第3話 静止の苦しみ
その日の午後、フェルミナは王女宮内の執務室で政務課からの通達文に目を通していた。
内容は、先日から動き始めていたアリシアの肖像画作成について。
今回は画家の選定が終わったので、顔合わせのための日時調整をしてほしいという政務課からの依頼でもあった。
(どんな方が選ばれたのやら)
通達文の中にある、画家の詳細に軽く目を通す。
その文面を読み進めるうちに、フェルミナの口元にはうっすらと微笑みが浮かんでいた。
(政務課の方もよく頑張ってくださったこと。芸術院の重鎮方を連れてこられなくて本当に良かったわ)
彼女が目にしている書類にある名前はリュカ=ベルナール。フェルミナ自身も初めて目にする名だった。資料には25歳になったばかりの若手画家とある。だが、肖像画に関してはそれなりの評価を受けているらしい。
(きっと、あの方の思惑も動いているのだとは思うけれども……)
とはいえ、それが悪いことなのではない。だからこそ、フェルミナは納得した表情で仕事を進める。
そして、翠月二十五日の午後――
アリシアの肖像画作成のための顔合わせ、という名目でリュカは王女宮へと招集されていた。
もっとも、リュカは緊張のあまり、ガチガチになっている。そんな彼に対して、フェルミナは今回の肖像画作成に関する条件を告げていた。
もっとも、その条件は特に厳しいものではない。誰がみても納得できる一般的なものだった。
完成品の権利は王家に帰属すること。
習作の取り扱い。
細密画への転用許可。
王女宮で見聞きしたことに関する守秘義務。
そして制作日程や出入りに関する取り決め。
どれも王家の依頼としては当然の内容。生家で貴族相手の仕事を見たことのあるリュカも納得できるものだった。
ただ、フェルミナが言葉にしなかった条件がある。
『何を見ても驚かないこと』
もちろん、そんなものが規定に書かれているはずもない。だが王女宮には、予告なしで王太子が現れることがある。それを知っているからこそ、フェルミナは胸の内だけで苦笑した。
(まあ、そのうち嫌でも慣れるでしょう)
さすがに、今日は来られていないだろう。そう思っているフェルミナはリュカを促してアリシアがいる部屋へと足を運んでいた。
「王女殿下、今回の肖像画を担当する画家、リュカ・ベルナールでございます。リュカ、王女殿下にご挨拶を」
「は、はい。リュカ・ベルナールと申します。この度は大切なお役目を拝命いたしまして、心より感謝しております」
そう告げるリュカは足がガクガクするのを止めるのに必死になっている。そんな彼の動揺など気が付かないように、アリシアは楽しそうな声を上げていた。
「リュカ? お兄様くらいですね。よかった」
「そうだね。うん、君なら安心して任せられそうだ」
アリシアの声だけではない。ありえない人の声まで耳にしたことで、フェルミナの顔が一気に青ざめる。そしてリュカは、自分の背中を嫌な汗が伝うのを感じていた。
「で、殿下……?」
フェルミナの声が上ずっている。「なぜ、ここにいる」と、言いたげなフェルミナの様子を気にする様子もないエドワルド。一方、アリシアは兄が一緒にいることですっかり機嫌をよくしている。
翠月の温かい日差しが入っている部屋のはずなのに、どこか冷え切った空気になっているのは気のせいだけではないようだった。
◇◇◇
窓から差し込む午後の日差しが、アリシアの髪をやわらかく照らしていた。
リュカは視線を紙へ落とし、素早く筆を走らせる。だが、数本の線を重ねるごとに、どうしても確認が必要になる。描くべき相手が目の前にいる以上、それは避けられなかった。
「王女殿下、もう少しこちらをむいていただけますか?」
「え? こっち? これでいい?」
首を傾げながら向きを変えるアリシアに、リュカは小さく頷いた。
「はい、大丈夫です。そのまま、じっとしていただけますか?」
「え、えっと……どれくらい?」
「10数える間だけでいいです。あ、でも声にはださないでくださいね」
アリシアは素直に頷いたものの、ほどなくして落ち着きなく指先を動かし始める。どうやら、何もせずにじっとしているのは性に合わないらしい。
(うーん、じっとしているのってしんどい)
そんな考えが表情にまで出ているのだから分かりやすい。
リュカは思わず笑いそうになるのを堪えながら、最後の線を描き入れた。
「はい、ありがとうございます。もう動いてもいいですよ」
「ほんと?」
ぱっと表情を明るくしたアリシアが椅子から身を乗り出す。
「ねぇ、リュカ。どれくらいできたか見せてくれる?」
「まだ、下書きです。お見せするほどではありませんが……」
実際、完成には程遠い。だが、それだけが理由ではなかった。
なぜだか分からない。ただ、今の下書きを見せることには妙な気恥ずかしさがあった。
「いいの。わたくしが見たいの。リュカがどんな風にわたくしを見てくれているのかなって思って」
悪意も打算もない、ただ純粋な好奇心からの言葉。
だからこそ困る。
(……こ、困った……)
そんなリュカの背後から、穏やかな声が響く。
「しかし、こうやって見ると、本当にいい仕事をするね」
不意に聞こえたそれに、リュカの肩がわずかに跳ねる。
「あ、ありがとうございます」
ここ数日で多少は慣れたとはいえ、相手は王太子だ。緊張しない方がおかしい。
「ところで、リュカ。君は細密画はやらないのかい?」
「いえ、父の工房が細工をいたしますので……」
ベルナール工房では細密画も扱う。だが、それは画家としての自分ではなく工房側の仕事だった。
「それはいいことを聞いた。では、この習作の中から細密画にしてくれないかな?」
「かしこまりました。肖像画が仕上がってからになりますが、よろしいでしょうか?」
「もちろんだよ」
エドワルドは満足そうに頷いた。
「ところで、懐中時計への細工は可能だろうか?」
「僕は細工師ではありませんので、お約束はできません」
「だが、ベルナール工房なら可能ではないのかい?」
「技術的には可能かと思います。ただ、工房の受注状況もありますので、父に確認してみなければ」
父の了承もないまま仕事を受けるわけにはいかない。
そう考えて答えたリュカに対し、エドワルドはどこか楽しそうに笑った。
「いいね、その返事。気に入ったよ。後日、使いを出す。そのうえで返事をくれればいい」
「かしこまりました。父にも王太子殿下よりのお言葉を伝えておきます」
リュカの声にエドワルドは満足そうにうなずく。その時、アリシアが思い出したように手をパンと叩いていた。
「リュカは絵に描いてくれるドレスはまだ見ていないわよね。とってもステキなの。リュカなら絶対にきれいに描いてくれると思うわ」
「そうだね。仕上がるのが楽しみだよ」
「あ、ありがとうございます。誠心誠意努めさせていだきます」
エドワルドの言葉に、リュカは背中に流れる汗を止めることができない。王女殿下の肖像画だけでも大役だというのに、王太子殿下からは別の依頼まで持ち込まれてしまった。しかも、その話は父親まで巻き込むことになる。
穏やかな午後のはずなのに、リュカの胃だけは少しも落ち着く気配がなかった。




