第005話|トール編【この重さを、無駄にはしない】
「……朝食には十分だな……これ以上は理に反する……だろ?」
風がそっと吹き、パックは空を見上げて笑った。
「うん。精霊たちも、それでいいって」
穏やかな陽の光が、水面にきらきらと反射した。
釣り上げた巨体を、トールが持ち上げた。
その命の重みが、腕にずしりと乗った。
その横から、ひょっこりとパックが顔を出した。
「手伝うよ!」
勢いよく掴んだ。
「うわ、重っ」
トールが目を細めた。
「パック、お手柄だ」
「へへ……」
照れながらも、得意げな表情だった。
二人は魚を抱えて河原へ戻った。
乾いた枯れ草と枝を集め、火を起こした。
“誇り高い火”のおかげで、すんなりと火が起こせた。
「……本当にすごいな……」
トールは深く息をついた。
小さな炎が誇らしげに揺れた。
トールは周囲を見渡し、草を摘んだ。
「パック、この草はな、ハーブといって料理に使うと良い香りが出る。覚えておくといいぞ」
パックは興味深そうに覗き込んだ。
「ふぅん、わかった」
トールはもう一種類、よく似た草を摘んだ。
「パック、ちょっとこっちに来てみろ」
並べて見せた。
「この草はさっきのハーブと似ているが、こっちは食えん」
トールが指をさした。
「ここの形が違う」
パックは目を凝らした。
「……ほんとだ」
「食べたらどうなるの?」
トールは真顔でパックを見た。
「……」
「……すごく……苦い」
「……」
パックが吹き出した。
「それだけ?」
トールは小さく肩をすくめた。
火がぱち、と弾けた。
火も笑っているようだった。
「ハーブや薬草の類いは、俺より詳しい奴がいるんだがな。」
魚の皮がじゅう、と音を立て、煙が上がった。
「そうなの?」
香ばしい香りが、ゆっくりと広がった。
「ああ、エイルっていってな。傷を癒やし、たくさんの人を救っている。」
「……素晴らしい女性だ」
魚から、脂がじわりと流れた。
「すごいね、会ってみたいなぁ」
脂が落ち、炎がふわりと揺れた。
「……そうだな……」
そう言って腕の包帯に手を添えた。
パックは膝を抱えて、その様子をじっと見ていた。
「さっきまで、あんなに暴れてたのにね」
トールは静かに頷いた。
「……だからこそ、無駄にはしない」
「……」
「……生きるというのは、そういうことだ」
パックは黙って火を見つめた。
「……」
「……うん」
「……そろそろ焼けたか」
トールは焼き上がった魚を外し、半分に割った。
湯気が立ち上った。
香ばしい匂いが、鼻をくすぐった。
白い身が、朝日を浴びて輝いた。
「先に食べろ」
「え?」
「お前の獲物だ」
パックは一瞬迷ったが、小さく笑って受け取った。
「……じゃあ、いただきます」
口を大きく開いて、かじった。
熱くて、慌てて驚いて、そして笑った。
しっかりとした身と、脂が口の中に広がった。
「……おいしい」
トールはその様子を見てから、自分の分を口にした。
「……ありがたいな」
川の音。
風の音。
火の音。
二人の呼吸だけが、ゆっくり重なっていた。
パックはふと思い出したように拳を差し出した。
「さっきの続き」
トールは少しだけ目を細めた。
無言で拳を合わせた。
——コツン。
今度は、さっきよりも柔らかい音だった。
朝の光が、二人の影をひとつに重ねた。
——教団本部
磨き上げられた長い卓。
銀の食器。
厚く切られた肉。
溢れる赤い酒。
豪奢な燭台の光が、ゆらりと揺れた。
サンデルは椅子に深く腰掛け、肉を切り分けた。
ナイフからは肉汁が滴った。
だらしなく垂れた顎。
目だけが細く光っていた。
「……ふむ」
口を開けると、上顎と下顎が唾液の糸で繋がった。
ゆっくり咀嚼し、葡萄酒で喉の奥に流し込んだ。
向かいに立つ側近は、微動だにしなかった。
焼きたてのパンの匂いが部屋を満たした。
その中央で、サンデルは静かにナイフを入れた。
肉が滑らかに切れ、赤い身が姿を現した。
そこへ兵士指揮官が入り口をノックした。
距離を置いて跪いた。
「報告します。……森一帯を探索しておりますが……未だ、勇者トールの姿は確認できておりません」
「……」
兵士は僅かに震えていた。
「……」
ナイフとフォークが皿に置かれ、金属音が響いた。
そして次の瞬間、柔らかな声。
「……そうですか」
兵士は顔を上げた。
怒鳴られなかった。
ほっと胸を撫で下ろした。
サンデルは口元を拭い、穏やかに尋ねた。
「あなた、家族は?」
兵士指揮官は戸惑った。
「……は? わ、私ですか……妻と、子が……」
側近の顔から血の気が引いた。
サンデルは優しく頷いた。
「……長女と、次男、仲が良いのは微笑ましい」
ワインをゆっくり回した。
「教会で保護するから、あなたは安心して任務に就きなさい」
一瞬の静寂。
「——っ」
兵士指揮官の背筋が凍る。
——囲われる。
「……あ……ありがたき……幸せにございます……」
声が震えた。
サンデルは微笑んだ。
「下がってよいぞ」
声は甘かった。
兵士指揮官は深く頭を下げた。
「は……はっ……承知いたしました」
兵士指揮官はよろめきながら退室した。
静寂。
「……」
側近は言葉が見つからなかった。
そして、サンデルはゆっくりとナイフとフォークに手を伸ばした。
「時間が掛かれば逃げられる……」
脂の滴る肉を眺めた。
「……相手はトール」
視線だけが冷えた。
「……油断したら駄目ですよ」
燭台の火が揺れた。
その炎が、わずかに強くなった。
外縁で、静かに風向きが変わってゆく。
———森の中
トールは魚の残りに、串を通した。
煙がゆらりと上がった。
「すぐ食べきれない時は、干す」
「煙で燻せば、長持ちする」
パックは魚を見つめた。
「……逃げるときは?」
トールは手を止めずに答えた。
「持ち運べる形にしておく」
焼き上がった魚の骨を丁寧にまとめ、トールは立ち上がった。
川へ歩き、灰を流した。
水面がゆらりと揺れた。
パックはまだ指についた脂をそのままに、魚を見つめていた。
「……パック」
「ん?」
「焚き火の跡は残すな」
「灰は流せ」
「石は元に戻せ」
パックは首をかしげた。
「誰も見てないよ?」
「見ていなくても、残る」
トールは足跡を枝で崩した。
「追う者は、痕跡を見る」
パックの上がっていた眉が、ゆっくりと下がった。
「……わかった」
トールは川辺の砂を掬い、手のひらから落とした。
「逃げるときは、川沿いを歩け」
「匂いが流れる」
「……呼吸は、乱すな」
「……」
その言葉に、パックが小さく笑った。
「また呼吸だ」
トールはわずかに目を細めた。
「あぁ……呼吸を失った者から、先に倒れる」
一筋の風が吹いた。
トールの横顔は穏やかだった。
けれど、その視線は川の向こうを見ていた。
少しだけ、遠く感じた。
「……覚えておけ。力がなくても、生き延びる術はある」
パックは何も疑わず、力強く頷いた。
「うん!」
トールは一瞬だけ目を閉じた。
そして、いつもの調子で言った。
「……さて、行くぞ。腹も満たした」
パックが慌てて荷物を背負った。
「待ってよ!」
二人の足音が、朝の河原に重なった。
パックが空を見て言った。
「……雲が、早い」
トールも空を見上げた。
「よく気づいた」
ほんの少し、満足そうだった。
だが、その目は遠くを見ていた。
「天気の変わり目には風がふく」
その時、サァァ……と風が通り過ぎた。
「トール、風が褒めてるよ!」
「ハハ、それは光栄だな」
「……雲を見るのは良い。色と形で知らせてくれる」
空を見上げたまま続けた。
「風の湿り気も重要だ……だろ?」
サァァ……と風が答えた。
もう一度空を見上げた。
(雨が降ってくれれば、痕跡を消せるんだがな……)
「パック、雨はな、逃げには有利に働く。逆に追う場合には不利になる。覚えておくと良い」
「うん、わかった」
パックも空を見上げた。
「……でも、濡れるのはあんまり好きじゃないかな」
トールも肩をすくめた。
「同感だな」
やがて、西の空が橙色に染まり始めた。
「……そろそろこの辺りで休憩するか。」
道すがら採取した山菜や果物と、朝の魚の残りで食事にすることにした。
食べ終わると、トールが一本の枝をパックに渡した。
「パック、食べ終わったらこれを齧るんだ」
受け取ったその枝は、先の皮が剥かれて潰されていた。
パックの眉間に皺がよった。
「……え、何これ」
「前歯も奥歯も、満遍なくだぞ」
そう言ってトールも齧りだした。
パックは目を見開いた。
「——っ!何これ、スースーしてちょっと甘い!」
「歯磨きだ」
「これは何の枝だと思う?」
パックの目の前に枝をちらつかせた。
「えっ、分かんない」
「正解は——」
「……あの苦い葉っぱの枝だ!」
「えーっ、ほんとに?」
「ああ、ホントだ。これで磨くと、歯茎が腫れにくくなる」
「何処にでも生えてる、寝る前はこれでちゃんと歯を磨くんだぞ」
「僕、歯磨き好きになったよ!」
「ハハ、そりゃ良かった」
気付くと既に、紫の空が深い藍色へと移り、鳥達の声も聞こえなくなっていた。
——その夜は、少しだけ風が冷たく感じた。




