第006話|トール編【俺は、覚えていてほしいのか……】
——その雨は前日から続いていた。
そのため、二人は窪んだ岩陰で一夜を過ごした。
雨粒が岩肌を伝い、鈍く光った。
だが、その恵みは音をかき消し、足跡を溶かしてくれる。
「今日は少し無理してでも進むぞ」
「……大丈夫か?」
「うん、雨は"有利"だからね」
「……その調子だ、頑張れ」
辺りは薄暗く、二人の影を薄めてくれた。
トールは雨を予測し、予め用意しておいた物を差し出した。
「雨の時はこの植物を被れ」
「体温を逃がさず、雨を流してくれる」
「ホントだ、少し暖かい」
くしゃっとパックの頭を撫でた。
ぬかるんだ足元に注意して、一歩踏み出した。
——違和感。
思ったよりも歩きやすかった。
足元を見ると、ぬかるんでいる筈の地面が、靴の下だけ締まっていた。
「これは……土の精霊か」
「滑らない」
パックは嬉しそうに足踏みした。
「驚いたな……これは助かる」
「土の精霊さん、ありがとう」
"寡黙な土"は答えず、静かに足元だけを固めてくれていた。
トールは振り返った。
「……だいぶ進んだな、少し休憩するか」
視界の先に雨を凌げそうな窪みを見つけた。
雨脚も少しずつ弱まってきていた。
トールは空を指差した。
「パック、太陽の位置が分からない時、おおよその時間を測るのにどうしたらいいと思う?」
パックは顎に手を添えた。
「えっ、難しいね……どうするんだろう……」
「……」
「なんか……考えてたらお腹空いてきちゃった」
トールはパチンと指を鳴らした。
「それだ!」
「えっ?なに」
パックは顔を上げた。
「今、正解に近づいた」
トールが指差した。
「えっ、分かんないよ。勿体ぶらずに教えてよー」
じっとパックの目を見た。
「——腹時計だ」
パックの目が平らになった。
「……」
そして、吹き出した。
「……何それ、ふざけないでよ」
「真面目だ、俺も腹が空いた」
「だから昼だ」
「飯にするぞ」
パックはコロコロ笑った。
「……トールは真面目なのかふざけてるのか、分かんない時あるよね」
トールは肩をすくめた。
「俺はいつだって真面目さ」
「……見てみろ。雨があがるぞ」
遠くの空には、雲の隙間から一筋に延びる光が、大地を照らしているのが見えた。
——夜。
空を覆っていた雲は風に流され、空には星が煌めいていた。
トールは空を指した。
「あれが北極星だ」
「動かない星?」
「そうだ」
パックは目を凝らした。
トールは続けた。
「自分がどこにいるか分からなくなったら、あれを見ろ」
静かな声。
「世界が回っても、あれはそこにある」
パックがぽつりと呟いた。
「不思議だね」
「ずっとあそこで待ってくれてるんだね」
一瞬、間。
トールは空を見たまま答えた。
「そうだな……」
わずかな笑み。
「優しい星だ」
「……ずっとそこに居てくれる」
焚き火は小さい。
パックはまだ空を見上げていた。
トールが、ふと口を開いた。
「パック」
「ん?」
「俺の名前の由来を、聞きたいか?」
パックが目を輝かせた。
「聞きたいっ!!」
フッと笑みを浮かべ、トールは夜空を指した。
「……あそこに見える星、兜のような形をした光の塊があるだろう。見えるか?」
パックは目を細めた。
「……あの、もやっとしたやつ?」
「そうだ」
トールの声は、どこか遠かった。
「……あれはな、昔話では雷を使う戦士の兜だと言われている」
風が、わずかに揺れた。
「その戦士は、ヨルムンガンドという大きな蛇と戦った」
「勝ったの?」
パックの問い。
トールは少しだけ間を置いた。
「相打ちだ」
静かに言う。
「世界を守るために、雷を落とし続けた」
焚き火がぱち、と弾けた。
「俺は雷を使える」
目を伏せた。
「だから、そこから名付けられた」
パックはトールを見た。
星ではなく。
トールを。
「かっこいいじゃん」
まっすぐな声。
トールは少しだけ目を細めた。
「……フフ」
一拍。
「だがな、その雷の戦士には、もうひとつ逸話がある」
パックが顔を上げた。
「まだあるの?」
「ああ」
トールは星を見上げたまま続けた。
「その戦士はな、大切な武器を敵に盗まれたことがある」
「えっ」
「雷を落とす力の源だった」
風が、静かに流れた。
「取り返さねば、世界が危うい」
「どうやって?」
トールの声は淡々としていた。
「敵の国へ潜り込んだ」
「一人で?」
「ああ」
そして、少しだけ間を置いて言った。
「……花嫁のふりをしてな」
——沈黙。
パックが瞬きをした。
「……は?」
「敵は戦士を恐れていた。まさか花嫁の姿で来るとは思わなかった」
真顔のまま。
焚き火が、ぱち、と鳴った。
「宴の席で武器を差し出された瞬間、正体を明かし、雷を落とした」
パックは数秒黙った。
……無理。
そして、噴き出した。
「ぶっ……あはははは!」
腹を抱えて転げる。
「なにそれ!」
「伝承だ」
「いや、面白すぎるでしょ!」
トールは肩をすくめた。
「戦いとは、力だけではないということだ」
少しだけ声が低くなる。
「知恵もまた、武器になる」
パックはまだ笑いながら言った。
「でも、その戦士ちょっと変だよね」
「……重い衣装だったらしい」
真顔で言うトール。
パックが腹を抱えた。
夜空の下、笑い声がこぼれた。
星は静かに瞬いていた。
「雷の戦士が花嫁って……!」
「絶対盛ってるでしょそれ!」
トールは焚き火を見つめた。
「かもしれん」
その横顔は、少しだけ柔らかかった。
風が、ふっと頬を撫でた。
パックは笑いながら星を見上げた。
「でもさ」
「うん?」
「かっこいい話も、変な話もあるほうがさ」
「なんか、好きだな」
トールは何も言わなかった。
ただ、焚き火に小枝を足した。
火が、ぱち、と弾けた。
夜空には北極星。
そして遠くに、雷の戦士の兜。
パックはまだくすくす笑っていた。
その笑い声が、森に溶けていった。
——その日の夜は、いつもより早く更けていった。




