第1話 封蝋と花の想い
芽月終わりの王太子宮では、羊皮紙にペンが走る音と、書類をめくる音だけが響いていた。
王太子であるエドワルドは執務室の奥で決済するべき書類に手を伸ばしていく。
その隣席では、側近のリュシアンが手元に集められた資料と比較しながら、エドワルドに声をかけていた。
「王太子殿下、そちらの書類にも決裁をお願いいたします」
「うむ」
「こちらは財務課からです。王女宮に贈られた物品に間違いがないか、の確認になっております」
「それはお前も把握しているだろう。間違いはないから、そのまま戻しておいてくれ」
そう言いながらも、エドワルドの手は止まらない。次には別の書類が手元にある。
辺境からの軍事報告に目をやった彼はちょっと首を傾げていた。
「リュシアン、この北からの報告はなんだ?」
「なんでしょうか?」
「国境線の警備が増えたとあるが? 現時点で北ともめることはないだろう。北は伯母上が間違いなく抑えておられる」
(殿下……あなたがそれをおっしゃいますか? これほどわかりやすい理由なんてないはずなのに……)
心の中でそう思ってはいても、口には出せない。そんな彼の手元には、政務課から回されていた書状がある。
これを見たエドワルドがどんな顔をするかは分かっている。それでも側近として出さないわけにはいかない。そう判断した彼はスッとその書状を資料の一番上におく。
「リュシアン、これは?」
いかにも不快です、という表情を浮かべながらエドワルドは問題の書状をつまみ上げる。その姿にリュシアンは真面目な表情でこたえていた。
「ご覧になられた通りです。政務課が殿下の決済印がないことで困惑しております」
「しるか」
そう言うなり、その書状を見なかったことにして横にやる。そのまま、改めて何かを書き始めると自分で封蝋を押し、リュシアンに渡していた。
「魔術局に持って行ってくれ」
「どちらかに急ぎですか?」
「西に送れと言えばわかる」
エドワルドの声に、リュシアンの眉間にしわが寄る。彼の記憶の中にある西といえば、2代前の王弟が興した家のある地域。よもや、そこではないだろうな、という表情を向けるリュシアン。エドワルドは悪気のない声で続ける。
「アルベール家のアドリアン殿に至急で頼む。魔術局を通せば、明日には西に届くだろう」
「殿下……お持ちしますが、何をお考えですか?」
「別に。アリシアの誕生日に呼ぶだけだよ」
(違う……この人がそんな可愛げのあることを考える人じゃない……)
心の中では盛大に反対の言葉が上がっている。だが、『アリシアの誕生日に呼ぶ』と言われては、反対もできない。仕方なく、リュシアンはその封筒を魔術局に渡すしかないのだった。
◇◇◇
エルヴァンシア王国の西に位置するアルベール領。かつての王弟が興した一族が治める、海に面した土地である。
春の漁が始まった港は、朝から活気に満ちていた。
海の上ではカモメが声高く鳴き、網に追われた魚が海面を跳ねる。漁師たちは威勢のよい掛け声とともに網を引き上げる。その中には一人、漁師たちに混じって綱を引く若者の姿もあった。
「若様! 王都から魔法陣経由で書状が届きました!」
侍従服の老人が岸から大声を張り上げる。
「後にしとけ!」
「無理です!」
そのやり取りに、漁師たちがどっと笑う。
「若様、そんなこと言わずに」
「一応、見るだけ見たら?」
「今日はもう網も上がったしいいですよ」
「そうか? ま、お前らが言うならそうしとこうか」
そう言って、若者は漁師たちの輪から抜けた。そんな彼に侍従はやれやれという顔で書状を渡していた。
「王都からこのようなものが来るのは初めてですな」
「うちは納めるものはちゃんと納めてるんだがな」
「そういう話ではありません」
侍従の声に押されるように若者は書状を開く。そのまま「は?」という声だけがその口から漏れていた。
「アドリアン様、どうかなさいましたか?」
「どうしたも、こうしたも……さすがに、これは想定外だぞ」
そう言いながら侍従に向けてひらひらさせた紙に書いてあるのは一言だけ。
紙の中央に大きく『来い』とだけ書かれたものに二人して頭を抱えてしまっていた。
「俺、何かやらかしたか?」
「やった覚えがあるなら問題です」
「あるわけ、ないだろうが」
「と、とはいえ……王都からの正式な書状ですし……」
「だよな。どう見ても王族、それも王太子の封蝋だ。行かなきゃ、家がえらい目に合う」
そう呟くアドリアンの声には、どこか疲れたようなものがある。そして、侍従は苦笑すると「がんばれ」と言うように、ぽんと肩を叩いた。
◇◇◇
王女宮の空気は春から初夏へと移り変わっていた。花月は特にこれといった行事はないが、炎月一日はアリシアの誕生日。それに合わせて、少しずつ準備も進められていた。
そんな宮の空気の中、アリシアはどこかボンヤリとした表情で部屋の中にあるものをみつめていた。
(今日も、なのね……とても、とても綺麗だと思うわ……わたくしの好きなお花ばかり。それに、髪に飾ってもおかしくないものばかり……でも、お兄様じゃない。どなたからなの?)
翠月の大夜会から数えても40日以上は経っている。その間、毎朝届けられる花かごにアリシアは慣れてはきている。でも、少し困惑も感じていた。
届けられる花かごは大げさなものではない。だからこそ、受け取ることも、部屋に飾ることも、もう日常になっている。
(でも……どうして、こんな風に思うの? お花は綺麗だと思えればそれだけでいいと思っていたのに……)
そんな彼女の目には、今日の花かごの中にあるリラの花が映っている。可愛らしいその花は髪に飾っても似合うだろう。そう思った彼女はスッと手を伸ばすと一輪、耳元に挿していた。
「あら、姫様。リラの花ですのね。お似合いになられますわ」
「そうかしら?」
「ええ、とても」
ニッコリと笑いながら声をかけてくるのは侍女であるイレーヌ。もっとも、彼女は侍女であるが、話し相手でもある。そんな気さくさから、アリシアはつい訊ねるような口調になっていた。
「イレーヌ、笑わないでね」
「なんでしょうか」
「この前、あなたが勧めてくれた本の中にあったんだけど、毎日届くものがなくなったって気持ちがなくなったっていうことなの?」
アリシアのその問いかけに、イレーヌは内心「やりましたわ、お母様!」と叫んでいる。だが、そんなことを感じさせない声でアリシアに問いかける。
「そういうこともご本の中ではあるかもしれませんね。では、わたくしからも姫様にお訊ねしますわ。届いているものが無くなったら、どう思われます?」
イレーヌの声にアリシアは小首をかしげる。そのまま、ゆっくりと考えるように口を開いていた。
「そうね……寂しいと思うんじゃないかしら……」
「では、それが王太子殿下からのものだとしたら?」
「お兄様から? それなら、どうしてかとお訊ねしますわ。ご迷惑になるかもですけど……」
そういったアリシアはそのまま花かごに目を戻す。そこに添えられているのは白いカード。『本日もお健やかに』と書かれた一言と頭文字だけ。誰なのかわからない。それなのに、気になって仕方がない。アリシアは自分の気持ちを持て余しているようだった。
「イレーヌ、わたくし、どうすればいいのかしら?」
アリシアの困惑したような声に、イレーヌは返事をせずに花かごを見やすい場所へと動かしているのだった。




