第5話 遅れてきた焦燥
その日のエルヴァンシア王宮で開かれた夜会は、いつもよりもざわつきが大きいようだった。それも仕方がないことかもしれない。
翠月の大夜会での王の宣旨を、王太子が棚上げにした――そんな噂が宮廷を駆け巡っていたからだ。それだけでも宮廷では異例。そして、その最中に王太子は、王都では忘れ去られていた人物を呼び寄せていた。
エドワルドの意図がどこにあるのだろう。答えを求めるように、会場のあちらこちらでは噂話の花が咲いていた。
「まさか、西を持ってくるとはな」
「とはいえ、あり得る相手ではないのか?」
「たしかにな。だが、陛下のお言葉もあるぞ」
男たちはグラスを片手にあたりを見回す。そこかしこで揺れている扇の陰では別の声も聞こえている。
「先々代の王弟殿下のお血筋でしょう?」
「お姿を拝見しましたけれども、たくましいお方。王都の者とは雰囲気も違いましたわね」
「まぁ、どこをご覧になっていらっしゃるの?」
クスクスと笑う声に何かが含まれている。だが、彼女たちの話題は、また別の噂へと自然に移っていった。そんな彼女たちの声がピタリと止まる。
「あら、あれをご覧になって」
「まぁ……」
彼女たちの視線の先にいるのはエルヴァンシアの王女であるアリシア。だが、隣に立つのはいつもの姿ではない。先ほどまで彼女たちが話題にしていた相手――アドリアン、なのだ。
「ねぇ、こうやって拝見するとお似合いじゃないの?」
「そうよね。年の頃も離れすぎというわけではないし……」
「むしろ、これならば、殿下が王家に残られるだろうから、いいのではなくて?」
彼女たちがざわつくのもある意味では当然。アリシアは兄に対するのと同じように屈託のない笑顔をアドリアンに向けている。対する彼もにこやかに彼女の相手をしているように見える。
ならば――
そのように考えるのも、社交界を渡ってきた貴族夫人たちにとっては自然なことだったのかもしれない。
一方、別の場所では令息たちが固まってひそひそ話をしていた。彼らはグラスを手に持ち、視線を右に左にとやっている。そんな中、ふと一人が気が付いたような声を上げていた。
「おい、あっち見てみろ」
「ん?」
「グラナートだ。……あいつ、何かおかしくないか?」
相手が指すほうに視線を向けた先にいたのはゼノ。いつものように紫紺をベースにした礼装で、動揺しているようには見えない。だからこそ、「そうか?」というような声が上がる。
「よく見てみろって。あの右手。絶対に、何かあるって」
「そういえば、そうかもな。まさか、手袋?」
「いくらなんでも、そりゃないだろう。あいつだって、そこまで馬鹿じゃない」
その声にお互いが軽く苦笑を漏らす。だが、その中でも疑問の声が上がるのは当然。
「じゃあ、何でだ?」
社交界の空気にまだ慣れていない若者にすれば、わけがわからない。首をひねるしかないところに、ゼノのことをよく知っている相手がポツリと呟いていた。
「あいつの視線、よく見てみろ……先に何がある?」
「あっ……」
「あれを見せられたら、そりゃ、あの反応にもなるさ。でも……あいつの優位は変わらないって」
年嵩の令息たちはそれ以上何も言わない。若い令息たちは互いの顔を見合わせるだけ。
夜会には変わらず音楽が流れ、笑い声が響いている。だが、その賑わいとは裏腹に、それぞれの胸には違う思惑が渦巻いていた。
◇◇◇
「……アリシア、さま」
夜会にあらわれたその時から、彼女は間違いなく人目を集めていた。それは、当然のこと。ただ、いつもと隣にいる相手が違う。それだけで、これだけ胸が騒ぎだすのかとゼノは感じていた。
無意識のうちに握られた右手。その中にあるのは小ぶりの懐中時計。内蓋に仕込まれた細密画の表情と同じものを、彼女はアドリアンに向けていた。
(わかっている、わかっては、いる……親族だからこその、距離のはず……)
頭ではそう思っても、感情は追いつかない。本来であれば、挨拶に向かうべき立場なのもわかっている。それでも、どうしても二人の前へ足を運ぶことができなかった。
だが、いつまでも動かずにいることはできない。大きく息を吐くと、ゼノはアリシアの傍に近寄っていた。その気配を察したのだろう。アリシアが柔らかい笑顔で迎えている。
「グラナート様、ごきげんよう」
「……は、はい。殿下もご息災のようでなによりでございます」
本来なら、遅れるはずのない返事に一瞬の間があった。それに気が付いた貴婦人たちの扇がかすかに動く。そして、アドリアンも「おや?」というような表情を浮かべていた。
だが、ゼノもそのままで終わらせるわけではない。しっかりとアドリアンの方を向き、丁寧に頭を下げる。
「アルベール家のアドリアン様とお見受けいたします。グラナート公爵が長子、ゼノ・グラナートと申します。王都での滞在がよき日となられることをお祈りいたしております」
「う、うん。こっちこそ、よろしく頼む」
ゼノの挨拶に少しうろたえながらも、アドリアンも言葉を返す。だが、その視線はゼノのことを観察しているようなものも含まれていた。
(……なんだ、こいつ)
武人だとは思う。歩き方、立ち方など、間違いなく現場の人間。それだけに流暢に挨拶されると面食らってしまうのだろう。もっとも、ゼノの視線がアリシアに向いていることにも気が付いたアドリアンはなるほど、と胸の中で手を叩いていた。そのまま、気負いのない仕草でゼノの肩を軽く叩く。
「ゼノ殿とかいったか? ちょっと、いいか?」
「は、はい?」
少し裏返りかけた声のゼノを気にすることなく、アドリアンは言葉を続ける。
「大した話じゃないんだがな。アリシア、ちょっとだけいいか?」
「ええ、よろしいですわ。わたくし、こちらで待っていますわね」
末端とはいえ王族でもあるアドリアンの言葉は無視できない。そして、アリシアも当然のような顔で追い打ちをかける。結局、ゼノはアドリアンに引きずられるようにして、夜会の場を後にしていた。
◇◇◇
「……ご覧になりまして?」
「ええ、はっきりと」
海で鍛えたアドリアンの声はよく通る。その声は、近くにいた者たちの耳にも自然と届いていた。そして、彼らの様子を見ていた貴婦人たちの扇が先ほどよりも大きく動く。お互いに視線が絡み合い、アリシアの様子を伺っている。
「そろそろ、ご挨拶の時間ですわね」
「そうですわね。王女殿下もお一人ではお寂しいでしょうし」
婦人たちが心得たほうに進む先にいるのはアリシア。その彼女の周囲には、若い令嬢や令息が声をかけようと互いに距離をはかっている。そんな中、ゆったりとした口調で一人の侯爵夫人が声をかけていた。
「王女殿下、あちらで飲み物などいかがでしょうか?」
「そうね。少し、喉も乾いたように思うわ」
「そうでしょうね。では、こちらへ。あなた方もゆっくりいらっしゃいな」
そう告げる夫人の視線と声に、令嬢たちは何かを察したような表情になる。アリシアを取り囲むようにしていた人々の輪はスッと消え、令嬢たちは深々と膝を折る。
その様子を貴婦人たちは扇の陰で満足そうに見つめていた。いつもと同じ、華やかな空気が流れ始める。そんな時、急を告げる声が夜会の会場に響いていた。
「リュクリューヌ王国のフレデリク殿下が到着なさいました!」
「まぁ!」
「このようなお時間に?」
貴婦人たちのざわめきが一気に広がっていく。華やかな夜会は一瞬にして、別の色へとかわっていくようだった。




