第013話|トール編【奪わぬ者を、奪わせない】
兵士たちは、まだ誰も死んでいないことに、気づく余裕すらなかった。
次々と同僚が倒れ、戦場の狂気が彼らの理性を削り取っていく。
誰一人としてその異変に気づけなかった。
(……家族を……愛する者を守るためだ)
彼らは自分にそう言い聞かせた。
そして叫ぶ。
「勇者様ぁぁ、お許しくださいぃぃ!」
その狂気は、瞬く間に戦場全体を飲み込んでいった。
その時だった。
一瞬の綻びが、戦場の空気を変えた。
五人の兵士が、死角から同時に踏み込んだ。
五本の槍が迫る。
トールは四本を弾いた。
だが、左側から——もう一本。
トールは思った。
(……釣りばかりしてたからな……訛ってる)
一兵卒の槍が、トールの脇腹を掠めた。
槍を放った兵士は、そのまま転倒した。
戦場の空気が凍った。
トールの脇腹から、赤い雫が一滴、乾いた地に落ちるのが見えた。
「ウォォォォォッ!!」
兵士たちは一斉に雄叫びを上げる。
たった一筋の血で、兵士たちの恐怖は反転した。
トールは冷静に脇腹の傷を確認する。
傷は浅い。
痛みもほぼ無い。
だが、狂気の渦は静かにトールを飲み込んでいく。
兵士の中には、サンデルを神格化し、狂信的な者も少なくなかった。
「……裏切り者には、死を……」
自らの行いを“正義”と信じて振るわれる一撃は重かった。
トールはそれらを捌きながら、急所を避け、骨を砕く。
砕いても砕いても、次々と迫り来る狂気。
トールはわずかな呼吸の乱れ。
半歩足りない踏み込みの遅れを自覚し、剣の柄を握り直した。
———崖の上
ようやく崖の上まで辿り着いたパックは、それまでに何度も立ち止まり、振り返っていた。
トールのことが気掛かりでならない。
「———自分で決めろ」
トールの言葉を思い出す。
パックは戦況を確認するため、崖の縁まで戻ってみることにした。
身を隠せる茂みを探し、葉の隙間から戦場を見下ろした。
——その光景は異常だった。
たった一人に群がる、大軍が放つ黒い渦。
パックはひゅっと喉を鳴らす。
そして、精霊たちも見ていた。
彼らは震えていた。
理を重んじる彼らにとって、“奪わぬ戦”は何よりも尊かった。
守るべきはパック。
だが、
理を踏みにじる狂気が許せなかった。
このままでは、“奪わぬ者”が奪われてしまう。
先に動いたのは“寡黙な土”。
それに呼応して“冷静な水”が動く。
兵士の足元をぬかるみに変えた。
バランスを崩す兵士たち。
教団軍の攻撃がわずかに緩んだ。
トールが違和感に気づく。
兵士に分からぬよう短く言った。
「……何故ここにいる」
「……だが、助かる」
——教団軍本部
空になった銀のカップを無言で差し出す。
側近がすぐさま継ぎ足した。
サンデルは背もたれから背を離した。
「時間が掛かっていますね……」
「弓隊、火矢を放て」
側近が慌てて制しようとする。
「猊下、第三隊・第四隊が戦闘中です。」
サンデルが優しく言う。
「……森を燃やせ」
側近の血の気が引く。
「……はい」
側近が指揮官に向かって言った。
「第三隊・第四隊に伝令! 同時に弓隊は火矢の準備!」
指揮官が右手を上げた。
「狙いは広範囲! 弓隊構えーぃ!」
キリリ……と無数の弦が張り詰める。
指揮官は上げた手を振り下ろした。
「てぇーぃ!!」
——炎を纏った紅の雨が、森へと降り注いだ。




