歩いて帰れない距離じゃないからな。
こんな心配してる場合じゃないのが普通か。
〈ミラーズ〉はどうして現れたのか?
それはわからない。
〈ミラーズ〉はどうやって現れたのか?
まず〈ミラーズ〉は窓に映った。そのときすぐに振り返ったけど、まだそのときはみんな普通で〈ミラーズ〉なんかじゃなかった。また窓に顔を戻してすぐに車内にも〈ミラーズ〉が現れたんだ。
前に〈ミラーズ〉と関わりがあったのは〈鏡〉だ。でもあれは特別な〈鏡〉だった。電車の窓が特別な物だったとは思えない。いや、でも……鏡っていうのは気になる。
もしも鏡が〈ミラーズ〉の出現に関わりがあったとしたら、そんなのどうやって回避したらいいんだ。鏡の代わりになる物なんていくらでもある。
〈ミラーズ〉が僕、もしくは渚を狙っているのだとしたら、なにもできないなんて言ってられない。
僕に〈ミラーズ〉と戦えっていうのか?
そんなの無理だし、なんの解決にもならない。
わからないことが多すぎる。
今考えても堂々巡りしそうだ。
ファントム・ローズはまた僕の前に現れるのだろうか?
そうだ、影山彪斗はいつ現れるのだろうか?
……結局、受動的なんだ。
なにかアクションが起こらないとなにもわからない。
解決の方法はわからない。どこへ向かえばいいのかもわからない。なんの解決にもらないなんて考えないで、今は目先の問題を片付けていこう。
まずは渚のことだ。
「大丈夫、渚?」
ほかになんて言っていいのかわからない。
心配いらないなんて言葉を言っても、僕自身がなにが心配いらないのかわからない。心配なんて言い出したら心配ばっかりだ。
どうしていのか僕が迷っていると、やっと渚が口を開いてくれた。
「……あったんだよね?」
「えっ、なにが?」
その言葉だけじゃ僕はなにを言っているのかわからなかった。
さらに渚は言葉を紡いだ。
「本当にあったことなんだよね?」
やっと理解した。
「うん」
多くは語らず僕はうなずいただけ。変にしゃべりすぎて刺激しない方がいいと思った。
うつむいていた渚が僕と眼を合わせた。
「涼は怖くないの?」
怖くはなかった。でもそれをそのまま言っていいものだろうか。自分も怖かったと言うべきか、それとも気の利いたことを言ったほうがいいのか。
僕が考えていると渚が先に口を開いてしまった。
「ぜんぜん怖くなさそうにしてたから……でもそれが逆に怖い」
「どういう意味?」
「なんのあれ!? ホントにあったことなんだよね? あたしだけが見てたわけじゃないよね?!」
急に取り乱したように声をあげた渚。
僕は落ち着かせようと渚の両肩をつかんだ。
「大丈夫だよ、落ち着いて」
「スゴイ怖かったよ……なんなの……なんなの……教えてよ涼?」
放心から立ち直ったと思ったら、それがパニックを呼んでしまったみたいだ。
渚の眼から涙がこぼれていた。
「僕に聞かれてもわからないよ……」
関係ないとは言わないけど、僕だってわからないことばかりなんだ。それに本当のことを言ったらどうなるんだろう?
目の前であんなことが起きれば、僕の話だって信じてくれるかもしれない。けど、それによって新たな問題が生じないとは限らない。
それにすべては話すことはできない。
椎名アスカのことは話せない。渚は椎名アスカの代わりなんて言えるだろうか。そんなことを言ったら、渚が不安になるだけだ。
僕の存在がここにあるのは、きっと渚のおかげなんだ。どのような感じで渚が関わっているのか、詳しいところまではわからなくても、渚が不安定になることは僕自身にも影響を及ぼすことはもうわかってる。それは認めなきゃいけない事実だ。
ご機嫌取りみたいなことをしなきゃいけないんだ。みたいなじゃなくて、完全にご機嫌取りだ。でもご機嫌取りって言い方は嫌なんだ。
渚が好きだって気持ちもあるから。
その気持ちに歯止めをかけるものがあるのも事実なんだ。
こんな世界になってしまってから、僕は突然渚のことが好きになっていた。でも前から好きだったっていう気持ちも混在してるんだ。
今の気持ちはどうなんだろう?
気持ちは変わったのか、それとも変わっていないのか?
僕は前よりも渚のことが好きになっている。それは世界がこうなったときに植え付けられたものじゃない。その気持ちは信じていいものなんじゃないか?
じゃあ前から渚のことが好きだったって言う記憶を嘘なのか?
ずっと付き合ってた記憶があるのに?
付き合いはじめは渚のほうから告白してきたんだ。今でもちゃんと覚えてる。
自分の記憶に惑わされるなんて、なにを信じていいのかわからなくなる。
大丈夫、今あるモノだけを信じればいい。
渚が僕の手をギュッと握った。
「教えてくれないの?」
「だから僕にも……」
「ウソつかないで……だってあの……あれ、よく思い出せない……」
「どうしたの?」
「あたしたちを襲おうとした人たちを殺した人の顔が思い出せない」
顔なんてはじめからない。だってファントム・ローズははじめから仮面だ。
でも仮面をつけてることを忘れるだろうか?
絶対に印象に残ることだと思う。
それともショックで記憶が欠如してしまったのだろうか?
僕は尋ねる。
「その人がどうしたの?」
「たしか……思い出せないけど……涼がその人に向かってなにか……言ってたのに、思い出せないよ」
あのときたしか僕は、ファントム・ローズの名を叫んだんだ。それを見られたら、僕がなにか知ってると思われるな。
渚の記憶は曖昧だ。ここは知らんぷりを通すべきだろうか、それとも言った方がいいのか?
もう渚のことを巻き込んでしまっている。
僕は渚から離れることはできない。
これからも渚と一緒に同じような目に遭うかもしれない。だったらこの話題は避けられないような気がする。問題は話すにしてもどこまで話すかだと思う。
椎名アスカの話はできない。
渚が僕が存在できることに関わっていることも伏せた方がいい。変に意識されると危ないような気がする。
「僕にもわからないことばっかりなんだ」
「やっぱり知ってるんだね」
「ごめんねウソついて。でもわからないことが多すぎて、どうやって話したらいいのかわからないんだ」
ウソはついてない。
「聞かせて、涼の知ってること」
「…………」
言葉が出てこない。困るとすぐに黙ってしまう。
まずは場所を変えよう。
周りの人には聞かれたくない。
「別の場所で話そう。もっと落ち着いた場所で」
そんな場所どこにあるんだろう?
〈ミラーズ〉は突然現れたんだ。どこだって落ち着いていられない。
僕は立ち上がって渚の手を引いた。
「帰ろう。電車はもう乗らない」
「うん」
「仕方ないから歩いて帰ろう」
「……うん」
どうせこれからどこかに出掛ける気力もない。なら帰るのがいいと思う。
僕らは地下ホームを上がりはじめた。