第3話 風は軽やかに舞う
庭園の一角、笑い声がひそやかに膨らんでいく。
誰かが「見た?」と扇の陰で囁き、別の誰かが頷く。
春の光に透ける花びらの向こう、ほんの一瞬交わされたという視線――それが本当にあったのかどうかは、誰も確かめていない。
けれど、噂とは往々にして、事実よりも早く花開くもの。
「ええ、間違いなくあちらをご覧になっていましたわ」
並んで歩く令嬢が、扇をわずかに傾けて声を潜める。
春の光が花びらを透かし、その影が頬をかすめていった。
「本当に? 見間違いではございませんの?」
「見間違いではありませんわ。それに、お相手も間違いなくご覧になられたはず」
「まあ……それは、本当ですの?」
もう一人が、花の合間からそっと視線を送る。
足取りはゆるやかに、それでいて噂の熱だけが少しずつ速まっていく。
なんといっても、先月の夜会でのことは、彼女たちの記憶から薄れることはない。
王の宣言、それに続く答礼――誰もが成立したと思ったはずだ。
彼女たちの中では、視線ひとつで物語は動き出し、反対の声は恋物語を彩る障害に変わる。
実際に視線が交わったかどうかなど、もはや重要ではないのだ。
家の思惑に引き裂かれる恋人たち――そう信じるからこそ、噂の熱はますます高まっていった。
「……ご覧になって? あの藍に、銀が入っているでしょう」
「ええ、しかも陽の光で銀糸がきらきらして……あれは――」
扇を口元に寄せ、視線をそっと斜めに落とす。
「そう、グラナート様よ。ほら、王女殿下のお色と……あの方の――」
「……呼び合っているみたい」
花の合間から見える二人は、決して並んではいない。
それでも、その色味が同じ視界に収まれば、偶然と思う方が難しい。
「藍なんて珍しくないけれど、あの銀の入れ方は特別ですわ」
「ねえ、見て。立ち止まった時にちょうど光が当たって……」
「本当に……合わせていらっしゃるよう」
花の影が揺れ、銀糸の光もまた揺れた。視線を交わすでもなく、ただ同じ場にいるだけ――それだけで噂には十分すぎる。
春の風が花びらを揺らすたび、囁きもまた小さく揺れながら、確信めいた熱を帯びていった。
◇◇◇
噂好きの笑い声は、花の合間を抜けて反対側の小径にも届いていた。
「聞きまして?」
「ええ、もちろん」
令嬢たちの高い声に隠れるようにささやかれる声。扇を揺らす風が花びらを散らす。そのまま口元に扇をあてながら、フッと呟かれる言葉。
「あれが一つの見方として広まっていますわね」
「ええ、少々、風向きが違いますけど、あの子たちにとってはあのように見えてしまうのですわね」
「嘆かわしいというか、年相応というか……若い頃はどうしても色に目がいってしまいますわね」
その口調は令嬢たちの噂話を否定しているわけではない。ただ、冷静に事実を告げているだけ。そのことを感じ取ってはいても、思わず口をはさみたくなる者も間違いなくいるようだった。
「で、でも……お母さま……」
「なにかしら、イレーヌ?」
「わたくしもそうではありますが、定まった相手がおらぬ者は、どうしても色や並びに目がいってしまいますわ」
おそるおそるだがそう告げるイレーヌにヴァルモン侯爵夫人であるグローリアは笑みを浮かべながらこたえる。
「ええ、あなたがたの年ごろが恋物語を好むのはわかっていましてよ。でも、それだけではいけませんの。いろいろな面から見ることを覚えていただきませんと」
「いろいろな面、ですか?」
「ええ、本当に。色合わせ一つで文官たちの胃薬代が増えますもの」
「お、おば様?」
その場にいた、ヴァルモン分家筋にあたる伯爵夫人の言葉に、イレーヌは目を白黒させている。そんな彼女に、扇を揺らした夫人たちの温かい目が向けられていた。
◇◇◇
貴婦人たちの扇で止められたかのように見えた話題。しかし、簡単に止まることはない。どこまでもコロコロと転がっていく。そして、令嬢たちのさんざめきを耳にしているのは貴婦人たちだけではなかった。
「……また始まったな」
「視線があったとか、色がどうとか。ああいう話は、勝手に転がっていく」
令嬢たちと同じように令息たちもそこそこで集まって話をしている。その中の一人が、ふと視線をそらした。
笑い声の輪の中には、見慣れた後ろ姿――自分の姉の姿がある。社交界で鍛えられた口はよく回るが、今は完全に恋物語の観客席の顔。頭が痛い、と小さく息をつきながらも、口を出す気にはなれなかった。
「おい、あそこにいるの、マルガレータ嬢じゃないのか?」
「今はその名を呼ばないでくれ。正座での説教に巻き込まれたくない」
「ファビアンのところ、そういう面では苦労しているからな」
言いながら視線を戻すと、少し離れた場所に立つあの男――ゼノ・グラナートが目に入った。
表情は穏やかだが、立ち位置も視線の配り方も計算され尽くしている。
感情を悟らせぬまま場を支配するのは、あれは才能か、それとも鍛えられた癖か。
(おいおい、王女殿下から視線を外さないだと? 本当にあいつか……?)
視線の先をすっと追ったファビアンの背筋に冷や汗が落ちる。だが、表情は変えず、周囲との話題に戻った。
さまざまな声がささやきとして風に乗っているのは間違いない。
だが、その中心にいる男だけは、まるで何も聞こえていないかのように静かに立っていた。
◇◇◇
春の日差しは柔らかいとはいえ、午後になるとお茶を楽しもうとする人々も増えてくる。
散策していた人々は、やがて季節の花々を背にしたテーブルへと移り、思い思いに腰かけていた。
さきほどまで庭園の一角で弾んでいた噂は、今やこの場にも静かに忍び込んでいる。
視線が合っただの、色が呼び合っているだの、軽やかな囁きは人波の隙間をすり抜け、耳元で花びらのようにひらひらと舞う。
「隊長、王女殿下がお着きになられました」
「配置は?」
「問題ありません」
部下の簡潔な応えに、第一近衛の隊長はようやく大きく息をつく。先日の打ち合わせから今日までの間、無事に終わるのだろうかと心配していたのは間違いない。だからこそ、彼は確かめるように部下に訊ねる。
「ところで、小鳥の数は?」
「……目視できぬくらいに増えました」
部下の声に思わず天を仰ぎそうになる。だが、そのような姿は見せられない。彼はぐっと唇をかみ、視線だけを王女へ向けた。
その時、座っていたエドワルドが妹を迎えるために静かに立ち上がる。
「花は楽しめたかな?」
「ええ、お兄様。どれも本当に見事なものばかり。庭師の丹精には褒美が必要ではありませんこと?」
「お前がそういうのなら、考えておこう。いつものことではあるが、この時期にあれだけの花を揃えるのは並大抵ではないからね」
にこやかな表情を浮かべながら言葉を交わす兄と妹。
その様子を遠巻きに見ていた人々の間に、かすかなざわめきが走った。
「……いつものお二人ですわね」
「ええ、さすがとしか言いようがありませんわね」
扇が慌ただしく動く。今の王太子を見ていると、先日の夜会で見せた姿が信じられない。
「どうみても、いつもの殿下だよな」
「ああ。本当にあの日のお言葉はあったのか?」
「あったはずだ。だからこそ、あいつがあそこにいる」
令息たちの視線はゼノの上から外れることがない。そんな中、足元に散る花びらがわずかな風の動きにのる。
熱を帯びた噂も、冷ややかな観測も、等しく同じ沈黙に包まれていっていた。




