第3話 花は咲き、風は動く
エルヴァンシア王宮で紙が雪崩を起こす場所。翠月の大夜会以降は記録課だったはず。だが、そこに新しい部署が追加された。花月半ばににやってきたアドリアンとフレデリク。この二人の存在で、一気に書類の山が作成され始めたのだった。
――いや、正確には二人ではない。二人が「先行隊」だったことが問題だったのだ。
「北からです。本日、本隊が通過したとの連絡がありました」
「規模は?」
「騎馬一個大隊、馬車三台、荷車などは多数とのことです」
「王子殿下は到着しているのに、馬車だと?!」
文官たちの悲鳴が上がる。彼らの脳裏をよぎったのは、「宿泊施設」「荷物の保管場所」「席次」「宴席」――次々と増えていく実務の山だった。
そんな中、また別の知らせが届いていた。
「西の船団が川を上っております」
「なんで、今なんだ!」
「そりゃ、アドリアン様が滞在されているからでしょう。それに、例年の書類提出時期でもありますし」
「だったら、政務課に回せ!」
あちらこちらから飛び込んでくる報告の山。理由はわかっている。わかってはいるが、認めたくない。そんなジレンマが文官たちの中にはある。そして、彼らはこれからの予定を頭の中で組んでもいた。そうしないと、儀礼課なんていう組織は動かない。
そんな時、また新しい知らせが入ってくる。それが羊皮紙を丸めたものだとわかったとき、彼らの背中には嫌な汗が伝っていた。
「聖堂教会からの正式な通知です」
「今度はなんだ」
「炎月一日、王女殿下の誕生祝にあわせて枢機卿閣下がお見えになられるそうです」
「何人だ?」
「お一人とのことです」
その声に、部屋の中は大きな安堵の息に包まれている。たしかに宗教関係は扱いが難しい。だが、対応する相手が一人なら問題ない。むしろ、聖堂教会と縁故のあるロスベルグに任せよう。そんな空気が執務室には漂っていた。
だが、通知の羊皮紙を見ていた文官の手が震える。彼は見たくないものを見た、というような口調で続けていた。
「追記もあります。教皇猊下の葉月訪問も確定したとのことです!」
「う、嘘だろう?」
「猊下が秋に来る? 決定か?」
「……となると、婚礼もか。」
文官たちは一様に頭を下げる。今からどれだけの案件を回さなければいけないのか。そのことが彼らにははっきりとわかったのだろう。そして、だからこそ、彼らの胸には同じ言葉が浮かんでいた。
(だから、早く決めてくださいとお願いしているんです、殿下……)
だが、この言葉は口に出すことができない。花月の明るい光が窓から入り、風が紙を動かしているだけだった。
◇◇◇
儀礼課の執務室と同じ風が王宮を渡っていく。その風は王女宮の一室にも届いていた。
その日、アリシアは紅茶を横に置きながら、本を楽しんでいた。柔らかな花月の風がページをそっとめくる。そんな中、ふと思いついたように彼女はそばに控えているイレーヌに声をかけていた。
「ねえ、イレーヌ」
「なんでしょうか、王女殿下」
紅茶が冷めたのかと思ったイレーヌが、新しい茶器を渡す。それを受け取りながら、アリシアは何気ない調子で問いかけていた。
「物語だとはわかっているのよ。でも、このように自分の気持ちを口にしてもいいの?」
その声に、イレーヌはアリシアの手にしている本のタイトルに視線を向ける。最近、アリシアに勧めた人気の恋愛小説。そのことに気が付いたイレーヌは柔らかい笑みを浮かべながらこたえていた。
「そうですわね。そういう方もいらっしゃると思います」
イレーヌの返事にちょっと首を傾げながら、アリシアは再び問いかける。
「でも、こういうことを伝えるのは、はしたないことではないの? それとも、皆様は、このように思ったことをお伝えになるものなの?」
「もちろん、相手や場面にもよりますけれど……大切な方には、お伝えになったほうが喜ばれることもありますよ。」
その言葉に、何かを考えるようにうつむいてしまうアリシア。スッと手が紅茶にのび、一口、含まれる。その視線が上がったかと思うと、部屋の隅にある花かごに向けられていた。
今日も朝一番で届いたそれはアリシアの好みに合わせた花でまとめられている。その中にある1本のピンクの薔薇をアリシアはじっと見つめていた。
「……では、このお花も?」
イレーヌは花かごを見つめ、小さく微笑んだ。
「そうかもしれませんね。」
「そう……」
そう呟くアリシアの視線が花かごから動かない。そう思ったイレーヌだが、さりげなく話題をうつしていた。
「では、アリシア様。お誕生日のドレスはどちらになさいます? そろそろ決めないと、また衣装室のメンバーが騒ぎますわ」
「毎回だけど、あれには困ってしまうわ。でも、皆の気持ちもわかるから……」
「そうですわよね。なによりも、アリシア様は何をお召しになっても似合われますから」
「そんなことなくてよ」
そういうと、軽やかな笑い声が上がる。花月の風が花かごを優しく揺らし、王女宮には穏やかな午後の時間が流れていた。
◇◇◇
翌日の午後、イレーヌは貴婦人や令嬢たちが集まる刺繍の会に参加していた。この回は友人と気さくに話せる時間が取れるのでイレーヌ自身は気に入っている。それだけではない。
アリシアに勧める恋愛小説の選定に、この友人たちの力を借りていた。だからこそ、この日を誰よりも楽しみにしていたのは、イレーヌだけではなかった。
「それで?」
「アリシア様は、なんとおっしゃいましたの?」
席につくなり、かけられる声。それにイレーヌは苦笑しながらも話し始めていた。もっとも、刺繍の会である以上、手は止まっていない。
「アリシア様は『このように自分の気持ちを口にしてもいいの?』とおしゃっていましたわ」
「まぁ!」
「他には?」
「気もちを口にするのはいいのか、と何度もお訊ねになりましたの」
その声に令嬢たちは思わずざわめく。だが、刺繍の手を止める気配はない。他の話も、と言わんばかりの視線。それに応えるように、イレーヌは話を続けていた。
「今でも毎朝、お花は届いていますわ」
「なんて、ロマンティック……」
「昨日はピンクの薔薇が一輪でしたわ」
「えっ、ピンクの薔薇が一本?」
思わず令嬢たちの声が裏返る。彼女たちの頭には、ピンクの薔薇の花言葉と一輪だけという意味が一気に結びついたのだろう。だが、そんな令嬢たちの興奮をおさめるように、イレーヌが言葉を続ける。
「一輪だけではございましたが、他のお花もございましたわ。でも、あとは可愛らしいものばかり」
「そうだったんですのね。でも、聞いているだけで胸がいっぱいになりそうですわ……」
うっとりしたような令嬢の表情。その後ろでは貴婦人たちが手を動かしながらも、しっかりと聞き耳を立てている。そのことにイレーヌは気が付いていた。少し刺繍の手を休めた彼女はとっておきの話をするかのように声を潜める。
「アリシア様は、昨日のお花をご覧になって、『……では、このお花も?』ともおっしゃったんです」
その声に令嬢たちの声にならない悲鳴があがる。刺繍枠が手元から滑り落ちるが、それも気にならないようにイレーヌに詰め寄ろうとする。そんな時、後ろから穏やかな声が聞こえていた。
「皆様、刺繍の手が止まっておりましてよ」
その声にハッとしたようになる令嬢たち。慌てて落ちた刺繍枠を拾い上げ、席に座りなおす。一方、そんな貴婦人たちの様子にイレーヌは(お母様、満足なさいましたでしょうか?)と心の中で呟くことしかできなかった。




