第004話|トール編【驚いたな……】
道なき道を進む二人。
幸い、教団に居場所はまだ掴まれていなかった。
だが、油断はできなかった。
トールの祝福は目立ち過ぎるため、多用するのは危険だった。
しかし、二人の逃避行がそれほど困難では無かった理由——
それはパックの能力があったからだった。
木々は静かに揺れ、枝は不思議と行く手を遮らなかった。
パックが"お節介な風"の声を聞いた。
「……うん、分かった。ありがとう」
パックはトールを呼び止めた。
「トール、こっちの方が安全だって、風が教えてくれたよ」
トールは立ち止まり、振り返った。
「……そうか、パックはすごいな」
パックは少し笑った。
「ううん、風がすごいんだよ」
"冷静な水"も世話を焼いた。
「あっ、待ってトール」
「近くに水場があるみたい」
「そこで休憩出来るって言ってる」
「……」
トールは頷き、何も疑わず後を追った。
やがて木立の奥に、小さな湧き水が姿を現した。
澄んだ水面が、映り込んだ月を揺らしていた。
トールは深く息をついた。
「……本当にあったな」
パックはしゃがみ込み、手でそっと水を掬った。
「……ありがとう」
水面が小さく波紋を広げた。
それは返事のようだった。
"慎重な闇"は、二人の輪郭を夜に溶かした。
トールの纏う闘気も、闇の中に霞んで消えた。
"優しい光"は、雲の切れ間から差す月明かりで、二人の足元を淡く照らした。
虫の声、葉のざわめき。
夜の森は音に溢れ、二人を隠してくれた。
パックが呟くように言った。
「……僕、トールが来てくれるって分かった時……すごく安心したんだ」
「それまではね、なんか胸がザワザワして、全然眠れなかったんだ」
トールは少し視線を落とした。
「……あの時は、風が私を導いてくれたんだ」
サァァ……と風が得意げに通り過ぎた。
枝が揺れ、月明かりが揺らぐ。
「……」
トールは揺れた枝葉を見た。
パックがくすっと笑った。
トールが少し照れたように言った。
「フフ……何だか私まで会話に参加しているみたいだな」
パックの声が跳ねた。
「もう参加してるよ」
「だって、風も水も、トールのこと好きだもん」
トールの目が丸くなった。
「……それは……光栄だな」
短い返事。
だがその声は、どこか柔らかかった。
慎重な闇が、さらに二人を包んだ。
外界から切り離されたような、静かな世界。
トールは水面に映る月を見た。
祝福は使わない。
雷も呼ばない。
それでも守られている。
そして同時に、守りたいと思っている。
水面が、もう一度だけ小さく揺れた。
まるで、「分かっている」とでも言うように。
風が梢を撫でた。
闇は静かに二人を包んだ。
大地は、二人の足元をしっかりと支えた。
逃げているはずなのに、そこには不思議と穏やかな時間があった。
遠くでかすかに鳥が羽ばたいた。
だが二人の音は、どこにも届かなかった。
今だけは。
世界が二人を包み、その先へと静かに導いていた。
———
夜明け前の柔らかな光の中、トールは目覚めた。
空気は澄み、森は静かだった。
「こんなに呑気に寝られるとはな……」
思わず、苦笑が漏れた。
幾つもの戦場を経験してきたトールは、
その事実に驚きを隠せないでいた。
常に浅い眠り。
わずかな物音で覚醒する身体。
それが当たり前だった。
だが今は、恐怖よりも先に安堵があった。
視線を横に向けた。
パックは小さく丸くなり、穏やかな寝息を立てていた。
風がそっと髪を揺らした。
「……守られているのは、私の方かもしれんな」
小さく呟いた。
闇はもう薄れ、代わりに淡い朝の光が差し込んだ。
———河原
朝食の魚を獲る二人。
水面が光を反射し、静かな朝の空気が漂っていた。
トールは釣竿を握り直した。
糸が水面に静かに沈んだ。
「……」
「……ところでパック。精霊達は、釣りを手伝ってくれんのか?」
パックは首を横に振った。
「……ダメなんだって」
トールは顎に手を添えた。
「……ほう?」
パックは少し困ったように笑った。
「……“他者を奪う事は理に反する”んだって」
「だから、魚を追い込むのはダメなんだってさ」
パックは肩をすくめた。
トールは釣り糸に視線を戻した。
「……随分と厳しいな」
パックは眉間に皺を寄せた。
「……でもね、生きるために“捕食すること”には干渉しないって」
「精霊も難しいこと言うんだよね……」
風が吹き、水面がわずかに揺れた。
「……理、か」
パックが急に叫んだ。
「わぁっ!!」
パックの方を見ると、釣竿が今にも折れそうにしなっていた。
「大物か!!」
「トールっ、助けてっ……引っ張られる……」
「良いかパック、釣りは呼吸だ。魚に合わせるんだ」
「……だが、合わせ過ぎるな」
「何それっ……難しいよっ!」
糸が水面を切り裂き、左右へ走った。
トールは背後からパックの腕を支えた。
「引くな。耐えろ。魚が走る間は、こちらも呼吸を整えろ」
「……くぅっ……っ……」
足場の石がぐらりと揺れた。
「今だ。少しだけ引け」
二人の力が、同時に竿へ伝わった。
その時、水面が大きく盛り上がった。
次の瞬間、銀の魚影が跳ね上がった。
衝撃が腕を打った。
水面が爆ぜ、竿が弓のように引き絞られた。
「構えろ!腰を落とせ!」
魚は下流へ突進した。
竿が唸り、糸が悲鳴のように軋んだ。
「力で止めるな!受け流せ!」
「重いっ……!」
水面を裂く銀の影。魚影が翻り、今度は反転した。
激しい引き戻し。
パックの身体が前に引きずられた。
糸が悲鳴を上げ、今にも弾けそうに震えた。
また、水柱が上がった。
巨体が宙を裂き、朝日を弾いた。
「呼吸を乱すな!」
二人同時に竿を引き上げた。
均衡が崩れ、糸がもう一度キリリと悲鳴を上げた。
魚が最後の抵抗で暴れた。
砂利が散り、膝が震えた。
トールが支えた。
「耐えろ!」
一瞬の隙。
「――引け!!」
浅瀬へ滑り込む銀の巨体。
どすり、と重い音。
尾が地面を激しく打ちつけた。
糸はかろうじて耐え、荒い呼吸だけが河原に残った。
——戦いは終わった。
「……見事だ」
パックは目を丸くし、それからぱっと笑った。
「やった……!」
二人は顔を見合わせた。
一瞬だけ、言葉はいらなかった。
トールが無言で拳を差し出した。
パックは少し遅れて気づき、慌てて拳を合わせた。
コツン。
小さな音。
けれど、それは確かな手応えだった。




