第5話 水面下の手
その日の朝、グラナート公爵夫人の執務室。
集められた書類を一枚ずつ確認していたクラリッサは、扉を叩く音に顔を上げた。
「奥様、少しよろしいでしょうか?」
「あら、ロドルフォじゃないの。奥に来るのは珍しいわね」
目を通していた書類を横にやりながら気軽に声をかける。その姿にロドルフォは苦笑しながらも、丁寧に頭を下げていた。
「奥様がいらっしゃいますので、私などが出張ることはないかと」
「まあ、ずいぶんと買ってくださっているのね。まあ、そうしておきましょか? 旦那様もその方が安心でしょうし。それはそうと、何かしら?」
「はい。明日、いつもの宝石商が参ります。その時に優先的に回していただく品物につきましてご指示をと思いまして」
ロドルフォの声にクラリッサの目がキラリと光る。一瞬、その光に嫌なものを感じたロドルフォだが、それを指摘することはできない。そして、クラリッサは世間話をするような調子で彼の問いに応えていた。
「そんな時期なのね。そうね……紅玉はいいものを持ってくるはずだから、すべていただくつもりよ」
「左様でございますな。紅玉が出れば、必ず一度は目を通すのは当然。そういえば、どこぞの領でよいものが出たと耳にしましたが?」
ロドルフォの声に、クラリッサは満足げに頷いている。
「そうなのよ。領の鉱山からではないから、手に入れるのは難しいかと思ったけど、やはり、回ってくるみたいね。そうそう、他には今回から白珠をお願いしているのよ」
「し、白珠、でございますか?」
クラリッサの声にロドルフォの声が裏返る。「どうして、いまさら白珠?」そう言いたげな彼の視線に、クラリッサは平然と答えている。
「そうよ。あら、わたくしには似合わないとでも言いたいのかしら?」
「め、滅相もございません。珍しいご注文かと存じましたので。そして、奥様にお似合いになるのは、当然のことでございましょう」
「ありがとう。それから、銀糸も追加しておいてね。この前のドレスで使い切ったでしょう? 銀と白珠は切らさないように」
「かしこまりました」
どこか呆然とした様子のロドルフォに、クラリッサは小さく笑みを浮かべた。
「紅茶をお願い」
侍女へ声をかけるその様子は、まるで何事もなかったかのようだった。
心得たように用意された紅茶を、ゆったりとした仕草で運ぶ手。そこに輝いているのは見事な紅玉。そして、机の上に置かれている文鎮にあしらわれているのも同じ光。
(奥様……白珠をどうお使いになるかは聞きませぬ。聞いてもお答えにはならないでしょうから……)
いつもであれば、自信をもって動くことのできるロドルフォ。その彼がどこかうらぶれたようになっていることに気が付いているクラリッサ。だが、彼女はそんなことを気にする必要もないわ、というように紅茶を楽しんでいるのだった。
◇◇◇
その夜もあちらこちらでの夜会が繰り広げられていた。まもなく開催される芽月の庭園開放は、翠月の大夜会と並ぶ春の行事。夜会の場では、そのことの噂も広まろうとしていた。
「そろそろ、芽月の頃ですわね」
「ええ、今年のお天気はいかがかしら?」
「昨年は風が強くて大変でしたものね」
「日傘は用意しようと思っておりますが、そこまでは、ねぇ」
「あら、今年は薔薇の開きも少し早いそうですわよ」
夫人たちのさんざめく声があたりに流れる。そんな時、かすかにスズランの香りも漂ってきていた。
「ごらんになって……」
「グローリア様よ。相変わらずお美しいわ」
「本当に……あら、あちらからはクラリッサ様も」
「お珍しいこと。でも、今日は招待していただけてよかったですわ」
「そうですわよね。こういう時でもないと、雲の上の方のご尊顔はお見受けできませんもの」
扇の陰でささやかれる声は、どこか楽しげなもの。それを耳にしているはずなのに、グローリアは何も言わずに扇を口元にあてている。その彼女の視線が、その場に現れた別の人影に向けられていた。
「あら、クラリッサ様。ご機嫌麗しゅう」
扇を口元に添えたまま、グローリアがゆるやかに微笑む。その視線は自然で穏やかなものだった。しかし、クラリッサはその奥にある意図を見逃さない。
「グローリア様もお変わりないようで何よりですわ」
だからこそ、クラリッサもまた穏やかに応じる。その耳元で揺れる白珠が、灯りを受けて淡く輝いていた。
「ありがとう存じます。それはそうと、今年は春が遅いようですわね」
何気ない世間話のような言葉。しかし、それを聞いたクラリッサはわずかに目を細めた。
「そうなんですの。領では植え付けの時期を悩んでおりますわ」
「お宅はそうかもしれませんわね。でも、そのうちに動くのではございませんこと?」
グローリアの扇がわずかに揺れる。春風を払うような仕草だったが、その瞳には別の色も宿っているように見えた。
「そう思っておりますわ。少々のことがあっても、自然の足は止まりませんもの」
その答えに、グローリアは満足そうに頷く。
「そうですわね」
そして、ふと視線を耳元へ移した。
「あら、珍しい。本日は白珠ですの?」
その一言に、近くにいた夫人たちがさりげなく視線を向ける。だが、当のクラリッサは少しも慌てた様子を見せなかった。
「ええ、出入りの商人がいいのが出たからと申しまして」
そう言って耳飾りに指先を添える。その仕草は実に自然だった。
「よくお似合いですわ」
「お褒めにあずかり、恐縮ですわ」
一瞬だけ、クラリッサの口元が緩む。
「でも、皆様には少々見慣れないようで」
「仕方がありませんことよ」
グローリアは肩をすくめるように微笑んだ。
「あなたは紅と思われているのだから。違いまして?」
その声にクラリッサは薄い微笑を浮かべる。そのまま、なごやかな表情で二人は右と左に分かれていた。それを見ていた夫人たちは「さすがですわ……」と憧れの表情を浮かべているだけだった。
◇◇◇
夫人たちが夜会でさんざめいているのと同じ頃。男たちもそれぞれの場所で顔を突き合わせていた。
なんといっても、翠月の大夜会は社交界の始まりの号令。それまで領地にいた人々も社交のために集まってくる。ましてや、今年の大夜会は社交界がひっくり返るような話題まであったのだ。男たちはお互いの腹を探り合うように声を交わす。
「あれから、どうなった?」
「特に動いてはいないようだな。逆に静かすぎて怖いというか……」
「やめてくれ。うちは変に張り切ったのが二人もいるんだ」
「お前のところはそうなるか。なにか、言ってないか?」
「きれいに煙に巻いてくれてるよ。刺繍がどうの、花がどうのとしか話にならない」
その声に思わずうなだれる面々。そんな彼らの耳に文官たちの慌ただしい声が飛び込んできていた。
「ですから……芽月の件を進めたいと申し上げているでしょうが!」
「隊長からは何も聞いていない。例年通りでいいということではないのか?」
「……先日のことがあっても、ですか?」
すっと低められた声に、近衛の肩が一瞬、揺れる。だが、何事もなかったかのように平然とした声が返っていた。
「先日のこととは? 特に何もないと思っているが?」
「それが、困るっていうんです!」
文官の感情的な声があたりに響く。だが、それにこたえるものは姿を現しそうになかったのだった。




