第4話 噂は舞い、文官は沈む
本日、芽月の庭園解放日。それでなくてもいろいろと書類が回ってきて忙しい記録課。そこは現在、完全に過労死寸前の文官たちが机に突っ伏していた。
「おい、あの布告文、どうなった?」
「どうもこうも、まだ政務課の机の上で山積みになってるらしい!」
「なんで、山積みになったままなんだ! 政務課、仕事しろ!」
おかしい。本来なら今日は庭園解放。昼休みにでも雲の上の方々の姿を見物し、ついでに花でも眺めようという話だったはず。
「……それもこれも、政務課で布告文が止まっているせいだ――」
顔も上げずにぼそりと呟く古参の文官に、突っ込みを入れるような猛者はいない。こういう地雷原を避けるのは、文官としての本能だった。
そんな時、春の風に乗って、庭園を歩く令嬢たちの笑い声が、ひょいと第六の近くまで流れ込んでくる。
「ねえ、やっぱり藍と銀って映えると思いませんこと?」
「ええ、それよりも……王太子殿下のあれっていつまでですの?」
「本当ですわよね。わたくし、先月の夜会で決まったとばかり思っていましたわ」
令嬢たちの声は止まるところを知らない。それを耳にしていた第六の文官たちの顔色はだんだんと青ざめていく。
「……聞こえたか?」
「聞こえた。だが、聞きたくなかった」
外に聞こえるはずがないというのに、その声はささやきよりもまだ小さい。お互いに顔を見合わせながら、この話がどこまで広がっているのかと指折り数える者もいる。
そして、その答えはすぐにやってきた。
バタンと扉が開かれると、若手の文官が興奮したような顔で飛び込んできた。
小刻みに手は震え、冷や汗をかいているようにもみえる。彼は開口一番、特大の爆弾をその場に落としたのだった。
「王太子殿下に、グラナートの息子が喧嘩を売った!」
悲鳴にならない悲鳴が、どよめきのように室内を駆け抜けた。紙を握りしめる音、ペンが折れる音、誰かの息が詰まる音が重なる。
誰もが口を動かそうとするが、出てくる言葉は一つしかなかった。
「なんで喧嘩売るんだ、あのグラナートの息子が⁉」
その声に、庭園の様子を間近で見ていた若手の文官は叫ぶように声を出していた。
「おい、聞けよ!」
バタンと机を叩いた若手は、荒い息を整える間もなく叫んだ。頬は赤く、目は妙に輝いている。
「庭園の歓談スペースだ、殿下と……グラナートの息子が……あれは完全に火花散らしてた!」
「何があった!?」
机の上の書類から顔を上げた同僚が、半ば呆れ、半ば期待の色を浮かべる。
「最初は二人とも笑ってたんだ! でもな、目が全然笑ってなくて……殿下が何か言ったら、グラナートの息子が一歩詰め寄って――」
「詰め寄った!?」
別の席から驚きの声が上がる。椅子の脚が軋み、数人が立ち上がった。
緊張と困惑が入り混じった視線が飛び交う。
「ああ! それだけじゃない! 声は抑えてたけど、言葉の端が鋭くて……あれは喧嘩だ、絶対に喧嘩だ!」
「お前、それ感想だろ」
誰かがぼそりと呟くが、室内のざわめきは収まらない。
「感想じゃない! あの場にいた令息連中も全員、そういう顔してた!」
「いや、令息たちの顔色じゃないって」
そう言いながら机を叩く音が、室内のざわめきを一瞬で切った。
その静けさに、全員の視線が同じ一点へ吸い寄せられる。
「……で、どうする?」
どうすると言われて、答えを持っているものなどいるはずもない。ただ、これは第六だけで済む話ではないこともわかっている。
そうなると、どこに話をもっていくか――
政務課? 庶務課?
いや、どこよりもこういうことには強い部署があるじゃないか。彼らの中にある一つの部署の名前が出てくるのは当然だった。
そして、そこに間違いなく顔のきく相手もいる。ここは、そいつに任せるのが一番。
その場にいた文官たちは相談することもなく、その結論に達していた。
「リースフェルト三等書記官」
「なんでしょうか?」
何を言われるのかわかっているのだろう。苦虫をつぶしたような声が返ってくる。しかし、誰もそんなことを気にしていない。生贄とも特攻ともいえる相手を見つけたことで、全員の顔がさっきまでの疲労感が一掃されたように晴れやかになっていた。
「たしか、儀礼課のリースフェルト調整官は兄君だったよね?」
「……忘れたい事実ですが?」
「いやいや、文官一族として有名な兄弟だというではないか。そこで、ちょっとばかり……軽い散歩程度でいいから儀礼課まで、このことを伝えてもらえないかな?」
その声を耳にした瞬間、フロイの顔色はますます青ざめていく。本音は拒否したい――そう感じさせるほど、フロイの口元は引きつっていた。
それでも、背筋を伸ばして立ち上がるしかない。その動きに、室内の誰もが「諦めたな」と察した。お互いにどこかホッとした表情になっているのはいつものこと。
「一応、伝えておきますよ。確認ですが、今回の案件は王太子殿下とグラナート公子が取っ組み合いをした――という認識でよろしいですね?」
その場にいた数人が「……あれ、取っ組み合いになったのか?」と真顔で確認し始めた。話はどんどん大きくなるが、それを止める者がいるはずもない。
伝える役目を押し付けられたのは、もちろんフロイだ。
そして彼は、屠殺場に連れていかれる子牛のような顔で儀礼局の扉を叩いていた。
「……兄上、ちょっと悲しいお知らせが」
「どうしたのかね、四男」
「……王太子殿下とグラナート公子の間で問題が……」
その声に、儀礼課の面々が一斉に顔面蒼白となった。清書しかけていた羊皮紙にインクがぶちまけられ、椅子から半分立ち上がったまま固まる者までいる。声を荒げる者はいないのに、その場は嵐のような状況になっていた。
「……で、本当は?」
「さあ……第六に入った時には、『喧嘩を売った』でした。でも、私がこちらにお知らせに来るときには、『取っ組み合い』になっていましたから」
フロイの言葉に彼の兄であるクラウスは眉間を抑えている。そのまま、呆れたような声がその口からは漏れていた。
「第六の皆さまがストレスを感じているのはよくわかりますよ。でも、これはやりすぎでは?」
「そうかもしれません。でも、公文書が回ってこないんです。山積みの書類と各家からの問い合わせの山――」
「胃薬は?」
「……そろそろ、神経性胃炎で倒れる職員もいるはずです」
その言葉にクラウスの目がキラリと光る。
「その一番手が四男ということですか? そこまでの軟弱者、リースフェルトの名にふさわしくありませんよ」
「そうかもしれません。不肖の弟で申し訳ありません」
「そのように言っているのではありません。それよりも、胃薬の経費請求を準備しておきなさい」
「それも必要でしょうね。ただ、政務課に交渉して、書類も回してください」
ニコリと告げられる声に、儀礼課の面々の顔が白紙のようになっていく。この春に配属されたばかりの下書きが小さな声で呟く。
「鬼だ……鬼がここにいる……」
それにこたえる声はない。ただ、風に乗って令嬢たちのさんざめきがこの儀礼課にも届いているように感じられた。




