ミラー「Cace5鏡」
体がガクンと揺れた。
ほかの世界に移動したってことなのか?
目を開けると同じ場所だった。
ここが影山彪斗たちの世界なら……最悪だ。
屋上に群がっている〈ミラーズ〉たち。
万が一下の階から――という悪い予想が現実になってしまった。
影山彪斗は深く息を吐いた。
「僕らの世界に行くのは一時中断だ。こいつらを倒すか巻くかしないと……」
倒すのも巻くのも無理そうに見せる。ざっと〈ミラーズ〉の数は何十人くらいいるんだろう。数えるの大変なくらいだ。20人か30人はいそうな気がする。
〈ミラーズ〉の群れの中から誰かが現れた。
――水鏡先生!?
またか、また〈ミラーズ〉の影には水鏡先生がいたのか。
ということは!?
鳴海愛や藤宮彩は〈ミラーズ〉の可能性が高い!
しまった渚が危ない!!
鳴海愛が〈ミラーズ〉の可能性を疑っていたのに、なんで二人を残して来ちゃったんだ。クソッ、あの鳴海なら平気な気がしたんだ……気がしただけじゃ駄目じゃないか!
こいつらをどうにかして一刻も早く渚の元に行かなきゃ。でも、もしかしてもう渚は……。
ここで考えても仕方ない。
とにかく今はこの状況を打開しないと前に進めない。
僕は焦りながら影山に顔を向けた。
「どうする?」
「それを今考えている」
「いつも〈ミラーズ〉たちと戦ってるんだろ!」
「積極的な戦闘は控えている。戦力も作戦もないのに無謀な戦いは犠牲者を出すだけだ」
僕ら二人のやり取りを見て水鏡先生が笑った。
「あらあら仲間割れかしら。私たちの仲間になれば、そんな争いもなくなるわ。さあ、ひとつになりましょう」
水鏡先生が〈ミラーズ〉を引き連れて、ゆっくりとゆっくりと近付いてくる。
逃げ場はない。
影山は〈ミラーズ〉たちを見ながら僕に話しかけてきた。
「〈ミラーズ〉と戦う決意はあるかい?」
「あるに決まってるじゃないか」
「本当だね?」
「…………」
なんでそんなに念を押すように確認するんだろうか?
影山の口調は重い。
「戦うというのはゲームじゃないんだ。この手で相手を殺すってことなんだ」
その光景はファントム・ローズの物より残酷だった。
ファントム・ローズはまるで悪夢を見ているような光景。無機質な仮面の人形が、〈ミラーズ〉という人形を刻んでいく。あれは夢や幻を見ている気になるどこか美しく恐ろしい光景なんだ。
でも、今目の前で起きている光景は違った。
人の顔を持った者が〈ミラーズ〉たちを殺していく。
影山彪斗は隠していた鉤爪を装着していた。それで〈ミラーズ〉を一体一体刻んでいくんだ。彼の服や顔には返り血が飛んでくる。
内臓を深く抉った鉤爪。影山は表情ひとつ変えない。白い仮面よりも、この無表情な人間のほうが恐ろしい。
足がすくんで動けない。
ファントム・ローズのときは平気だったのに……。
「散らしながら逃げるぞ!」
遠くでだれかの声がする。
「聞いてるのか春日涼!」
影山彪斗の声だ。
ハッとして僕は我に返った。
未だ恐ろしい光景が繰り広げられている。
血しぶきを浴びて真っ赤な顔をした影山の姿。
生臭い血の臭いで吐きそうになる。
「走って逃げろ春日涼!」
影山の怒号が飛んだ。
急いで逃げようとしたときだった。
〈ミラーズ〉の波が影山を呑み込んだ。
まるでアリの大群にたかられたように呑み込まれた。
「影山!」
僕は叫んだ。
刹那!
血の臭いが辺りから消え、薔薇の香りが鼻を突いた。
――ファントム・ローズ!
白薔薇の矢が空から降り注いだ。
嗚呼、〈ミラーズ〉たちが細切れにされていく。
なんて残酷なんだ……でも美しい。
インバネスをはためかせ、白い仮面の主が薔薇の鞭を振るう。
白かった薔薇が血を吸って紅く染まる。
水鏡先生が叫ぶ。
「ファントム・ローズ!!」
その場に佇むファントム・ローズ。
〈ミラーズ〉は誰一人生き残っていなかった。
影山は自分の身体を抱きかかえながら床から立ち上がった。
「あれが……ファントム……ローズ」
その口ぶりは存在は知っていても初めて見たようだった。
水鏡先生は怒っている。見るからに邪悪そうな顔をして暗黒の炎を滾らせている。
「また私の邪魔をするのファントム・ローズ?」
「君たちが人の意思に反する限り何度でも何度でも邪魔をする」
「私の行っていることは世界の意思で、人々の総意よ!」
水鏡先生がファントム・ローズに襲い掛かった。その手にはナイフが握られている。
無慈悲の白い仮面が、そのときはなぜか哀しそうに見えた。
薔薇の鞭がしなやかに宙を舞った。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!」
水鏡先生の絶叫。
ナイフを握った手首が地面に落ちていた。
失った手首から噴き出す血で顔を真っ赤に染めながら水鏡先生は咆えた。
「ファントム・ローズ! ファントム・ローズ! ファントム・ローーーーーズ!!」
手首から吹き出ていた朱が急に黒く変わった。
墨のように黒い液体がばらまかれ、水鏡先生の全身を暗闇に染めていく。
「ファントム・ローズ! あなたは人の闇が見えていないわ。病んだ心を理解していないわ。人々の想いに目を背けてヒーロー気取りのつもり?」
そして、水鏡先生は壊れたように高笑いをはじめた。
黒い液体が海のように広がっていく。
なぜかその液体を見ているだけで胸焼けがする。
「きゃはははははははっ、ファントム・ローズ、私は世界の意思なのよ!!」
黒い液体が生き物のように動きはじめた。
まるで蛇のように、悪魔の化身の蛇のように黒い液体が踊り狂う。
黒い液体が僕のほうまで飛んできた。
インバネスが風を起こした。
僕の前に立ちふさがったファントム・ローズ。
飛んできた黒い液体をファントム・ローズが防いでくれた。けど、着ていたインバネスは腐ったように溶けてしまっていた。
あの黒い液体はいったいなんなんだ?
血じゃなかったの?
なにが起ころうとしている?
やがて黒い液体が集約していく――水鏡先生に向かって。
黒い服を着た水鏡先生が髪を振り上げてこちらを見た。
――白い仮面。
まるでそれはファントム・ローズと同じ。
白い仮面で顔を隠した水鏡先生がそこにいる。
影山がつぶやいた。
「……〈ファントム〉」
ファントム?
水鏡先生に向けられた言葉だ。
ファントム・ローズも同じようにつぶやいた。
「新たな〈ファントム〉だ」
ファントム?
ファントムっていったいなんなんだ?
影山が再びつぶやく。
「ヒトが〈ファントム〉になる瞬間をはじめて見た」
ファントムになる?
水鏡先生がファントムになったってことだろ?
ファントム・ローズの“ファントム”も同じ物なのか?
ファントム・ローズが異質な存在だっていうのはわかる。でも〈ファントム〉になるってどういうことで、なったらなにがどうなるのかわからない。
いったいなにが起きた?
水鏡先生が口を開く。
「私の名前はファントム・ミラー」
その声は水鏡先生の物だけど、そうじゃないようにも聞こえる。女のような男のような、ファントム・ローズにも似ているけど、それとも違うもの。
あれ……おかしい……急に水鏡先生の顔がよく思い出せなくなった。記憶の浮かぶ映像がぼやけてしまっている。
「ファントムってなんなんだ」
僕がつぶやいたのを聞いてファントム・ローズが答える。
「英語のファントムは幽霊や幻影を意味している。“場所の記憶”とも呼ばれ、同じ場所で同じ事を繰り返すような、特に劇場などに出没する幽霊のこと。それ以上のことは私にもわからない」
「私にわからないって、あなたも〈ファントム〉じゃないの?」
僕がそう尋ねると仮面は酷く哀しそうな顔に見えた。
「自分が自分のことを全部知っているなんてことはありえない」
ファントム・ローズは口調も哀しそうだった。
そこへファントム・ミラーが口を挟んできた。
「すべてがひとつになれば、全てを知ることができるわ」
静かにファントム・ローズが尋ねる。
「個人の意思はどうする?」
「すべてがひとつの同じ存在なのだから、はじめから個人なんてもの存在しないわ。はじめから存在しないものなど誰も気にかけない」
この世界にはじめからいなかったことにされた人たちは、この世界の人たちに気にかけられることもない。そういう人たちを気にかけているのは僕だけだ。世界が変わっても、記憶が改変されても、証拠が残っていなければ無かった事と同じ事。
水鏡先生……今はもうファントム・ミラーは、すべてをひとつにしようとしている。ファントム・ローズはそれと戦い、影山たちもそれと戦い、僕もミラーズたちは敵だと思ってる。でも、向こう側に取り込まれてしまえば、そんな感情も逆転してしまうんだと思う。
ますますなにが正しいのかわからなくなる。
世界も記憶も感情も、変わってしまえばそれが正しくなる。
正しいとか正しくないとかじゃないんだろうな。
どうすればいいのかわからなくなる。
世界がこうなってしまってからずっとそうだ。
大丈夫、答えはちゃんとわかってるはずだ。
現実だろうが夢だろうが関係ないように、今を見つめていけば生きていける。
僕は今、〈ミラーズ〉たちを敵と見なしている。だから向こう側には取り込まれない。それでいいんだ。
まずはこの事態を切り抜ける。それから嫌な予感がする渚の元へ行く。ある程度片付けたら影山たちの世界に行って、彼らと行動を共にする。まずはそこまで決まってる。
ファントム・ミラーと戦う術は今の僕にはない。ここはファントム・ローズに任せるべきなのか?
なら影山と一緒に――僕は振り向いて影山に目を配った。〈ミラーズ〉たちにだいぶやられたらしく、まだ弱々しく立っている。彼といっしょにこの場から逃げるの得策か?
「影山!」
僕は彼に声をかけた。
だが、帰ってきた言葉は事態を急変させた。
「こんなときに……タイムリミット……すまない春日涼……」
影山の輪郭がぼやけていく。
また消える。
霞のようになって、やがて完全にそこから影山彪斗は消失した。
本当にこんなときにだ!
いや……冷静になれ、段取りが大きく変わったわけじゃない。ここを切り抜けて渚の元に行くんだ。影山がいなくても問題はないはずだろ?
僕はファントム・ローズに声をかける。
「ここは任せても平気?」
「もとより君の力は借りていない」
まったくその通りだ。僕なんてここにいてもいなくても同じさ。
なら気負いせずにこの場を離れられる。
僕は階段に向かって駆け出した。
ファントム・ミラーが動いた。
振り切れる!
素早くファントム・ミラーの横を抜けて、階段まであと少しと言うところだった。
「涼ちゃん待って!」
女の子の声。
懐かしく思える声だった。
僕がその声を聞き間違えるはずがない。
それは彼女の声。
今はいなくなってしまったはずの彼女の声。
思わず足を止めて振り返ってしまった。
それはしてはならない行為だった。
なぜなら見てはいけないモノを見てしまったからだ。
そこに立っているのはファントム・ミラーのはずだった。
なのにその顔は椎名アスカだったんだ。
そんな……どうして……。
「本物のアスカなのか……?」
自然と尋ねてしまっていた。
「そうだよ涼ちゃん」
声も顔も、背格好までアスカだった。これがアスカじゃないなんていうなら、なにがアスカじゃない?
中身もアスカなのか?
「ねえアスカ覚えてる?」
「なぁに涼ちゃん?」
「夏休みはじめのデートに行った場所?」
「なに急に、もしかして涼ちゃん忘れちゃったの? ひど〜い、水族館楽しかったのに」
あってる。
過去のことで、起きたことだから当てられたのかもしれない。
「じゃあ、気が早いけど冬休みの予定を立ててたの覚えてる?」
「それも忘れちゃったの?」
「いや……とにかく答えてよ」
「雪が見たいから寒いとこ行こうって言ったら、寒いのヤダって涼ちゃんが言うから、温泉がいいって言ったら、それも涼ちゃんが温泉なんてやめとけ、高校生の分際なら温泉ランドだって……それで……ええっと……結局どこ行くことにしたんだっけ?」
アスカは笑って見せた。
完璧な記憶だった。どこに行くか決まらなかったんだよ。引っかけ問題なんて出してごめん。
これではっきりした。
今、僕の目の前にいるのは椎名アスカだ。
でも……さっきまでファントム・ミラーだっただろ?
姿も記憶も同じならアスカなのか?
逆に姿も記憶も同じなのにアスカじゃないって言えるのか?
確実にさっきまではファントム・ミラーだった。
でも姿も記憶もアスカなんだ……。
なにが違う?
世界も記憶も改変されたのわからなければ、それがすべてなんだ。
僕はそこにいるアスカがアスカではなかったことを知っている。
でも、でも……姿と記憶が同じならアスカじゃないか!
僕はそこにいるアスカを否定したいのか、それとも肯定したいのか?
頭が混乱する。
「どうしたの涼ちゃん?」
優しい瞳でアスカが僕を見つめている。
クソッ!
「僕は騙されないぞ。おまえはファントム・ミラーだ!」
「わたしはアスカだよ?」
「違う、おまえはファントム・ミラーだ!」
「そう、わたしはファントム・ミラーでもあるよ」
「えっ!?」
「みんなひとつで同じ存在」
「な……なにを……!?」
ファントム・ミラーがアスカを取り込んでいる?
いや、ファントム・ミラーもアスカも同じ存在?
水鏡先生は?
椎名アスカは?
まさかほかの人たちも?
そんな……これが水鏡先生が言っていたことなのか?
ファントム・ローズが動いた。
薔薇の鞭が振るわれようとしていた。
僕はアスカの前に立って両手を広げた。
「やめてくれ!」
薔薇の鞭が僕の頬を掠めた。
一筋の血が流れる。
ファントム・ローズの身体からはまだ殺気が漲っている。
「それが椎名アスカかどうかは難しい議論だ。しかし、倒さなくてはいけないことに変わりない。それが君の心を傷つけることであっても、やらなくては守れないモノがあるのだ」
またファントム・ローズは鞭を振るおうと構えている。
アスカが僕の後ろで震えているのをちらっと見た。
「涼ちゃん怖いよ……」
アスカの姿と記憶を持っているなら、やっぱりそれはアスカなんだ。だから僕はこのアスカを敵としては見れない。
「危ない!」
突然ファントム・ローズが叫んだ。
僕は真後ろから殺気を感じた。
鞭が宙を跳ねた。
「ギャア!」
後ろから悲鳴が聞こえた。
すぐに振り向くと、すでにアスカの姿はなく、白い仮面のファントム・ミラーがいた。
ファントム・ローズが追撃する。
薔薇の香りが辺りを満たす。
次の瞬間、目が潰れるかと思うほどの閃光が放たれた。
目が見えない。
気配がする。
「逃げられた」
その声は……ファントム・ローズだろうか?
逃げられたってことは、ファントム・ミラーにってことに決まってる。
まだ目がチカチカするけど、だんだんと視界が戻ってきた。
目の中にファントム・ミラーの人影が残像みたいに残ったままだ。瞬きするたびに見える。
ファントム・ミラーがいなくなったんなら、僕は渚のところに行かなきゃ!
ふと周りを見渡すとファントム・ローズの姿もいつの間にかなくなっていた。
薔薇の残り香だけが漂っていた。